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「書く」。「書かない」。

もう、ずうっと以前のことになりますが、「てがみさま」というお話を書いたことがあります。
手紙の神様。てがみさま。
大切に書いた手紙には神様が宿ることを──短いお話にしました。
封筒を開け、折りたたまれた便箋をひらくと、おかっぱ髪の女の子の神様が、ちょこんとそこに現れる。それが、てがみさま。

誰かに手紙を届けることが、いまよりずっと身近な時代でしたので、ちょこちょこと、お礼状など書く習慣がありました。
手紙を書くときには、必ず心を込めて。
封書のときには、てがみさまに封筒のなかに入っていただくイメージで。
葉書きのときには、文字そのものに寄り添ってもらえるようお願いをして。

書籍化には至りませんでしたが、あのとき「てがみさま」に託した氣持ちは、いまでもきちんとわたしのなかに生きています。
書くときには、必ず心を込めて。
時代は移って、手紙によるやりとりは日常的ではなくなりましたが、媒体はかわっても、noteに記事を書くとき、コメントを書き込むとき──わたしは「てがみさま」に、そっと願いを託します。
わたしの言葉が明るくやさしく運ばれていくように。
そしてそれが、ふさわしいタイミングで相手の心に届くように……。

ぽちっ。

投稿ボタンも送信ボタンも指先で押すものですから、てがみさまという言葉に違和感はありません。
てがみさまは「手神さま」。
手先、指先からあふれる神様。
いまはそんな位置づけがふさわしいような氣がしています。

「書く」という行為は、以前は、鉛筆やペンで紙の上に記すことがほとんどでしたが、いまは、キーボードに向かって自分の思いや情報を打ち込むことが主流です。あるいはスマホなら、指の操作だけで書き込んでいく。
不思議なのは、紙でもパソコンでもスマホでも、「書く」ときには「手」を通して、わたしたちの体から外へ、情報が流れでるということです。
「手から言葉を放つ」行為、それを「書く」と呼ぶのかも……そんなふうにも感じています。

「書く」ことについて思いを馳せたとき、同時に、つい思い浮かべることがあります。
それは「書かない」文化の存在についてです。
「書かない」文化。つまり、文字を持たない文化です。

わたしたちはともすれば、文字があるのはあたりまえ、という錯覚に陥りがちですが、実際には、文字を持たない「無文字言語」と呼ばれる文化は、世界のあちらこちらに存在しています。
言語データーベース「エスノローグ」によると、世界7151の言語うち、2982は文字を持たないとされているほどで、それは実に、世界の言語の42%にあたります(2022年時点。下記の書籍からのデータ)。

3000近くもあるという、世界の無文字言語すべてについて知見を得るのは難しいことですが、知り得る情報のなかから、また、「西洋化」とともに失われてきた、ネイティブアメリカンやハワイ王朝、アボリジニの人々の無文字文化の歴史から、「書く」ことと「書かない」ことについて、ひとつの仮説を立てています。

仮説といっても、個人的な思いに過ぎませんので、ひとつの視点としてきいてくだされば嬉しいと思いますが──文字を持たない民族は、「『いま』を大切に生きる民族」だと思っています。
自然の恵みを享受しながら、その日の暮らしを大切にする。多くを望まず、溜め込まず、必要以上に先のことを定めない。
手元にある本に、このことを彷彿とさせる一節があるので、それを少し引用させてください。
タイとラオスの山岳地帯に住む、文字を持たない少数民族「ムラブリ」について書かれた名著。以下の引用部分では、現地調査に訪れた著者による、率直な感想が綴られています。

彼らは文字だけでなく、暦も持たない。スケジュールや時間割に縛られることなく日々を暮らしている。「明日、調査を手伝ってくれない?」とぼくが尋ねても、たいていは「イオーイ(わからない)」と返される。明日のことは明日の自分が決めるからだ。

『ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~』
(伊藤雄馬・著/集英社インターナショナル)より一部抜粋

明日のことは明日の自分が決める。
わたしたち日本人の感覚では、思わず呆気にとられるほどのムラブリの習慣。
予定を立てたり、それを氣にかけたりすることが、彼らにとってどれほど意味のないことなのか──がこの一文から伝わってきて、はっと心が澄まされました。

また、ムラブリ語における「時間にまつわる表現」についての記述には、頭のなかで小さな混乱が起こりました。
ムラブリの言語では、「既に起こったこと」と「これから起こること」が、同じ言葉で表されるというのです。
過去と未来が同じ言葉で表現される。
いい方をかえると、ムラブリ語の時間には、「いま」と「それ以外」しか存在しないということです。
ここでも、「いま」を生きるムラブリぶりが徹底されています。

こういう時間の捉え方は、文字を持った言語ではあり得ないものだと感じます。
なぜなら、「文字そのもの」が、時間を内包しているといえるからです。

ここで、日本語を含む、「文字言語」について、少し考えてみましょう。

ムラブリのような無文字言語をもつ文化が、「『いまここ』を大切にする文化」だとしたら、わたしたちの使う文字言語は、「時空を広げる文化」だと表現することができます。

話し言葉と書き言葉を端的に比べてみるとわかりやすいかと思います。
発する声そのものが本体である話し言葉は、「声の届く身のまわりの人たち」に、意思を伝える言葉です。音は発せられるそばから消えていきますので、録音でもしなければ、それは遠くまで届くことも、直接未来に伝わることもありません。
対して書き言葉、つまり文字は、自由自在に時空間を移動します。
文字が、「保存」できるという性質を持つからです。
保存できるから、持ち運びもできる。遠くへ。そして未来へ。

それがそのまま、それぞれの社会に反映されています。
いまこの瞬間を享受することに価値を置く、文字のない社会。
先々まで見通し、生きる世界を広げることに価値を求める、文字を有する社会。
「『いまここ』を生きる」人たちと、「世界を広げる」人たち。
どちらも大切で、もちろん、そこに優劣はありません。

それは、世界に男の人と女の人がいるのと同じくらい、尊いことです。
わたしたちが、右手と左手を持つのと同じくらい、自然なことです。
両方なければ成り立たない。
両方あるからうまくいく。
文字言語と無文字言語の関係は、本来、そういうものだと思えます。

ところがなぜだか、わたしたちは「どちらも大切」であることを忘れがちです。少なくとも、忘れて過ごした、そういう歴史を持っています。
男性が女性を支配したり、文字を有する社会が文字を持たない民族を虐げてきた時代が……確かに存在するのです。

なにかを「持つ」ことは、諸刃の剣です。
同じ刃物で、人を脅すこともできれば、美味しい料理をふるまうこともできる。
同じように、言葉で人を傷つけることもできれば、癒すこともできる。
奪うこともできれば、与えることもできる。
文字を持った私たちは、それを心して使わなければと思います。
「書き言葉」は、遠くまで運ばれます。
「書き言葉」は、未来の言葉となります。
「書き言葉」は、多くの人に影響を与えます。
時代が進んでいくほどに、より遠くまで、より時間を超えて、より多くの人に──文字は運ばれていくでしょう。
そのとき、その文字がどんな世界を描きだすか……は、わたしたちが「なにを書いていくか」次第なのです。

ご縁あって、わたしは、文字のあるこの社会に生まれてきました。
物心ついたときから、書くことが好きでした。
だからわたしは、文字の力を享受しながら、「なにを書くか」に思いを馳せます。
そしてふと、おかっぱ髪の「てがみさま」を思うのです。
「てがみさま」に笑ってもらえるような、そういう言葉を綴っていこう……って。

てがみさまは、手神さま。

祈るときにあわせる両手。
大事な人に差しだす両手。
自分をそっと抱きしめる、わたしの両手。
その両手をキーボードにのせて。

わたしは両手で世界を描く。
わたしの望む光の世界を。
わたしの書いた、わたしの言葉──それが未来をつくるから。




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