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子供たちの書く鴎外

 先日千駄木にある森鴎外記念館にいってきた。午前中の早い時間にいったので来館者はぼくの他はひとりだった。文学者の記念館は好きだが、行くと混んでいてもすいていても落ち着かない。後ろからひとが来る気配を感じるからだ。そういうわけで気もそぞろに順路をまわって、ほっとしたようになって売店に寄り、書籍や絵はがきを買って帰る。後の宴会を励みに仕事をするように、売店で記念品を買うための文学館訪問かとも思われる。
 鴎外作品は学校の教科書でふれてきた程度であまり読んでいない。むしろ興味があるのは、奥さんや子供に優しかった(といわれている)家庭人としての鴎外である。鴎外の子供たち、とくに女の子供たちはみなパッパが好きだ。夜中に気配があれば、いっしょに起きてトイレまで連れて行き終わるまで待っていてくれるとか、子供ひとりのために自家用教科書をつくるとか。そういうことは本で読んでいたので、記念館では家系図がはさんである冊子とあとなんか買った。
 「おまりは上等よ」といわれつづけて育った森茉莉の書き物から知られる溺愛ぶりも興味深い。幼い茉莉が百日咳で死にかけ、鴎外は安楽死を施す決心をするまで追い詰められる。ある日役所から帰宅し玄関に立ったままこういった(『父と私 恋愛のようなもの』森茉莉)。

《俺は役所の裏の池を見ると、ここに菖蒲が咲いたら茉莉に見せようと思っていたが、それはもう出来ないのだなと、思う。電車に乗れば、もう茉莉を伴れて乗ることはないのだなあ、と思う。茉莉を伴れて行こうとか、茉莉とどうしようとか、茉莉というものだけで、俺は今まで生きていたのだ》と。

 この父にとって、愛する娘のシアワセとはどういうものだったのだろう。茉莉は、家事をおぼえる代わりにピアノやフランス語を習い、「薬罐を水道のカランに近づけて水を汲んだこともない」つまり家事一切ができないまま、お嫁にいった。意外にも舅には気に入られたという。その理由が、この舅が亡くなればこの家の財産の半分は自分の夫のものになる、という気持ちが茉莉の様子から少しも感じられなかったからだというのが面白い。
 舅の山田暘朔は、最初の奥さんにもつぎの奥さんにも病気で死なれ、囲っていたお芳さんという芸者の女性を迎え入れた。6人の子供たちを前に「お芳お母さん」と呼ぶようにいうと、長男だけが従わない。従わないだけでなく、お芳さんが持ってきた三味線を「山田家に三味線は入れない」と謎めいたことを叫んでその柄を折ってしまう。《幼い時から、命のようにしていた三味線を手放すのがいや》でお芳さんは持ってきたのであり、弾くためではなかったのだったが。
 この激情的なところのある長男・珠樹が茉莉の夫なのであった。8年経って離婚するときには《お前たち(茉莉と杏奴と類)が社会へ出られないようにしてやる》(ウィキペディア)と脅したそうな。

 鴎外の「舞姫」は定番教材としていまも高校の現代文の教科書などに載っている。ぼくも学校時代に読まされ、擬古文がわからずあらすじだけで理解にかえた記憶があるが、妻の志げは、まだ鴎外を知るまえ、「舞姫」を読んで太田豊太郎に恋をした。自分の子がお腹にいる若い恋人をのこして、出世のため帰国する男を女性の立場から好きになるということもあるのだ! 縁談が持ち込まれ、会ってみると、それが「舞姫」を書いた鴎外であったという。志げからみると、鴎外は太田豊太郎にそっくりで、夢をやぶられることはなかったという。
 子供だけでなく、妻からも鴎外は愛された。次女の杏奴が書いている(『晩年の父』)。

 新婚後間もなく、或日父は母を呼んで、友人宛に自分が書いた手紙を読んで聞かせてくれた。それには
 「芸術品のような妻を貰って、どんなものかと心配していたら大変呑気者(のんきもの)で安心した」と言うようなことが書いてあった。
 母が黙って赤い顔をして聞いているのを眺めながら、若い父はアッハハハハハと如何にも面白そうに、元気に満ちた笑声をたてていた。
 病気が悪くなって、母が検尿する事を勧めても父は如何しても応じなかった。
 そして母が泣いて泣いて、涙で眼が腫れふさがってしまうほど長い間泣き続けて、やっとその事を承諾してもらった。その時小水の入った瓶と一緒に賀古鶴所氏の許に届けられた手紙に
 「これは小生の小水には御座なく、妻の涙に御座候」
とあった。

 『晩年の父』によれば、「舞姫」はほとんどが創作で、エリスのモデルの女性とははじめから期限を切った同棲という約束でのつきあいだったとのことだ。ところがモデル女性は想いをしまえず、鴎外を追って日本に来てしまった。それで騒動になった。鴎外もほんとは彼女と結婚したかったのかもしれない。モデル女性の写真や手紙を晩年まで取っておいたそうだから。死期が近づいて床についた鴎外はそれらを奥さんに頼んで焼いてもらった。
 臨終の場面での志げについては、三男の類が書いている(『鴎外の子供たち』)。

 父が昏睡に落ちいる死のまぎわに、「パッパ、死んでは、いやです。死んでは、いやです」と、母がなげき悲しんでいると、横から賀古さんが「お黙りなさい」と大喝したという。あまりの豹変ぶりに返す言葉もなく、腰がぬけたようになったという母の話を、杏奴から聞いた。

 賀古鶴所(かこつるど〔かくしょ〕)は、鴎外の軍医仲間の親友で、「一生かくすことなくつきあったのは鶴所一人である」と鴎外は遺言に書いているそうだ。遺言の口述筆記を担当したのが他ならぬ鶴所だそうだから、サービスもあったかもしれない。
 三男の類に、鴎外の死から35年のち、義姉がいったそうだ。義姉というのは、長男の於菟(おと)の妻であろう。於菟は、鴎外の最初の妻(モデルの女性をドイツに帰らせた後に結婚した女性)の子供で、類の異母兄にあたる。気持ちにウソのつけない志げは、先妻の子であるこの於菟を愛さなかった。そのことが於菟を通じて義姉の気持ちにも影響を与えたにちがいない。《大事な夫の死ぬまぎわには、だれしも静かに死なせてあげようと思うのがあたりまえで、「死んじゃ、いやです」と声を立てて取りみだすのは見ぐるしい》と義姉は類にいったというのだ。

 僕は黙っていた。黙っていて、何か恐ろしいような気がしてきた。何が恐ろしいかというと、近ごろのように兄夫婦といちおう円満に往来していて角(かど)の取れた話もしているのに、死んだ母のこととなると、たちまち考えに根本的な相違ができて対立するからである。僕としては、その場にいなかったので、母がどの程度取りみだしたか分からないというのが精いっぱいである。しかし、死にかかっている人間の胸ぐらを取って「死んじゃ、いやです」といいながら振りまわしたのなら、大喝一声阻止しないと死んでしまう恐れがあるが、僕はそう解釈していない。ふつうの細君が夫に死別するばあいと、僕の母が夫に死別するばあいとは、まったく状況がちがっていると思うのである。
 夫の死後、未亡人として一族のものから慰められるのとちがって、この世に取りのこされて、死ぬまで孤独で暮らさなければならなくなる母にしてみれば、生きていてちょうだい、生きていてちょうだいと、すがるように言ったのであろう。哀れに見えこそすれ、見ぐるしくは見えないはずである。夫の最期を静かに見送ることもできない女と解釈することは、僕にはどうしてもできないのである。

 鴎外の子供たちはみな文章がうまい。文章のうまさについてつきつめて考えようとするとわからなくなるが、この坦々と書いて諧謔味のある文章には感銘をうけた。