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「音楽に政治を持ち込むな」を再考する

はじめに

この文章は大学生である私の卒業論文であり、私の個人的な政治と音楽に関する興味に端を発している。「音楽に政治を持ち込むな」という言葉が発されることがあるらしい。どこの誰が発しているものなのか、正直わからない。しかし、TwitterのTL上においては論争になっていたと記憶する。そのような言葉が仮に発されていなくても、そのように思っているどこかの誰かがいるのだろうと、想像されているように思われる。私はこの「音楽に政治を持ち込むな」という言葉、あるいはそのように想像してしまう人々が存在し、論争となっているこの状況に対し、そのような状況が当たり前ではなく、そうではない状況もあり得たことを示したい。この論考においては60年代末の日本のフォークソングシーン、新宿西口フォークゲリラというムーブメントを事例として扱う。本論稿は全体の「第1章」にあたる。少し長いが一読いただければ幸いだ。第1章では「1960年代末の若者文化としての音楽が若者の政治的な実践とどのように結びついているのか」という問いに取り組む。1960年代末のフォークソングシーンがいかなるものであったか確認し、その時期のフォークソングと学生運動が結びついた事例である「新宿西口フォークゲリラ」運動について記述する。そしてそこで音楽と若者と政治がどのように結びついていたのか描き出す。そして今現在の、「音楽に政治が持ち込まれる」言い換えると「音楽と政治が結びつくこと」に忌避感がある、なんとなく気持ち悪さがある状況が他のあり方でもありうることを提示したい。

第1章 音楽と政治と若者が結びついた状況


ここでは日本において1960年代に興隆したフォークソングを取り上げ、その特徴と性質、さらに日本のフォークソングシーンがどのようなものであったかを簡単に見ていく。まず、アメリカで流行したフォークソングの特徴を概観し、日本に受容される過程を見る。そして日本で受容されたフォークソングがいかなるものか記述する。さまざまなフォークソングのスタイルが存在する中で、どのような流れで政治と若者と結びつくようなアングラフォークというフォークソングが登場し、それがどのような特徴を持っていたのか、またどのように特有なものとして若者に受け止められていたのか記述する。そしてアングラフォークとそれを受容した若者、フォークゲリラというある種の社会運動が結びついていたのかを描き出す。またフォークゲリラがいかなる場であったかについても記述する。

第1節 1960年代日本のフォークソングシーン


まず60年代日本のフォークソングの輸入元であるアメリカのフォークソングシーンについて簡単にではあるが見ていきたい。1960年代初頭のアメリカにおいて、フォークソングは人種差別反対を掲げる公民権運動、労働運動の盛り上がりを背景として、社会に対して抗議をする「プロテストソング」、あるいは時事歌「トピカルソング」として受容され、ブームを巻き起こしていた。この時代のアメリカのフォークソングムーブメントは、土着の民謡を聴き、採集した上で、自分達でアレンジを行い、今自分がいる社会の民衆の感情、考えを表明できるものに歌詞を作り変え、新しい歌を作り上げる運動という側面があった。そのようにして作られた社会に対して働きかけるメッセージ性の強い歌詞を持つ歌を、ピート・シーが、ジョーン・バエズ、ボブ・ディランなどに代表されるフォークシンガーはギター一本の演奏に乗せて歌い上げ、フォークソングは若者を中心に受容されていった。
ここからはフォークシンガーであるなぎら健壱の『日本フォーク私的大全』(なぎら,1999:8-128)と音楽評論家小川真一の『フォークソングが教えてくれた』(小川,2020:30-85)を参考に日本の60年代のフォークソングシーンについて記述する。日本においても、前述したようなアメリカでのフォークソングシーンの影響を受け、社会や政治へのプロテストという文脈ではないが、フォークソングは受容され、次第にブームとなっていった。最初は主に東京の大学生を中心に、アメリカで流行していたブラザーズ・フォー、キングストン・トリオ、ピーター、ポール&マリーなどの曲をコピーすることが行われ始めた。ただしここで挙げられているアーティストは純粋なフォークソングの畑から出てきたものではなく、当時のアメリカにおけるフォークソングブームに便乗するような形で作られたグループであり、前述したようなプロテストの側面が強いものではなかった。そうしたグループの楽曲をコピーすることから始まり、次第にコピーではない日本オリジナルのフォークソングが作られ始めると、カレッジ・フォーク(あるいはキャンパス・フォーク)という名称を得て、大学生を中心とした一部の界隈でコンサートが開かれるようになっていく。そのような流れを大手のレコード会社が汲み、レコードを出すようになると、マイク真木の「バラが咲いた」などがヒットし、大学生などの一部界隈だけでなく、世間一般にフォークソングなるものが知られるようになり、第一次フォークブームが到来する。こうした時期のフォークソング、カレッジフォークの特徴を挙げると、歌い手自身が作詞したものではなく、アメリカの公民権運動などのムーブメントと共鳴し、興隆していたものとは異なり、メッセージ性が全面的に出ているわけではなく、何かを訴えるプロテストの意味合いが表面上見られないものであった。
1967年になると、今までのカレッジフォークとは異なった「アングラ」と呼ばれるフォークソングのあり方が、それまでのカレッジフォークを超えて、世間からも評価を受ける。ザ・フォーク・クルセイダーズというグループが「帰って来たヨッパライ」という曲でレコード売上二百万枚もの売上を打ち立てるのである。「帰って来たヨッパライ」は磁気式のテープレコーダーの再生速度を変化させ、ボーカルの声色を変え、ザ・ビートルズ「グッド・デイ・サンシャイン」、ベートーヴェン「エリーゼのために」、オッフェンバック「天国と地獄」などの曲の一部が引用し、多重録音を行っており、今までのフォークソングとは一風変わっているという意味でアングラという評価を受けた(なおこの楽曲は当時の日本の社会問題である交通戦争を皮肉ったなどと言われているが、表面上プロテストの要素が強く出ている作品ではなかったことには留意したい)。「この帰って来たヨッパライ」のヒットに伴い、60年代末からはカレッジフォークではない文字通りのアンダーグラウンドな雰囲気を持つような今までとは異なるフォークソングに注目が集まるようになる。

第2節 政治性を帯びたフォークソング――アングラフォークの興隆


ザ・フォーク・クルセイダーズの「帰って来たヨッパライ」のヒットをきっかけとして、既存のフォークソングと比較して一風変わった、アングラフォークあるいは関西フォークと呼ばれる勢力(以下アングラフォークとする)が次第に支持されるようになっていく。前述した東京の大学生を中心としたプロテスト色のないカレッジフォークのカウンターのような形で、関西を中心に活動していたアングラフォーク勢力は台頭し、後にこの論文で大きく取り上げるフォークゲリラというムーブメントへ結びついていく。ここでアングラフォークの特徴を最初に大まかにまとめておくと、まずなによりもメッセージ性の強い詞を歌い、プロテスト志向があったこと、そして反商業主義的で、反体制の雰囲気を持ち合わせていたことである。アングラフォークを代表するような人物には、岡林信康、高田渡、高石友也、友部正人、加川良などが挙げられる。ここで彼らアングラフォークの音楽のあり方がどのようなものとして捉えられていたかより明確に掴むため、特徴的な楽曲の発表の仕方について記述しておく。アングラフォークの楽曲は、社会風刺を行い、政治的なメッセージ性が強いとされ、「レコードによる社会的影響、特に心身共に未成熟な青少年に与える影響の重大性に鑑みレコード倫理の確立と公正な自主管理を目的」とするレコード制作基準倫理委員会の規制により、大手のレコード会社からは発表できず、一般のレコード店では販売できないとされるものだった。なお前述したザ・フォーク・クルセイダーズも「イムジン河」という曲が発売禁止となっている。プロテストを試みる楽曲は当時社会的に不適切とされていたとも考えられる。そこでアングラフォークのミュージシャン達はURC(アングラ・レコード・クラブ)という会員制で、会費2000円を払うと定期的に自主制作されたレコードが配布されるという仕組みの中で、最初レコードを発表していた。(後に会員数が、増加し、その反響の大きさから、1969年の8月にはURCレコードが設立され、一般販売が行われるようになる)当初このような会員制で発表せざるを得なかった彼らの社会風刺、政治性の強いメッセージソングとはいかなるものであったのか?より具体的に理解するため以下、フォークの神様と称され、後に部落解放運動に飛び込み、勢力的に活動した岡林信康の曲から特徴を掴もうと思う。ラジオ、テレビで放送禁止に指定された「くそくらえ節」(1969年発表)の歌詞を以下に引用する。

くそくらえ節
作詞作曲:岡林信康 発表年1969年
ある日学校の先生が/生徒の前で説教した/テストで百点取らへんと/立派な人にはなれまへん/くそくらえったら死んじまえ/くそくらえったら死んじまえ/この世で一番偉いのは電子計算機
(中略)
ある日政治家シェンシェイが/でっかい面してこう言った/君達真面目に勉強して/アタシのようになるんだよ/くそくらえったら死んじまえ/くそくらえったら死んじまえ/税金チョロマカして2号を持つなど/オイラもやりたいなア
(中略)
ある日政府のお偉方/新聞記者に発表した/正義と自由を守るため/戦争しなくちゃならないと/嘘こくなこの野郎/こきゃがったなこの野郎/おまはん等がもうけるために/わてらを殺すのケ
ある日ソ連のお偉方/チェコの問題でこう言った/仲間の危機を救うため/侵入したのよ許してね/嘘こくなこの野郎/こきゃがったなこの野郎/チェコには何にも言わないけれども/
気持ちはよく分かる
ある日アメリカのお偉方/チェコの問題でこう言った/そら見たことか恐ろしい/共産主義はあきまへんで/嘘こくなこの野郎/こきゃがったなこの野郎/そういう事はベトナム侵略/やめてからぬかしやがれ
(中略)
ある日シワクチャじいちゃんが/若者呼んでこう言った/天皇陛下は神様じゃ/お前ら態度がなっちょらん/嘘こくなこの野郎/こきゃがったなこの野郎/天皇様もトイレに入れば/カミにたよってる

この曲は歌詞において学校教育に対する反発、あるいは教師に対する反発、そして政治家、そして天皇と天皇を崇拝する年の離れた上の世代のあり方に非難が直接的な表現で行われ、そのあり方が本当に正しいものなのか疑問を呈していると考えられ、プロテストが試みられていると捉えることができるだろう。また民主主義改革を進めるチェコスロバキアに対する、ソ連の進軍、アメリカが行っていたベトナム戦争といった時事に言及するトピカルソングでもある。この時期にアングラフォークと呼ばれたフォークソングは、このように歌詞に政治的、社会的悪に対する抗議を含んでおり、具体的にはベトナム戦争を代表とする戦争への反対、学校教育等における管理への反対などの内容を持つプロテストソングとして特徴づけられる。また作詞がプロの作家により作られたものではなく、演奏する本人により行われ、それまで当たり前ではなかった「本人が思っていることを、本人の言葉でメッセージにして伝える」という形式が成り立っていることも特徴である。歌詞を現在の地点から読み、特徴を捉えたが、当時の人々にとってはどのようなものとされていたのか。こうしたプロテスト志向の強いアングラフォークは既存のフォークソングと比べ、どのような特徴を持つものとして当時の人々に受け止められていたのか見ていきたい。アングラフォークを歌ったとされる岡林信康、高田渡、高石友也などが出演した1969年3月のコンサート「フォークのつどい」に感銘を受けたフォークソング好きで曲のコピーに勤しむ高校生であったなぎらの言葉を引用する。

「それまでのフォークのコンサートといえば、アメリカのフォークのコピーか、どちらかというときれいごとの唄のオンパレードであったが、そうした場所で聴かれる唄にはドロ臭さの欠片もありはしなかった。しかしその夜のコンサートでは英語の詞は聴かれず、日本語での数々の唄は、ドロ臭さの固まりそのものであった。(中略)それまでやってきたものは、確かにメロディがよくて歌声がきれい、ハーモニーが巧みである、というところは確かにあったが、詞が直接何かを訴えてくるなどということはまずありえなかった。唄をなぞるそうした楽しさはあったにしても、そこに何かが欠けていた。その欠けていたものが、自分の気持ちを素直に唄に乗せて伝えるということだったのである。そこには、誰かに伝えたいメッセージがある。メッセージがすべて社会抗議歌ではないにしても、今までの唄には何か訴えてくるものが希薄だったのは確かであった。」(なぎら,1999: 24-25)
なぎら健壱 1999 『日本フォーク私的大全』 筑摩書房


この記述からは、アングラフォークが、当時のリスナーからも既存のフォークソングと比較して日本語で歌われる詞で「何かを訴えかける」メッセージ性を持つことが、特徴的なものとして受け止められていることがわかる。また「メッセージがすべて社会抗議歌ではないにしても」という部分からは、メッセージの中でも特に社会抗議、プロテストを行うメッセージが含まれていたことが示唆されている。また新聞ではアングラフォークは以下のように記述される。

「アングラ・フォークと呼ばれるこうした歌は、テレビの音楽番組ではほとんど取り上げられない。若い人を集めた『フォーク集会』や深夜ラジオなどで聞かれるだけ。『帰ってきたヨッパライ』のように地下から浮かび上がるのはごくまれだ。この理由を、ある放送局のディレクターは『歌の多くが社会の矛盾をついた内容であったりすることから、番組にのせにくい。また曲を作り、歌う人の大半が、テレビを中心の現在の歌の世界の商業主義に反発、テレビに出ることを拒否していることも大きい』と説明する。アングラ・フォークは『反東京的』なふん囲気を持っている。作詞、作曲者歌手の多くが、関西人で、とりすました、オーケストラ付きの『東京的な歌』に、詞も曲も楽器も自分の手になる、いわば『手づくりの歌』で対抗しようとする。既製品、権威への反発、皮肉が若い人たちに受けた理由といえそう 」
「いいね!きらい!アングラ・フォーク」『朝日新聞』、1969年7月15日朝刊、p 11

ここでは社会の矛盾をつくというプロテストの側面、権威への反発という反体制志向、反商業主義がある歌として人々に受け止められていたことがわかる。以上の二つの引用のように、アングラフォークは、その歌詞の内容だけでなく、周囲からの受け止められ方からも当時メッセージ性を持ち、特にプロテストソング、反体制のメッセージが込められたものとして人々に受け止められていたといえる。まとめるとアングラフォークは、作詞が演奏する本人により行われ、メッセージ、特に政治や社会のあり方に抗議するプロテスト志向のフォークソングであり、反権威、反体制、反商業主義的な性質を帯びていることとなるだろう。フォークソングの中でもこのような特徴を持つような日本製のアングラフォークが、60年代末の学生運動などに代表される反体制運動の流れ、そして若者、特に政治運動を志す若者に結びついていき、政治、音楽、若者が結びついている具体的な事例――新宿西口フォークゲリラとして現れることとなっていく。

第3節 新宿フォークゲリラとは何か?


ここからはフォークゲリラ、あるいは新宿西口フォークゲリラとは一体どのようなものであったのかについて概観し、若者と政治と音楽が結びついている状況がいかなるものであったのかを見ていきたい。フォークゲリラについて記述するにあたりフォークゲリラを先導した当事者であった吉岡忍、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子による『フォークゲリラとは何者か』(1970:10-118)、フォークゲリラの当事者である大木(旧姓山本)晴子、大木茂へのインタビュー「フォークゲリラは終わらない」『1969新宿西口広場』(大木,大木,2014:34-119)、を参考とした。フォークゲリラは大阪、梅田の地下街で始まり、各所で行われたものであるが、ここでは最も大規模なムーブメントとなった新宿西口広場で行われていたフォークゲリラを念頭におきながら、その実態を掴めるように記述していく。またここで新宿西口フォークゲリラについて概説する。新宿西口フォークゲリラは1968年の冬頃から新宿西口広場で反戦を掲げフォークソングを歌いカンパを求める若者が出現したことから始まる。そして明確に記録されている範囲では、1969年の2月28日から、主に毎週土曜日、新宿西口広場にて開催され、1969年の7月18日に新宿西口広場の標識が「地下通路」とされるまで続いた。(道路交通法により、「通路」では無届の集会、デモを規制することができた)この間最初10名程度であったとされる集会の参加者は、3月の中頃には300人を超え、若者を中心として多種多様な人々を巻き込んでいき、6月には約7000人にまで膨れ上がり、機動隊との衝突、フォークゲリラの中心メンバー、集会参加者の逮捕などを経験していく。まずフォークゲリラ(あるいはフォークゲリラ集会)がどのような場であったのか、あるいは何が行われていたのかについて掴むため引用をする。

「この集会は聴衆参加型のムーブメントであり、フォークゲリラはギターをかき鳴らし、ハンドマイクで唄を先導するような方法、つまりシングアウトの形を取ったのである。ガリ版刷りの歌詞カードを配り(カンパと言ってお金はとられた)、唄に合わせて大合唱するという歌唱法はそれまで歌声喫茶にあった形と同じようなものであったが、それは似て非なるものと言えよう」 (なぎら,2014:131 -132)
なぎら健壱 2014 「フォークゲリラがいた」『1969新宿西口地下広場』p126-136 新宿書房
「まず集会で歌って、人が集まるとそのあとでみんなが小さい輪になって話あうのを目的にしていました。討論の小さな輪こそが集会の最終目的だった。歌が人集めの手段だと言われれば、まさにそのとおりかもしれません。でも実際討論の輪はすばらしかった」(大木晴子,2014:65)
鈴木一誌編、大木晴子、大木茂「[インタビュー]フォークゲリラは終わらない」『1969新宿西口地下広場』新宿書房
「西口広場で歌いながら、わたしは頭のなかで、こんなに広いし、ここを通るわたしと同年齢の女性、勤め帰りのサラリーマン、学生、ビラを配ってもなかなか読んでもらえない人びとに、フォークソングで訴えてみよう。戦争について、社会の矛盾についていっしょに考えていけるような気がしたのです」(山本,1970:111)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民

以上の資料を参考にフォークゲリラについて雑多にまとめると、街頭など公共の場(例えば新宿西口広場)において、戦争でのゲリラ襲撃のように突然アコースティックギターなどの楽器の演奏とともにフォークソングを歌い、聴衆を集め、歌詞カードを配り、集まった聴衆と共に歌い、社会の矛盾に関して訴えかけ、討論をする場を設けるという試みであったといえるだろう。隊列を成して街を歩く、座り込む、場合によっては暴力を振るうなどの60年代末にありがちな実力行使で世の中に訴えかけるのではなく、フォークソングという音楽を用い、非暴力で訴えかけを試みたデモのようなものであったと考えられる(ただしその試みは最終的には、機動隊との衝突を起こし、暴力を含むものとなってしまっている)。集会の中心となってギターを演奏し、フォークソングを演奏し、合間にアジテーションを行う者達のことをフォークゲリラと呼ぶ場合もあれば、聴衆が集まってフォークソングを歌い、討論している場自体をフォークゲリラ、あるいはフォークゲリラ集会と呼ぶこともあった。ではどのような人々がこの集会を先導し、どのような人々が参加していたのだろうか?新宿西口フォークゲリラについて記述した資料を参考にする。

「東京フォーク・ゲリラは、その当時、(東京ベ平連の)事務所に出入りしていた人から始まり、徐々に、ただのフォーク・ソングの好きな人、歌を道具と考え反戦運動をしたい人、何か面白いことをしたい人、家出人、高校ドロップ・アウト組、大学から追い出された元全共闘という風にふえていった」
「学生もいたが、サラリーマンも多かった」(室,1972:276)
室謙二 1972「東京フォークゲリラはいま?」『人間として』9号p274-282 筑摩書房
「聴衆の中にはギターを持参する者も現れ、若者だけではなく、勤め人や主婦までもが足を止め始めたのである」(なぎら,2014:131)
なぎら健壱 2014 「フォークゲリラがいた」『1969新宿西口地下広場』p126-136 新宿書房

ギターの演奏や歌詞カード、ビラの配布などを担いフォークゲリラ集会の中心にいたのは、ベトナム戦争反対を掲げ、デモやアメリカ人脱走兵の援助などを行なっていた「ベトナムに平和を!市民連合」(以下ベ平連)の若者、そしてベ平連に属してなくとも反体制を志向する若者であった。また集会においてシングアウト、討論に参加していたのは資料の通り、ベ平連関係者、若者にとどまらず、サラリーマン、主婦など多様なものであったことがわかる。新宿西口フォークゲリラの中心として有名な人物をここに数名挙げる。伊津信之介、大木(旧姓山本)晴子、小黒弘、堀田卓。彼らは集会において、ギターなどの楽器を持ち、アジテーションと共にフォークソングを歌い、フォークゲリラの中心や前衛などと言われ、最終的に伊津、大木、小黒、堀田は逮捕されるに至っている。
新宿西口のフォークゲリラ集会に集った人々は、フォークソングの中でも、カレッジフォークではなく、前述したようなアングラフォーク、自作のフォークソング、アメリカの公民権運動で歌われていた曲に日本語の詩を載せて、あるいは英語の詩のまま歌っていたとされる。具体的にどのような曲が歌われていたのか、フォークゲリラを先導した若者たちによって編集された「プロテストソング選集」『フォークゲリラとは何者か』(吉岡編:203-260)から数曲を一部抜粋、引用し、その特徴を見ていく。また曲を手がかりにしつつ、他の資料も同時に検討し、フォークゲリラ集会がいかなる場であったか、さらに場合によってはアングラフォークとの結びつきについて記述する。なお以下で取り上げる曲の数々はレコードなどの媒体で発表されたものではなく新宿西口フォークゲリラ集会にてよく歌われたとされるものを歌集として後にまとめたものであるので発表年に関しては記載しない。
最初に紹介する二つの曲では、フォークゲリラ集会の政治的、社会的なテーマを扱う姿勢が表れているものを扱い、検討する。そこから集会の特徴をより丁寧に掴む。

〈プレイボーイ プレイガール〉
作曲:ボブディラン 作詞:中山容

プレイボーイ プレイガール/勝手なまねするな 勝手なまねするな/プレイボーイ プレイガール/勝手なまねするな いまかぎり終わりだぜ

ベトナム特需の工員さん/ノルマなんか放り出せ ノルマなんか放り出せ/ベトナム特需の工員さん/ノルマなんか放り出せ 今限り放り出せ

役人あがりの代議士さん/勝手なまねするな 勝手なまねするな/役人あがりの代議士さん/勝手なまねするな いまかぎり終わりだぜ
(中略)
憲法違反の自衛隊/勝手なまねするな 勝手なまねするな/憲法違反の自衛隊/勝手なまねするな いまかぎり終わりだぜ

世論を無視する佐藤政府/勝手なまねするな 勝手なまねするな/世論を無視する佐藤政府/勝手なまねするな いまかぎり終わりだぜ

ベトナム特需の社長さん/ボロもうけするな ボロもうけするな/ベトナム特需の社長さん/ボロもうけするな いまかぎり終わりだぜ

海水汚染の放射能/佐世保に出たぞ 佐世保に出たぞ/海水汚染の放射能 横須賀にも出たぞ/出てからじゃおそいんだぞ

日本の空だよアメリカさん/ジェット機飛ばすな ジェット機飛ばすな/日本の空だよ アメリカさん/ジェット機飛ばすな おれたちもうゴメンだぜ
(中略)
戦争協力インチキ国鉄/ガソリン運ぶな 火薬を運ぶな 弾薬運ぶな/戦争協力インチキ国鉄/ガソリン運ぶな 平和を運ぼうよ
(中略)
インチキ首相の佐藤の栄ちゃん/勝手なまねするな 勝手なまねするな/インチキ首相の栄ちゃん/勝手なまねするな いまかぎり終わりだぜ

特権ぶとりの日本通運/勝手なまねするな 勝手なまねするな/特権ぶとりの日本通運/勝手なまねするな いまかぎり終わりだぜ

どうして僕たち人間どうし/区別するの 差別するの 憎しみあうの/どうして僕たち人間どうし/戦争するの いまかぎり やめようよ
(中略)
西口広場は市民の広場だ/われらに返せ さっそく返せ われらに返せ/西口広場は市民の広場だ/われらに返せよ いますぐに返せよ

この歌聞いてる 市民のみなさん/ぼくらとうたおう ともに語ろう/平和の歌の 歌うたおう/この歌聞いてる 市民のみなさん/ぼくらと語ろう平和のその日まで

この曲にはフォークゲリラ集会の志向や特徴が如実に表れている。まずベトナム戦争反対する反戦集会としての性質を持っていること。次にベトナム戦争に主体的に参加しているアメリカとの関係性の再考を目指し、1970年に自動で延長されようとしていた日米安全保障条約を破棄しようとしない政治のあり方を問題提起している。また国会議員、日本通運、国鉄など権力を持つ人々、組織のあり方にも批判を加え、さらに放射能、差別(背景には部落解放運動)など当時の時事的な話題に対し、メッセージを発信し、プロテストを行っている。そして全体を通じて反体制的なメッセージを発信していることが伺える。

〈エーちゃんのバラード〉
作詞・作曲:南大阪ベ平連

エーチャンの家にジェット機がおちたら/エーチャンはそのまま/死んでしまうだろう/あの世できっと後悔するだろう/安保条約やめときゃよかったと

ニクソンの家に泥棒が入ったよ/だけど泥棒は居直るだろう/お前もベトナムで/強盗をやっているぜ/お前と俺は同罪さ

あなたの家に/ファントムがおちたら/誰に文句を言えばいいのか/アメリカ軍か/日本の政府か/どちらもあてにはならないよ

当時の首相である佐藤栄作の政治のあり方を主に、日米安全保障条約という点から直接的に批判がなされている。当時のフォークゲリラが争点とし、話し合いの場を設けるにあたり、1970年に再延長するか決定する日米安全保障条約が挙げられていたことがわかる。ここからはフォークゲリラが反体制的な勢力であったことがわかる。またこの曲で特筆すべき点として、既存の曲の歌詞を改変して作られたものではなく、南大阪ベ平連がフォークゲリラの活動に際し、作成したものであるという点も挙げておく。
ここまでで、フォークゲリラ集会が反体制、プロテスト志向であったということは掴むことができた。次の曲を通じて、フォークゲリラとアングラフォークの結びつき、フォークゲリラ活動をすることが逮捕の可能性と常に隣り合わせであったことを読み取る。

〈機動隊ブルース〉
作詞:大川昭一 作曲:高石友也 
おいで皆さんきいとくれ/ボクは悲しい機動隊/砂をかむよな味気ない/ボクの話をきいとくれ
朝は眠いのに起こされて/戦闘服着て大学へ/強制授業が終わったら/無意識に学生なぐっていたよ
昼は悲しや公園へ/行けばデモ隊いっぱいで/女にもてない機動隊/やけのやんぱち石なげた

政府をみごと守るため/恋しちゃならない機動隊/プレイボーイの写真見て/一人さびしくくらすのよ
(中略)
満身創痍の機動隊/ヘルメットを持ってった機動隊/10年もやってる機動隊/どこがいいのか機動隊
大事な青春むだにして/ジュラルミンの楯に身を託し/まるで河原の枯ススキ/こんなおいらに誰がした/結論でございます
70年を前にして/こんな歌ばっかり歌っていると/きっと来年は歌ってるだろう/私服にパクられブタ箱ブルースを/フロクもございます
おれの職場は公安課/証拠写真を整理すりゃ/出てくる出てくる息子の顔が/これじゃ仕事になりません

この曲の原作は、前節で紹介したアングラフォークの担い手として名前の上がる高石友也の「受験生ブルース」という曲である。原曲は60年代当時の世相である受験戦争を皮肉るようなものであった。その歌詞の「受験生」の部分を「機動隊」に変え、揶揄する内容に改変したものとなっている。このことから、フォークゲリラ集会において、アングラフォークの影響、結びつきがあったことを指摘したい。またフォークゲリラ編「プロテストソング選集」にアングラフォークの曲が掲載されている。このことから新宿西口フォークゲリラにおいては、アングラフォークとされるフォークソングが歌われていた、少なくともフォークゲリラ集会で歌われていてもおかしくない曲だと考えられていたことが推測される。具体的には高田渡の「自衛隊に入ろう」、岡林信康「友よ」、「くそくらえ節」、「ガイコツの唄」中川五郎「主婦のブルース」が掲載されている。フォークゲリラの歌姫と称され中心となり活躍した大木晴子はフォークゲリラのレパートリーについて「岡林信康や高石友也のものだとか、大阪で歌われていた歌はずいぶん取りこんだ。」(大木,2014:57)とインタビュー対談記事で発言している。このことからも、「プロテストソング選集」に記載された、いくつかのアングラフォークの曲は、どの曲かは定かではないが歌われていたと考えられ、フォークゲリラとアングラフォークは結びつきがあったといえるだろう。またこの曲の背景として、新宿西口フォークゲリラが機動隊と衝突する可能性のある集会になっていたことをここで示しておきたい。機動隊、警察とフォークゲリラの関係に関して、フォークゲリラの活動を行うことが、逮捕の可能性と常に隣り合わせであったことを以下の資料から見る。

「『ゲリラに行こう!』なんて、もしあなたがかんがえついちゃったら、もうそのときからあなたは、留置場で三泊四日くらさなきゃならないと思わなければならないような、そんな世の中なんだ、いまは」
「三泊四日、そこでくらすのが大変ということだけじゃなくて、まるで捕まるのがあたりまえのようなことになったこと、そのことが大変だということなんだ」(吉岡編,1970:36)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

フォークゲリラに行くことで、逮捕され留置所で過ごすような可能性が想定されている。街頭で歌う集会が警察から危険視されるような状況がそこにはあったと考えられる。また実際に警察、機動隊とフォークゲリラは切っても切れないような関係であったことがわかる。「新宿西口広場の記録」『フォークゲリラとは何者か』(吉岡編,1970:13〜35)によれば、5月17日のフォークゲリラにおいては、集会の三日前から「制服警官が三人位いずつ組になってトランシーバー片手に闊歩している。やたらと職務質問するそうである」とあり、さらにギターによる演奏が始まると「ものの一分も歌わないうちに、制服警官の一団が、人垣を強引にかきわけて入ってくる。ギターを弾く二人の両手をとって、有無を言わさず連れ出そうとする」、そして人が集まり合唱を始めると「乱闘服の機動隊があらわれて、集まった人々を蹴散らそうとする」とある。6月2日においても機動隊による「ガス銃が火をふいた。ガス弾はギターの上に、炸裂し、警棒はゲリラの上へとふりおろされていった」、「機動隊はふたたび攻撃をしてきた。われわれの西口広場は完全にかれら青い制服に、じゅうりんされた」とある。また6月28日に関しても「土曜の夜ついに爆発」という見出しの記事の中で

「若ものの群衆は機動隊と衝突を繰り返しながら西口改札口を自由に出入りし、機動隊は地下広場にガス銃を撃ちこんで規制、学生ら六十四人が公務執行妨害などの疑いで逮捕された 」
「土曜の夜ついに爆発」朝日新聞』1969年6月29日,朝刊,p15

とある。このようにフォークゲリラ集会は警察、機動隊から目をつけられ、衝突が起こりうる状態であり、上述した日以外も、目立った衝突はせずとも、警察、機動隊からの監視、規制が存在したと考えられる。

次の曲はフォークゲリラ集会における、プロテストの要素が表面的には見受けられないものの、頻繁に歌われ、彼らにとって重要であった曲を紹介する。


〈友よ〉
作詞作曲:岡林信康 発表年:1969年

友よ 夜明け前の闇の中で/友よ 戦いの炎をもやせ/夜明けは近い 夜明けは近い/友よ この闇の向こうには/友よ 輝くあしたがある※

友よ 君の涙 君の汗が/友よ むくわれるその日がくる/夜明けは近い 夜明けは近い/友よ この闇の向こうには/友よ 輝くあしたがある

友よ のぼりくる朝日の中で/友よ 喜びをわかちあおう/夜明けは近い 夜明けは近い/友よ この闇の向こうには/友よ 輝くあしたがある

この「友よ」という曲は、フォークゲリラにおいて、シングアウトの曲として持てはやされ、頻繁に歌われたものであった。新宿西口のフォークゲリラ集会に関して、「最後は岡林信康の作った『友よ』を大合唱して締めくくるのが定例だ」(小川,2020:71)と記述する。そしてフォークゲリラを回顧するものはこの曲についてよく言及する。以下のように記録が残っている。フォークゲリラを先導した一人である小黒弘の当時の日記からの文を抜粋する。

「四月○日 西口にいく。人が増えてきた。イイぞ、この調子だ。“友よ”はいつ歌ってもいい歌だ」
「六月○日 排除される時に僕たちが歌うのは“友よ”と“ウイ・シャル・オーバーカム”しかない」(小黒,1970:90)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

この曲の特徴は、フォークゲリラ集会においてプロテストが前面に現れていないことである。プロテストよりも、集会に参加する「友」である人々に「夜明けは近い」と語りかけるものである。これはどのような意味と捉えられるか?小黒の「友よ」について語った引用から考える。

「ある人はいう。“夜明けが近い”なんていうのは欺瞞だ、と。だが僕は全然そんなふうには思わない。この“友よ”って歌はもとはといえば、部落解放運動の中から出て来た歌だ。『俺達の夜明けは遠い、しかしそれに向かって行かねばならないんだ』という解放への願望の意味で歌われた歌だ。別に『栄ちゃんがもうくたばりそうだから、心配するな!』なんてつもりの歌じゃない」(小黒,1970:86)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

「友よ」は体制や社会などの外ではなく、フォークゲリラの内に向けて歌われた曲であると考えられる。「夜明け」はおそらくフォークゲリラが求めたさまざまな「体制の変革」であろう。そして、この曲はフォークゲリラの「友」を「夜明けは近い」または「夜明けは遠い」としても「それに向かって行かねばならないんだ」と鼓舞するような曲であり、かつ「夜明け」を達成し解放されることを願う曲であることがわかる。見ず知らずの者同士が集まるフォークゲリラにおいて、このような歌がシングアウトの歌として、もてはやされたのには、フォークゲリラが連帯の場としての性質を持ち合わせていとという背景があることを指摘しておきたい。以下にフォークゲリラ集会を報道した新聞記事を引用する。

“疎外”からの解放
「合唱の外側にいた女子学生が、若者のシャツを引っ張る。『あんたいつもくるの』『うん』女子大生の仲間が聞く。『だあれ』『近所の子、うちの近くじゃ話せないもんね』。広場は若者たちにとって“精神の解放区”でもあるらしい。神田解放区のようなトゲトゲしさはない。見知らぬ同士が肩を組み、すぐ友だちになっている。『ここに来ると、仲間がたくさんいるという気になるよ』と学生の一人は『連帯』という言葉を何度も使って強調した 」
「爆発する若さうず巻く熱気」『朝日新聞』,1969年6月22日朝刊,東京版,p16

このような背景を踏まえると、このプロテストを行わず、集会の参加者の鼓舞するような歌詞を持つ「友よ」という曲はフォークゲリラの参加者を連帯させる歌、もしくは連帯している状況を象徴するような曲でもあったと考えられる。小黒が「友よ」について「『俺達の夜明けは遠い、しかしそれに向かって行かねばならないんだ』という解放への願望の意味で歌われた歌」と語ったが、その際「俺達」という一人称複数の表現を用いたのは、フォークゲリラ参加者が連帯している状態を言い表すためであったのかもしれない。

第4節 フォークゲリラを担った若者の感覚


ここまでフォークゲリラ集会について概観し、集会がいかなる試みであったか、何が行われていたのか見た。そして歌われていたフォークソングなどから、その特徴、現れていた政治性についても可能な限り掴み取り、集会に参加していた若者とフォークソング、特にアングラフォークとの結びつきについても確認した。しかしながら若者と政治と音楽の結びつきがどのようなものであったか示すに際し、資料に残る記録や集会で歌われていた曲からの説明だけでなく、当時のフォークゲリラの若者たちの感覚から(これまでの記述にも彼らの感覚が現れる資料はあったが、より彼らの感覚に主眼をおいて)アプローチし、よりどのような場であったかを明確に掴むことを試みたい。なぜなら、現在の地点から資料を通じ、フォークゲリラについて見た際に、若者と政治と音楽には結びつきがあるように見えるが、フォークゲリラの当事者にとってはそうではないかもしれないだ。また結びつきを示すにしても、より具体的にどのような結びつきだったのかを明瞭にしたい。そこで過去においてフォークゲリラ集会の当事者である若者たちがフォークソングとそこでフォークゲリラに参加した若者たちが、音楽(フォークソング)をどのようなものであると捉え、フォークソングと政治、政治活動の関係をどのように考えていたのか資料とともに見ていく。まずフォークゲリラに参加していた若者たちはフォークソングをいかなるものとして捉えていたのか。彼らの言葉を引用する。

「フォークソングは、根底に社会変革の流れがなければならないと思います。常に批判的な眼をもって物事に当たっていく人間になりたいと思います。今の日本ではそれ以外はフォーク・ソングはあり得ないように思います。フォーク・ソングは出張サービスの歌だと思います。来ていただくのではなく、こちらから歌いに行くものでなければならないと思います。たとえ革命が起こった後であろうと、フォーク・ソングは批判的に育ってゆかなければなりません。民衆の歌といわれるとき、民衆が抑圧されていたならば、民衆の歌はプロテストソングとして生きてゆくのです」(伊津,1970:105)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社
「いずれにせよ、われわれがいうところのフォーク・ソングとは、いわゆるハッピー・フォークとは縁もゆかりもない。フォーク・ソングとは本来、民衆の素朴な為政者に対する批判を歌に託したものである。その意味で、ゲリラの歌うプロテスト・フォークは、原点にたちかえった真のフォーク・ソングと言えよう」(吉岡編,1970:61-62)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

これらの資料から、メッセージ性やプロテストの要素のないフォークソングはフォークソングではないというような言い回しをしており、彼らにとってフォークソングとは、プロテストを行うもの以外にはありえないという感覚が読み解ける。前述のカレッジフォークではなく、アングラフォークのようなスタイルが該当するだろう。また「民衆の素朴な為政者に対する批判を歌に託したものである」としていることからも、政治のあり方を民衆の視点から批判するものとしてフォークソングを捉えており、反体制的な姿勢を表明するものとしてフォークソングを考えている。「フォークソングは、根底に社会変革の流れがなければならないと思います」という部分からは、決して政治に限らず、社会に存在する民衆を抑圧している全てに対して批判を加え、変革の流れに合流するものだとしている。これらからはフォークソングという音楽は、政治的、社会的な体制に抗議するという文脈と結びつかなければならないという認識がここからは読み取れる。では次にフォークゲリラは、フォークソングが具体的にどのような政治的、社会的問題を、どのような形で批判ができるものとして捉えていたのか。引用を続ける。

「そんな西口広場へ、僕達は反戦運動の武器として、ゲバ棒や投石ではなく、ギターとフォークを持ち込んだ」(堀田,1970:65)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

「うたううたがフォーク・ソングである以上、でてくるのは戦争のこと、特にベトナム戦争のこと、この戦争におけるわたしたちの責任、安保条約のこと、などでもあるだろう」(吉岡編,1970:43)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

この二つの文章からはフォークゲリラにおいて、フォークソングが反戦を表明するのが当たり前のものであること、「ゲバ棒や投石」といった暴力とは異なるやり方で反戦活動ができるものとしてフォークソングに期待をしていることがわかる。非暴力でデモ、運動ができると期待していたといえるかもしれない。またフォークゲリラ集会で歌われた曲の歌詞や、前述した内容から、さまざまな社会の矛盾に抗議していることがわかったが、その中でもフォークゲリラを先導した若者にとって大きな争点が、ベトナム戦争の是非を問うこと、反戦運動を訴えることであったことがわかる。ではそのような非暴力なデモ、運動とフォークソング、フォークソングを歌うことをどのように関連づけて考えていたのか、より具体的に知るために、次の引用から彼らの感覚を読み取っていく。

「第一にフォークは、群衆を集団に発展させるルートである。しかしそこには、フォークが音楽である故に、一つの限界を認めた上で、フォーク運動を繰り広げて行こうとするならば、西口広場だけでなく、人の集まるところならどこでも運動の場にし得ること。そしてある場所で僕たちのフォークが集団を創り出すことができた時、僕たち、去るべき前衛の役目は終わるのである」(堀田,1970:76-77)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社
「あなたたちが、いませいいっぱいかんがえたことを、けんめいに伝えようとすればするほど、その問題にあなたたちを囲んでいる何十人、何百人のひとびともその問題にまきこまれていってしまう。それはなにも、生きるとはなにか、愛とはなにか、という問題ではなくても、ベトナム戦争とは、あるいは安保条約とはなにか、という問題だって同じなのだそうしたとき、はじめてあなたたちがはじめ、つくりあげていった『人間の輪』にフォークゲリラという中心がなくなり(カッコよくいえば、前衛がなくなり、ということかな)ひとつのウズのようになるにちがいない」(吉岡編,1970:44)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

一つ目の資料の「第一にフォークは、群衆を集団に発展させるルートである」という部分からは、フォークゲリラの若者がフォークソングを歌うことで、デモや運動の場を作ることができると考えていること、少なくとも作ることができるのではないかという期待をしていること読み取ることができる。新宿西口フォークゲリラのように政治、社会に関しての討論の場を作り得ることも含んでいるだろう。また二つ目の資料からも、「前衛」として歌い、アジテーションを行うフォークゲリラの若者が中心となり、ベトナム戦争、安保条約といった問題に人々が関心を寄せられるようになり「人間の輪」と言われているような同様の問題意識を持つ集団を形成できることに期待がされていると読み解くことができるのではないだろうか。政治活動や社会運動のようなムーブメントが形成される最初のきっかけを作れると考えているとも取れる。この資料で言われていることは、フォークゲリラ集会に集まる若者が掲げていた「連帯」についての記述とも重なるかもしれない。見ず知らずの人々が連帯する場を作れるという期待がこの資料からは読み取れ得る。彼らのいう「群衆を集団にする」ことにおいて、具体的にフォークソングが何を成しうると考えていたのか明らかにし、そしてフォークゲリラ活動、フォークソングがどのようにして政治的な活動と言えるのか、また政治運動を行うに際し、何に寄与できると想定されていたのかをより明瞭にするため、さらなる資料を見たい。

「フォークソングは、最初、フォーク運動を始めた時、僕たちが考えたように、より広い層に向けて歌って行くべきであり、彼らに受け容れられ、なおかつ考えさせることができるものだ。現在あまりにも管理され、搾取、抑圧されている民衆の叫び声は、権力者には抵抗の歌となるだろう。そして、うまく管理されているもう一方の民衆には啓蒙の歌になるのだ。フォーク運動が対象とするのは管理されている人々であろう。それなら街頭で歌うことは必然だろう」(小黒,1970:88)
吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社

この資料からは民衆を二種類のものとして捉えていることがわかるのではないだろうか。まずは明言されている「うまく管理されているもう一方の民衆」である。そしてこの「もう一方」という表現からはもう一種類の民衆を想定していることが読み解ける。この民衆との対比関係にある、もう一種類の民衆は、(引用の前後の文章を含め)明言はされていないが、おそらく「管理され、搾取、抑圧され」ながらも「叫び声」を上げられる民衆である。ここではこの民衆を「現状の不満を叫べる民衆」と表現する。ではこの二種類の民衆「うまく管理されている民衆」と「現状の不満を叫べる民衆」にフォークソングはいかなる関係にあるのか?まずこの資料では、フォークソングを抵抗と啓蒙いう二つの側面を持つものとして捉え、期待を寄せていることがわかる。第一にフォークソングが「現状の不満を叫べる民衆」の声を、権力者への「抵抗の歌」に変換できるという期待である。フォークソングを媒介にして、「現状の不満を叫べる民衆」が権力者など体制に抵抗できると関係づけている。第二にフォークソングが民衆に「考えさせることができるもの」であり、「うまく管理されている民衆」いわばまだ叫び声を上げておらず、不満を表明できない民衆にとっての啓蒙の歌になりうるという期待である。権力者と民衆を管理、搾取の関係で捉え、その現状に疑問を抱かせることがフォークソングにはできるという期待とも言える。街頭で歌うフォーク運動、つまりはフォークゲリラのような活動を、管理されている人々を考えさせ、啓蒙するような活動と位置付けている。また彼らは「うまく管理されている民衆」を啓蒙した結果、「現状の不満を叫べる民衆」へと変質させ、抵抗勢力を形成することを念頭においていると想定できるかもしれない。その傍証となるような資料をいかに引きたい。

「“どうしてインタナショナルをうたっちゃいけないの”と叫んで、デモのなかから飛びだしていってしまった女の子がいました。四月二〇日に行われたヤングベ平連の最初の『フォークソング・デモ』でのことです。その女の子は、たぶん高校生くらいで、スラックスをはき、ジャンパーを着ていました。彼女は『フォークソング・デモ』のような“ナマヌルイ”デモではなく、もっとはるかに激しいデモを予想してこのデモに参加したのにちがいありません。“裏切られた”彼女はもっていたプラカードでフォークソングをうたっていた別の女の子をぶって、足ばやに去っていったのです。なんともイヤな気分が、デモの参加者の中に流れました。“インタナショナル”をうたってはいけないのではないんだ。ギターをひいていた青年がいいました。そうではなくて、いまわれわれがすべきことは、“インタナショナル”を歌えるような人間をもっともっとふやすことなんだ 」
「ベ平連ニュース第44号」1969年5月1日 編集後記

ここでの青年の発言は前述したような、フォークソング、またフォークゲリラのようなデモにより、「うまく管理されている民衆」を「現状の不満を叫べる民衆」へと転化できるような期待が込められていると読み解くことができるのではないだろうか。またインタナショナルはロシア革命などで歌われた労働歌であるが、当時のフォークゲリラとは緊張関係を持つような歌であったことを指摘しておく 。この資料に関する議論を追い、彼らはフォークソングという音楽、フォークゲリラの活動を、民衆を現状への不満を言えるものとして質的に変化させ、政治的な主体とし、体制への抵抗という政治的な活動につながるものとして結びつけていた、と結論づけられるだろう。

第5節 フォークゲリラにみる、音楽と政治と若者の結びつきとは何か


ではここまでのフォークゲリラ、フォークゲリラの若者の感覚について概観し、新宿西口フォークゲリラにおける政治と若者と音楽が結びついている状況とは一体どのようなものであっただろうか。言い換えれば、一つの対抗文化として音楽が若者により支持され、成り立っている状況とは具体的にどのような状況だろうか?どのような若者が、どのような音楽と結びつき、どのような政治性を帯びていたのかについてまとめていく。
まずどのような若者がどのような音楽と結びついていたかを考えると、フォークゲリラの中心にいたような若者つまりは「反体制、反戦を志向する若者」が、プロテスト志向の強い、特定の精神性を持つ「アングラフォーク」と結びついていたことがわかる。どのような政治性と結びついていたかを考えると、反戦、日米安保条約に関する政治的主張と強く結びつき、反体制を掲げ、暴力と投票以外のやり方で「今ある社会、体制をより理想的なものに変えていく」という革命を目指すとまでは言わないものの、革新的な政治性と政治運動と結びついていた。若者がそのような革新的な政治性、政治運動とフォークソングという音楽を、具体的にどのような理屈で、結びつけていたか、また結びついていたかは以下のようになるだろう。①集会に参加していた若者たちはフォークソングを啓蒙としても考えており、民衆を、社会の矛盾を考えさせることで、体制に疑問を抱かせ、反体制的なスタンスを持つものに変質できるという期待をしている②さらに民衆の質を転化させるだけでなく、フォークソングが人々を、集団としてまとめ上げ、言い方を変えれば、連帯させ、体制に抵抗する勢力を形成し、デモや政治運動の場を形成するきっかけと関係づけている③またデモや政治活動を行うにあたり、「ゲバ棒でも投石でもない」実力行使ではない非暴力な抵抗手段としてフォークソングを捉えている。このように3点から結びつきについて指摘できるだろう。
またここで新宿西口フォークゲリラにおいて、若者同士の連帯、そして体制への抵抗という政治性と、音楽、フォークソングが結びついた理由を考察しておく。まず若者同士の連帯でフォークソングが果たした役割とは、人々を身体的に結びつける役割があったであろうことである。皆で「友よ」などを合唱する、シングアウトすることは音を身体的に共有することであり、歌詞やアジテーションの言葉や集会で掲げられる理念以外で人々の連帯を促す効果があったのではないだろうか。また身体的という面では集会に参加していた若者たちが見知らぬ者と肩を組んでいたことが資料からもわかる。そしてシングアウトの際に、肩を組み、音に合わせて左右に揺れ動いていたことが映像として残っており、音楽が連帯を促していたことがわかる。また体制への抵抗という政治性と、音楽、フォークソングが結びついた理由についても説明を試みる。反戦を掲げ、機動隊に対峙することが多々あった、60年代の政治活動をする若者たちにとって、暴力、実力行使以外の方法で、つまり音で、音楽で抵抗を示すことは重要だったのではないだろうか。なぜなら、戦争という暴力が行われる場に反対する立場の者が暴力を振るうことは、矛盾を孕む行為と考えることができるからである。さらに歌を歌っているだけで、隊列も組まず、暴力も振るわないという態度を示されると、警察や機動隊が集団を制圧しづらかったという点からも、音楽は重要であったのではないだろうか。少なくとも、フォークゲリラを行っていた若者には音楽にそのような期待をしていた節がある。大木は「小さな討論の輪をつくるのを目的にしたフォーク集会が、『なんでこのくらいで』というのはあった。歌を歌うくらいで、抑圧されなきゃいけないんだろう」、「六八年の全共闘までは、いままでの制圧方法でよかった。でも新宿の六十九年で『歌を歌っているひとたちを乱闘服で排除』はまちがった」(大木,2014:76)と述べている。ここからは警察、機動隊からの制圧、排除を受けない、受けないはずのものとして音楽を捉えていることが垣間見える。引用した資料にある「反戦運動の武器として、ゲバ棒や投石ではなく、ギターとフォークを持ち込んだ」という表現からは、全共闘など他の60年代末の学生運動とは異なった制圧されにくい運動を展開する戦略として、音楽を選んでいるようにも思われるのである。暴力と投票以外で「今ある社会、体制をより理想的なものに変えていく」ことを試みるには最善の選択肢として音楽が浮かび上がっていたのではないかと考えられる。このように若者と音楽と政治が新宿西口フォークゲリラにおいてどのように結びついていたのかを示した。新宿西口フォークゲリラ運動において、どのような人々と、どのような音楽が、どのような政治活動と結びつきがあったかといえば、反商業主義であり、反体制を歌うアングラフォークという音楽が、既存の価値観、現在の体制に抵抗をする若者と結びつき、反戦運動、反安保などを掲げる反体制的な運動を展開していた。

第二章ではシラケと言われる状況を主にフォークソングを事例として確認すべく、政治との距離が生まれていくフォークソングシーンを確認する。

参考文献など

・小川真一 2020 『フォークソングが教えてくれた』 マイナビ出版
・なぎら健壱 1999 『日本フォーク私的大全』 筑摩書房
・なぎら健壱 2014 「フォークゲリラがいた」『1969新宿西口地下広場』p126-136 新宿書房
・室謙二 1972「東京フォークゲリラはいま?」『人間として』9号p274-282 筑摩書房
・鈴木一誌編、大木晴子、大木茂「[インタビュー]フォークゲリラは終わらない」『1969新宿西口地下広場』新宿書房
・吉岡忍編、堀田卓、小黒弘、伊津信之介、山本晴子1970 『フォークゲリラとは何者か』 自由国民社
・「いいね!きらい!アングラ・フォーク」『朝日新聞』 1969年7月15日朝刊 p 11
・『朝日新聞』1969年6月29日 朝刊 p15
・「爆発する若さうず巻く熱気」『朝日新聞』 1969年6月22日 朝刊 p16
・「ベ平連ニュース第44号」1969年5月1日 編集後記

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