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「デ・キリコ展」 美術館遍路記②

 とある金曜日、3カ所の美術館を巡ってきた。前の記事はこちら。

今回はその続き、東京都美術館「デ・キリコ展」だ。


デ・キリコ展

 東京国立近代美術館を出て竹橋駅から上野駅へと移動、上野公園内の東京都美術館に行く。お目当ての「デ・キリコ展」はシュルレアリスムの先駆ともいわれた「形而上絵画」で知られる、ジョルジョ・デ・キリコの回顧展だ。
 音声案内はムロツヨシさん。TRIO展と同様、現地で借りるか「聴く美術」であらかじめ購入するかを選べる。すべての企画展でこのシステムを導入してほしい……。
 残念ながらフォトスポット以外では一切の撮影はできず。気に入った作品のポストカードを4枚購入したため、これを図版代わりにしようと思う。軽く展示の流れを追いつつそれらに焦点をあてたい。

●デ・キリコ展に……

来た!(これは上野駅)
来た!

SECTION1 自画像・肖像画

 まずは複数の「デ・キリコ」と対面することになる。四分の三正面のいうやつだろうか。やや斜めを向き、視線だけをこちらに送ってくる。
 《自画像》(1922頃、cat.1)は印象的な画だ。手前には額縁(窓枠?)の上に果実を載せたようにも見えるトロンプ・ルイユ(騙し絵)が描かれている。次に四分の三正面のデ・キリコ、そして彼を正面から捉える彼自身の彫刻。「彼ら」の後ろには謎の黒幕がかかっており、描かれているのが室内なのか室外なのかもわからない。彫刻を見ていると観者→彫刻→デ・キリコ→観者……と視線の環が生まれ、なんだか居心地が悪い。
 古典的な自画像(cat.3, 4, 6)はなんだか自信たっぷりだ。《自画像のある静物》(1950半ば、cat.5)では、なんと画中画として自画像を取り入れている。もちろん「画の中」の彼も四分の三正面の姿勢でこちらを見ている。だから居心地悪くなるんだってば。
 ちなみにこのセクションの壁には、この言葉が大きく記されている。

風変わりで色とりどりの玩具でいっぱいの、奇妙な巨大ミュージアムを生きるように、世界を生きる

「パリ手稿1911-14」より

なんだかいいな。「謎」と形容されることの多いデ・キリコの絵画。その謎に迫る試みは幾らでもなされているし、図録にも濃密な論考が載っている。ゆえに私は謎をそのまま感受し、考察のしようがないと判断したら思ったことをそのまま書くことにしよう。
 本展の本筋とは関係ないのだが、展示室内にはたびたび「アーケード」状のアーチが設置されている。形而上的なイタリア広場に迷い込んだ気分になれて楽しい。

SECTION2 形而上絵画

 形而上絵画。わけの分からない言葉だ……。「形而上」を辞書で調べると以下のように記されている。

《「易経」繋辞上から》
1 形をもっていないもの。
2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。⇔形而下。

コトバンク - デジタル大辞泉より引用

ふむ……。以前から思っているのだが、「形而上/形而下」は外国語のままのほうがわかりやすい気がする。フォーヴィスムにむりやり和訳を当てて「野獣派」と呼ぶことで、まったく意味が分からなくなるのと似た現象が起きているように感じるのだ。「形而上絵画」、これはイタリア語で「Pittura Metafisica」、英語では「Metaphysical painting」となる。
 metaphysicalの対義語はphysicalである。それぞれ「形而上の/形而下の」という語義の形容詞だが、physicalには「物理的な」や「身体的な」という意味もあるのは重要なことだ。これに「meta-」がついたかたちである「形而上の, metaphysical」とは「物理より高次の」、言ってよければ「身体を超えた(この体では経験できない)」という意味とも取れる。
 まあつまり、こうまとめてしまったらだれかに怒られるかもしれないのだけど、私たちが物理的に、身体的には通常であれば経験し得ない不思議な事象。謎。それを描いたものが形而上絵画なのではないだろうか。「究極謎絵画」みたいな意訳をあててくれればよかったのに。
 
本記事の「2-2 イタリア広場」の項にて、デ・キリコがフィレンツェで体験した不思議な出来事ついての手稿を引用している。彼は本当に「通常であれば経験し得ない不思議な事象」を見たのだった。また形而上絵画の意味については、最後に紹介する山田五郎先生の解説が詳しいため、それも合わせてご確認いただきたい。

 このセクションは「形而上絵画以前」、「2-1 イタリア広場」、「2-2 形而上的室内」、「2-3 マヌカン」に分かれる。
 
形而上絵画以前
 アルノルト・ベックリン風の絵画を描いていたデ・キリコ。形而上絵画への橋渡しとなる作品として、《山上への行列》(1910、cat.10)が紹介されている。どうやらアンリ・ルソーの影響が見て取れるそうだ。 

2-1 イタリア広場

ある秋晴れの午後、私はフィレンツェのサンタ・クローチェ広場の真ん中にあるベンチに座っていた。長く苦しい腸の病気からなんとか回復したばかりの、ほとんど病気のような弱々しい状態にあって、私を取りまく自然のすべて、建造物や噴水の大理石までもが、まるで病み上がりのように目に映った。秋の生あたたかく愛のない太陽が、彫像とともに聖堂のファサードを照らしていた。そのとき、あらゆるものを初めて見ているかのような不思議な感覚におちいった私の脳裏に、絵画の構図が浮かびあがってきた。こうして生まれた作品を、私は「謎」と呼ぼうと思う。

『デ・キリコ展[図録]』、東京都美術館・朝日新聞社編集、朝日新聞社発行、2024年、p.37より引用

以上のようなデ・キリコの回想がある。このときの体験が形而上絵画を生んだという。
 イタリア広場の作品は高い塔やアーケードがよく描かれている印象だ。そして深い青緑の空は地平に近いところだけ肌色や黄色で塗られている。夜明けでも黄昏時でも、ましてや深夜でもなさそう。人は描かれていないことが多く、その代わりとでもいうように彫刻が佇んでいることもある。
 言ってしまえば不穏な雰囲気。人気のないイタリア広場にはそれが漂っている。

2-2 形而上的室内
 1915年、イタリアの第一次世界大戦参戦により、デ・キリコはイタリア軍に召集され、パリからフェッラーラに移り住むことになる。
 形而上的室内の画はものすごくごちゃごちゃしている。ビスケット、定規、地図などさまざまなものが組み合わされて描かれており、室内はもはや人の住居ではなく「謎の棲む処」となっているのではないだろうか。
 《形而上のコンポジション》(1916、cat.18)はほとんど抽象画だ。室内なのかどうかすらわからない空間(平面上?)でビスケットとおぼしきものが舞っている。戦時下に描かれたとても寸法の小さい画である。
 《孤独のハーモニー》(1976、cat.24)は最晩年に描かれた室内画だ。開かれた壁の外に見える風景と、部屋との消失点は明らかにずれている。室内には定規とその他記号的なものが縦長に積まれている。このタイトルには画家の孤独とそのキャリアが描かれているのかもしれない。遠近感がおかしくても、不思議なモチーフが描かれていても、不協和音だって和音である。彼の画業は新形而上絵画として結実し、謎のもとに調和を果たしたのだ。


TOPIC1 挿絵─〈神秘的な水浴〉

 展覧会の配置通りに紹介すると、「2-2 形而上的室内」と「2-3 マヌカン」との間にTOPIC1が入る。〈神秘的な水浴〉は、ジャン・コクトーの本『神話』の挿絵として描かれたものだ。その版画を着想源に(?)後年描かれた油彩画も展示されている。
 なんといっても水が寄木のように描かれている点は実に不可思議だ。油彩画では直立した状態で水浴をしている人が描かれている。そしてこちらを見てくる。こっち見んな。


2-3 マヌカン
 とうとう来た、マヌカンだ! 表情のないマヌカン(マネキン)を描いた絵画群。さまざまな時期に描かれているため、本当にマネキン的だったり、かなり忠実に人型だったりとみな異なった姿をしていておもしろい。ここでポストカードを一枚召喚しよう。 

《形而上的なミューズたち》(1918)

 《形而上的なミューズたち》(1918、cat.28)は本展のメインビジュアルのひとつにもなっている。白い顔のマヌカンでさえ表情がなくて不気味だったのに、こちらでは頭部に空洞を持った赤いマヌカンがいる。鼻梁にあたるところには三角定規のようなものがついていて、その奥の光の届かない空間に吸い込まれそうだ。後ろの白いマヌカンは前後どちらを向いてるのかもよく分からない。
 彼らは床面からにょっきりと顔を出しているのだろうか。ずっと観察していたら赤いマヌカンが気球に見えてきた。それにしても他の画と比べて、明らかに大きくマヌカンを描いてるよなぁ。いや本当に謎だ。謎です。


TOPIC2 彫刻

 彫刻も作ってたんだなぁ。《アリアドネ》(cat.97)だけSECTION2に置いてあるほか、こちらは没後に鋳造されたものだそう。これ以外の彫刻は、いずれもブロンズに金か銀のメッキが施されており、強く光り輝いている。特に芸術家自身の手によって立体化されたマヌカンは見ものである。


SECTION3 1920年代の展開

 シュルレアリスム運動と接近ののち離別したり、「考古学者」や「谷間の家具」、「剣闘士」などの画題も出てきたりする。いろいろと忙しい人だ。
 さて、デ・キリコの画にはシュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットらが用いる転置の手法「デペイズマン(dépaysement)」に繋がるものがある。「谷間の家具」はまさにそのイメージ通りである。ちなみにマグリットはデ・キリコが描いた、《愛の歌》(1914)という絵画に大きな影響を受けたという。こちらも分かりやすい例だ。

 シュルレアリスムとデペイズマンについては、補足程度の解説を挟んでおこうと思う。まずシュルレアリスム(超現実主義)とは何か。ひとつだけ申し上げておくと、シュルレアリスム絵画に描かれているのは非現実的な空想の世界ではなく、現実世界と連続したところにある強い現実、「現実以上の現実」である。「超現実」の超が表すニュアンスは「超スピード」の超に近いとも説明される。(巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』p19-20参照) この運動ついて語ると長くなりすぎるので、気になった方は先の説明でも参考文献とさせていただいている、巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(2002、ちくま学芸文庫)を読んでいただきたい。
 次にデペイズマンについて。動詞の「デペイザ dépayser」を分解してみると、分離・剥離を表す接頭辞の「dé」と国・故郷という意味の「pays」が含まれている。つまり他の国へ追放するというのがもとの意味で、それが転じて「本来の環境から別のところへ移すこと、置きかえること、本来あるべき場所にないものを出会わせて異和を生じさせること」をいう。(『シュルレアリスムとは何か』p.84参照、太字括弧内は引用)
 この手法のイメージについては、先述のルネ・マグリットの絵画を思い出してもらえればよいだろう。「『TRIO』展 美術館遍路記①」でも紹介している、三岸好太郎《雲の上を飛ぶ蝶》(1934)も好例であるためここで再掲示する。蝶たちが雲の上を飛んでいるそのさまは、現実の延長線上で起きていそうな、まさに超現実的な光景だ。デ・キリコ展の図録では「異郷化」と書いてデペイズマンのルビを振っている。なるほど、端的でわかりやすい。

三岸好太郎《雲の上を飛ぶ蝶》(1934)
@東京国立近代美術館「TRIO」展

 さて、ここでまたひとつポストカードを出そう。「考古学者」の作品のひとつで、なんとなく気に入ったため選んできた。先に長々と解説したが、デペイズマンはあまり関係はないと思われる。

《神秘的な考古学者たち(マヌカンあるいは昼と夜)》(1926)

これを選んだ理由は、なんだかかっこいいから……。それ以上でもそれ以下でもないのだが、せっかくなので少しは語っておきたい。
 上半身を大きく、脚を小さく描いているのは荘厳さを出すためという理由があるそうだ。実際「白い考古学者」は大理石からなるかつての建造物と一体化し、モニュメンタルな厳めしさを放っている。一方で「黒い考古学者」は、栄華は続かないものだと背中で語っているようだ。白が昼ならば黒は夜。ここに描かれた考古学者たちは、栄枯盛衰のメタファーであると感じた。

SECTION4 伝統的な絵画への回帰─「秩序への回帰」から「ネオ・バロック」へ

 1910年代後半から20年代の「秩序への回帰(artscapeへのリンク)」に応答するかたちで、デ・キリコは伝統的な主題にも取り組んでいたそうだ。ここでは形而上絵画とは一見似ても似つかぬ作品群を観ることになる。
 しかしこのセクションに展示されている作品たちは、やはりどこか謎を秘めているように思う。好きな作品は《アキレウスの馬》(1965、cat.62)だ。2頭の馬は海岸線に立っており、その足もとにはちくわが転がっている。……いや柱の残骸か。あと異常に尾の毛が長い。地面に擦っている。


TOPIC3 舞台美術

 20世紀前半の前衛芸術家たちが必ず通っているのではないだろうか、というくらい美術は舞台の道へと繋がっているような気がする。
 ここではいくつかの「舞台」のための衣装や舞台のスケッチ、そして1931年公演のバレエ『プルチネッラ』で用いられた衣装が展示されている。どこか古典的だけど不思議な印象を受けるそれらは、デ・キリコワールド全開だ。


SECTION5 新形而上絵画

 晩年のデ・キリコは、「広場」や「室内」、「マヌカン」といった、過去に取り組んだ題材に改めて挑戦する。そこには彼の遊び心がうかがえる。
 個人的にはここからがデ・キリコの本番なんじゃないかと思った。もともと厳密な意味でのシュルレアリストではないんだろうけど、それにしても超現実ではなく「幻想絵画」の領域に足を踏み入れている気がして、そのギャップもおもしろい。2枚のポストカードが手元にあるのでそれぞれ紹介しよう。

《オデュッセウスの帰還》(1968)

 形而上絵画につきまとっていた不穏さはなりを潜め、もはやおもしろ絵画になっている。なんで部屋のなかに海があるのだろうか? 図録では考えすぎじゃないかというくらい深い考察がなされているが、そこで指摘されている「自伝風メタファー」という意見には同意する。
 右側には窓があり、そこからは彼の生誕の地ギリシャを思わせる神殿が見える。そして壁際に「人間用」の椅子が置かれている。一方で左側の壁には「イタリア広場」の絵画が掛けられ、SECTION3で見たような背が高く脚の短いマヌカンが座りそうな椅子がある。大海をたったひとりで渡るオデュッセウスは、形而上絵画の境地に至ったデ・キリコ自身の孤独な姿に重ねられているのではないかと感じる。 しかし「彼」の表情はけっして暗くはなく、むしろほほえみを浮かべているようにも見える。

《燃えつきた太陽のある形而上的室内》(1971)

 SECTION2-2で取り扱われた「形而上的室内」が題材の作品であるが、笑っちゃうくらい楽しい画だ。窓の外にある太陽と月からは電源コードが伸びており、それぞれ室内の黒い太陽と月に繋がっている。燃えつきた太陽はまるで浜辺に打ち上げられた海藻のようだ。もう謎よりおもしろさが勝っている。
 本展の展示物のなかではこちらが一番好きな作品かもしれない。謎すらも超越した画家のユーモアを感じる。

─デ・キリコ展おわり─

フォトスポット

おわりに

 TRIO展に引き続き、こちらもとても楽しかった! この展覧会を観る少し前までは、形而上絵画とシュルレアリスム絵画とをほとんど同一視してしまっていたのだが、いろいろな意味で違うものだと理解できた。
 そして謎の深遠を知るには、まだまだ洞察力が足りないなと感じている。それにはジョルジョ・デ・キリコという人物について知り、その眼差しと同じ世界を見つめなければならない。
 先は長そうだが、より理解を深められたらいいなと思う。それでは、ここまでご覧いただき誠にありがとうございました。

おすすめの動画

 「山田五郎 オトナの教養講座」より動画が2本公開されているため、展覧会に行く際はその前後で視聴すると、予習・復習になるためおすすめだ。(※期間限定公開)


関連リンク


1カ所目 東京国立近代美術館


3カ所目(終) 国立西洋美術館



参考文献(刊行年順)

●『シュルレアリスムとは何か』巌谷國士、筑摩書房、2002年
●『デ・キリコ展[図録]』、東京都美術館・朝日新聞社編集、朝日新聞社発行、2024年
●「芸術AERA  デ・キリコ大特集」、朝日新聞出版編集・発行、2024年

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