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徒然 『人生』と『空』に頼るな

コピーライトの授業で先生がこういった。

『人生』っていう言葉は安易に使わない方がいい

その理由として、「いいこと言ってる感じがする。その『感じ』に頼ってしまうと本当の伝えたいことが消えてしまう。あと、単純に『人生』って言葉は使われすぎてて新しい角度がもうない……」と仰っていた。

ああ、と身に染みて思う。

詩集を作るにあたって私もその安易さに縋っていたような気がする。
それは、人間にとって最大に重要なことであるから日々『人生』について考えてしまうからなのだが、それ以外の言葉で描けないといけないのだろう。

人生や生きる、死ぬ、そういう強い言葉たちに頼ってしまっている自分がいるのは確実だ。

メメントモリ

死を思え。

そういうマインドで書いている。
詩において、そういう部分こそが大事ではないか。
コピーライトと詩は違う。
故にその言葉に左右されすぎなくてもいいだろう。

だけど、安易ではありたくない。

「わかりやすさ」と「安易さ」は違うはずだ。ここの線引きを私はまだあやふやにしてしまっている。

詩人は混沌から有を生み出す言葉を見つけ出そうとしている。それをするための詩である。

これは、『文芸と科学』という講義で先生が言った言葉だ。

この授業では、言語学者である井筒俊彦さんの著書『混沌―無と有のあいだ―』を読み解いている。

ここでは、旧約聖書の天地創造譚においての神の言葉こそが「混沌から有を生み出した」のであるという。
無からではなく、混沌、カオス。
何も無い状態ではなく何もかもが存在していて、整理整頓がされていない状態。誰も認知できていない状態から、「光あれ(ALL)」と言うことで、光と光以外の闇が存在するようになる。
言葉が与えられてこそ、それらは存在することになる。

そして、詩人はそのような力を手に入れれるように努力しているのだ。

なんとも壮大な話である。

だけど、私も詩を書く端くれとしてそれを目標に描いていかなければならないと思うのだ。

安易さに頼るな。
本当にそうだな。
オリジナリティを獲得しなければならない。


そして、同時期にこういう言葉を言われた。

空の写真はあまり撮らないほうがいい。綺麗でわかりやすくて素敵だから、撮りたくなっちゃうけど、それにばっか頼ってたら良くない。ある種の逃げになる。

この方は、私の大学の写真学科の教授である。
先日、フィルムカメラをくださったフォロワーさんの恩師だと言うことで紹介してもらった。
そのころはまだよく分かってなかったのだが、後々「え?めっちゃすごい人やん……」となった。
二宮和也主演映画『浅田家』。
あれの原作本?の出版を手がけたのがこの方だったのだ。
え、そんなすごい方だったのですか……。
ビックリ……という感じだったのですが、そんな方に言われたのがこの言葉だった。

私もそう思う。
空は強い。
美しくて、壮大で、人間の共通言語だ。

私は写真のことを何も知らない。
写真詩集なるものを作ったのは、『小説』のコンテンツとしての弱さを克服したかったからだ。
小説は読む人を選ぶ。いや、選べない。
読まない人には絶対に届かないのが、小説だ。

能動的でなければ内容はさっぱり分からない。

絵は見ただけでわかる。
パッと見で好きか嫌いかがわかる。
ビジュアルが華やかなものには、そういうわかりやすさがある。

だけど、小説はパッと見はただの文字だ。
文字の羅列でしかない。頭を使って理解しようとしなければ、しかも最後まで読まなければその作品の善し悪しは分からない。(文体が嫌いとか設定が……とかは別にして)

だから、私はもっと手に取りやすく、分かりやすくするために写真を利用した。
写真をやってる人にとっては悪い人間だろう。

写真は分かりやすい。
写真としての魅力と共に、文章をのせれば少しだけでも文章の良さを気づいてくれるのではないか。

そういう思いで作りはじめた。

どんな写真を置くか。

そこで思ったのが、『空』だった。
空はやっぱり美しい。
見る人それぞれの空がある。
こんな空の下でこんなことを思った、こんなことがあったという経験がそれそれにある。

それに頼ることにした。

その思いを背景に、文章をのせる。
そうすればきっと、深みをつけることが出来るだろう。

この方法は間違っていなかったと思う。

空は全人類の共通言語なのだ。

そして、日本人にとってはより深いものなんだ。

ここにも書いてあるように、日本人は夕焼けに対して信仰を持ってきた。
夕焼けに惹かれすぎる人は、西方浄土の住人なの。

私は、神様は毎日空で芸術作品を作っていて、それを観測させるために人間を作り出したのではないか、と考えている。
多分そう。
私たちは、空を見て綺麗だ、と言うだけの存在なんだ。なら、毎日それをしていればほかのことどれだけ失敗しても大丈夫だよね。

そう思うと少し気が楽にならないか?

空は強い。

写真詩集において、空以外の写真を多くすると文字を入れにくくなる。
色が多くなり、文字が目立たなくなる。
その線引きが難しい。

空自体は意味を持たない。
そこに当たり前にあるもので、無感情に動いていく。
だからこそ、写真詩では詩によって写真に、空に、意味を持たせることが可能なんだ。
それぞれにとっての持つ意味と写真詩による意味が重なりやすい。
受け取り手が自由に解釈できるのが空なんだ。

 今、私は空以外を撮ろうとしている。
頂いたフィルムカメラはモノクロだからこそ、空は色を奪われるから面白みが無くなる。

自宅と大学の往復しかしていないが、毎日持ち歩いて撮っている。
まず1本撮りきって、現像して見なきゃどんなふうに映っているのか一切分からないから頑張っている。

写真とは何なのだろう。
写真個体の面白さとはなんだろう。

私は今まで詩をのせるためだけの写真を撮ってきた。

でも、その写真と写真だけのために撮られた写真は違う。演出の仕方も変わってくる。

高画質で撮れることがどれだけ良い事なんだろう。
ただ、そこにあるだけのものを撮って面白いのだろうか。
そんなことをカメラをやってる人の写真を見て思う。

都会の当たり前にあるもの、建造物は当然美しいものとして作り出されている。
それをそのまま撮るだけでは、写真は写真としての意味を持たないのではないか。
何十年、何百年後になれば資料として美しい建造物の写真として価値が出てくるかもしれないが、今はないだろう。

それを本当に美しいと思ったのか?

それとも技術の部分だけなのか?

撮る方法やレタッチの部分で技術があるのだろうか、それならまあ、うん、いいけどさ……、そこには『人』が居ない気がするんだ。

コピーライトの授業でよく言われることとして、こんなことが挙げられる。

ものを描くのではなく、その商品や企画を通しての『人』を描く

「この商品はここがいいですよ、ここがほかと違いますよ」ではなく、「使った人がその違いを感じ、それによってどうなったのかを描く」という事だ。
もしくは、それがなかった時に苦しかったり不便だった人のことを書く。

人がなければ、商品は買われない。
そもそも、人間がいなければ商品なんて必要ない。

人間のためにあるものだ。

その人に影響を与えるためには、そこには『人』を描かなければならない。
当事者の気持ちを理解することが大事なのだ。

なるほどと思った。本当にそうだと思う。
ただこれはこう凄いより、自分事にできる気がする。

写真もそうなのではないか?

そこで生きる人達の変動のある日常の一瞬を切り取るのが写真だろう。
完全に作り物の絵ではない。
長いドキュメントでもない。
ただ、たまたまそこにいただけの人の一瞬を切り取ったその写真は、その人の生きる道、生きてきた道とも繋がっている。

きっとそうだ。

私はまだ何も分かっていない。

まだ風景しか撮れていない。
私が日々美しいと思ったものを撮っている。
どうしようも無く、目を奪われてしまうものを切り取っているだけだ。
そこには人はあまり写っていないだろう。

だけど、そこには『私』がいる。
私の日常がある。

それは、詩をつけなくても私を示してくれるだろう。表現してくれているだろう。

空の写真は撮り続けるつもりだ。
空の下で、私たち人間は生きている。全てを包み込んでくれているのは空だから、人間を描くにあたって切り離せるものでは無い。

だけど、それは詩を書く時のためだ。

写真を撮る人としては、もっと深く幅を出すべきだろう。

安易に頼らない。

意識して頼る。

私はまだ何も知らない。
これからも考え続けよう。
このまま止まるには、まだ早い。

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