あなたはそのままで美しい『空の鳥と野のゆりのたとえ』
イエスのたとえ話シリーズ No.11「空の鳥と野の花のたとえ」
2024年9月1日
マタイによる福音書6:25-34
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)
タイトル画像:Michael KollによるPixabayからの画像
はじめに
今回のたとえ話は「空の鳥と野のゆり」を取り上げます。
この聖書の一節は、心配や不安についてイエス・キリストは私たちに何を求めているかについて語っている箇所になります。そもそも弟子は24節で、「ふたりの主人に仕えることはでき」ないとイエス・キリストは言います。神と富との両方に仕えようとするなら、私たちは結局のところ富に支配されます。この教えは、一般の信徒だけでなく、伝道者や牧師を含むすべてのクリスチャンに向けられています。富や物質的なものへの執着は、誰にとっても大きな誘惑となり得るのです。
ですから、神に仕える姿勢は中途半端であってはならないとイエス・キリストは語ります。何よりもまず、そこで地上の富に対する心づかいから解放されることが必要であることを「空の鳥、野のゆり」というたとえを用いてイエスは語ります。
物 語
このたとえの中で、イエスは、生活に必要なものについて心配しすぎないように教えています。それは、食べ物や飲み物、着る物などについてです。
鳥は種をまいたり刈り取ったりしなくても、神が養ってくださいます。
野の花は働かなくても美しく咲いています。その美しさはソロモン王の栄華よりも美しいのです。
また、心配しても寿命を延ばすことはできません。
神様は人間をこれらの自然のものよりももっと大切にしてくださるので、必要なものは与えてくださるという信頼を持つように勧めています。
異邦人(神を知らない人々)のように物質的なものを追い求めるのではなく、神の国と神の義を第一に求めるべきだと教えています。そうすれば、必要なものは与えられるでしょう。
明日のことを心配せず、今日一日を生きることに集中するように勧めています。
空の鳥を見よ
バードウォッチング
イスラエルは、中東のシリコンバレーとして知られていますが、実はバードウォッチングの楽園だそうです。驚くことに、この小さな国は、毎年約5億羽もの渡り鳥が通過する世界有数の中継地となっているそうです。
その理由は、イスラエルの独特な地理的位置にあります。ユーラシア大陸からアフリカ大陸へ渡る鳥にとって、イスラエルを経由するルートが最も効率的です。他のルート、例えばヨーロッパ南部から北アフリカへの経路は長い洋上飛行を必要とし、一方アラビア半島南端から東アフリカへの行程は広大な砂漠と紅海の横断を強いられます。それに比べ、イスラエルは陸続きでヨーロッパとアフリカを結ぶ唯一の経路であり、有利な気流も鳥たちの味方となっています。
さらに、イスラエルの多様な自然環境も鳥たちを引き寄せる大きな要因です。小国ながら、北部のゴラン高原やガリラヤ丘陵、ガリラヤ湖の湿地帯、東部の死海、南部の砂漠地帯や紅海まで、様々な生態系が凝縮されています。このため、イスラエルは渡り鳥たちにとって理想的な休憩地となっているのです。
実際、多くの鳥がイスラエルの豊かな環境に魅了され、そのまま定住してしまうことも珍しくありません。国内で観測される約500種の野鳥のうち、半数近くが定住型だというのは驚きです。
この環境は、バードウォッチャーにとっても魅力的です。比較的狭い地域で、海鳥から山鳥、砂漠の鳥まで多様な種類の鳥を観察できるからです。そのため、世界中からバードウォッチング愛好家が訪れ、イスラエル最南端の街エイラットでは毎年国際バードフェスティバルが開催されるほどの人気を博しています。
このように、イスラエルは先端技術の中心地としてだけでなく、自然愛好家、特に鳥類観察者にとっても魅力的な目的地となっているのです。
野鳥から学ぶこと
イスラエルは鳥類の豊かな地域として知られ、古代の人々も日常的に多様な鳥を目にしていたことがわかります。イエスが鳥たちの美しい鳴き声や色鮮やかな姿を例に挙げたことは、実に意義深いものです。現代の私たちも鳥をよく目にしますが、その存在に深く思いを巡らせることは稀かもしれません。
私は最近、バードウォッチングに魅了され、双眼鏡を手に入れました。鳥を観察すると、その仕草や羽の色、目の輝きなど、非常に興味深い発見があります。これらを詳細に観察していると、まさに神の造形の妙を感じずにはいられません。
冬季には特に多様な鳥類が観察できます。中には、羽に差し色が光るものや、カワセミのように鮮やかなブルーが際立つ種もいます。こうした鳥の色彩は、実は羽そのものに色素があるわけではありません。構造色と呼ばれる現象で、羽の微細構造が光の反射や干渉を巧みに操作し、色彩を生み出しているのです。つまり、私たちが目にしているのは実際の色ではなく、鳥の羽が織りなす光学的なマジックなのです。この構造色のメカニズムには、現在でも多くの未解明な部分が残されています。
このように、小さな鳥の羽毛の配色一つをとっても、神の息吹によって精緻にデザインされ、多くの秘密が隠されています。しかも、これらの鳥は人間が飼育しているわけではありません。
動物を飼育した経験のある方ならご存知でしょうが、適切な餌や環境の提供など、その生き物に合った飼育方法を追求する必要があり、それは多大な労力を要します。そうした努力の積み重ねが動物の長寿につながるのですが、イエスは「天の父がこれを養っていてくださる」と語りました。
人間が環境破壊を引き起こす一方で、天の父はあらゆる生物のために配慮し、環境を整え、自然を構築しています。イエスの言葉は、この父なる神の慈愛を理解すれば、鳥よりもさらに優れた存在である人間に対する神の愛の深さが理解できるだろうということを教えています。
この観点から自然界を見つめ直すと、私たちの周りに溢れる神の愛と創造の妙を、より深く感じ取ることができるのではないでしょうか。
野のゆりに学ぶこと
イエスは、鳥に続き、「野のゆり」を私たちに示します。皆様は野のユリを見たことがあるでしょうか。実は、私たちの教会の裏には自然と生えてきたテッポウユリが自生してます。不思議なことに年々その数を増やしており、そのうち、テッポウユリの群生地になってしまうのではないかと、やや心配もしてます。
それはさておき、ここで、出てくる野のユリを聖書では、 タ・クリマ・トゥー・アグローとギリシャ語で記しております。直訳では「野のユリ」ということですが、春には、ガリラヤの丘の斜面は、クラウン・インペリアル(ヨウラクユリ)、金色のアマリリス、真紅のチューリップ、緋色から白まであらゆる色調のアネモネで覆われるそうです。
神の筆が描く絵画、それがガリラヤの野です。色とりどりの花々が風に揺れ、その姿は農夫の目には雑草として映るかもしれません。しかし、イエスの眼差しは違いました。彼は、人々が見過ごしがちな美しさに気づかせようとしたのです。
フィナボッチ数
「野の花がどのように育つのか、注意深く観察しなさい」と、イエスは語ります。その言葉の奥には、深い真理が潜んでいます。一見無秩序に見える自然の中に、実は驚くべき秩序が隠されているのです。
花びらの配列に宿る黄金比。そこには、フィボナッチの数列という神秘的な数式が息づいています。この数式は、絵画や音楽、建築のデザインにまで応用されています。まるで、神の設計図が全てのものの根底に流れているかのようにです。
私たちは、この世界をどれほど理解しているでしょうか。表面的に見るだけでは、その真の姿は見えてきません。
イエスが語った「わきまえなさい」というギリシャ語は、カタマンサノーと書かれています。それは、深く、正確に、注意深く観察し、理解することを求めています。それは、心で学ぶことだということです。これは、私たちが受けるすべての祝福を実現するために、主がすべての働きをしてくださることを理解することを含む、決定的な選択を求めている言葉でもあります。
野に咲く一輪の花を見つめてみましょう。その形、色彩、香り。
それらは偶然の産物ではありません。そこには、創造主の息吹が宿っています。私たちの目には見えない愛に基づく精緻な設計が、その美しさを生み出しているのです。
人間とフィボナッチ数
創造論の観点から見ると、人体におけるフィボナッチ数列の存在は、神の驚くべき知恵と設計の証とみなすことができます。この視点では、私たちの身体は単なる偶然や進化の産物ではなく、崇高な創造主によって意図的にデザインされた傑作であると考えます。
フィボナッチ数列や黄金比が人体のさまざまな部分に見られることは、創造主の卓越した数学的知性の表れと解釈できます。指の長さの比率、顔のパーツの配置、さらには細胞レベルでのDNAの構造に至るまで、これらの精巧な数学的パターンは、神の計画の細部にまで及ぶ綿密さを示しているのです。
創造論では、この世界のあらゆる要素が目的を持って創造されたと考えます。人体に見られるフィボナッチ数列のパターンも、単なる偶然ではなく、美しさと機能性を兼ね備えた完璧な設計の一部だと理解されます。これらのパターンが効率的な成長や構造を生み出すという事実は、創造主の深い愛と知恵を反映していると言えるでしょう。
さらに、こうした数学的な秩序が人体全体に行き渡っていることは、私たち一人一人が神の形に似せて造られたという聖書の教えとも呼応します。それは、私たちが神の崇高な思考の産物であり、それゆえに比類なき価値を持つ存在であることを示唆しています。
人体の細胞から全体の形態に至るまで、フィボナッチ数列に基づいて描かれているという考えは、創造主の綿密な計画と設計を強調するものです。これは、生命の神秘さと複雑さが、偶然ではなく意図的な創造の結果であることを示しています。
このような見方は、私たちに深い畏敬の念と感謝の気持ちをもたらします。自分自身の身体が神の素晴らしい創造の一部であると認識することで、私たちは自己の価値をより深く理解し、創造主への信頼と敬意を深めることができるのです。
したがって、創造論の立場からすると、人体におけるフィボナッチ数の存在は、神の偉大さと創造の素晴らしさを証明する重要な要素の一つと言えるでしょう。それは、私たち一人一人が神によって愛され、目的を持って造られた特別な存在であることを思い起こさせる、貴重な証なのです。
この世界は、まだ多くの秘密に満ちている。日々の忙しさに追われ、見過ごしているものがあまりにも多いのではないでしょうか。立ち止まり、深く観察し、感じ取ることで、初めて見えてくるものがあるのです。
神の創造の素晴らしさは、私たちの周りに満ちあふれている。それは、壮大な山々や広大な海だけでなく、足元に咲く小さな花にも宿っているのです。その美しさに気づき、感動する心を持つこと。それこそが、イエスが私たちに伝えようとしたメッセージなのかもしれません。
自然の中に隠された神の叡智。それを理解しようとする努力が、私たちの魂を豊かにし、この世界をより深く愛することにつながるのです。今日から、あなたの周りの小さな奇跡に目を向けてみてはいかがでしょうか。そこには、想像を超える美しい世界と神が私たちを愛していることがわかるはずです。
心配する理由
イエスの教えは、人間の本質的な不安と信仰の関係について深い洞察を与えてくれます。25節、31節で使われている「心配」のギリシャ語「メリアムナオー」は、単なる心配以上の意味を持っています。この言葉は、私たちの心が分裂し、異なる方向に引き裂かれるような状態を表現しています。
A.T. ロバートソンが指摘するように、この言葉は「反対方向に引き離される」あるいは「部分に分割される」という意味を持ちます。つまり、不安や心配によって私たちの心が分断され、統一性を失ってしまう状態を描写しているのです。これは単なる予感や懸念ではなく、未知の将来に対する深い不安が私たちの内面を蝕んでいく様子を表しています。
イエスは、こうした不安が神への信頼を妨げるものだと教えています。ギリシャ語が示すとおりに、神から目を背け、心が神から離れることが、不安の源泉です。神を信じることこそが、この不安に対する最も効果的な防御になるのは言うまでもありません。しかし、イエスの教えは単に抽象的な信仰論ではありません。それは日常生活に根ざした、極めて実践的なものなのです。
注目すべきは、イエスがこの教えを語った対象です。彼は富裕層や野心家たちではなく、日々の糧にも事欠く農民たちに語りかけていました。贅沢品や野心的な目標ではなく、食べ物や衣服といった生活の基本的な必需品に関する不安を取り上げているのです。これは、イエスの教えが当時の一般の人々の生活実態に即したものであったことを示しています。
イエスの論理は明快です。神が私たちに生命という最も大切なものを与えてくださったのだから、食べ物や衣服といった比較的小さなものも与えてくださるのは当然だ、と彼は説きます。これは、日々の必要を満たすことに対する神の配慮を信じるよう促す、力強いメッセージです。
この教えは、現代を生きる私たちにも信仰による平安を与えてくれます。物質的な豊かさの中にありながら、なお将来への不安に苛まれる私たちに、イエスの言葉は静かに語りかけます。神への信頼こそが、心の平安への道であると。それは、私たちの心を一つにまとめ、分断された内面を癒す力となるのです。
日々の生活の中で、私たちは様々な不安や心配に直面します。しかし、イエスの教えに耳を傾けるとき、私たちは新たな視点を得ることができるでしょう。神の愛と配慮を信じ、日々の必要が満たされることを信頼する。そうすることで、私たちの心は平安を見出し、人生をより豊かに生きることができるのです。
あなたは美しいと認める
人間の心の奥底には、美しさへの憧れと醜さへの恐れが静かに息づいています。それは、私たちの意識の底流にあって、日々の思考や行動に微妙な影響を与え続けています。正常な感覚を持つ人であれば、誰しもこの美醜の概念から完全に自由であることはできないでしょう。それは、人間としての本質的な部分なのかもしれません。
しかし、この美醜の意識は、往々にして自己評価の歪んだ鏡となってしまいます。私たちは無意識のうちに、自分を他者と比較し、その姿を通して自己を定義しようとしてしまうのです。その比較の対象は多岐にわたります。容姿、才能、社会的地位、所有物、着ている服装など、あらゆるものが自己評価の材料となり得るのです。
「あの人より劣っている」「この点では優れている」といった思考が、私たちの心の中で絶え間なく繰り広げられています。美しいと感じる瞬間もあれば、みすぼらしいと落胆する時もあります。こうした評価の基準は、往々にして社会的な価値観や流行に影響されることが多く、必ずしも本質的な価値を反映しているとは限りません。
しかし、このような比較と評価の習慣は、私たちの心に深い影を落とすことがあります。それは、自尊心を傷つけ、自己肯定感を低下させる原因となりかねません。また、他者との関係性にも悪影響を及ぼし、嫉妬や劣等感、優越感といった負の感情を生み出す土壌ともなり得るのです。
大切なのは、こうした比較の習慣に気づき、イエスが教えてくれた、「空の鳥、野のゆり」を見つめていくことです。
神は、私たちの持っているものに目を向けているのではありません。空の鳥よりも野のゆりよりも価値あるものとして、自分自身の存在自体の価値を見出してくれていることです。
そうした視点は、私たちを肯定的なものへと高めてくれます。その結果、他者との違いを個性として肯定的に捉える視点を養うことができます。それが、真の自己受容への道となります。
美醜の意識は人間性の一部であり、完全に無くすことは難しいかもしれません。しかし、それに振り回されるのではなく、イエスは私をどう見てくれているのかということを知ったとき、本当の自分らしさを尊重でき、そうして初めて他者の個性も認める姿勢を持つことで、より豊かな人間関係と充実した人生を築くことができるのではないでしょうか。
このように、美醜の意識と自己評価の問題は、私たちの内面世界の奥深くに根ざした、複雑で繊細なテーマですが、主イエスが私たちを美しい神の形として評価していることを覚え、イエス・キリストに向き合い、受け止めていく過程こそが、真の成長と自己実現への道筋となるのです。ハレルヤ!
マタイによる福音書
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。