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学生時代の小説家

 学生時代、小説を書いて大学の文学賞をもらった友だちが「いまさら漱石や鴎外じゃないでしょ」といった。ぼくは彼を尊敬していたので、漱石や鴎外を読まずにすまそうと思った。漱石や鴎外じゃなければだれなのだ、とは聞かなかったが、それはなんとなくわかった。大江健三郎や中上健次や村上龍や古井由吉や……。
 太宰治も読まれていたと思う。ぼくも読んだが、好きとはなかなかいいづらい、そんな空気があった。その空気はいまもあるのかもしれない。坂口安吾は読んでいるとかっこいい作家だった気がする。
 村上春樹は、たしかぼくが大学2年の時にデビュー作の単行本が書店に並んだ。小説を書いた友だちとは別の友だちにすすめられて読んだが、あまりよくわからなかった。
 ぼくは第三の新人みたいなひとを読んでいた。吉行淳之介とか遠藤周作とか安岡章太郎とか庄野潤三とか。
 小島信夫も第三の新人のひとりだった。当時明治大学の文学部で教えていた。上に書いた友だちらとはまた別の友だちがその教えを受けていたので、へえ、と思ったが、ぼくは名前しか知らなかった。そこで『女流』というのを買って読んだが、あまりよくわからなかった。さいごまで読まなかったと思う。
 ぼくは読解力がないほうだ。よく内容を理解するには1回読んだくらいじゃだめなのだった。それが恥ずかしかった。
 学外のサークルで知り合ったM君は、千駄ヶ谷にアパートを借りて住んでいた。部屋のドアを開けると、くつ箱のようにみえる本棚に『森鴎外選集』21巻がでんと並んでいた。
 大学入学のお祝いに父親がくれたのだという。文学部に無事進んだ息子に、最低限の教養は踏まえた上で学問せよということか、それとも、はるかな到達点を見失うことなく励めということか、いずれにせよ、いいなと思った。
 ぼくは小学4年のときに父親から国語辞典をプレゼントしてもらったが、それ以降はない。ぼくはM君がうらやましかった。またそういう父親がいることがうれしかった。贈られた本人はどう感じていたのか、おかしな話だが、聞き忘れた。鴎外選集が並んでいるのをはじめて見た日、おもしろい? と聞いたらM君は、まだ読んでない、といった。
 日本文学を専攻したM君は、村上春樹のファンだった。下宿先に千駄ヶ谷を選んだのも、村上春樹がこの街でジャズ喫茶をやっていたという理由からだ。
 村上春樹が好き、と表明することは、太宰治が好き、と言うのに似た恥ずかしさがあると思うが、どうだろう。そういう恥ずかしさをM君からはまったく感じなかったが。
 早稲田大学で大江健三郎の講演会があって二人で聴きに行ったことがある。いい機会なので、自分は大江健三郎をお手本にしている、とM君に告白した。するとM君は、ぼくは村上春樹がお手本で、大江健三郎はライバルだと思っている、と即答した。そして講演が始まってしばらくすると、生成りの手提げかばんを抱くようにして爆睡しはじめた。かばんにはグレープフルーツがふたつ入っていた。
 M君はなにかたずねられると、ほがらかに即答する。ぼくはたいてい言いよどむ、そうでなければ、場当たりなことを言ってしまう。この初期設定的なおくれが、ぼくの生涯の漬け物石かもしれない。
 あるいはこの差は、子供に鴎外選集を贈る父親と、小学生用国語辞典しか贈れない父親との差、なのか? ぼくの父親も自信のない人だった。
 M君は、静岡県の生まれだが、大学を卒業して北海道に渡って、新聞社に入った。同じころサークル時代の後輩の女性と結婚した。
 歴史ある豊平館でおこなわれた結婚式と披露宴にぼくも招かれ、明治の元勲のようなイデタチのM君を見た。友人代表としてスピーチもした。

《M君、そしてM君の魂のゴングを鳴らしてしまった○○子さん、ご結婚おめでとうございます。……》

 つかみはOK、をもくろんで話し出したところが聴衆はシーンとしたまま。ちょっとアセったことを思い出す。披露宴の終わりには、花婿の父としてM君のお父さんがあいさつした。
 飾り気のない立派なスピーチだった。さすが、鴎外選集を贈るお父さん! ぼくは感動して、同じテーブルのN君に「いいスピーチだったね」と話しかけた。N君は宙をみるような目つきになって、「空疎な言葉がない」といった。