森の中の記憶
母が妹を出産する頃、しばらくの間、山奥の祖父母の家で暮らしていた。
少し小高い崖の上のような所にあったその家は、窓を開けるとすぐに山肌で、ありのままの自然に囲まれていた。
毎朝、川を挟んだ向かいの家の鶏の鳴き声で目が覚める。
台所がある土間のひんやりとした空気。
ハエ取りテープの粘着面が剥き出しのままぶらさがった、頼りなさげなランプ。
忙しなく食事の用意をする、祖母の後ろ姿。
漂う田舎味噌の香り。
七輪で焼いた、魚やおかきの香ばしさ。
紐のついた古びた桶を投げ入れ、井戸でくんだ水を風呂釜に入れ、薪に火を焼べる。
煌々と燃える炎で風呂を炊く。
針金でまとめた薪の山。
薪がなくなれば、斧で切る。
冬の朝、つららがぶらさがる、外の細い蛇口。
金物の桶に張った薄い氷の手触り。
土が纏った繊細な霜が鳴る足裏の感触。
広い縁側で食べたみかんや干し柿。
祖父と指した将棋遊び。
川で捕まえた生き物たちを入れたブルーのバケツ。
小指ほどのちいさなカエルの愛らしさ。
崖にたわわに実る紫色のちいさな粒。
天然のジュエリーに胸ときめかせた。
祖父の育てる稲穂が実る田んぼの畦道を、手を繋ぎ、歌を歌いながら歩く。
山を登り、静かな森の中に建てられた、ちいさなお堂。
軋む扉を開けると匂う線香の残り香。
祖父にもらった小銭を賽銭箱に入れる。
チャリン、と硬貨がぶつかるくぐもった音。
仏様に向かい、鈴棒でお鈴を鳴らす。
チーンという音が鳴り響く中、手を合わせ祈る。
高く密集した木々の隙間から、微かに差し込む光。
無言で見上げた音無き音がする森の中。
全身で感じる、得体のしれない何か。
畏怖にも似た、神聖な空気。
赤いランプが点った酒燗器。
グツグツとお酒が沸く音。
しあわせそうに頬赤らめる祖父の姿。
それがわたしの居場所だった。
あの地から、引き離されたときの悲しみは、
今も忘れられない。
泣きじゃくるわたしをよそに、車に乗せられる。
無情にも去ってゆく、安寧。
わたしは時々、あの場所を思い出す。
帰りたい、帰りたい、帰りたい。
いつも心の手を伸ばしつづけた
深く息を吸える魂の聖域。
二年前に97歳で亡くなった祖父。
最後に一人会いに行った時は
呂律もうまくまわっていなかったけれど。
寂しさの中で逝って欲しくなくて
手を握り、ただぬくもりを伝えた。
懐かしい歌をイヤホンで一緒に聴いた。
妹ともTV電話を繋げた。
その二週間後に、亡くなった。
おじいちゃんのこと、大好きだった。
わたしをありのままに見てくれた人。
自由で、はちゃめちゃで、
家族は振り回されてたというけど、
わたしにとっては最高のおじいちゃんだった。
きっと似たもの同士だったんだね。
いつも気にかけて電話くれたよね。
いつも達筆の年賀状くれたよね。
もうお正月に、祖父からのハガキは来ない。
おじいちゃん、死んじゃったんだなぁって実感する。
でもわたしの中には、決して消えない
祖父との思い出がある。
わたしはその、思い出に生かされている。
今はもうある写真家の人に手渡ってしまった、
かつて過ごしたあの家。
いつか訪れる日が来るかな。
恍惚にも似た、森の中の記憶。
ご覧いただきありがとうございます✨ 読んでくださったあなたに 心地よい風景が広がりますように💚