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<鶏が先か、卵が先か?> 2000年来の論争が今夜、ついに決着!

何人も反論できない<正答>を示す !?

あまたの知性を悩まし、あるいは惑わし、終わりのない論争と果てしのない考察を経てなお、いまだその結論を見出すことができない難問中の難問である<鶏が先か、卵が先か?>問題。

ついに何人も反論のしようがない明確な正答を示すときがきたようなので、ここにその考察の記録を残しておくことにしようと思う。

、、、というのはまあ、半分冗談ではあるが、この命題は、明らかに最初から、いわゆる<正答>など無い命題であるにもかかわらず、割と真剣に、その持てる知性の限りを尽くし、遺伝学的、生物学的、あるいは最新の生理学的知見なども総動員して考察しようとする人を見かけるので、ここはひとつ、仏教哲学的見地から、このような命題にどのようにアプローチするべきなのか、そのモノの見方というか、考え方の基本のようなものを示しておきたいと思うのだ。

ということで、まずはこの問題が今まで、どのようなアプローチで考察されてきたのか簡単に整理しておきたい。といっても、わざわざ学術的に論文を書こうという訳でもないので、ネットでざっくりと情報収集したものを整理する程度でご容赦いただくとして、早速だが、この命題をまとめたWikipediaがあったので、そちらから情報を引用してみよう。

それによると、この問いかけの元々の意図は、どちらが先(原因)としても、あるいは後(結果)としても矛盾が生じるという<因果性のジレンマ>を指し示すことで、この世界と生命がどのように始まったのかという形而上学的問題を暗に問いかけるメタファーであった、とのこと。

つまり元々は、文字通りの<鶏>という生物種がいかに誕生したか、というようなことを考察する命題ではなく、あくまでも<原因>と<結果>がどのように関係しているのか、世界と生命がいかにして誕生したのか、その原初の原因をさぐろうとする試みを指し示すための命題であって、論理学的命題として言い換えると「X が Y 無しに生じ得ず、Y が X 無しに生じ得ない場合、最初に生じたのはどちらだろうか?」ということのようである。


様々な観点からの考察

Wikipediaの方には、その後、このジレンマを解決するため、遺伝学、生化学、統計学、進化生物学、神学、循環時間論などの立場から、それぞれのアプローチによる考察がどのようになされてきたか、その結論とともに簡単なまとめが列記されている。

ここではあえて、個々の事例の詳細には立ち入らないので、興味のある方はそのWikipediaを直接参照してもらいたい。

さて、これらの考察をざっと俯瞰して見るとき、どの考察にも、あるひとつの共通項があるということに気がつかないだろうか?

じつはこの命題、非常にざっくりとしたあいまいな表現による命題であるため、どのアプローチで考察するにしても、その考察の前に、そもそも何をもって<鶏>とするか? あるいは<卵>とはどういうものであるかということを定義してから考察に入っているのだ。

例えば遺伝学的アプローチでは、最初の<鶏>種という種の個体が発生するためには、その前の種の雄と雌の両方の遺伝子が一緒にそろう必要があるので、そのようなDNAが掛け合わされる最初の場所が受精した卵になる、よって先になるのは<卵>である、と結論付けている。

これに対して最新の生化学によるアプローチの項を見ると<ovocleidin-17 という鶏の蛋白質が、卵殻形成の初期の段階でカルシウムの沈着に重要な機能を果たしていることを報告した。ovocleidin-17は卵を形成するニワトリ(つまり母親)の卵管で生産されるタンパク質であり、フリーマンは「これまで長い間卵が先だと信じられてきたが、実のところ鶏が先だということを示す科学的な証拠を我々は得たのだ」と述べている>となっている。

これは要するに卵が形成される蛋白質が母鳥の卵管で生産される特殊な蛋白質で、それなしでは卵が形成されないから鶏が先である、という主張になっている(もっとも研究者たちは、新たな蛋白質の働きを発見したことを強調したかっただけで、真剣に主張している風ではなく、注目を集めるために冗談で言っているようではあるが)。

つまりどちらの主張も<生物種としての「鶏」という種が生じた最初の瞬間>という定義を設けたり、あるいは<「卵」を形成する蛋白質を最初に生成した個体>を定義としたり、考察前に何らかの定義を設けないと結論を導き出せないようになっていて、それは、この後に続く神学的アプローチなどでも同様(創世記の第一章を論拠にしてる)で、定義の仕方次第で結論が変わる命題になっているということが分かるはずである。

そんなのは当たり前だ、と思われた方がほとんどだとは思うが、実はこのことに気が付くことが、このような命題を考えるときにものすごく重要になってくるのである。

問題の本質に迫る

ということでそろそろ本題に入ろうと思う。

まずはこの命題、いきなり鶏と卵の関係から考えはじめるのはハードルが高くて迷ってしまう人が多いと思ので、もっと分かりやすくシンプルに、生物が最初に発生して進化を始めたであろう、原初の形態から考えてみるのがいいと思う。

たぶん一番分かりやすいのは、何かの単細胞生物の生殖について考えてみることだと思う。単細胞生物というのは、いうまでもなくゾウリムシなどの、一つの細胞だけで個体として生きている原始的な生物のことで、小・中学生の頃に顕微鏡で観察したことがあるという人も多いと思う。

その単細胞生物だが、ご存知の通り、彼らは自分の仲間を増やす(通常の多細胞生物でいうところの繁殖)ため、自分の体(つまり一個の細胞)を分裂させて増殖するという、きわめて単純な生存戦略をとっている。

最初は一つの細胞だったのが分裂して二つになり、さらにその二つがそれぞれ分裂して四つになり、その四つがさらに、、、というように細胞分裂を繰り返して増殖していくのである。

ということで、このゾウリムシを例に考えてみてもらいたい。その個体が実際に増殖するところを想像しながら考えてみるのだ。

ある一つのゾウリムシが、その個体としての細胞を二つに分裂させて増殖するとして、さて、分裂後の二つの細胞を見比べたとき、どちらが<親>で、どちらがその<子供>だろうか?

こう質問されたら、あなたはどう答えるだろう? 多分、ほとんどの人がきっとこう答えるだろう「いやいやいや、どちらが親でも子でもないよ。同じものが二つに分かれただけなんだから。どちらが先(原因)でもなく、どちらが後(結果)でもないよ」と。

このような回答に対しては「ご名答!」と申し上げるほかないが、しかしよく考えてもらいたい。もしもゾウリムシの繁殖がそのようであるなら、実は鶏と卵の関係も同様であってもおかしくないのではないだろうか?

単細胞生物の生殖と鶏のそれを比べてみる

ということで、もう一度よく考えてみよう。

僕は先に、このような命題は、何をもって<鶏>であるか、あるいは<卵>であるかとするような<定義>次第で答えが変わる命題だ、と書いた。

そこで<鶏>にとって<卵>がそもそもどのようなものであるのかをもう一度考えてみてほしいのだ。

卵を産む母鳥にとって<卵>とは、元々の最初は自分自身の体細胞の一つではなかったろうか?

単細胞生物が自ら分裂して増殖するように、鶏もまた自らの細胞を分裂させることで増殖しているのではないか?

もちろん<鶏>は、ほとんどすべての動物がそうであるように多細胞生物で、単細胞生物より何万倍も、何百万倍も、いや何千万倍も複雑な生物だし、生殖に関しては雌雄の別のある性の協力が必要になってはいる。

しかし、ゾウリムシのような単細胞生物だって、一つの個体から増殖(無性生殖)しただけでは、遺伝子のコピー不良でも起こるのだろう、そのうち全滅してしまうことが知られていて、永く自分の種を保ち続けるためには、どこかで別の個体と遺伝子を交換する<接合(有性生殖)>をする必要があることが知られている。

多細胞生物のように雄と雌に分かれて子孫を残すというような複雑な生殖ではないが、この<接合>によって遺伝子を仲間と交換して子孫(と呼んでいいかどうかだが)を増やすという戦略をとっているのだ。

そう考えると、ゾウリムシのような単細胞生物でさえ、種を存続させるために遺伝子の交換をしながら増殖していくのだから、より進化して何千万倍も複雑な構造をもつ鶏なら、より確実に種を存続させていくいくため、雌雄の別によって遺伝子を次世代に引き継いだり、その次の世代の遺伝子をもつ子孫を<卵>の形で残そうとする戦略をとっていたとしても、複雑さを排除して突き詰めると、やっていることの本質はゾウリムシのような単細胞生物とさほど違わない、と言ってもいいのではないだろうか?
 
このようにあらためて考えてみると、どこからどこまでが<鶏>で、どこからどこまでが<卵>なのか、どこからどこまでが<原因>で、どこからどこまでが<結果>なのかわからなくなってこないだろうか?

なぜなら卵が卵細胞として母鳥の体内で分裂するとき、それは母鳥とまったく違う別の存在ではないからである。

原因と結果は別のものなのか? それとも同じものなのか?

一体全体、どこからどこまでが<卵>で、はっきりと母鳥の存在とは違う存在だと、言い得るようになるんだろうか? 卵だって他の体細胞と同様に、同じ遺伝子をもった同じ体の一部であるに過ぎないのに?

もちろん、だからといって<卵>は母鳥の体細胞の一部で、細胞分裂しただけだから、両者は全く同じものだと言い切ってしまうと、それはそれでちょっと違う、となるだろう。

あるいは、何をもって<鶏>種の誕生と言い得るのか? 突然変異でそれまでと違う特徴をもった個体が誕生したとしても、その個体が生き延びて新しい遺伝子を仲間にひろめて新種として定着するまでは、それなりに時間が掛かることだろう。そうすると、はっきりとした<鶏>種の誕生をどこで線引きするべきだろうか?

ということで、このような問題を考えるときに盲点になっていることがはっきりしてきたのではないだろうか?

つまりこの命題、なにをもって<鶏(原因)>として、何をもって<卵(結果)>とするか? その線引きのための定義が、究極的には不可能と言っていいほど難しいということを示す命題になっているのだ。

こう書くと「おいおい、確かに事前の定義は大切だし、それなりに難しい作業かもしれないが、不可能というほど難しいというのは言い過ぎだろう」と反論されてしまいそうだ。

だがしかし、あえて誤解を恐れず書かせてもらうと、今から2千年近く前、この命題が、正答を出すのが不可能なほど難しい命題であることを明確に示した天才がいたのである。

実は仏教ではすでに<正答>が出されていた!?

それが中観派の祖とも「八宗の祖師」とも呼ばれ、大乗仏教の礎を築いたとされる人物、ナーガールジュナである。空の論理を展開した『中論』はつとに有名なので知っている人も多いかと思う。

鶏と卵のWikipediaのほうでは、仏教ではこの問題を「循環時間論的に説明している」とあるようだが、この説明はあまり正しくない。仮に「循環時間論的に説明している」宗教があるとしたら、あまり詳しくないが、多分それはヒンドゥー教か何かだろう。

仏教のほうでは、その手の循環論的というか、いわゆる輪廻転生風に説明されがちな傾向を、むしろ否定する方向で説明してきたのだ。

その代表例ともいえるのが『中論』で、その中でナーガールジュナは<原因>と<結果>を分けて考える人々に対して、そもそも<原因>と<結果>が違うものであるとも、あるいは同じものであるとも、その両方であるとも、どちらでもないないとも言えない、という具合に、すべての分別的見解を、いわゆる八不中道(はっぷちゅうどう)として否定してみせたのだ。

ナーガールジュナは、これこれは<原因>で、かれこれは<結果>である、と明確に分別して定義することができるのは、人間の頭の中にある<観念>の中だけで、現実の世界ではそのような線引きをすることは不可能であることを示し、この単純な事実に気が付かないまま、ああでもない、こうでもない、と議論を進める論士たちに「戯論寂滅」と叱り付け、あらゆる議論を停止に追い込んだのである。

ということで、この<鶏と卵(原因と結果)どちらが先か問題>は、そもそも両者がまったく別であるとも同じであるとも、その両方であるとも、それ以外であるともなんとも言えないので戯論寂滅するしかない、というのが唯一の<正答>だったのである。

本を出しました!

・・・・実は最近、筆者は初の著作として『旅路の果てに: 人生をゆさぶる〈旅〉をすること』(春秋社)

という本を上梓しました。その中で、上に書いた<空>の論理についても分かりやすく言及しています。

「えっ? 旅の本なんでしょ? なんで<空>の話に言及してるの?」

そう思った人も多いかもしれません。

なぜ<空>なのかですが、いわゆる<旅>を、ある種の越境であるとするなら、最初は単純に国境を越えたり文化圏を越えることを<旅>として満足していても、徐々にそれらの<境界>は人の心(観念)が創り出す幻影のようなものであると気が付き、最終的には観念作用が創り出す<相対的二元性>そのものを越えることが<旅>の本質ではないか、ということに気が付いていくという趣旨の、ちょと哲学風味のエッセイ本だからなのです。

自分で言うのも変ですが、こと<空と縁起>の解説としては、いまだかつて、これ以上ないくらい簡潔に分かりやすく解説しているつもりです。

また、最終的には仏教的<中道>の意味も、終章で闡明していますので、興味をもたれた方はぜひ書店でお買い求めください。


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