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あの人が死んだら


一部センシティブな内容が含まれます。あくまで個人的な内側の感覚に基づいた表現であり、実態は想像もしくは幻想ですが、体調と相談の上、自己責任でお読みいただけると幸いです。



もし今あの人が死んだら、わたしのせいかもしれないと思った瞬間、心臓が痛くて、苦しくて、生きた心地がしなかった。

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

ひどいことを言ってしまったかもしれない。

そんなことがとりとめなく、グルグルと頭の中をまわっている。

怖い。怖い。また怖い、だ。

わたしは恐怖心が強い。

いつも真正面からその恐怖を感じられず、目を晒し逃げつづけてきた。

でも今、なにが怖いのか、その恐怖をしっかり見据えて感じてみる。


あの人が死ぬことが怖い?

- とてつもなく悲しいけれど、死そのものが怖いわけではなかった。死に纏わることで及ぶ諸々の影響が怖いのだ。もし、本当に死んだとしたら、それは寿命だ。


あの人を傷つけ、それが死を選ぶきっかけになり、自分が殺人者呼ばわりされるのが怖い?

- 人は自分にしか傷つけられない。もはや全ての感情の選択権は当人にある。その観点から言えば傷付けしまったと闇雲に思うのは傲慢で、自分を責めることは万物にとって悪影響しかない。もしそれで仮に誰かに殺人者呼ばわりされたとしたら、それも自分が自分をそういう人間だと信じているときだけだ。


じゃあ、なにがそんなに怖い?

- 自分が頭おかしいことを言ってるかもしれないこと。自分の言動が極端すぎるかもしれないこと。そうやっていつも自分を疑って、自分に責められていることです。


自分に責められて、自分を信じられなくて、恐怖を感じているんだね?

-そうです。


すべての恐怖は、自分で自分を否定することで引き起こしているね?

-そうです。


こんな感じで、何とか冷静を取り戻し、それでも気を抜くと、恐怖で寒気がしてくる。

そんなことを繰り返しながら、次第に恐怖は落ち着き、だんだん悲しみが顔を出してくる。あの人のことを思い出しながら、涙が出てくる。


本当はどうしたかった?

-もっと素直にただ悲しかったという事実を伝えたかったです。そして、死なれることを想像してしまったら、もう生きててくれるなら、それだけでいいと思いました。他になにもいらないです。何もしてくれなくても、与えてくれなくてもいいです。


口論の後、LINEが既読にならず、電話にも出てくれない。現実的に身動きが取れないゆえに消息を確かめる術はなく、死んでいるかもしれないと思った。もしひとりで死んでいたら?死んだことも知れないなんて嫌だ。これまでのLINEでの会話の内容を遡りながら、職場を特定して、連絡した方がいいかもしれないとさえ思った。生きてることさえわかれば、それでよかった。

必死に検索してみるが、それ以上は身体が動かない。本当にここまでやる必要があるのか?

自分と向き合うことから逃げてるだけじゃないか?

もはや、相手が無事生きていると知ったからと言って、それが自分自身の根深い恐怖の根源を癒してくれるのか?


過去に二度、似たような経験があったことを思い出した。一度目は、紆余曲折の末、気持ちには答えられないことを意思表示し別れを伝えたら、自殺をほのめかされた。怖くなって、相手の家族がいる自宅に連絡を入れ、事情を話し、後のことは任せた。

二度目は、明らかに過剰な妄想で、わたしの行動をでっちあげ、監視し束縛され、自由を奪われる恐怖から連絡を無視していたら、自殺をほのめかされた。仮にも好きで付き合っている相手に、自殺をほのめかすなんて、あり得ないことだと思った。謝罪も慰めの言葉もかけなかった。いい大人が何を言っているんだろうと思った。おかげで更なる攻撃を受けたが、これ以上傷つけたくないという相手の申し出により、関係は程なくして終わった。

そして、そんな経験を経て、あの人と連絡がつかない理由を考えた。

目の前に起こっているこの現象は、感じている恐怖は、実際に起こっているかどうかもわからない、最悪の事態を想定している自分の意識の現れにしか過ぎないことに徐々に気が付きはじめる。 

そこに過去の幻想や恐怖を見て、目の前の現実と想像がごっちゃになっていることもわかってきた。

この空白の時間を、恩恵をありがたく受け入れてみたら?

自分と繋がる時間に当ててみたら?

大いなるもの、その流れに、そう言われているような気がしてきた。

あの人じゃなくて、もっと自分のことを見てあげなさい、と。

そしたら、少しずつ見えてきた。あの人を通して、自分へ言葉を放っていたこと。

それが苦しみになって、この胸へと返ってきていること。

そして、わたしがあの人に対して浮かんできた想いは、生きててくれるだけでいい、だった。

その数日前、奇しくもあの人が、わたしにかけてくれた言葉だった。

あの人がわたしに向けて発した想いは、確かにあの人の元へ返っていこうとしていた。

あぁ、すべてが腑に落ちた。

やっぱりぜんぶ、自分でしかないのだ。


わたしのエゴはとてつもなく強力だ。

きっとこれまでの自分だったら、自分と向き合うことを避け、的外れな行動をとって、束の間の安心感を抱き、また同じことを繰り返していただろう。

でも今回は違った。

死が怖いという嘘の擦り込み、自分以外の人をどうにか出来るという傲慢、人生がうまくいかない、心が傷つくのは、誰かのせいという錯覚。本当は自分の想像力と意識だけが、どこまでも自分を地獄へ陥れることが出来るということ。

あの人は、わたしを一度も責めなかった。

苦しいときはいつも、わたしがわたしを責めているときだけだ。

これまでは、投げた分だけ、相手からそのままそっくり返される、もしくは投げ付けられた分は全力で突き返す体験しかしたことがなかった。

だから、いつも目の前の相手を責めていられた。

それが楽だった。

そして、その諍いに終わりが来ることはなかった。

でもあの人は、一度たりともわたしを責めなかった。

誰かに責められないなんて、初めての体験だった。



わたしの思考は飛躍しすぎだったのだろうか?と考える。

でもここまで想像を膨らませなければ、わたしは自分の心の奥の奥に追いやられ続けた恐怖、その奥の悲しみに、向き合うことをしなかっただろう。

そして、その悲しみすら、本当は自分自身で癒せるということに気付こうともしなかっただろう。

身体のトラウマは癒えていても、その感覚やパターンは未だに残っているようだ。だからその都度丁寧に向き合って、大丈夫だということ、安心して自分と繋がっていればいいということを擦り込んでいくしかないのだ。

喉元過ぎれば熱さを忘れる。

それでも、自分を守り続けることが出来るのは自分だけだ。そして、自分を本当の意味で守ることが出来ている人から与えられる影響(エネルギー)もまた、変容を手助けしてくれる。

わたしは今、自分を責めないでいられている。自分の言動を、受容することが出来ている。

何かが今、変わろうとしている。




怒涛の年末年始を過ごしました。

気付いたときに、勢いで記したnoteをしばらく下書きに寝かせ、改めて読みかえしました。ここに記した一連の体験の後にも、もうひとつ、踏み込んだ恐怖心が顔を出しましたが、それも無事に受け入れ、舵を切り直すことができました。そして今、この目に映る現実は、ゆっくりと少しずつ行きつ戻りつしながら、至福を感じられる方へ動いていっているような気がします。

陰極まって陽に転じたのかな、という感じです。

最近は、必要だと思われる出逢いと体験が、怒涛のスピードで目の前に現れます。

堕ちるところまで堕ちたら、握りしめていたもの、手放すしかなくなりました。

人と深く関わることを躊躇していましたが、このnoteでは、不思議なご縁が次々と舞い込み、繋がっていっている気がします。

ありがたく受け取って、気付き学び、本来の自分らしさ、その光を取り戻している日々です。

わたしの実体験、その感覚に基づく記しを、ありのまま自分のために綴ることは、どんな自分も受け入れることに繋がっています。

読んでくださる方々がいることに心から感謝します。

いつも温かく見守ってくださりありがとうございます✨



心音




障害は

恐怖心以外にない

恐怖心を克服すれば

万事は必要な時に

必要なように成就する



不安感も恐怖心であり、
嫉妬心の裏にも恐怖心が潜む。
それは自然に成就すべきを自ら蝕む力をもつ。
成就を妨げるものは恐怖心以外にない。
物事の実現に強烈な信念などいらない。
恐怖心さえなければ物事は自ずと成就する。



千賀一生『タオの法則』より



自ら選び、

何らかの予感を持って手にした本が与える影響を、

改めてヒシヒシと感じています。

素晴らしい本に出逢えました。



過去に本から与えられた影響を綴った記事です。


また、ありのままを綴ることへの動機みたいなものを、こちらに綴っています。


あわせて読んでくださるとうれしいです✨






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