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わかりにくい文章

 大江健三郎の「見せるだけの拷問」という短編に《一月末日の、ジラード事件がはじめて報道された新聞を、この日はたまたま僕の二十二歳の誕生日でもあったのだが》というくだりがある。一月末日はきのうだ。きのうが誕生日だった。ことしは昭和96年だから、昭和10年生まれの大江さんは86歳になった。
 「見せるだけの拷問」は、『いかに木を殺すか』に入っている。この本をぼくはK君にもらった。面白かった? と聞いたら、あまり得るところがなかった、といった。
 そのころK君は雑誌記者をしていた。そのうち日本がやんなって海外にでかけ、何年かたってメキシコに落ち着き、大学で日本語を教える仕事についた。日本に帰国したときは連絡をくれて、メキシコはラテンアメリカのなかで職場放棄率が一番高い、などといった面白い話をしてくれる。最近会っていないが、元気にしているだろうか。
 ぼくはK君にもらった『いかに木を殺すか』をきっかけに大江健三郎のファンになった気がする。時はまだ80年代だったと思う。
 大江健三郎がノーベル賞を受賞したとき、新聞に著作の一覧が出ていたが、かぞえてみたら、そのうちの22冊を読んでいた。自分としては、すごい数だ。そんなに読んだ作家は、ほかにいない。
 ぼくはだれかをお手本にするのがすきで、ファンになったのは、大江健三郎の文章をお手本にしたいと思ったからだ。その前は、小林秀雄をお手本にしていた。さらにその前は、椎名誠をお手本にしていた。
 お手本が、何年かたつと変わるのは、あきるというか、そういっては語弊があるが(笑)、モチベーションがとぼしくなる。お手本どおりになかなかマネできない自分の能力や根気のなさに原因があるのだが。ともかく、お手本が変わるせいで、ぼくの文章はふらふら漂っていまだ行き着くところを定められない。
 それでも大江健三郎は、お手本としては、長くつづいたほうだ。理解度はともかく、22冊も読んだのだから。

 大江健三郎の文章は、名文だと思われていない。学校時代に読んだ、本多勝一の『日本語の作文技術』のなかでは悪文の例として挙がっていた。文法的に間違っているわけではないが、読みにくい文章だと、本多勝一は書いていた。
 さいきん読んだ『書く力 私たちはこうして文章を磨いた』(池上彰/竹内政明著)でも、大江健三郎がやり玉に挙げられていた。

池上 あまり表立っては言われていませんけれど、私などは長らく日本の代表的な作家として活躍し、ノーベル文学賞も取っている大江健三郎さんの文章は、ちょっとどうでしょうか。なぜわざわざもってまわった書き方をして、わかりにくい文章にしているのかが、どうしてもわからない。その書き方に必然性があればいいのですが、どんなに読み込んでみてもそれが見えてこない。私からすると、「自分に酔っているだけ」のような気がしてしまうんです。『死者の奢り』などは、学生時代に読んで、確かに名作だとは思いましたが、文章については、悪文と言わざるを得ないと思っているんです。
竹内 奇遇ですね。大きな声では言えませんが、大江健三郎さんについては、私も似た感想を持っています。(中略)例えば、いまは亡き名コラムニストの青木雨彦さんはエッセー集『夜間飛行――ミステリについての独断と偏見』(講談社)の中で、世の“恥ずかしい人”を俎上に載せています。こうあります。〈大江健三郎サンも恥ずかしい。大江サンの場合は、わかりきったことをわかりにくく書いているのが恥ずかしい〉。

 大江さん、やさしそうだから、批判されやすいのだろうな。まあ、「わかりにくい文章」といわれれば、たしかにわかりにくい文章はありますよ。
 たとえば、『いかに木を殺すか』のなかの「『罪のゆるし』の青草」。書き出しは、《昨年の暮、家族みなでアラレの降りしきる谷間に帰郷した。》。で、そのつぎに来ている文はこんな感じ。

裏の座敷から川面をへだたた対岸の、いちいち記憶に刻まれている巨木に、落葉した雑木の斜面を、時をおいて白い闇にとざすアラレが降る。

 ぼくは一読して理解できなかった。で、もう一度読んだ。が、まだうまく意味がとれない。2回読んでうまく意味がとれないとき、ひとは3回目にチャレンジするだろうか。ぼくはチャレンジした。お手本だから。
 こういうわかりにくさを、ぼくなんかうれしくて笑っちゃうけど、池上さんや竹内さんは嫌うんだな。青木雨彦さんにいたっては、「わかりきったことをわかりにくく書いているのが恥ずかしい」ときた。わかりきったことを書いていたら作家は食っていけないと思うけど(笑)。
 と、22冊読んだ者として、反論してみたくもなる。でも22冊じゃいばれないか。歴史学者の加藤陽子さんは大江健三郎の本をほぼ全部読んだそうだ。

相撲取りは力が強いって言われると嫌がるそうですね。お前は相撲が下手だっていうことになるんです。小説家も文章がうまいと言われると内容が薄っぺらだと言われてるような気がする。だいたい、真剣に物書いている人間は自分の文章をうまいなんて思っていませんよ。言っていることが半分も言えない。ガタガタした文章だって腹の中でいつも思っている。要するに書く内容次第でね。うまく書けるような、浅い内容のものならいいんですよね。でも、よく鉈(なた)なんか使う時、力を入れると抜けなくなることがあるでしょ、ああいうことが、本気で書いていると多いんです。ぐっと深く描いたらあとは綺麗に削げないんですよね。深みのあることを深くつっ込んだらとてもうまくは書けない。深いのを眼にしながら敢えて浅い所ですっと削ぐなんていうのは名人技で、そんなのはよっぽど年取ってからやればいいんで、中年やそこらでやるべきではないんです。昔の文豪だって決してそんなにうまい文章書いていませんよ。漱石なんかお読みになってみればわかります。それに今僕らが使っている日本語は、書き言葉として始まってからたかだか百年なんですね。だからかならずしもまだ確立されているとは言えない。だから、あまり人の文章をあげつらうべきではない。自分の文章を誇るべきじゃない。自分の悪文の本質的なものは大事にしなければ駄目です。

 これは、いまから30年以上前の講演録をあつめた『「私」という白道』にあった古井由吉のことばだ。もちろん、大江健三郎の文章について書かれたものではないけど、なんか胸のすく思いがする。
 そういえば古井さんも、大江さんに負けず劣らずわかりにくい文章を書く人だ。大江さんがいたおかげ(?)だろうか、古井さんの文章が、わかりにくいと批判されているのをぼくは寡聞にして知らない。