見出し画像

【知られざるアーティストの記憶】第36話 女の幸せって何か

Illustration by 宮﨑英麻

全編収録マガジン
前回

第6章 プラトニックな日々
 第36話 女の幸せって何か

いくら問うても、彼の母は答えなかった。

彼にとってのマリの存在は、「母親が遣わした人」だったのだ。それは一見とても誇らしい、喜ばしいことのように思えたが、彼が一貫してその思いでマリと接する度に、マリは複雑な感情を覚えるのだった。

マリは彼の母に一度も会ったことがなかった。これだけの近所に住み、ある時期には彼は毎日母親を車椅子で連れ出していたのに、その姿を一度も目にしなかったのは逆に不思議なことであった。彼が懸命に母親の介護をする姿は、近所の間でも遠巻きに認知されていたことのようである。マリの長男も、その姿を毎日目にしていた一人であった。

マリはもちろん、家族に対してわざわざ彼のことを話さなかったが、彼に借りたバンド・デシネの本をごっそり持ち帰った際に
「あの角の家の人とおしゃべりして仲良くなって、貸してもらったんだ。」
と長男に話した。すると高校生の長男は、
「えー、あの人、知ってるよ。俺が中学に通ってた頃、ちょうど学校行く時間にいつもお母さんを車椅子で連れ出してたもん。……でも、あの人、ちっとも人とおしゃべりしそうに見えないんだけど。」
と言った。

息子よ、母はあの人に惚れたのだよ……、とは、もちろん多感な高校生には言わずにおいた。それにしても、まだ人生経験の浅い中学生だった長男にさえ、ちっとも人としゃべらなそうに見えてしまうほど、彼は特異なオーラを放っていたのかと、マリは心の中でしんみり苦笑した。マリとはよほど生活のタイミングが合わなかったのか、すぐそばで生活しながら6年以上も彼らとはすれ違い続けたのだ。

彼はマリに最晩年の母親の写真を見せた。それは、束の間利用したデイサービスで職員が手作りしたものらしいバースデイカードに貼られたものの他、数枚のデイサービスでの写真だった。そこに写る、小柄でお茶目で屈託のない、10人が見れば10人が「かわいいおばあちゃん」だと認めそうなその笑顔の老女は、以前マサちゃんが言っていた通りに、目元や顔立ちが彼とそっくりであった。亡くなる1年ほど前の元気だったときの写真だと言うが、マリはその輝かんばかりの姿を見て、この人は幸せだったろうなと思った。

「あなたのお母さんって、どんな人だったの?」
彼に尋ねると、大好きな母のことならいくらでも話してくれるはずだというマリの期待を裏切り、
「普通の女です。」
というぶっきらぼうな答えしか返って来なかった。

一方で、父親に対するイクミの評価はすこぶる低い。
「父親は、人との関わり合いがちっとも理解できない人だった。」
そう言うのは、イクミが30代の前半にF町で夢をぶち壊されてしまった経験において、キーパーソンの位置に居たのが父親であり、最終的に父親の言動がイクミの進路を絶ったと考えているからのようだ。イクミはそのことについて、父親のことを許してはいなかった。

しかし、イクミは父親の介護も行った。
「家族としての愛情を父親にも感じているから、父親の世話もしたよ。」
父親の介護エピソードを話すイクミの言葉尻からは、父親への愛情が確かに感じ取れた。

「私は母のことだけを特別に愛してきた。」
とイクミはマリに語った。父親に対する介護の仕方や思いと、母親に対するそれは、当然に全く違っていたことだろう。父の介護に続いて母の介護が始まり、双方が重なっている時期もあって、イクミはおそらく約10年間ほぼ一人きりで両親の介護を行った。母親は他人に身体の介助をされるのを嫌がり、息子に世話をしてもらうことを望んだという。

実はマリが一家の遺品整理をする中で、お母さんはイクミのことを偏愛していたのではないかしら、と感じたことがあった。それは、母親の化粧台の引き出しの中から、少ししわくちゃになったイクミの中学時代の詰襟の証明写真が出てきたからだった。それだけで、母親が偏愛していたと結論付けることなど到底できないが、写真に写る美少年のイクミを見たときの、女としての勘のようなものであった。

この母と息子は、特別に強い愛情で結ばれているのだな、とマリは感じた。しかし少なくともイクミの母親を語る口調からは、どこにもマザコンを思わせるような感情や関係の異常性は感じられず、ただ純粋に強く深い愛情で結ばれていたのだなと理解していた。

「母親と一緒に湖に身を投げようと考えたこともある。母親が苦しそうで、見ていて気の毒で溜まらなかった。でもそんなことはできなかった。」
とも告白した。彼はそのとき、本気で迷ったのだろう。その言葉からは、四六時中を共にする介護の壮絶さとともに、常に本気で母親の幸せばかりを考え続けたことが窺える。

「デイサービスに通ってもらった時期もあったんだよ。だけど、母親は何も言わないんだけど、いつも帰ってくると機嫌が悪かった。あるとき、鯉のぼりの工作みたいなのをして持ち帰ってきたんだけど、帰るなり怒ってそれを自分で壊しちゃった。それを見て、母親はこんなことをちっとも望んでいないんだということがわかった。女の幸せって何かって考えたとき、私の母親は見ず知らずの人と輪になってお遊戯をしたり、工作をしたりすることなんかちっとも嬉しくなかった。昔の親友と会ってお茶を飲んだりすることがいちばんの幸せだったんだよ。それですぐにデイサービスはやめさせた。」

あの写真の屈託のない笑顔の陰で、実はお母さんは怒っていたんだというのは意外であったが、ここまで深く息子から思われていた母親の人生はやはり幸せだったのではないか。

ちなみに、家に遺された母の若い頃の服のサイズはマリにシンデレラフィットした。小柄で細すぎるため、合う洋服がほとんどないマリと、彼女はほとんど同じ体型だったようだ。おしゃれだったようでたくさんの洋服を持ち、大きすぎるものは律義に手直しが施されていた。時代を隔てて、彼女の好んだ洋服のデザインは不思議とマリの好みとも合っていた。

入院の保証人などを務めたF町の従兄ノリオさんには、
「マリさんはイクミのお母さんと顔や雰囲気が似ているんですよ。」
とも言われた。イクミにそれを伝えると、
「そうかなあ。」
と首をかしげてはいたが。

彼の母とマリには、女性像としていくつもの共通点や類似点が重なっているように思えてならなかった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

ーーーー
編集後記:
迷宮に迷った第36話でした~~(´;ω;`)
これまでのところは、かろうじて、その時点でのマリ目線で進めて来られたのですが、今回からは、彼の死後の遺品整理を経ての「今目線」までレンズを引いた遠近法をついに使ってしまいました。
「彼と母親とマリ」の関係を掘り下げたかったため、この場所に書きたかったのです。読んでくださるかたは、混乱されたでしょうか。(従兄のノリオさんの発言も、イクミがまだ生きている間のことですが、記述中の時期よりはかなり後のことになります。)
とても迷いながら、書いたり消したりしました。この先は、順を追いながらも、所々このように時期をごちゃまぜにして一つのテーマを追うような書き方も増えてくると思います。難しい!(泣)

この記事が参加している募集

ノンフィクションが好き

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?