先日、森鴎外記念館の前の通りを歩いていたら、青鞜の立て札に気づいた。青鞜社はこの地のだれかの自宅を事務所にした。女性文学集団として出発したが、のちに婦人解放運動に発展していった、そんなことが立て札に書いてあった。「青鞜」の表紙は、独身のころの長沼ちゑによるとも書いてあった。 『明暗』を読んでいて――それはいまも読み終わらず読み続けているが――、男らしくなさい、みたいな言葉遣いが何回か出てくるのを面白く感じた。それでなつかしいもののように明治ころのジェンダー観を思ったことが
夏目漱石の『明暗』を読んでいる。半分過ぎてからスピードが落ちてもたもたしていて、ちょっと嫌なヤツの「小林」の話にでてくる人間たちが主人公とどういう関係にあったか曖昧になりかかっている。漱石の子供が書いた文章に、作品のなかでは『坊っちゃん』が一番いいというのがあって、読み返してみようかという気になっていたのは、自分としてはいいという感想が残っていなかったからだ。若者のころ読んでそれほどでもなかったものが後にいいものに感じられることほど愉快なことはないのではないか。 小説『坊
小学校に上がる前の知能検査でIQが108だった気がする。特殊学級(いまなら特別支援学級?)に入らなくてよかったと母親かだれかがよろこんだような記憶がある。父親が酒飲みなのでそんな心配をしたのだろうか。いくつを下回ると特殊学級になるのか知らなかったが、通うことになった小学校に特殊学級はなかったから、IQ次第で別の学校に通わねばならなかったはずだ。 近所のO君は別の学校に通っていた。たまに道でばったり遇うとつい声をかけたくなる。「学校は終わり?」みたいなことだ。するとO君は、
先日千駄木にある森鴎外記念館にいってきた。午前中の早い時間にいったので来館者はぼくの他はひとりだった。文学者の記念館は好きだが、行くと混んでいてもすいていても落ち着かない。後ろからひとが来る気配を感じるからだ。そういうわけで気もそぞろに順路をまわって、ほっとしたようになって売店に寄り、書籍や絵はがきを買って帰る。後の宴会を励みに仕事をするように、売店で記念品を買うための文学館訪問かとも思われる。 鴎外作品は学校の教科書でふれてきた程度であまり読んでいない。むしろ興味がある
女友達とはすべてを汲み尽くさなかった女性の謂いである、みたいなことが『友情論』(ボナール)に書いてあったと記憶している。若者のころはなにもかも汲み尽くしたいような愛情につかまるので、女友達への気持ちよく風通しのいい感情の価値にももちろん気づいていた。本を、ぼくは女友達と思って選ぼうとしている。これは、本は女と思って選ぶ、とだれかが(フランス人かな)いっていたのをちょっとずらして考えたことである。 他人を汲み尽くすことはむずかしいし、そんなことだれも考えない。でも若いころの
もう70日くらい酒をのんでいない。手帖の日付のところに「断酒○○日」と書いておくので、お、もうそんなになるかと毎日確認できる。そうやって自分をはげましている。薬物依存の経験者が、クスリから完全に切れたとはいえない。いつまたやりだすかわからない。毎日がたたかいだ、みたいに語っているのを読んだことがあるが、自分もいつまた飲みはじめるかわからないのでどこか落ち着かない。 トビラがすこしだけあいていて、たのしげな声がもれてくる。そちらへ行こうとすれば、だれも邪魔する者はいない。そ
うろ覚えだったのをネットで調べて、北原白秋の「歌ひ時計」であることを発見した。 けふもけふとて氣まぐれな、 晝の日なかにわが涙。 かけて忘れたそのころに 銀の時計も目をさます。 ぼくがそういう昼寝から銀の時計のように目ざめると、父親が、お母さんでていっちゃったぞ、といった。ぼくは立ち尽くしながら、お父さんといればきっと帰ってくる、とヘンな確信があったから、もしかしたら母親がでていったことはそれ以前にもあったのかもしれない。 まだ乳飲み子だった妹は母に
『中勘助の手紙』(稲森道三郎著)は、中勘助ファンの稲森さんが、終戦直後の一時期、静岡県の手越のあたりに住んでいて近所の中勘助と交流があった、そのころの手紙をもとに書かれた本だ。「序にかえて」を小堀杏奴が書いている。 なぜ小堀杏奴が書いているのかといえば、中勘助の友達であり、彼女も近所に住んでいたという、そういう理由だったと思う。 女性が求婚された。どうしたらいいか、女性は中勘助に相談した。求婚してきたひとが勘助の友人だったから。中勘助は、彼は申し分ない奴だから受けたらい
宮城まり子の『淳之介さんのこと』を読んでいたら、雪見障子というのが出てきた。 宮城まり子さんは、室生犀星の『蜜のあわれ』という金魚が主人公の小説を読んで、その金魚の役を演じたくなった。それで上演許可をもらいにお宅にうかがった(犀星さんのウチには電話がない)。 ところがその日、犀星さんの奥さんが亡くなった。それをまり子さんは犀星さんちの玄関で知らされる。作品の許可のことなど言えなくなり、らんの花をおくった。 三ヶ月後、まり子さんの弟が亡くなって、こんどは犀星さんからこぶ
学生時代、小説を書いて大学の文学賞をもらった友だちが「いまさら漱石や鴎外じゃないでしょ」といった。ぼくは彼を尊敬していたので、漱石や鴎外を読まずにすまそうと思った。漱石や鴎外じゃなければだれなのだ、とは聞かなかったが、それはなんとなくわかった。大江健三郎や中上健次や村上龍や古井由吉や……。 太宰治も読まれていたと思う。ぼくも読んだが、好きとはなかなかいいづらい、そんな空気があった。その空気はいまもあるのかもしれない。坂口安吾は読んでいるとかっこいい作家だった気がする。
大江健三郎の「見せるだけの拷問」という短編に《一月末日の、ジラード事件がはじめて報道された新聞を、この日はたまたま僕の二十二歳の誕生日でもあったのだが》というくだりがある。一月末日はきのうだ。きのうが誕生日だった。ことしは昭和96年だから、昭和10年生まれの大江さんは86歳になった。 「見せるだけの拷問」は、『いかに木を殺すか』に入っている。この本をぼくはK君にもらった。面白かった? と聞いたら、あまり得るところがなかった、といった。 そのころK君は雑誌記者をしていた。
ご訪問ありがとうございます。ホソイともうします。 山口百恵さんと同じ年に生まれました。あ、こんなこと書いたら、年齢がばれちゃいますね(笑)。 noteをはじめたきっかけは、うまく言えないんですが、なにか書きたいなあとは前から思っていました。その「なにか」というのは、なんなのかは、これが自分でもよくわからないのです。とくにない、という感じですかね。 とくにないのに、書きたい気持ちだけある、というのは、どういうわけなんでしょう。 好きなのは(得意とか知識豊富という意味では