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記事『瘤取り爺さんに出てくる鬼は何であるか』

【大学の課題】
「鬼に瘤取らるる事」(『宇治拾遺物語』)に登場する鬼を分析しなさい。
800字程度。

(徒然のコーナー)
 2020年7月に書いたレポートです。昨日は節分でした。鬼とはなんであるか、という講義の中には当然「節分」の話もあり、鬼とは西方浄土からやってくるものもいるなどさまざまな種類、解釈の鬼がいるようです。
 最近では『鬼滅の刃』が大流行りしていますね。しっかりと見てはいないのですが、あの鬼は「うつる」そうですね。感染症に近い?むしろここまで流行ったのはコロナという感染症を恐れるこころから来てたりするのかなと思うと少し面白いですね。あとは、もともと鬼にはそんな要素がないはずなので、西洋の文化であるゾンビの要素と解釈できるのではないでしょうか。
 なんて、徒然と適当なことを書いてみました。西方浄土についてのお話はまた別の記事で過去に書いたものを載せますのでよかったらどうぞ。
 今の日本人の心の中には、鬼を恐怖する心はあるのでしょうか。怪異は消えてなくなるものではないけれど、姿を変えています。今どきの子供たちは「トイレの花子さん」を怖がるのかな。今の小学校は建て替わって洋式トイレになっていたりしそうだなぁ。そのとき、恐怖を投影する場所はどこになるのだろう。いや、今の子供もトイレを恐怖しているような気がする。そんな話はまた後日。小説を上げるよりこういうレポートのほうが人気があることを知って少しへこむような、でもレポート120%の力で頑張っていたのでよかったような、不思議な心情のとかげさんでした。

 以下が本題になります。短く簡潔にっ!

 鬼に瘤とらるることにおいての鬼は、山神様のような存在なのではないか、と考えたい。山をつかさどる存在であり、少し不思議な力を持つ。
そこで「猩々」という存在を上げたい。オランウータンのような見た目であるが、人に似た顔と足を持ち、赤い髪をしている。そして、大酒飲みである。人語を解し群れを作って移動するそうだ。この特徴は本文中の鬼の描写と多く重なるだろう。
「もののけ姫」では、猩々は山の神様のような存在であった。
仏教の中国古典で出てくる存在であるようだが、日本にもこのような存在がいると信じられていたのなら、民話の中に鬼などの概念と混ざって出てきてもおかしくないだろう。
また、人間と同じように上下関係などの概念があることから、人間に近いものなのではないか。その点で考えると獄卒などの可能性もある。けれど、彼らがわざわざ山の奥で宴会をするか、と言う点について疑問が残る。
そして、異界の悪い鬼とは違いそうだ。隣の翁の目線からしたら悪いもののように見えるが、約束を守った(鬼には翁二人の違いがないため)翁に約束通りに瘤を返す点は、素直な心の持ち主なのではないか。その中でも瘤を福のものと認識していることから、神側の考え方の持ち主なのだと考える。
ナマハゲや節分の鬼のようにある時期だけにやってくるという存在でもないのではないか。「鬼に瘤~」においての境界線は、「夜」であり木の洞穴であり、「大雨」により、より境界線が薄くなったと考えられる。故に、異界であるが同じ土地に住む住人のように考える。
両義性からの観点では、人間目線では善悪両方であるが、鬼の目線では矛盾していない。よって、悪意を持って何かをして、良い気持ちを持って人々に与える存在でもないのだろう。そう考えると、限りなく「自然」に近いもののように思える。

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