見出し画像

リートスト

 もう70日くらい酒をのんでいない。手帖の日付のところに「断酒○○日」と書いておくので、お、もうそんなになるかと毎日確認できる。そうやって自分をはげましている。薬物依存の経験者が、クスリから完全に切れたとはいえない。いつまたやりだすかわからない。毎日がたたかいだ、みたいに語っているのを読んだことがあるが、自分もいつまた飲みはじめるかわからないのでどこか落ち着かない。
 トビラがすこしだけあいていて、たのしげな声がもれてくる。そちらへ行こうとすれば、だれも邪魔する者はいない。その誘惑と目が合わないようにして日々トビラの前をとおりすぎる感じ。お腹がすくのはよくない(飲みたくなる)のでつい食べてしまい、コロナ禍の余剰とかさなって2㎏太った。
 もともと強いほうではないので、年も年だし、それほど飲めないし飲まないが、いつも飲むことを考えて過ごしている(いた)。今日はあとこの1缶でやめておこう。あさってまた飲むために。休刊日も週に2日はとっている。死ぬ日まで飲むことをあきらめないでいられるように、そうやって節制しながら飲む。酒が原因で仕事で失敗したとか、約束をすっぽかしたとか、人間関係をこわしたとかはないが、自分はアルコール依存症だと思っている。休刊日をもうけているアル中はあまりいないのではないか。
 そのあさましいような飲酒を70日もやめているのは、妻の圧に耐えられなくなったのがきっかけと考えられる。妻が年に何回か、さりげなくツイデのように、アルコールの害についての新情報を会話にまぎれこませたり、最近の酒量を訊いてきたりするのがイヤな記憶として心にのこるようになったのである。このままだと、相撲をとるか酒をとるかと師匠に問われて酒をとって廃業した南海龍のように、家庭をとるか酒をとるかの土俵際に追い込まれるだろう。そのことがぼんやり頭のカタスミにあるので、飲んでいてもおいしくない。
「最近お酒のんでないみたいだけど、やめたの?」
「うん」
「なんで?」
「家で飲んでもおいしくないから」
「……」
 妻は無言だったが、夫のリートストに思いいたったわけでもないだろう。お互いにないものを相手にもとめて何十年もいっしょに暮らしてきた。なのに理解がすすんだとはいえないとは、これが人生というものだろうか。夫婦における相互理解は井戸を掘るような(つまり思いがけない角度からの和解よろこびも徒労に終わる可能性もともにある?)営みであると河合隼雄が語っていたが、井戸掘りはたいへんな仕事なのでべつにしなくてもよい、とも語っていた。
 上に書いたリートストというのは旅行者ではない(それはツーリスト)。『アルコールと作家たち』(ドナルド.W.グッドウィン著)によれば、チェコ語だそうだ。「悲しみ、哀れみ、そして名状し難い願望を示す」とか。

アルコール中毒者は、とアラン・ボールドは書いている。創造性でもってリートストと対決する彼の芸術的才能を引き出すことが出来る。「しかしながら、もしリートストに屈したならば、敗北を認め身の破滅を招く飲酒に溺れることになる」

 この記述はヘミングウェイの章のものだ。