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Vol.16 森田の秘密

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。

あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

これまでのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊


本編 Vol.16 森田の秘密




 その日を境に、森田嵩幸からちょくちょく飲みに誘われるようになった。僕は三度に一度は断るようにしていたが(なんといってもアリスのオットなのだ)、あまり断るのも申し訳ないので時には出向いていった。彼と会う前日にはいつも気が重くなった。が、それは彼の人柄に由来するものではなく、僕たちの関係性のゆえだった。もし彼がアリスのオットではなく、単に同じ大学の先輩というだけだったとしたら、僕はもっと気楽な気持ちで彼に会うことができただろう。奇妙なことだが、僕は彼に好意を抱きはじめていた。十八歳という年の差にも関わらず、森田と僕は妙に気が合った。


 彼の中には「洗練された俗っぽさ」とでも名付けたいような何かがあった。小汚いがとてつもなく安くてうまい屋台から六本木の高級バーまで知っていて、そのいずれも同じように愛しているといったタイプの男だ。彼の口から出ると、「ここのねぎまがうまいんだよねえ」も「ここのシャトーブリアンがうまいんだよねえ」もまったく同じ響きを持った。そしてそれが彼に不思議な魅力を与えていた。 



 ある土曜日の晩、森田から呼び出され、僕はとある青山のバーにいた。表通りから少し離れた場所にあるので店内はほどよく空いており、かといって心配になるほどがら空きというわけでもなかった。コルトレーンの心地よいサックスの音が、ほの昏い店内に低く流れていた。僕はモヒートを注文し、ひとりで飲んだ。彼は約束の時間に10分ほど遅れて現れた。
「悪いね、ちょっと仕事が長引いちゃって」と言って彼は僕の座っていたカウンター席の隣に腰を掛けた。そして軽く手を挙げて「いつもの」とバーテンダーに言った。バーテンダーは会釈し、滑るように店の奥に消えていった。それらのやりとりを森田がこなすと、さりげなく、スマートで、嫌味がなかった。彼は上質なサービスを受け慣れている人間に特有の優雅さといったものをごく自然に身にまとっていた。

「坂本くん、今、3年生って言ってたよね。就職、どうすんの?」と森田が尋ねた。
「はあ、それが、まだ…」と僕は答えた。
「あんまり興味ない感じ?」
彼は核心を突いてきた。図星だった。実のところ僕は就職活動さえ始めていなかった。もちろん、それが「興味がある、ない」で済まされる問題ではないことはわかっていた。



 人々の人生には、昨日まで歩いてきた道の延長上に突如として「就職」や「結婚」といったものが障害物競走のように現れるものらしい。そして現れたが最後、全力で闘わなければならない。少なくとも僕以外の同級生は全員そのような努力をしていた。でも僕にはそうしなければいけない理由がよくわからなかった。そうした営みは僕とは関係なく勝手に行われているレースのようだった。

 むろん、生きるためには働かなければいけないということはいくら僕でもわかっていた。祖母の年金とカルチャーセンターで得られるわずかな収入を当てにしてこの先も生きていくなんて考えるだけでもぞっとした。僕自身もバイトで得た収入から毎月祖母にお金を渡すようにしてはいたが、それだって微々たるものだ。そんなことで一生生活できるわけがない。
 それなのに妙なところで楽天的な祖母は、僕の人生についてはあまり心配していないらしかった。そのせいか、おそらく普通の家庭の両親が言うであろう小言を彼女が口にしたことはただの一度もなかった。
「あたしはあんたを信じてる。あんたの好きな道を選びなさい」
彼女はいつも僕にそう言ってくれた。その後、決まって小さな声でこう付け加えた。
「いざとなったら、亡くなった爺様が遺してくれたお金があるから心配しなさんな」
僕はその言葉に甘えてしまっていたのだ。



「俺も学生のときは『仕事』ってピンと来なかった。就活だけは人並みにがんばったけど、採用された会社が気に入らなくて、たったの2年で辞めちゃってね」
 森田の声が僕を現実に引き戻した。
いつの間にか目の前のカウンターにピスタチオの入った小皿が置かれていた。彼はピスタチオの殻を器用な手つきで剥いていた。指が長く、やや骨ばった大きな手だ。ピアノを弾かせたら鍵盤のかなり広範囲まで手が届きそうだ。そういえば最近アリスの家でピアノを弾いていないなと、僕は頭の片隅で考えた。森田は僕の沈黙にはかまわず続けた。
「会社を辞めてから、あちこちでバイトをした。何でもやったよ。コンビニ、ビルの警備員、工事現場、パチンコ店、それからホストクラブで働いたこともある。そんな生活がかれこれ5年くらい続いたかな。ある時、ふと思ったんだ。俺は何をやってるんだろうって。このまま一生こうやって生きていくんだろうか、ってね」
彼は赤ワインをひとくち飲んだ。そして自分の手を間接照明のひかりにかざしてまじまじと見つめた。まるでそこに人生のすべてが記録してあるみたいに。


「ひとり暮らしだったし、金のかかる趣味もなかったから、貯金はかなりあってね。ある時、一念発起して自分の会社を立ち上げようって決めたんだ。29歳の誕生日の1か月前だった」
10年分の疲労を押しのけるように、彼はふーっと長い溜息をついた。黒い影のようなものが彼の背後にゆらめき、またどこかに消えていった。

「坂本くん、俺はね、仕事ってゲームみたいなものだと思ってる。露骨な言い方をすれば、さっさとお金を稼いで引退したやつの勝ち。社会はいつの時代も大体そのように機能してきたし、これからもたぶんそうだろう。AIに完全支配される時代はまだもうちょい先だろうしね。だったら、誰にも文句を言われないように楽しくゲームして、時が来たら潔く身を引く。それがベストじゃない?」

頭がいいひとはスマートな考え方をするものだと僕は感心した。僕は仕事というものをそのように捉えたことがなかった。アルバイト以外に労働の経験がなかったし、自分自身に何ができるのかもわからなかった。祖母のように特別な技能があるわけでもないし(彼女は華道の世界に僕が足を踏み入れることを望んでいなかった)、ちょっとピアノが弾けるというだけでは飯のタネにもならない。かといってサラリーマンになって働くというのもピンと来なかった。海外に留学したいというような情熱も持ち合わせていなかった。要するに救いようのないほど中途半端だったのだ。



「坂本くんも焦らなくていいと思うよ。自分が楽しくゲームできる場が見つかるといいね」
森田はそう言って僕の肩に手を置いた。その手は彼がバーテンダーに飲物を注文した時と同じように、さりげなく軽やかだった。そのように言われると、僕にも何かしらの仕事ができそうな気がしてきた。モヒートのグラスに添えられたミントの緑も、あざやかに輝いて見えはじめた。



「退職したら、アリスと一緒に世界一周旅行でもしたいな、と思ってる。というか、俺がひとりでそう言ってるだけだから、付いてきてくれるかどうかわからないけど」
森田はグラスを傾けながら言った。彼の発音する『アリス』という言葉には、深くしみじみとした愛情の影みたいなものが感じられ、僕の胸をひやりとさせた。
「いいですね、素敵な奥さんがいて」僕は声に嫉妬がにじみ出ないように注意深く言った。
「はは。ありがとう」森田は乾いた声で笑った。それからワイングラスの淵をくるりと指でなぞり、そこに残っている深紅の液体に向かってつぶやいた。
「素敵な奥さん、ね」
僕は思わず顔を上げて彼を見た。うつむいていたので表情はよく見えなかったが、その声はくぐもっていて陰鬱だった。
「何かあったんですか?」と僕は尋ねた。森田ははっとしたように僕を見た。それから5秒ほど虚空をじっと見つめた。まるで見えない暗号でも読みとろうとしているみたいに。彼の眉根には深い皺が刻まれていた。
「坂本くんにこんな話していいかわからないけど」
彼は長い沈黙の後に言った。僕はうなずき、相手が話し始めるのを辛抱強く待った。森田は手を握ったり開いたりといった動作を何度か繰り返した後、意を決したように話し始めた。


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