見出し画像

ほめられたくて

 小学校に上がる前の知能検査でIQが108だった気がする。特殊学級(いまなら特別支援学級?)に入らなくてよかったと母親かだれかがよろこんだような記憶がある。父親が酒飲みなのでそんな心配をしたのだろうか。いくつを下回ると特殊学級になるのか知らなかったが、通うことになった小学校に特殊学級はなかったから、IQ次第で別の学校に通わねばならなかったはずだ。
 近所のO君は別の学校に通っていた。たまに道でばったり遇うとつい声をかけたくなる。「学校は終わり?」みたいなことだ。するとO君は、けして予想を裏切らず、トロンとした笑顔でアタリサワリのないことばを返してくる。仲のいい友達であってもコミュニケーションとなるとなにかしら圧を感じるから、O君のような圧をまったく感じさせない友達とのふれあいはいいマッサージだったのだろう。
 ぼくは普通学級に行ったが、成績は五段階評価で2と3ばかりだった。「わたしがいちばん悪いときの体育でも3だったから、3より下があるなんて知らなかった」と学生時代につきあった女の子がいった。そういうムクなほど世間知らずな、要するに天然ボケが若いころはタイプだった。彼女はミッション系の高校の出身で、先生はみなシスターであるといった。
 「シスターは、イエスの復活をほんとうに信じているの」と彼女はいった。ぼくは教会に通っていたことがあったからそんな話もよくしたのだ。宗教はおとぎ話であり、事実かどうかをあげつらうのは意味がないという考え方もあるようだが、そのときはそんな知識はなく、復活をほんとうに信じているというシスターの話に涙ぐみそうになった。
 つきあっていた彼女自身はキリスト教徒ではなかった。自分はどんな神さまでも信じられる、といっていた。信じることに関してつねにゆれうごいている、一言でいえば不純なぼくは、彼女のそういう迷いのないところも好みなのであった。
 話をもどすと、ぼくは2と3だけでなく、1ももらったことがある。小学3年くらいのとき近所のガケから落ちてひと月ほど入院した。その日は4月の終わりの天皇誕生日であった。頭から落下して3日間意識不明だった、とあとから聞かされた。「お母さんが泣いてねえ」と主治医のオオバヤシ先生がおしえてくれた。大学を卒業して勤めてから、こんどは巻き爪のちいさな手術のため入院したとき、既往歴を聞かれてこのガケから落ちたことを話した。3日間意識不明だったというと、看護婦さんは胸元に記録紙をかかえたままわらい声をあげるので、ぼくはなんだかうれしかった。
 不思議なことに、落ちたという記憶が当事者のぼくにはないのだった。親は医者から後遺症が残るかもしれないと心の準備をいわれていたようだ。それはさいわいにも残らなかった(と思う)。ぼくは久しぶりに登校した学校が新鮮でたのしく、その一学期が終って、さあ明日から夏休みというとき、ぼくの代わりに学校に通知表をもらいにいってきた母親がいつまでもその通知表を見ていたのをおぼえている。ぼくは1の存在を知っていたが、じっさいに付くことがあるとわかってなにか感慨深かった。
 4年生になった夏休み、それまで3年間担任だったK先生――入院したときはお見舞いに来てお守りを置いていってくれた――がかつての受け持ちの子供たちを自宅に招いてごちそうしてくれた。それから近所のオリンピックプールにみんなで泳ぎにいった帰り、でこぼこした石の広場を歩きながら、ぼくは4年になって体育が5になったという話をした。
 K先生はおどろいた様子で、二度見ならぬ二度聞きした。ぼくはK先生から5をもらったことはなかった。担任を離れたとたんに成績があがった生徒の話に先生は傷ついたのではないかと思って、ぼくはすまないような気持ちになった。その後卒業するまで体育はたいてい5であったが、ぼくは自分が思うほど運動神経がいい方というわけではなかった。
 ぼくに5をくれた新しい担任は、やはり女の先生で、K先生より若かった。しかし年齢は関係なかったと思う。この先生にほめられたい、という気持ちがぼくにわいてきたのであり、K先生のときにそういう気持ちはぼくにわいてこなかった。