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ニュージーランドで出会った韓国人と結婚したけど、結婚20周年目前に離婚した話13

あの一件以降、私が里帰りを考える事は無くなった。何時間も正座させられた状態で説教され、罵られ、自分が如何に常識の無い駄目な嫁なのかを唾を飛ばしながら怒鳴られるのはもう嫌だった。なるべくダニ両親を怒らせないように、毎日の安否電話は欠かさず、韓国語もお金が無いし子供もいるので学校に通う事は出来なかったけど、ひたすらTV(主にドラマ)を見て勉強した。私が努力すれば認めざるを得ないだろうと思っていた。
近所に日本語の話せる韓国人ママ友も出来、平和に過ごしていたら寒い寒い冬がやって来た。九州で生まれ、関西よりも北に住んだ事が無かった私には、ビックリするほどの寒さだった。
ダニーは3兄弟の真ん中で、3歳年上の長男はアメリカで歯科医をしていたのだけど、年末年始に家族で遊びに帰って来る事になった。ダニ兄は少し気難しそうな雰囲気だったけれど、マメ子を可愛がってくれ特別嫌な印象は持たなかった。ダニ義姉はダニ兄と同じ年で、背の高い笑顔の素敵な女性だった。彼女とは、この数年後に私達もアメリカへ移住してから、同じ敵(ダニ親)を持つ同志として、とても仲良くなる事になる。
ダニ姪は、マメ子より2歳上で、少し地黒な肌に大きな瞳のエキゾチックな、とても綺麗な女の子だった。一人っ子なので、妹が出来たみたいだとマメ子を可愛がってくれた。
独身時代に2年程韓国に住んでいたと言うダニ義姉が『ナイトマーケットに行きたい。』と言いだし、ダニ兄とダニーが子供たちを見てくれるので女2人で行っておいでと、私とダニ義姉を送り出してくれた。まだソウル郊外にあった義実家から電車と地下鉄を乗り継ぎ、夜のソウルへ。寒い中、屋台でトッポッキを食べたり、買い物を楽しんでいると、2時間もしない内にダニ母から電話が掛かって来た。
『マメ子が泣き止まないから帰って来い。』
仕方なく、ほぼ買い物は出来ないまま帰宅。帰るとダニ両親も子供達も寝ていた。ダニーとダニ兄は、予定よりもずっと早く帰って来た私達に驚き、ダニ母からの電話の事を説明すると更に驚いていた。
どうやら、マメ子は眠くて20分程ぐずっただけだったらしい。5分以上は子供の泣き声を聞いていられないダニ母が、大丈夫だと言うダニーとダニ兄を無視してこっそり電話してきたのだった。残念だった。
そんな事もあったけれど、楽しくクリスマスを過ごし、新年を迎えた。(正直、何をしたのかあんまり記憶にない。笑)
1月に入り、彼らがアメリカに戻る前に、数年前に亡くなったダニ祖父の法事が執り行われた。ダニ父は本家の長男なので、お盆や法事の際には親戚一同がダニ父宅に集まる。私は9月の旧盆で既にそれを体験していたけれど、アメリカに住んでいるダニ義姉は初めての『本家の嫁』体験だった。(しかも長男の嫁)買い出しや家の掃除の為に、私はダニー抜きで義実家に前々日から宿泊。(旧盆も同じようにダニー抜きで義実家に前泊した)嫁が2人もいると大はりきりのダニ母。あれこれ買い込んで半端ない量の料理を準備した。
この時の出来事で忘れられないのは、洗米。
法事は午前中に始まるので、前日の夜にお米を洗っておきたいと、10合のお米をダニ母に渡された私。普通に台所の流しで洗っているとダニ母がやってきて、こう言い放った。
『こんな暖かい部屋で洗ってたら米が煮える。ベランダで洗って来い。』
韓国のベランダは二重構造になっていて、外側にも窓がついている。ベランダと言うよりは、一つの部屋、サンルームのような感じ?天気を気にせずに洗濯物を干せるので便利がいい。とは言え、床暖房の付いた暖かい部屋とは違い、とてもとても寒い。外は雪が降り積もっていて氷点下。しかも外の空気を入れなきゃと意味の分からない理由で窓を開けられた。そんな寒いベランダで白い息を吐き、冷たさで手の感覚を失いながら、お米を洗った。ダニ義姉もビックリしていたし、変わろうかと言ってくれたけれど、ダニ母が許さなかった。
この義実家滞在で、私の手は酷いあかぎれになり指の関節部は血だらけになった。当時は深く考えなかったけれど、嫁イビリだったんだろうなぁ、と思う。
そして、ダニ兄一家がアメリカに帰った後にもまた、私は寒さを使った嫁イビリをされる事になるのだ。

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