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【知られざるアーティストの記憶】第44話 こそこそしなければならないことは、本当の愛ではない

Illustration by 宮﨑英麻

全編収録マガジン
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第7章 触れあいへ
 第44話 こそこそしなければならないことは、本当の愛ではない

マリによる愉氣は毎朝の気功のあとに続けられたが、水曜日だけは彼がマサちゃんを風呂に入れ、残り湯で洗濯をする日と決まっていたため、ルーチンを優先させて愉氣はお休みにした。2021年9月22日はマリが愉氣を始めてから最初の水曜日であった。

彼の家の風呂場は、玄関を入ってすぐ右側にあり、一人で満杯になりそうな小さな浴槽と、灯油で沸かす風呂釜が付いていた(→関連記事)。玄関からの上り口のコンクリート壁は彼自身が左官工事をしたというから、それに続く1メートル四方くらいの美しい玉石タイルの洗い場も彼が施したものかもしれない。玄関扉の向かって右隣には風呂場の大きな窓があった。常に隅々まで磨き上げられ、晴れた日の昼間にはその窓が必ず薄く開けられていたため、風呂場はいつも使った形跡が感じられないほどに綺麗であった。洗濯機も同様で、10年以上前に買った洗濯機はまるで新品のように保たれていた。彼が洗濯機を清潔に保つ独特のやり方は、毎回の洗濯の後に、小さなスプーン1杯の塩を入れてもう一度洗濯機を回すというものだった。

彼は週に一度、その小さなタイル張りの洗い場に裸足でしゃがみ込んで、二人分の洗濯物をブラシで予洗いしていた。彼はこの家の主夫なのだ。それも、家事の苦手なマリから見たらスーパー主夫であった。マサちゃんの風呂と洗濯をする水曜日の他にも、トイレ掃除の曜日や、掃除機をかける曜日なども決まっていた。

マリが「愉氣」と呼ぶ手技のことを、彼はかつて父親に気功ワークを施していた経験から「気功をかける」と呼んだ。
「特に2回目のときに感じたんだけど、キミに気功をかけてもらうと、頭から何かが抜けるような感じがして、すごく頭がクリアになるよ。これを続けるとどうなるのか、もう少し観察するよ。」
開始から一週間くらい経った頃、彼はマリに報告した。

愉氣を始めて8日目の9月25日、マリがまた思い余って彼のことをハグしようとすると、
「いけない!」
と彼に咎められた。
「キミは人の奥さんだから抱けないよ。私も抱きたいけど。前は一度だったけど、最近は何度も思うよ。寝るときにキミを抱きたいと。」(註1)

(註1)彼が用いる「抱く」という言葉の独特な語感については前出

マリはその言葉を一度持ち帰ったが、悶々と渦巻く感情を抑えきれずにもう一度彼と話しに行った。
「それは、あなたの思い込みです。家族に悪影響が及ぶというのは。夫婦というのも十組十色だし、親子関係も十組十色なんですから。外に恋人がいることで、より家庭円満になる人だってたくさんいます。」
マリの言葉は、友人Nの受け売りであった。それに対して彼は、
「こそこそしなければならないことは、本当の愛ではない。」
と答えた。

そういえば、彼の部屋で愉氣をし終わった後、
「マサさんは二階にいるの?」
と聞いたことがあり、そのときの彼は
「ああ、いるよ。でも、別に私はキミに変なことをしているわけじゃないんだから、弟がいたってかまわない。」
と言って、くすくすと可笑しそうに笑っていた。


©Yukimi 「彼のスケッチブックより」 落書き
彼の漫画を描くときのペンネームは「BowBoy」だった


その日の夕方、保育の仕事を終えて歩いて帰ってきたマリが橋の上で彼に声をかけると、
「さっきはつっけんどんな言い方をしたから、あなたが怒っちゃったんじゃないかと思った。」
と彼はややうるんだ目でマリを見つめて言った。マリは、なんの話か分からなかったほどに、夢にも怒ってなどいなかったから、彼の繊細なことに驚いた。

それにしても、こそこそしたくないと言うだけあって、彼は本当にこそこそしてはいなかった。いつだったか一度、マリが風邪で寝込んでいる日に、彼がマリの家のインターフォンを押してお赤飯を届けに来たことがあった。彼の両親の代から付き合いがあり、彼ら兄弟を気遣ってたまに料理を差し入れしてくれる近所のKさんがお赤飯を2パックくれたのだけど、マサちゃんが糖尿病で食べないから1パックをマリにくれるというのだ。そんな事情を、玄関に出たマリの夫に対して唐突にぽつぽつと語るものだから、慌ててパジャマのまま顔を出したマリに、夫は事情がさっぱり呑み込めない顔を向けて助けを求めていた。
「マリ、あの人誰なの?」
彼が帰った後に、夫は驚いた顔で訊いた。
「あの角の家に住んでるワダさんだよ。」
「知り合いなの?」
「うん、知り合い。気功に行くときにいつも会うから、しゃべって仲良くなったの。芸術家だよ。」
彼の堂々とした態度に、マリのほうがハラハラさせられた。

9月26日、愉氣9日目。
「あなたはさ、誰に対してもこそこそしなくてはならないことはしたくない、という生き方なんですね?」
「私は作品を公に出したいと思っているから、こそこそしたことはできないんだよ。私は作品を発表して、ゆくゆくは社会的発言力を持ちたいと思ってる。だからそのときに……」
「かつて近所の主婦と不倫していたってことが明るみになるとまずいわけね?」
「そういうことだよ。」
(なんだ、保身かよ!)マリはくすくすと笑った。それならば無理強いをするわけにもいかないが、なんとなく言いくるめられている気がしないでもなかった。椅子のひじ掛けに置かれた彼の右手を、マリは両手でギューッと握った。

部屋から玄関へ向かう廊下を、マリの後ろについて歩きながら、彼はマリの肩や腰にそっと手を当てていた。玄関から出ても、この日はいつもより熱く彼はマリのことを見送った。家への道すがら、何かが込み上げてマリは顔を覆った。

9月27日、愉氣10日目。愉氣のあと、彼はマリを椅子に座らせ、自分は畳に腰を下ろしてマリの手を握った。そして、火傷をしている左手首にバンダナの上から氣を送ってくれた。マリの愉氣へのお返しのように。
「私の母に頼んどいたよ。キミのことを守るようにって。」
彼は少し照れ臭そうにそう言った。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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