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やさしさのあるところ



やさしさってなに? 

これは長年わたしが抱いてきた疑問のひとつです。

それでも世間は、あんたの理屈っぽい疑問など知ったこっちゃないと言わんばかりに、わかりやすい“やさしさ像”というものを要求してきます。

そんな、どこぞの誰かに無理やり無言で求められるような“やさしさ像”に徹底的に反発してきた時代が、わたしの人生の中にはあります。

そうした過去を越えて、やさしさってなに?って今、もう一度問いかけられたとしたら、わたしはこう答えると思います。

やさしさは「まなざし」だ、と。

見逃してしまいそうなほんのひととき、誰かや何かを見つめる(もしくは思い浮かべる)柔らかな「まなざし」のあるところに、わたしの思う真のやさしさは存在する、と。

わたしは言葉を紡いだり読んだりするのは好きですが、言葉の連なり、その意味するもの自体はさほど重要視していません。

心を動かされるのは、その奥に込められたエネルギーにであって、たとえどんなに立派なことや美しいことが書かれてあったとしても、書き手のエネルギー(心身の状態)とのギャップやズレがあれば、違和感を感じるようになっているものだと思うからです。

言葉の意味は表現を支える目安にしか過ぎないし、その連なりは心の音を乗せるための借り物。

生きたエネルギー(あなたそのもの)の“音”を表現するための、媒体です。

だから、何を綴るか(言うか)じゃない。どんなエネルギーで綴るか(言うか)が重要なのだと、時に忘れそうになることもありますが、そう肝に銘じています。

やさしさも同じだと思うのです。

表に差し出されているものではなくて、誰かに知らしめるものでもなくて、ただふとした瞬間に溢れてしまうもの。その中にやさしさは存在する。

道端を歩いていて可愛い花を見つけたときに思わず溢れる笑みや、眩しそうに空を見上げて風を浴びながら立ち止まる人の姿。街中(もしくはネット上)ですれ違う人たちの何気ない仕草や会話から伝わる日常。

その存り方に、やさしさが見える。

わたしはそれを「まなざし」と呼びます。


本来やさしさを計ることは当事者にしかできないし、そもそもやさしさを感じるポイントは人それぞれ違います。環境やタイミングなども絡まればなおさら定義することは難しいものです。

わたしは世間一般的なやさしさを表現することは苦手だし、そんなわたしを厳しすぎると言う人もいました。

「君はやさしくない。」

何度言われたかわからないその言葉に、どれだけ自問自答したでしょうか?


じゃあ「やさしさ」ってなに?と。 


今から9年前、アパレル企業に勤めていて大型新店舗を任された頃、独自のマニュアルを作り、鬼のような厳しさでスタッフ教育に明け暮れました。

立ち姿からは清々しさが見えるように、

「いらっしゃいませ」の声色からはよろこびが溢れるように、

まなざしからは、そっと見守りいつでも手助けしますよという温もりが伝わるように。

サービスを提供する者として、自分自身が心から楽しみ溌剌としている姿でそこに立つことは、必要不可欠だと思っていました。だからそのための布石となるこの3つの項目は絶対に妥協したくなかった。

毎日鋭い眼光を放ち、徹底的に叩き込みました。わたしが一匹狼であれば、指導された部下がどんなに辛くても、スタッフ同士で愚痴を言い合うこともできる。その息抜きの場さえあれば何とかなるだろうと思ったから、容赦なくやらせてもらいました。お客様と真っ直ぐに関わることがどれほど心を豊かにしてくれるのか、実際に体験し理解してもらえるように。

それでもわたし自身の心が折れそうになることは多々ありました。何で伝わらないの?と、悩みに押し潰されそうな日々を過ごしました。

そんなある日、厳しい指導を受けながらも、涙をこらえながら新人の部下が言ってくれた一言がありました。

「本当は店長がやさしいこと知ってます。」

緊張の糸が緩み、柔らかい布に包まれたような安らぎを覚えました。そのまなざしが孕むやさしさに救われ、涙してしまった出来事でした。

と同時に、わたしにしか表現出来ない独自のまなざしがあるのかもしれないと教えられた気がしました。だから他の人が見えていないこと、言いづらいこと、避けて通りたいことを伝え続ける勇気にもなりました。

その部下は、わたしが退職して3年後、その店の店長に抜擢されました。相変わらず社内での売り上げはトップだと知り、自分のことのように誇らしくなりました。今夏、残念ながらブランド自体がなくなることが決まってしまいましたが、撤退する来年の1月末までやり遂げると風の噂で聞きました。彼女もまた信念を貫き、苦悩しながら、孤独に自分と向き合い続けたんだなと思うと感慨深いものがあります。

いつか、大変な職務をよく全うしたねって伝えたいです。

話が逸れましたが、この部下とのことを思い出すたびに、大多数に理解されなくても、自分の信念を貫くことで確かに伝わる想いがあるのだと、励まされるような気持ちになります。

わたしは過去の自分のやり方が正しかったとは思っていません。臆病な故に本質と虚栄の中を行ったり来たりしていたあの頃について、むしろ間違っていたのかもしれないといつもどこかで責め続けていたからこそ、それでも伝わった人がいる事実が、わたしを安らかな気持ちにさせてくれました。

それが「まなざし」の感触であり、やさしさの正体だと感じています。

ふわっとした柔らかさに包まれるているような気がするとき、確かに人はやさしさの中にいると思うのです。

誰にも理解されないと思っていても、どこかで気付いて見守ってくれている誰かや何かはある。

それは大自然やもう一人の自分かもしれないし、もしかしたら思いもよらない人かもしれない。もしくは音楽や映画かもしれないし、本の中の言葉かもしれない。

それでも確かにそれは誰かのまなざしがカタチになったものであり、その中に込められたエネルギーは時を超え、気が付かないだけで今日もあなたにそっと寄り添ってくれているかもしれません。

そして、そのエネルギーに触れ、あなたがあなたらしさを取り戻したとき、気付いたら身体から溢れ出ているもの。きっとそれがやさしさの連鎖なんじゃないかなと感じています。

嘘偽りない温もりで、誰かの生き様を見守り、いのちの営みに触れるあなたがいる。また、そんなあなたを目にするだけで心安らぎ癒される人がいることを、どうか知っておいてくれたらうれしいです。


『存在してくれてありがとう。』




この記事を書き終えそうな辺りで、身体の中から響いてくる歌がありました。

それはわたしの心のジブリNo.1、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』のエンディングテーマ「いのちの記憶」でした。

深いところを撫でられたようなやさしい温度は、いつも頭ではなく身体が覚えています。

その記憶は、どれだけ時が経っても、今を満たすエネルギーを与えてくれます。

そしてわたしたちはいつでも誰かのまなざしの中に生きています。

そんなさりげない温もりで寄り添ってくれている存在がいることを、これからも出来るだけ忘れないわたしで在れたらと思います。




#やさしさにふれて




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