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Vol.10 ひかりとあまい泥

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。もしよろしければ。↓


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

これまでと、これからのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊

本編 Vol.10 ひかりとあまい泥

 昨日の豪雨がうそだったみたいに、翌朝はからりと晴れていた。コバルトブルーの空にミルクを流したような雲が浮かんでいた。飛行機雲がのんびりと空を横切っていった。空にはひかりがあふれていた。それは泣きたくなるほどまぶしいひかりで、額に入れて飾っておきたいような秋の空だった。僕はしばらく空を眺めていた。雲の形が残像となって、黄色っぽい波状模様を描きながらまぶたの内側で踊っていた。


 僕は目をこすり、あくびをした。シャワーを浴び、三日ぶりに髭を剃った。昨日までの僕はきっとひどい顔をしていたことだろう。今朝鏡に映っているのは、いつも通りの僕の顔だった。つるりとした肌。すこし茶色がかった瞳。血色のいい唇。そこには何の傷跡も見当たらなかった。
 居間に降りると、キッチンの時計の音がいやに耳についた。朝の9時30分だった。祖母はすでにいなかった。カルチャーセンターで華道の講師をしているので、おそらく今日はその講義の日なのだろう。平日のこんな時間に生徒が集まるものなのかどうか、僕にはわからなかった。ともかく彼女は不在で、冷蔵庫にマグネットでメモが貼られていた。祖母らしい達筆で、以下のように書かれていた。

「冷蔵庫にほうれん草のおひたしと卵焼きがあります。
 お味噌汁はお鍋の中です。ごはんも炊けています。
 あまり無理しない程度にがんばりなさい。
                               時子」

 僕はそのメモ用紙をしばらく眺めてから、四角く折りたたんでポケットにしまった。「無理しない程度にがんばる」ってね、それが一番難しいんだよ、時子さん、と僕は思った。実際、僕は何をどうがんばったらいいのかよくわからなかった。
 とりあえず僕は自分のために珈琲を淹れた。昨晩何も食べずに寝たので、とても腹が空いていた。珈琲を淹れる間にパンをトースターにセットし、祖母の用意してくれた食事を弁当箱に詰めた。すこし酸味のある豆の香りがキッチンに広がる。舌がさえているので、珈琲がとてもおいしく感じられた。珈琲をおいしくするのは静かな朝なのかもしれないと僕は思った。


 一限の授業に間に合わないことは明白だったので、開き直って午後から通学することにした。とするとかなり時間がある。自分の部屋に戻ってノートパソコンを開けると、新しいメールが一通届いていた。それはアリスからのメールだった。

さかもとさん、
こんにちは。お元気ですか?
わたしは元気!フランスはとても たのしいよ!
らいしゅう 日本に もどります。
金ようび、レスンしましょう。

Bisou!(キス!)


 添付ファイルを開くと、そこにはテラスでくつろいでいるアリスの写真があった。森の湖畔にあるレストランか何かなのだろうか、木漏れ日がテーブルに落ちてきらめいていた。彼女はワイングラスを傾けて誰かと談笑しているようだった。襟ぐりの深く開いた深紅のワンピースを着て、口紅も同じ色で綺麗に塗られている。彼女の瞳はひかりを受けて輝き、それはアメジストのようにも、エメラルドのようにも見えた。

 フランスの上空に降り注いているそのひかりは、僕が今朝見たのと同じひかりなのだ、と僕は思った。そのひかりはあまく輝きながら僕の胸をひたひたと満たし、あふれ、ほとんど息ができないくらいだった。彼女が僕のことを思い出してくれた。またレッスンをしようと言ってくれた。また会える、それだけでいい。それだけで生きていける。気がつくと僕は泣いていた。なんだこれ、おかしいなと思ったけれど、涙はあとからあとからあふれてきた。何泣いてるんだ、恥ずかしいなと自分を戒めようとしても、頭の芯がしびれているのでどうしようもないのだ。僕は抵抗するのをやめて涙が出るのにまかせた。その熱い洪水のような涙の中で、僕ははっきりと悟った。僕はアリスに恋しているのだと。



 それは言葉にしてみればどうしようもないほど陳腐だった。昼のメロドラマのタイトルと同じくらい安っぽく響いた。その捉えようのない、低俗的な感情に支配されていくのかと思うと僕はぞっとした。けれどそれと同じくらい、僕は幸福だった。それはあまい菓子の中に身を沈めてゆくような、泥の中を這いずりまわるような類の幸福だった。自ら好んで毒を飲むひとのように、僕はその感情を愉しんだ。彼女が僕より六歳も年上の人妻であるとか、外国人であることなど、どうでもよかった。ただ一刻も早くアリスに会いたかった。
 カーテンが窓辺でさやさやと揺れていた。太陽はすこしずつ高くなっていき、この部屋を窒息しそうなほどのひかりで埋め尽くすだろう。そうなる前に早く出よう。僕は携帯電話と財布と鍵を鞄の中に放り込むと、先ほどのプランを忘れて家を飛び出した。


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