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私生活フォークと政治的距離ーー岡林信康から吉田拓郎、井上陽水、そしてユーミンへ(「音楽に政治を持ち込むな」を再考する)

本論稿は、大学生である私が学士論文として執筆したものの第二章にあたる。本論は、私の個人的な政治と音楽に関する興味に端を発している。「音楽に政治を持ち込むな」という言葉が発されることがあるらしい。どこの誰が発しているものなのか、正直わからない。しかし、TwitterのTL上においては論争になっていたと記憶する。そのような言葉が仮に発されていなくても、そのように思っているどこかの誰かがいるのだろうと、想像されているように思われる。私はこの「音楽に政治を持ち込むな」という言葉、あるいはそのように想像してしまう人々が存在し、論争となっているこの状況に対し、そのような状況が当たり前ではなく、そうではない状況もあり得たことを示したい。第1章においては政治とフォークソングという音楽の強い結びつきについて示した。今回においては、その結びつきが崩れていくような状況を吉田拓郎、井上陽水、松任谷(荒井)由美に関する資料を引き、どのようなものであったのか、確認していきたい。どうかお付き合い願いたい。

第2章 音楽と政治と若者の結びつきが絶たれていく時代


第1節 私生活フォークとはどのようなものか


第1章においては、1960年代末のフォークソングに関して、音楽と政治と若者がどのように結びついていたのかに関して確認した。ここからは60年代末に結びついていた音楽(フォークソング)と政治と若者が1970年代に入り分離していく過程、もしくは分離している状況がどのようなものであったのかについて見ていきたい。まず60年代末の音楽、政治、若者が結びついた状態から半ば延長線上にありつつも、政治が他の二つから分離していく、もしくは分離する過程を追う足がかかりとして、一つ資料を引用したい。以下は社会学者の上野千鶴子、文学博士であり歴史研究者である成田龍一、日本文学者の小森陽一の1960年代、70年代についての鼎談の一部であり、1968年以降の文化史について語られる場面における小森の発言である。

小森「吉田拓郎、井上陽水、小椋佳、それに松任谷由美(笑)。この「反革命四人組」が垂れ流した、あの徹底して自己完結した私生活主義的な歌の世界が、一気に社会全体を覆ったじゃないですか。「傘がない」(一九七二年)とか「中央フリーウェイ」(七六年)とか。雪崩を打って若者たちが非政治化していくようなきっかけに、逆に一九六八年が使われたような感じがしないわけではないのです」(成田編,2009:28-29)

岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、小森陽一、成田龍一編著 2009「ガイドマップ60・70年代」『戦後日本スタディーズ②』p9-45紀伊國屋書店

この資料で「反革命四人組」と表現されている吉田拓郎、井上陽水、小椋佳、松任谷由美はどのような音楽を展開したのだろうか。この反革命という表現から、60年代末のフォークゲリラのような体制の変革を求め、音楽に社会や民衆を変える力があると期待できるような状況から、政治が若者と音楽から分離しているようなシーンが作られ、その象徴のようなものに四人のアーティストがなっていたことは想像できる。この四人は「自己完結した私生活主義の歌の世界」を展開した人物とされているのである。これを踏まえ、若者と音楽という関係から政治が分離していく状態を描く。まず第1章で取り上げたフォークソングの系譜にある吉田拓郎、井上陽水について、彼らの音楽を形容する「四畳半フォーク」あるいは「私生活フォーク」と呼ばれるジャンルについて見ていく。さらに松任谷(荒井)由実などに代表される「ニューミュージック」と呼ばれたジャンルの登場と流行、そして松任谷(荒井)由美の音楽と若者リスナーがどのような関係にあったのか、また若者リスナー自身がどのように自分とそれらの音楽を関係づけていたのか、雑誌の資料などを引用し、描き出していきたい。
まず「私生活フォーク」あるいは「四畳半フォーク」(以下、私生活フォークとする)とは一体何であるのか、その特徴について見ていく。60年代末のフォークゲリラのような運動と結びついていたプロテストを志向するフォークソングと何が違うのか。私生活フォークに関して、社会学者の小川博司は以下のように述べる。

「元々は、タテマエ的な言葉にしがみついている既成の権威を、人間としてのホンネにより打ち破ろうとした、異議申し立ての運動も、しだいにタテマエとホンネが乖離し、なし崩し的に敗北、タテマエ的な言葉への不信感が残った。この時期はシラケの時代ともいわれた。シラケとは、タテマエへの徹底的な不信感からタテマエ的な言葉、理念を表すような言葉に距離を置き、自らの私的世界に閉じこもる状態といえる。タテマエ的な言葉を排し、ホンネを語る私生活フォーク、叙情派フォーク、四畳半フォークが支持された根底には、青年層における全般的な言葉への不信感があった。サウンド重視のニューミュージックは、言葉への不信をより徹底させたものといえる。」(小川博司,1988:53)

小川博司 1988 『音楽する社会』 勁草書房

小川は、フォークゲリラをはじめとする60年代末の若者のさまざまな「異議申し立ての運動」が掲げたような「タテマエ的な言葉、理念を表すような言葉」に距離を置き、自らの私的世界に閉じこもる「シラケ」の状態があると指摘する。そして言葉への不信感が若者から私生活フォーク、叙情派フォーク、四畳半フォーク(以下まとめて私生活フォークとする)が支持されたとしている。ここから伺える私生活フォークの特徴は、まず理念的な言葉、建前的な言葉を掲げプロテストするあり方から距離をとり、自らの私的世界に閉じこもっていることだ。私生活フォークのこの特徴からは、もうフォークゲリラが語るような、フォークソングを通じて政治や社会を変えられるようなムーブメントを作り上げられるという期待はなくなっている。政治と結びついているようなフォークソングのあり方が難しくなっていることが想定できるだろう。さらに私生活フォークの特徴を掴むべく、吉田拓郎について見ていく。小川は吉田拓郎を以下のように捉える。

「一九七二年、吉田拓郎の〈結婚しようよ〉がヒットチャートに入った。吉田拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作の歌を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いことだけを歌うというマイペースの姿勢に変わりはないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした」(小川博司,1988:49)

小川博司 1988 『音楽する社会』 勁草書房

この資料からは、吉田拓郎の音楽、ひいては私生活フォークの二つの特徴が見てとれる。第一に60年代末のアングラフォークと対比した時に、「社会問題をテーマ」にせず、「自分の身近な私生活」を歌うという姿勢を持っていたことだ。第二に、アングラフォークの延長線上に位置付けられることだ。ギター(エレキギターではない)に合わせて歌う演奏のスタイル、そして「自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌う」という姿勢はアングラフォークをはじめとするフォークソングを引き継いでいるものである。この二つの特徴からは、私生活フォークが少し上の世代のアングラフォークの半ば延長線上にありつつ、プロテストをせず、政治的メッセージをわかりやすく全面的に表明いないという点で、異なったものであることがわかるのではないだろうか。次にこの資料だけでなく、他の吉田拓郎を批評した資料からも、彼の音楽、私生活フォークの特徴を確かめたい。社会学者であり、ポピュラーミュージックを研究する南田勝也は雑誌に以下のような文を寄せている。

「拓郎は、上の世代がフォークの理念に縛られてできなかったことを誇示してみせたのである。意識的に音楽から政治を排除しようとしたこともそうで、政治などもう問わないというモチーフは、『ともだち』『親切』『祭りのあと』『おきざりにした悲しみは』などの初期作品に繰り返し表出されている。ただし彼はフォークを否定したが、実際に否定したものは『社会告発のために歌う』ことであり、『自分の思ったことを自分の言葉で歌う』というそもそものフォークの理念は遵守しようとしていた。ある意味で、シンガーソングライターのより純化されたイメージを提示したともいえる。しかしそこにともなっていたのは、フォークのアングラ気質と政治の要素を『全否定』する役回りだった 」

『別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評44』、2006年9月、p 53、宝島社

この資料においては吉田拓郎を「フォークのアングラ気質と政治の要素を『全否定』する役回りだった」として、明確に60年代末のアングラフォークとは異なった政治的ではないフォークシンガーとして位置付けている。彼はフォークソングの系譜にありながらも、フォークゲリラ、アングラフォークに見られるような「社会告発のために歌う」ことを全面的に出さない人物であるとされる。二つの資料を経て、彼が政治や社会問題から距離を置こうとする特徴を持っている、少なくとも批評家やリスナーからそのような特徴を持つ人物と思われていたと言えるだろう。またアングラフォークが反商業主義的であったのに対し、売れて何が悪いというような商業主義に迎合する態度を持っていた。

第2節 政治との距離がある「私生活フォーク」


次に私生活フォークとして分類され、第2章冒頭で「反革命四人組」として名前が挙げられていた井上陽水に関しての資料からも、私生活フォークの特徴、さらには若者が支持するような音楽が、政治的、社会的問題、既存のプロテストのあり方から距離をとっていく状況があったこと、それがどのような状況だったと想定できるのかを見ていきたい。フォークミュージシャンである小室等、漫画家である黒鉄ヒロシ、ギタリストである星勝の、「傘がない」について語る鼎談の一部で、小室が井上陽水の「傘がない」について述べる資料である。

「『傘がない』が発表されたのが1972年。当時は学生運動が盛んな時期で、フォークもプロテスト(反抗)ソングと言われていました。そんな時代の中で、陽水さんは『傘がない』を歌った。それは誰もが熱に浮かされたように体制に反抗している様に対しての、陽水さんなりのプロテストだったんじゃないでしょうか。プロテストへのプロテストというか。親のスネをかじっておきながら上から目線で平和なんて謳っている若者に、『本当にそれでいいの?』と 」

『週刊現代』第55巻37号2013年10月26日発売、p154 講談社

井上陽水についても、60年代末のフォークゲリラのようなあり方から距離をとっている人物として認識されていることがわかる。政治や社会のあり方に抵抗を試みる反体制的な運動と関連していたプロテストソングのあり方に、疑問を投げかける歌を作る存在であったと彼はみなされている。またここで発言している小室等は60年代末から、70年代頭にかけて活動し、URCレコードから楽曲を発表していたフォークグループ六文銭のリーダーであるがその発言の内容は興味深い。「熱に浮かされたように体制に反抗している様」「親のスネをかじっておきながら上から目線で平和なんて謳っている若者」という表現からは、集会においては反戦を歌い平和を語っていたフォークゲリラの若者に対しての冷めたような眼差しが向けられている、また少なくとも好感を抱いていないことがわかるのではないだろうか。ここからは彼のプロテスト至上主義だったフォークソング、アングラフォークに携わりながらも、学生運動のような政治的運動とは距離を置いていることが少なからず伺える。ではここで話題に上がっている「傘がない」とはいかなる曲なのか。歌詞を見ていきたい。

〈傘がない〉
作詞・作曲:井上陽水 発表年:1972年

都会では 自殺する若者が増えている/今朝来た新聞の片隅に書いていた/だけども問題は今日の雨 傘がない

※行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ/君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ※
つめたい雨が 今日は心に浸みる/君の事以外は考えられなくなる/それはいい事だろう?

テレビでは 我が国の将来の問題を/誰かが深刻な顔をして しゃべってる
/だけども 問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ/君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ/つめたい雨が 僕の目の中に降る/君の事以外は何も見えなくなる/それはいい事だろう?

(※くり返し)

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ/君の家に行かなくちゃ 雨の中を/行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ/雨にぬれて行かなくちゃ 傘がない

この曲の歌詞からは1960年代末から70年代中頃にかけての若者の政治への感覚の変化が読み取れるのではないだろうか。まずは60年代末の岡林信康らを代表するアングラフォーク、あるいはフォークゲリラで歌われていたようなフォークソングと比較した際に、直接的なプロテストをするような表現は見られない。首相や機動隊を揶揄することもなければ、差別、反戦について歌うこともなく、そこに権力や体制に抗おうという内容は明確には直接的には表現されていない。むしろ、「自殺する若者が増えている」、「我が国の将来の問題」といった60年代末であれば、プロテストの対象であったような社会問題を引き合いに出しながら、「だけども問題は今日の雨」であり、「君」に会いに行くに際して、「傘がない」ことなのだと歌われる。さらには「君の事以外は考えられなくなる」「君の事以外は何も見えなくなる」ことが「いい事だろう?」と歌われ、社会問題から距離をとって、君、あるいは自分と君という関係に引きこもるような態度が示されていると読み取ることができる。このように「傘がない」の歌詞からは、私的な生活と社会問題を比べ、私的な生活の重視が歌われている、政治的、社会的問題、あるいは体制にプロテストすることから距離をとっていると解釈することができる。しかしながら、ここで留意したいのは、この解釈はただの一つの解釈であるということだ。この歌詞には他にも解釈の仕方がありうる。例えば、歌詞には明確に言葉として表れていないが、「自殺する若者が増えている」という社会問題を受けて、「今日の雨」により、「君」が自殺を決意しないように迎えに行く、という政治の話題をより身近な生活というものに引き寄せてシチュエーションを提示した歌とも解釈できうるし、この曲を聴き、他の解釈をする者もいるかもしれない。ではここで「傘がない」、ひいては井上陽水を、政治から距離を置こうと、プロテストや社会問題から遠ざかっているものとして位置付けるのは完全に不適切なのだろうか?ここで考えるべきは二点ある。
一つ目は、この歌詞の解釈が当時を生きた人々からどのようにされているのか、傘がないがどのように語られ、批評されているのかという点である。政治的、社会的問題、プロテストから距離をとっている曲だと人々に解釈され、語られているのであれば、「傘がない」が発表された当時においては、プロテストソングとして「傘がない」を解釈できないような状況、つまり若者と音楽が、政治から距離を取ろうと試みていた状況が存在していたと推測でき、かつ井上陽水、「傘がない」を政治と距離を置いた人物として位置付けることが妥当とできるのではないだろうか。フォークシンガーであり、井上陽水とツアーを回ることあったなぎら健壱は以下のように語る。

「一緒に仕事をしていた当時は、井上陽水の歌に対して理解できなかった部分があった。何度も触れているように、当時のフォークはアングラ系に代表されるように、社会抗議を主体とするもの、それに対する己れの意見を主張するフォークが主流であった。しかし陽水のフォークは、叙情的で自分の日常的感覚、生活感情を詞にしたものが大半であった。よくいえば洗練されているが、悪くいえば軽い感じに見られた。〈傘がない〉にしても、
テレビでは 我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をして しゃべっている
だけども 問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ
と歌われているが、当時の唄としてはこうした詞を歌うことは驚きであった。他のフォークシンガーならこう創ったに違いない。
我国は将来に問題を抱えている
君に逢う約束があるが
我々にはやらなくてはならないことがある
今日の雨 傘がないが 傘がなくとも
我々は行かなくちゃならない
濡れるなど取るに足らないことではないか
ところが陽水は、自殺する若者や我国の問題より、君に逢いに行くための傘がないと嘆く。混沌としている今の世の中に対し、何か唄で訴えなければならない。それで何かが変わるとまでは思ってはいないにせよ、どこかでその種を撒くことはできる。何らかの形で若者の心の中に入っていける。そうした姿勢を持っていたのがフォークであったのだが、陽水は叙情的に自己の内面を詞に託しそれを歌うことを形とした、正に“私”であるのではなかろうか」(なぎら,1999:289-290)

なぎら健壱 1999 『日本フォーク私的大全』 筑摩書房

なぎらの記述からは、井上陽水の「傘がない」はアングラフォークのような社会抗議を行うフォークソングとは異なるものであり、それがプロテストをやめ、「私」を歌うものであったと評価している。

雑誌の鼎談では以下のように語られていたのであった。
「『傘がない』が発表されたのが1972年。当時は学生運動が盛んな時期で、フォークもプロテスト(反抗)ソングと言われていました。そんな時代の中で、陽水さんは『傘がない』を歌った。それは誰もが熱に浮かされたように体制に反抗している様に対しての、陽水さんなりのプロテストだったんじゃないでしょうか。プロテストへのプロテストというか。親のスネをかじっておきながら上から目線で平和なんて謳っている若者に、『本当にそれでいいの?』と」

『週刊現代』第55巻37号2013年10月26日発売、p154 講談社

同じ鼎談にて、黒鉄はこのように発言している。

「あの曲は、自殺だとか、いろんな辛気臭いことが起きている当時の世間のことと、女の子に会いに行くための傘がない自分のことが入れ子のようになって歌われている。自分自身の、ごく個人的な世界を歌うような歌詞が斬新で、衝撃的でした 」

『週刊現代』第55巻37号2013年10月26日発売、p154 講談社

またこの鼎談の途中に挟まれる雑誌の小見出しのようなものは以下のようになっている。

「世の中で起きている社会問題なんかより君に会いに行く傘がないことが問題だ。70年代、ひとりの若者が叫んだ悲痛なメッセージは、語り継がれる名曲となった 」

『週刊現代』第55巻37号2013年10月26日発売、p155 講談社

これらの記述からは、「傘がない」が60年代末のアングラフォークのようなプロテストソングへのプロテストを試みたものとされている。すなわち「熱に浮かされたように体制に反抗している様」、政治とフォークソングが結びついているような状況に対抗し、「本当にそれでいいの?」と疑問を投げかけた歌として解釈されている。ここからは少なくとも「傘がない」が既存の政治、社会的問題に真っ向から向き合うプロテストのあり方から距離を取ろうとした歌であると、解釈したくなるような時代状況、雰囲気があったことがわかるのではないだろうか。また「ごく個人的な世界を歌うような歌詞が斬新で、衝撃的でした」という部分からは、「傘がない」が私生活フォークと呼ばれるような「僕」と「君」に関しての個人的な世界に引きこもっているという解釈が垣間見えるのではないだろうか。ここではこの曲はプロテストソングとは解釈されず、個人的世界について歌った歌として解釈したくなるような状況があったのではないだろうか。また「斬新で、衝撃的」という評価からは「個人的な世界」を歌うフォークソングのあり方が目新しいもので、それまでのものにはないものであったことがわかる。これらから井上陽水、「傘がない」を政治と距離を置いた歌として位置付けても良いのではないだろうか。
考えるべき二つ目は、解釈の幅が広くなっている歌詞の表現、言葉選びの問題である。60年代末のプロテストフォークにおいて、表現はより直接的であった。前掲した、岡林信康の「くそくらえ節」では政治家など体制に対して、明確に批判がなされていた。そこに解釈の余地はほとんどないように思われる。例えば「ある日政府のお偉方/新聞記者に発表した/正義と自由を守るため/戦争しなくちゃならないと/嘘こくなこの野郎/こきゃがったなこの野郎/おまはん等がもうけるために/わてらを殺すのケ」という歌詞をプロテストソングであるという仕方以外で解釈することができるだろうか?「傘がない」は解釈の幅があるような歌詞となっているのである。また仮に「傘がない」が前述したようなプロテストソングとして解釈できるとしよう。なぜプロテストを行うのに、直接的な表現を避け、政治から距離を置いているとも解釈できるような歌詞表現、言葉選びになっているのだろうか。この問題からは、フォークソングが、仮にプロテストを行うとしても、直接的な表現ではできないというような状況が生まれていたということが推測できるのではないだろうか?「傘がない」をプロテストソングのように解釈できるとして、そこには直接的な表現でプロテストをせず、政治、社会的問題、プロテストから距離をとっているとも解釈できなくてはならない、解釈に幅を持たせざるを得ないような状況、少なくとも、政治、社会的問題、プロテストから距離をとっているとも解釈できなければ、曲が支持されないと思ってしまうような感覚、雰囲気があったのではないだろうか。これらを踏まえると、「傘がない」は、フォークゲリラが盛んに行われた1960年代末にと比較して、政治が音楽と若者から分離していっていることの傍証になるのではないだろうか。
私生活フォークの特筆すべき特徴を以下のようにまとめる。第一に政治的、社会的な問題から距離を置こうとする、または体制にプロテストするようなあり方からは距離を置こうとしていること。第二に私生活について語り、個人的な世界に閉じこもろうとする志向を持っていることである。第三には、アングラフォークのシンガーが反商業主義的であったのに対し、商業主義に迎合していることである。そして、この私生活フォークが人気を博した時期には、政治と若者と音楽が分離した状況があったように思われる。それはフォークゲリラの時代とは異なり、反体制を掲げる若者とフォークソングが結びつかなくなっている状況があるように思われる。フォークソングがプロテストをやめ、政治から距離を置くような状況がそこにはあったと考えられる。

第3節 ニューミュージックと政治的距離


ここまで私生活フォークと呼ばれたジャンルについて概観し、その特徴を掴むとともに、1960年代末から70年代初頭にかけて、政治と結びついていた、若者と音楽の関係性が変化し、政治から距離が取られつつあることを把握してきた。ここからは、その分離した状況について、70年代中頃から80年代にかけても確認したい。そのためここではニューミュージックと呼ばれる音楽、その代表とも言える1971年にデビューの松任谷(荒井)由美と、そのリスナー達の感覚について見ていきたい。松任谷(荒井)由美は現在、松任谷由美の名義で活動しているが、婚約し、姓が変わる以前は荒井由美名義で活動をしており、数々の楽曲を発表している。ここでは両名義での音楽キャリアについて言及するので、両名義の活動を包括した存在として彼女のことをファンからの呼称であるユーミンと以下する。ではまずニューミュージックとは一体どのようなものであろうか?

「ニューミュージックとは、歌謡曲でも、プロテストソングでも、私生活フォークでもない日本製のポピュラー音楽のことだった。歌謡曲のように企業のペースで作られる音楽でもなく、かといってプロテストソングのように反商業主義に立つ音楽でもなく、プロテストソングのように社会問題についてのメッセージを持つ音楽でもなく、私生活フォークのように過去をじめじめと追憶する音楽でもないような音楽を指す名称であった。ニューミュージックは、ほとんどが自作自演であり、徹底的な私生活主義で現在を重視する『中流意識』に見合うものだった」(小川博司,1988:51)

小川博司 1988 『音楽する社会』 勁草書房

ニューミュージックとは、この論文でここまで扱ってきたアングラフォークや私生活フォオークなどのフォークソング、そして企業主導の歌謡曲では「ない」という否定形で定義される音楽であることがわかる。ニューミュージックとは、否定形で定義されることからもわかるようにこれまでの音楽にはないような目新しい特徴を持つ音楽である。また前述した資料に「サウンド重視のニューミュージックは、言葉への不信をより徹底させたものといえる」とあるようにアングラフォークなどとは異なり、歌詞のメッセージ性により特徴づけられるのではなく、歌ではなく楽器の演奏、あるいは歌詞にしても言葉の譜割に注力している音楽である。
ここからはニューミュージックの特徴を踏まえ、ニューミュージックを代表するユーミンが政治とは距離を置いている存在として捉えられていることに焦点を置きながら、ユーミンの曲、またリスナーの語りを見ていきたい。そしてユーミンの曲の特徴、リスナーの曲の捉え方から、1960年代末とは異なった音楽と若者の関係性、若者のあり方について記述していく。まずユーミンとはどのような歌手として認識されているのか。エッセイストである酒井順子は以下のようにユーミンを語る。

「何かを訴えるのでもなく、伝えるのでもなく、ぶつけるのでもなく、シチュエーションをそのまま提示するのが、ユーミンの歌」(酒井,2013 :13)

酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社

「ユーミンは『瞬間』を歌にする人です。ストーリーやイデオロギーや感情そのものを歌にしていくのではなく、感覚であれ、具体的な物事であれ、一瞬『あ』と思ったこと、一瞬強力に光ったもの、その瞬間を鋭い刃物で切りとり、すくい上げる」
(酒井,2013 :12)

酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社

このようにユーミンはシチュエーションを提示する、「瞬間」を描くと語られている。「ストーリーやイデオロギーや感情そのものを歌にしていくのではなく」と言われているが、逆にイデオロギーや感情を歌にしていたのは、プロテストを行うようなアングラフォークであると捉えられるだろう。ユーミンの曲はそうした政治性を持つ歌ではないと捉えられていたことがわかる。「何かを訴えるのでもなく、伝えるのでもなく」という部分からも、そうしたプロテスト、政治性から離れたところにある曲として認識されていることがわかる。ユーミンの音楽は政治性を持たないという点について、ユーミンの自殺した女性に関しての1979年発表の曲「ツバメのように」に関する「ルージュの伝言」に記されたユーミン本人の語りとそれに対する酒井の評価を引用する。

「すごく消極的なきれいな死、消極的がきれいってことじゃないんだけど、それが飛び降りだと思うわけ。飛び降りってね、一番軽いっていうか、立ってて風が強くて高いところで、足元がゆらゆらしてるところって飛べる気がしたりするんだと思う。もう吸い込まれるように死ぬっていうか。そういうのでね、私が書いたのでは「ツバメのように」っていう曲の詞がすごく気に入ってるの」(松任谷,1984:83)

松任谷由実 1984 『ルージュの伝言』 角川書店

これを踏まえて酒井は以下のように述べている。

「若い女、それも『あまり美人じゃない』女の飛び降り自殺というのは、陰惨な事件です。同じ題材を使用してフォークを作ったとしたら、重くて暗い、どんよりとした歌になることでしょう。社会を、そして女を死に追いやった男性を糾弾するような空気をまとったかもしれません。対してユーミンは、自死にも『美しいか否か』という観点を持ち込みました。『すごく消極的なきれいな死』『それが飛び降りだと思うわけ』としているのです」(酒井,2013:72-73)

酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社

「飛び降り自殺すら、切り取り方によっては詩的なのです。ユーミンは、『湿度を抜く』ということに対して天才的才能を持っています。人生における最もウェットな出来事である『死』、それも自死という重すぎる状況からも、湿度と重みを取り去り、一幅の絵のような歌として仕上げることができる」(酒井,2013:73-74)

酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社

この文章からは、プロテストをするフォークソングのあり方とユーミンに距離があると分析し、むしろフォークソングの暗さを感じさせないユーミンの歌詞のあり方を評価するような態度が見受けられる。自殺を社会問題としてプロテストすべきことというよりも、美しく演出するものとしてユーミンは描いたという評価をしている。アングラフォークであればプロテストの対象とし、井上陽水があくまでも社会問題のように歌詞に引き合いに出した「自殺」に対する捉え方の変化が見られるのではないだろうか。ユーミンは政治と分離しているものとして捉えられており、当時を生き、ユーミンの熱心なリスナーであった酒井の語り口からは、この曲をプロテストソングとして受け取る姿勢、解釈する姿勢は見受けられない。プロテストソングとして解釈することができるような曲であるのだが。ここからは当時のリスナーがユーミンの曲をプロテストとしては引き受けないような状況、60年代末と比較し若者と音楽が政治から分離しているような状況が存在したことが推論される。ユーミンの曲においても政治のあり方、社会問題、体制に対するプロテストの要素は見いだせなくなっている。

第二章においては、吉田拓郎、井上陽水、松任谷(荒井)由美について考察し、岡林信康を代表とするようなアングラフォーク、関西フォークと比較し、彼らが政治と距離を置いていることを示した。次回はより政治と離れていく音楽と若者に関する実践、松任谷(荒井)由美を巡って新しい生き方が当時生まれつつあったことを見ていきたい。それは現在の若者とされる我々の感覚が当たり前ではないものを示すものである。現代では良いとは言えないイメージを伴った「消費」をして自己表現する生き方について記述していく。

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