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【知られざるアーティストの記憶】第40話 彼は乳白色のアクリル板を自転車のペダルに乗せて持ち帰った

Illustration by 宮﨑英麻

全編収録マガジン
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第6章 プラトニックな日々
 第40話 彼は乳白色のアクリル板を自転車のペダルに乗せて持ち帰った

「キミと出会ってから、女性への見方が変わってきたよ。街で女性に目が行くようになった。女の人はみんな、綺麗にしているよ。」
彼は口元に笑みを浮かべながらマリに報告した。
「あ、そうなんだ。それはよかったね……。」

女性に興味を持つようになったこと自体は、「よかった」ことに違いない。しかし、
(他の女子を見る必要性がどこにあるのよ?)
と、マリには当然おもしろくはなかった。加えて、「みんな綺麗にしているよ」という言葉は暗に、マリの身だしなみへの努力が足りないよと言われているようにも聞こえた。彼はいったい、どんな女性のどんなところを見て、「綺麗にしている」と感じたのだろう。

「もしあなたが、独身の女性と出会えてその人と幸せになるのだったら、私はフェードアウトするから、私のことは繋ぎにしてくれて構わないよ。」
マリのその言葉は、嫌味ではなく本心から出た言葉だった。しかしおそらく、心の半分を自ら殺してもいた。
「私にはキミしかいないよ!」
マリの反応が思ってもみない方向へ向かったことに慌てたのか、彼は強めの語気でそう言い捨てた。

彼はときどきこのように、マリの女心を軽く打ち砕いた。

またあるときは、
「キミには性的に何も感じない。以前、父親と母親のところに来ていた50代のケアマネさんには感じたけど。」
とも言った。
(私は彼に女としての魅力を感じられていない。)
それは、恋するマリにとってはゆゆしきことであった。
「それって、あなたは私に恋してくれていないってことだと思う。どちらかというと、お見合い夫婦の愛情に近いものなのかもね。」
しょげかえりながら家に帰ろうとするマリに、
「そうじゃない!またあとで必ず来て話せ。誤解を解くから。」
と彼は命令形で言った。マリはそのとき、朝の支度をしに家に帰らねばならない時間だったのだ。「話す」という動詞を命令形で聞くのは初めてのような気がして楽しくなりながら、もう一度彼を訪ねた。

「私はキミの顔とか体に惹かれてるんじゃない。キミの内面、気持ちに惹かれているんだよ。キミは私の内面を理解してくれてる。内面の理解なしに愛情は成り立たない。性欲を満たし合う関係なんて意味がないんだよ。」(註1)

その言葉をマリは理解はしたが、それはマリの女心を完全に満たしはしなかった。マリは、彼よりも二回り若い体にしか、彼の知識や技術や人格の美しさと釣り合うほどの価値を自分の中に見出していなかったのである。マリはこのことに関しては釈然としない思いを抱え続けた。

彼はポストのペンキ塗りを終えると、今度は玄関の扉の補強に取り掛かった。元々は裏の勝手口だった、彼らが玄関にしている引き戸は、薄い木枠に上から3分の2辺りまで擦りガラスが嵌め込まれた造りで、所々表面の板が捲れて心許ない様相だった。そのうえ、彼の入院中に錠が壊れ、マサちゃんから連絡を受けた親戚が駆けつけて即席で直してくれてあった。その施工技術が子どもじみていると、彼はぽそりと悪口を呟いた。自分の入院中に錠を付け替えて弟を助けてくれたことに感謝はすれど、こだわりの強い職人気質は自分のやり方と違う技術を容易に受け入れられないのだ。

職人は、「厚さ3ミリの乳白色のアクリル板」を所望していた。彼の行きつけのホームセンターを探しても置いていないのだと言う。マリは彼がまだ行っていない、近所に最近できたばかりの大型ホームセンターを見に行った。店には置いていないが、取り寄せてもらうことができた。店から連絡が来ると、彼は自転車でそれを取りに行き、大きなアクリル板をペダルに乗せて、15分強の道のりを歩いて持ち帰った。

こういうときの彼は水を得た魚のようだった。それにしても、あまり重くないとはいえ、持ちづらい大きな板を自転車のペダルに乗せて歩いて持ち帰るなど、根性も体力もまだしっかりとしたものである。
「最近、力もついてきたし、肌に艶も出てきた。」
と嬉しそうに語る。

自転車で最寄りの二つ先のH駅まで出かけたかと思うと、その翌日にはそれよりさらに先にあるMホームセンターにも出かけた。もっと近くにいくつもホームセンターはあるのだが、彼なりの使い分けがあるのだろう。H駅までは4.9キロで自転車で約18分、Mホームセンターまでは6.9キロで約25分の道のりである。
「H駅って、行きはいいけど帰りはだらっだら登り坂で、こいでもこいでも着かなくない?私なら30分じゃ着かないよ?」
普段車で移動するマリには、どちらも自転車で行く気になどなれない場所である。
「なんでもないよ!H駅は15分だよ。」
と彼は言う。

車を運転しない彼は人生でずっと自転車をこいでいるのだ。その筋力はあまり衰えておらず、約1ヶ月の入院生活を4度繰り返しても、頭の高さまで脚を上げることのできる彼は、
「あなたはリハビリの必要がありません。」
と理学療法士に言われたそうである。

「Mホームセンターまで行けたのなら、ちょっと足を延ばして病院までも行けちゃいそうだね。」
マリは無責任に言った。彼が入院治療を受けているT大学病院は、Mホームセンターから「車で行けばほんのちょっと先」であった。彼の家からは8.0キロ、自転車では約30分の道のりであった。

彼が乳白色のアクリル板を自転車で持ち帰った日の翌日である2021年9月16日は、彼の退院後1ヶ月の検査の日であった。彼は体力が戻ってきたことを喜んでいたのとは裏腹に、検査を受けることに対してはずいぶんと怯えていた。それは、楽観的なマリには想像の及ばない心境であった。まるで検査の結果を初めからわかっていたかのように。

「キミが自転車で行けって言うから。」
そう言って彼は、早朝に自転車に乗って出かけた。9時からの検査で、1時間前の8時に出発するのなら話は解る。それを彼はなんと6時45分に出発した。公園で気功をするマリの横をすり抜けて行った。

(註1)彼のこのセリフに関しては、ノートへの記載なく、マリの記憶も曖昧。だいたいこんな意味のことを言っていた。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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