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Vol.23 アリスのための即興曲

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストをちょっと書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回までのストーリーは、こちらから。

Vol.22 ヴィーナスの復讐


本編 Vol.23 アリスのための即興曲


 一週間後の金曜日、僕は再びアリスと会った。話したいことがあると、電話で呼び出されたのだ。彼女なりにこの一週間、色々と考えていたらしい。万一森田が離婚に反対したら、訴訟を起こす覚悟はあると彼女は言った。けれど裁判沙汰になった場合、外国人である彼女にとって物事が不利に運ぶ可能性がある。そうならないために、物的証拠が必要だと言う。そこで彼女は自分の証言を映像として残すことに決めたと言い、僕に撮影を担当してほしいと言う。僕はもちろん、彼女の頼みを受け入れた。こうなってしまったのは僕が原因なのだ。彼女を救うためなら何でもしたいと思った。

 支度が整うと、アリスは僕を部屋に呼んだ。彼女は濃紺のスーツを着て、亜麻色の髪の毛をシニヨンにまとめていた。うっすらと化粧をし、耳には白い真珠のピアスをしている。背筋をきちんと伸ばして座った彼女はこんな日だというのに美しく、記念写真の撮影でもするみたいに見えた。彼女はこちらを向いて頷いた。僕は携帯電話のカメラを三脚にセットし、撮影ボタンを押した。



「20××年、12月8日」彼女は日本語で言った。それから少し間があって、
「オットは…わたしに乱暴をしました」と震える声で言った。
「坂本さんがそばにいてくれなかったら、今のわたしはどうなっていたかわかりません」

 そして彼女は事件当日のことを語り始めた。思ったよりもしっかりした声で、カメラをまっすぐに見据えていた。時折、両手をぎゅっと握りしめたり、涙で喉を詰まらせたりしたが、全体を通して終始静かな口調だった。まるで誰かの結婚式でスピーチをしているみたいに、言葉はすらすらと澱みなく出てきた。かすかな外国人訛りはあったが、きちんとした正しい言葉遣いで、ほとんど日本人と変わらないように話した。ただ、『オット』のアクセントだけはとうとう修正されることはなかった。




 彼女が話すのを聴いていると、まるで『オット』と『森田嵩幸』というふたりの人間がいるような気がした。僕の知っている森田がそんなことをするなんて、未だに信じられなかった。あれほど生々しい傷跡を見せられても、まだ森田をかばいたい気持ちが湧いてくるのは奇妙なことだった。それともアリスの言うように、僕も彼の人間性に幻想を抱いてしまっただけなのだろうか。そう考えるとやるせない気持ちになった。

「残念ながらわたしの心につけられた傷は、お見せすることが出来ません。けれどそれは、躰の傷と同じくらい深いのです。夫婦だからといって、オットが妻の躰をほしいままにし、暴力をふるうことが許されるでしょうか。このビデオを見た方にご判断をお任せします」

彼女はそこまで話し終えると、息を吐き出した。それから僕に向かってOKのサインを送った。僕はカメラの撮影ボタンを止めた。それから彼女は、打撲痕の写真を撮ってくれと頼んだ。彼女の肌が世間の目に晒されるようで気が引けたけれど、これもアリスを守るためだと思い、承諾した。

 アリスはスーツの上着をするりと脱いだ。ブラジャーのすぐ下から右の脇腹にかけて、くっきりと痣が残っていた。赤紫色に腫れて痛々しいほど鬱血している。僕はそれを携帯電話のカメラに収めた。鳥の死骸でも撮っているようで、口の中に苦い味がした。まだ痛みはあるかと尋ねると、彼女は眉毛をぴくりと動かし、何も言わずにさっと上着を羽織った。それから着替えてくると言って寝室に向かった。彼女の香水の匂いが肩のあたりに漂っていて、いつまで経っても消えなかった。


「ピアノを弾いてくれない?」とアリスが言った。
撮影を終えた彼女は、ゆったりした部屋着に着替えて僕の前に立っていた。風のない冬の海みたいに彼女の瞳はおだやかだった。彼女のそのような顔をしばらく見ていなかったような気がした。

 僕たちは居間に向かった。部屋中にシャンデリアのひかりがいっぱいに満ちていて、あたたかな木漏れ日の射し込む森のようだった。グランドピアノはいつもの場所にきちんと収まって、忠実なゴールデンレトリバーのように僕を待っていてくれた。

 ピアノの前に腰を下ろし、黒く艶やかな鍵盤を撫でた。長い間会っていなかった相棒に再会したような気持ちだった。僕はゆっくりと鍵盤蓋を開け、さて何を弾こうかと思案した。ラフマニノフ、ベートーベン、バッハ、ドビュッシー、サティ。さまざまな作曲家の名前を思い浮かべてみたが、どれもピンとこない。

 今、アリスのために何かを弾いてあげたい。彼女の苦しみを少しでも和らげるような曲を。鍵盤に指を乗せ、目を閉じ、僕は即興で弾き始めた。楽譜なしで自由に弾くのははじめてだった。頭をからっぽにして指先に意識を集中していると、次から次へと音が生み出され、こぼれ落ちていった。ひとつの旋律はもうひとつ別の旋律を連れてきて、それらは絡み合い、踊り、次のモチーフを生み出した。音は毬のように転がってはずみ、止まることがなかった。僕は心と躰と魂のありったけを音にこめて、アリスのための即興曲を弾いた。

 弾き終わると、指が痺れていた。息が弾んでいる。頭は冴え冴えとして、肺いっぱいに静かな充足感が満ちていた。いつもなら盛大に拍手してくれるはずなのに、部屋の中は無音だった。気に入らなかったのだろうか。振り返ると、アリスは泣いていた。音もなく、ただ涙が流れるままにさせていた。僕は立ち上がって彼女のそばに行き、肩を抱いた。力を込めたら壊れてしまうんじゃないかと思うくらい、華奢な肩だった。
「どうして泣いてるの?」と僕は尋ねた。
「わからない」と彼女は答えた。答えながらも、涙はあとからあとから流れてきて彼女の頬を濡らした。見開いたままの瞳は青く透き通った硝子玉みたいだった。壊れた人形のように、彼女は僕に肩を抱かれたままぼんやりと遠くを見ていた。
「本当を言うとね、坂本さんのピアノをはじめて聴いたときから、あなたに惹かれていたの」
長い沈黙の後、彼女はぽつりと言った。小さな女の子がいたずらを告白するみたいに。
「でも、あなたとはしばらく会えないかもしれない。ほとぼりが冷めるまでフランスに一時帰国するかもしれないし。正直言うと、この先のことは本当に何もわからないの」
彼女はついと窓辺に向かい、外の景色を見つめた。窓の外では静かに暮れてゆく冬の日が見えた。空は淡い灰色と桃色が混じりあい、その境界線に気の早い一番星が瞬いていた。空き瓶の中に閉じ込められたように、時間は止まっているみたいだった。
「離婚が成立したら、僕と一緒に暮らさない?」僕は彼女の背中に向かって言った。
それは言おうとして、ずっと言えなかった言葉だった。言い終えると、胸が熱く、じんじんと痺れていた。



 彼女は振り返って僕の目を見つめた。淡いブルーの瞳の中にかすかなひかりが揺らいでいた。唇が震えて、何かを言おうとした。けれど次の瞬間、彼女の瞳はさっと翳った。暗い雲が空にかかるように。
「あなたとは、もっと違うかたちで出逢いたかった。わたしたち、生まれ変わったら来世で逢いましょう」
アリスは僕を抱き寄せ、そっと頬にキスをした。彼女の唇はあたたかく湿っていた。

 帰りの坂道をくだりながらふと見上げると、窓辺にはやはりアリスがいた。シャンデリアのひかりに照らされた青白い顔はやはり人形めいて、濃紺の闇を見つめていた。そのシルエットは影絵のように脳裏に残り、いつまで経っても頭から離れなかった。それが彼女と会った最後の日になった。


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