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私と父の話

ご覧いただきありがとうございます!
HSPカウンセラー 志乃ともこです

89歳になる私の父は、3か月ほど前に庭で転び腰を打ってから、ほとんど外出をしなくなり、座ったり横になってテレビを見ていることが多くなった。
食欲が落ちたことを心配する母をよそに、三度の飯より好きな庭の花が、
今の父の支えである。杖を突けば庭に出ることもできるようだ。
頑固一徹の父は、70くらいから少し丸くなったが、話していると時折気難しさが出る。その父が近ごろまた小さく、弱くなった。

食卓で二人焼き芋の皮をむきながら、                                       
「お父さんが現役の時は、すごくギラギラしてたよね?子供だったのもあるけど、怖くて話しかけられなかったよ」
と言うと、父が
「そうか?」
「うん」
と答える私。
「・・・・・」
ラリーどころかすぐに終わる会話。
久々に話したが、父と娘の会話は昔からこんなものだった。
お互い無言で焼き芋を口に運ぶ。子供の頃、休日に母が友達と出かけてしまうと、父と二人の留守番が気まづくて嫌だったのを思い出していた。
高校で美術部に入り、将来はクリエイティブな仕事がしたくて美大を目指したいと、ドキドキしながら父に打ち明けた。しかし、「現実的に食べていけないからダメだ」の一言で却下された。

父は昭和一桁生まれ。関東で戦中戦後を経験し、高度経済成長期の真っただ中を、銀行の企業戦士として全うした芯の強い人だ。
農家の8人兄弟の3番目。小学校から帰ると、両親の畑仕事を2歳の妹をおんぶして手伝うのが日課だったらしい。畑仕事が早く終わったら、妹をグランドの脇の木に縛り、友達の野球の輪に入れてもらったという(今では考えられないことなのだが)話を聞いたことがある。「よく手伝い働いてきたから、へなちょこのお前なんかにはまだまだ負けん」父のいつもの口癖だ。

父から、お前は橋の下で拾った子供だとからかわれ、本気で泣いたこともあった。
また、仕事でイライラした父が何も言わずドンとテーブルを叩く音や、母が父の機嫌を伺う姿は、子供心に親に甘えてはいけない気持ちを芽生えさせた。

対照的に、親や兄弟が入院したり困っていると、一目散に駆けつけては相談にのったり助けていたのも父だった。母や私に対して、厳しいことを言っても見捨てることはなかった。
誰かを助けるのは得意だけれど、助けられるのは苦手な武士みたいな人だ。
戦争の恐ろしさを体感しているからかも知れない。無骨で気難しく話しかけづらい、でも行動には父の優しさが滲み出ていた。
人が好きなのに甘え下手で、優しさを理解してもらえるまで時間のかかる、いわゆる損な人だ。

当時の私は、緊張感のある家から早く出たかった。
美大進学を反対され諦めたこともあるが、全く興味のない銀行の仕事が明らかに向いていなかった。それを悟られるのが悔しかったからだ。

その後、結婚し家を出たがDVに遭い離婚。カサンドラ症候群にも陥りどん底を見たものの、環境から離れたので今は治っている。子供達は成人して、仕事の話もできるまでになった。
ライスワークと割り切って続けた仕事も、そこで終えた。

今の私は好きな音楽をBGMにパソコンに向かうのが日課だが、もう一つは花。
気付けば花を部屋に飾ったり、外へ見にいくのが趣味になっている。

苦労しないとたどり着けないように仕組まれているのか、そこにはいつも無言の愛があった。不思議なもので、嫌いだったはずの自分に流れる不器用な正義感や、慎重で繊細な部分も、今ではまあそれも良いかなと思う。
受入れ難く反発しようとする自分と、遺伝子レベルの自分の矛盾した感覚。葛藤と受容は人生のテーマだと思う。

いつからだろう、私はこんな風に回想しながら、生きやすい自分へカスタムしている。決して早いスタートとは言えないが、死ぬまでアップデートし続けたいと思う。

そして父と過ごす時間も、大切にしたい。





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