自分を見下してしまうひと、いつも相手を見下しているひと、いつも何か被害を受けてしまっているひと

交流分析の理論の中に、「人生態度」という考え方がある。
人生(日常)の生き方のスタンスとして、4つのスタンス(ポジション)があると考える。

第1のポジション:I am OK, You are OK. (私もOK、周り・みんなもOK)
第2のポジション:I am NOT OK, You are OK. (私はダメだけど、みんなはOK)
第3のポジション:I am OK, You are NOT OK. (私はOKだが、他はダメ)
第4のポジション:I am NOT OK, You are NOT OK. (私もダメだし周囲もダメ、八方ふさがりですべてダメ、人生どん底)
※OK…肯定の意。つまり、善とか、受け容れるとか認めるという意味合い。
※ダメ…NOT OKは、否定の意。悪、無価値、権利がない、容認されるべきではない…などなどというような意味合い。

これは別に人のタイプ診断ではない。
ヒトが自分をどの立場に置くかは流動的であり、人間関係やその場面によって変わる場合もある。
第2ポジションと第3ポジションをひっきりなしに行き来するような場合もあるし、ほとんど全ての場合で第3ポジションだったり、第4ポジションだったりするような人もいる(無論第2や第1も)。
しかし、だいたい偏りがある場合は多いという。
また、第1ポジションは自分のことも他者のこともすべて肯定、つまりすべてあるがまま受け容れている状態であり、交流分析においては自律性・自立性が整っている、目指したいポジションである。
ちなみに第1ポジションを体験している人は、全否定の第4ポジションと流動するようなことは、まずない、ともいえるかもしれない。

もうひとつ、交流分析には、対等でない人間関係(特に病的依存の関わる関係)では、3つの「役割」があり、それぞれのひとはその3役割を頻繁に切り替えるから、相手をあるがまま(つまり狭い役割という枠の中に閉じ込めずに)受け容れることができず、対等なかかわりをもつことができないと言われる。
その3つの役割とは簡単に紹介すると、
・加害者
・犠牲者
・救済者
(カープマンの三角形と言われる構図)

先程の「人生態度」におけるポジションと関連させると、
第2ポジション(I- You+)は犠牲者ポジションや救済者ポジションに陥りやすい(イコールとは限らない)
第3ポジション(I+ You-)は加害者ポジションや救済者ポジションに嵌りやすい(同上)
第4ポジション(I- You-)は犠牲者ポジションになれるところばかり探し身を置く傾向(とはいえやはりイコールとは限らないが)

とも言うことができる。


しかし、交流分析はあくまで「心理学(行動科学)」理論であるため、
その説明というのは、「ひとの表面上に見える態度」を説明しているものである。
「自己肯定感が高い・低い」というような言葉も現代日本において流行っているが、これも非常に難しい。なぜなら、これは高いか低いか極端に反対のように聞こえて、実はフタを開ければ全く同じ状態だからである。
例えばなのだが、世間一般で心理などにあまり関係・関心のない人たちの言う「自己肯定感の高い人」は、心理セラピストの私から見ると、大抵「自己肯定感が他より非常に低い」。世間一般の言う「自己肯定感が低く」見える人というのは、心理セラピストの私から見ると、「自己肯定感がやたらと高く自信の塊で自分の思い込みしか信じない」ようにすら見える。
ただ、どちらも、
「自分を等身大に見ることができていない(自己不一致)」
「自分も周りも受け容れることができない」
「自律性・自立性の欠如」
の状態であることは共通点である。

そして、わかりやすく簡潔な言い方をしてもこの3点があるからこそ、
交流分析の人生態度で言うところの
第2~第4ポジションの状態が起こる。

しかし、先程言ったように
交流分析はあくまで「心理学(行動科学)」理論であるため、
その説明というのは、「ひとの表面上に見える態度」を説明しているものである
から、先程の自己肯定感の話と同じように、IがマイナスかYouがマイナスなのかというところは、あまり関係がない。表面的にそう見える場合があるよといういわば「わかりやすい例え」での表現でそう説明しているだけの話で、実際の中身は、その表現におさまる話ではないのである。
私の言い方で言えば、I‐であろうがYou‐であろうがI- You-であろうが、つまり第2、第3、第4ポジションの3ポジションは「同じ」「全てI- You-」であるから、表面上そのように見える現象が起こっている。
つまり、本当に簡単に言えば、I+ You+かI- You-か、生き方がどちらか2種類なのである。


さて、今回の記事は少し小難しい説明から入ってしまったが、交流分析の紹介や説明をしたいわけではないので、これ以上、深い説明はここではしない。
しかし、最初にこういう説明を挙げておいた方が以下に出すような例えがわかりやすくなる。つまり、交流分析というのは「人が生きやすくなるための考え方を説明しやすくなる」「人と人との交流を円滑になるようにする」ためのものであるので、人間関係を円滑にしたかったり問題を解消したかったり交流分析に興味のあるかた、交流分析や他心理学をご自身の生き方や日常に活かすような学び方をしたいかたは、以下のような講座を行っているのでぜひご覧ください。


さて。実はお話したかったことはここから。
自己卑下(自己卑下、だけではなく、交流分析ではディスカウントという言い方をする状態全般)をしながら、実は(現代日本で流行っている言い方を借りれば)「マウントをとっている」という状態、非常に良く見受けられます。

例えば、例えばですが…
「私、馬鹿だから…」などとすぐに自分を卑下するような表現をするひと、
「自分にはどうせ何もわからないんだ」「私にはわからない、知らない」というように「自分はできない」表現アピールを自覚有り無し関係なくすることで、思考停止に陥るひと(交流分析では「無能状態」と言います)

…というような、自己卑下をするひと、良くいますよね。
あなたも、自分もついそうなってしまう、という部分、あるかもしれません。

これは、一見、交流分析的に言えば「I- You+」に見えます。
私がダメなんだ。という態度。

しかし、私は交流分析の受講者さんにはよく言うのですが…
「自分へのディスカウントは、相手へのディスカウント」です。
(実はディスカウントの項を学ぶと、表面上で一部をディスカウントしている場合ここからここまで全部ディスカウントしていますよ、というディスカウントの表というものが出てくるので、よくわかるのですが。)

本人にその気がなくても、被害者ポジションというのは加害者ポジションが裏に潜んでいます(逆もそうなのですが)。
本当に例えば、例えばの例を出すならば、

「自分は馬鹿だからよくわからない/そう言われても知らないよ良くわからないよ/どうせわからないわからない、自分にはわからない、どうせ自分は何もできないんだバカなんだ!」というような反応は、
(…これは本人の自覚とは関係なく、ですよ)
実は裏に
=「あなたの説明では私はわからないんだぞ」「あなたはこんなバカで無能な私と関わっているような存在なんだぞ、さあどうする」
が、同時にあります。

「そんな!」と思う方、いるかもしれません。
そしてそう思う方は、恐らく「被害者ポジション」として無能状態に入ることが多いかたでしょう。とはいえこれ自体当たり前のように幼い頃からやってきている場合が多いので、自分では気づきにくいものですが…。
しかし、「どうしても」そういうことになってしまうのです。
というより、あなたの潜在意識(にインプットされたプログラム)では、寧ろそれこそが狙いなのです。
自己卑下をする+裏で相手を加害している自分→それを潜在的に気付いているから尚更自分自身への攻撃(罪悪感)になり、潜在意識にどんどん罪悪感などの自虐や負の感覚が蓄積されていく


実は、「ディスカウント(というマウント)」をしているひとは、つまり表面的には自己卑下をしているから、「そんな自己卑下する必要ないよ、そうやって自分をいじめるのはやめなさい」と示唆されても、なかなか自己卑下をとっていくことができません。

が、実は、「自分を見下すのをやめよう」と同時に、「相手にマウントをとるのをやめよう」と思うと、…というより、そう本当に「思う」ことは実はできないので、
つまりは「この人のことは尊敬尊重したい」と思う心の変化によって、この人自身のディスカウント癖(マウント癖)がなくなっていく場合があります。

私は以前にも、相手への信頼・誠意というのは自分自身への信頼・誠意(によるもの)だと記事に書いたことがありましたが、例えば「このセラピスト(講師)、尊敬できる。私がどんな状態でも、私が私だから、私を私として向き合ってくれている。だから、この人に失礼な態度をとるのはやめよう」という内的変容が起こると、同時に「だから、自分を見失ったりちょっとわからなかったくらいでわからないできない自分は無能だなどと喚いたり拗ねたりするのは、やめよう」という内的変容も起こるのです。
自分を見下すことをやめれば、必然的に相手や周囲のことも見下さなくなりますし、相手のことを見下すことをやめれば、いつの間にか自分を見下すこともやめ、対等に相手と笑い合っている自分がいるのです。

ちなみに上記リンクした記事で、「いや、自分のことなんか信頼できないけれど、あの人のことだけは信じられる」と思う人も多いかもしれません。
ただ、それは、実は「相手への信頼」ではなく、「この人は自分の人生を何とかコントロールしてくれる。自分は自分のことが信じられないから、自分のことなんかどうでもいいけど、この人に自分の人生どうにかして(勝手に持っていって)もらおう」という、「自分への不信、自分自身へのネグレクト」の裏返しが表面に「信頼しているような態度」として見える状態になって出てきているものです。
縋る、感覚は、苦しいです。縋る、と、信じる、は、違うものです。

結局のところ相手への信頼・誠実さというのは、自分を見下さない(今の自分を等身大にまっすぐ前を向いて生きる)自分に対する信頼・誠実なのです。


…自分の知らないあいだに相手や周囲を見下したくないひと、
人間関係、なんだかよくわからないけれどちぐはぐしているひと、
自分がめまぐるしくて疲れる、生きづらいひと、
いつも何か誰かに加害されていると感じているひと、
いつも何か誰かに加害していると感じてしまっているひと、
いつも誰か何かが私をやたら助けようとして来る、と思うひと、
いつも誰か何かをやたら助けている、助けてしまう、助けたいと思っているひと、
自分が信じられないひと、
一部のひとしか信じられないひと、
誰も信じられないひと、

良かったら一度、お話かけください。
気が、楽になりますよ。
あなたが望むならば、そこから、本当に自由で解放された、心地良い支え合い補い合いの世界に飛び立つことも、できますよ。


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