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【知られざるアーティストの記憶】第91話 雨夜に灯りの点る家と、灯りの消えた家

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第12章 S医院に通う日々

 第91話 雨夜に灯りの点る家と、灯りの消えた家

「イクミさん、大丈夫やったかな?話、つまらんかったんやないかな?」
お話会での彼の態度は、案の定、マホを心配させていた。
「いやあ、目をつぶって聴いてたんじゃないかな……。」
マリは自信なくそう答えるしかなかった。

後日、
「女性たちの話を聴いたってしょうがないもの……。」
と話す彼は、なかなかどうして彼女たちの話をよく聴いていた。あの人はひどく悲しそうな顔をしていたとか、ユミコさんはこんなことを話していたねなど、マリも聞き漏らしていたほどの詳細をマリに伝えたのであった。
「それにしても、キミは肌が綺麗なんだね……。」
彼は寝たふりをしながらも同世代の女性たちの肌をこっそり見比べていたというのだから、思わず噴き出した。彼女たちには内緒である。

この夜は、マホが滞在するホテルの門限まで、チベット屋さんの場所を借りて懇親会が予定されていたが、外の冷たい雨脚が強まったことに加え、会場も肌寒く感じられたため、18時にはお開きとなった。マホは翌日に、今回のツアーのメインとなるより大きな会場でのお話会を控えていたため、あるいは無理をしたくなかったのかもしれない。幹事のメイが風邪で来られなかったことも、まとまりを欠いたのかもしれない。とにかく、皆の意識がそういう流れになった。

マリはそこで、悪い考えを抱いた。この日、夜の懇親会に参加するので帰りが夜の九時か、場合によっては十時を過ぎるかもしれないと家族には言って出てきた。料理好きで夕飯を担当することを厭わない夫に、子どもたちの夕飯と寝かし付けまでをお願いして来たのである。そこへ来て、18時の解散となれば、まっすぐ家に帰ろうはずがない。マリの行き先はただ一つ、彼の布団の中だけであった。こんなに近くに暮らしながら、マリが心底愛する男と夜の時間を過ごせるチャンスはこの時をおいて他にないと思われた。

帰りに車に乗せてくれたのはマユだった。車のライトがけっこうな雨脚を照らし出していた。
「私の家はここなんだけど、少し先のあの家の前で下ろして。」
とマユに指定して、マリは灯りの点った自宅の前を通過した。

18時過ぎ、彼の家はすでに消灯していた。マリは暗い玄関を上がって、なるべく音を立てないように台所で歯を磨き、そろりそろりと階段を上っていった。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』より


「どうしたの?」
布団の上に座った彼は、いったい何事かと問うような眼差しでマリを射貫いた。
「ただいま。」
マリは楽しそうに微笑みながら言った。かくかくしかじかでね。しかしこのときの彼の反応は、キミが来るのを待っていた、と言ってマリに握手した数日前の彼(→関連記事)とは違い、あまり歓迎的ではなかった。

マリはコートを脱ぎ、セーター、ボトムス、靴下を脱いで冬用の下着だけになると、急いで彼の布団に滑り込んだ。寝室は外気と同じくらい冷えていたが、彼の敷布団にはマイクロファイバーの敷布が掛けられていたため、布団の中は思いのほか暖かかった。
「暑い。」
そう言ってマリは、着ていた下着を次々と脱いだ。
「もう!脱がなくていいんだよ。こらっ。」
布団の中ですでに裸になっていたマリに、彼は少し迷惑そうに言った。
「だって、暑いんだもん。」
ほんとうは初めからそうするつもりだったのだが、マイクロファイバーの敷布に素肌が触れると余計に暑く、マリは大汗をかく羽目になった。

火照った体で彼に抱きつく。それはマリの気持ちにとってごく自然な行為であった。
「そんなこと、しなくっていいんだよ。今は体を休める時間なんだ。」
夜は営みの時間、ではなくて、彼にとっては体を休める時間なのだ。マリにとってのまたとないチャンスは、こうして退けられた。彼はマリの尻ひとつ撫でることもしなかった。

そのことを後でメイにぼやくと、
「マリちゃんったら、誘い方!まずは服を着たまま、じっといつまでもハグしていなさいよ。」
と笑われた。

それでも、九時過ぎまでは彼と一緒に過ごした。彼はマリのことを早く追い返そうとするでもなく、いつもと変わらない平熱で淡々とマリに接した。マリは何食わぬ顔をして、灯りの点いたわが家へと帰って行った。


©Yukimi 『未来へのレクイエム』P・6


翌2月14日のマホのお話会は、地元ヒーラーのノブヨとの合同企画であった。ノブヨは以前、墨汁の例えでアドバイスをくれたマリの友人である(→関連記事)。マリはお話会には不参加で、その後のランチ会のみに参加した。ランチ会の解散時には、メイもマスクを着用して顔を出し、淡路島に帰るマホを空港リムジンバスの乗り場まで送って行った。

その道中、マユとメイとマホの三姉妹は車の中で、今回のツアーについて振り返った。その中で、
「やっぱりマリちゃんはイクミさんの魂の人だね。」
「イクミさんとマリちゃんは、出しているオーラとか波長が全く同じやもんね。同一人物かと思うくらい。」
「それにしても、イクミさんほど魂の綺麗な人はなかなかいないよね。」
と話題に上ったそうである。イクミと同じオーラであるというのは、マリ本人にはむしろそう思えないことであったが、マホから伝えられたときには素直に嬉しかった。そして、決して出会うはずのなかった三姉妹とイクミがマリを通して出会ったことに、不思議な神秘を感じるのであった。

ところで、マリはこの日のわずか2時間足らずの滞在の中で、背中にゾクッと忍び寄る悪寒とともに、「体の中に何者かが侵入した」という感覚を覚えた。侵入時に感じとるというのは珍しいことであったが、それは、その者がマリにとって初めて侵入を受ける相手であったからかもしれない。

そのうえ、マリは雑談の中でノブヨからの一言にチクリと刺された。それは、彼とは直接関わりのない、マリとノブヨの関わり方に関することであったが、彼と完全に無関係でもなかった。ノブヨの一言は、久しぶりにマリの心を波立たせ、痛みを残した。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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