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自意識との闘い 【西加奈子『舞台』】

躊躇いの柵を乗り越えられない人間

10年以上前、大学のゼミの先輩(男)と二人で電車に乗ったときのこと。
ゼミの後だったか飲み会の帰りだったか、夜のそこそこ混んだ車内で、座席はほぼ埋まっていた(東京都内のJR線だった)。先輩とは何かしらの話をしながら乗り込んだのだったと思うが、二人とも埋まった座席の前に立って吊革につかまったあたりで、先輩がふと黙った。あれ?と思っていると、先輩は突然私とは遠い方の斜め前あたりに座っていた男性に声をかけた。
一言二言の会話の後その男性は席を立ち、私と反対側の先輩の隣に立っていた女性が替わりに席に座った。私からはよく見えなかったのと、もう記憶が曖昧で正確に覚えていないが、その女性は妊婦さんだったかもしくはケガをされている人か、とにかく「優先して座ってほしい人」だった。

その躊躇のなさ。うーんかっこいい。

私はと言えば。つい最近の出来事。
バスに乗り込んだ時、車内は空いていた。すぐ目の前に空席、左手には優先席、右手には数段上って高い方の座席にいくつかの空席。うん、まあここでいいか、と目の前の空席に座った。
しばらく乗っていると徐々に混んでくる。そしてそこはまあまあ田舎(実家に帰るところだった)で、田舎の日中のバス車内は高齢の方が多い。いつのまにか私の横にも年配の男性が立っている。あれ。私ここに座るべきじゃなかったか、と咄嗟に思い、くるっと後ろを向いて数段上がり一番後ろの空いた座席に移動した。
ふう。これで大丈夫、と安心したのも束の間、自分が座っていた席を見ると空席のまま。さっきのおじいさんは私が移動したことに気づいていない。進行方向にまっすぐ体を向け、フロントガラスばかりを見つめている。えーと後ろ見て、後ろ見ておじいさん、空いてるよー、アイテルヨー?
心の中でそう語りかけるも、次のバス停で入ってきた40代くらいのおばちゃんが迷いなくドスン。ジーザス。

「どうぞ」の一言が何故言えない。子供か。いや子供の方が言えるわ。
「席が空けば座るはず、わざわざ言わなくてもいいよね」と、席を立つその一瞬に自分に言い訳している。恥ずかしい。非常に恥ずかしい。いくつよワシ。齢三十三よ。ゾロ目よ。
どうしよう、譲りたい、譲らなきゃ、うまく声をかけられるか、なんと言えばいいか、いい人ぶってると思われないか、「年寄扱いしてくれるな」と怒られはしまいか、「すぐ降りるからいいです」などと断られたあとの身の処し方…
小さな躊躇いを感じた瞬間に、もう、言えないことが決定してしまう。

うーん我ながらマジで面倒くさい。
さっきの先輩のエピソードと比べてよ。どうよ。
あたしゃ恥ずかしいよ、ってまるこみたいに言っちゃうよ。
頭に三本線出して言っちゃうよ。

何を隠そう私はこじらせ女子である。
いや、今しれっと自分を「女子」の括りに入れたけど、ごめんなさいもう女子じゃないです、完全に主婦。こじらせ主婦。
恥ずかしながら思春期から続く自意識との闘い、痛々しい限りだけれど、いくつになっても終わらない。
そんなみんなアンタのこと見てないよ、気にしすぎだよ。これ、頭ではわかってる。自分なんて取るに足らない存在。他人からしたら「あ、なんかいるな」って、夏の虫みたいなもんだって、頭の別の場所では嫌というほどわかっている。
なのに何故だか、いらんことばかり考えるこの思考回路はなくならない。
若い頃は直したいと思っていたけれど、もうこの歳までくると、この性格とうまく付き合っていかなきゃなって思うようになってる。

こじらせさん必読、西加奈子「舞台」

さて、前置きがとんでもなく長くなってしまったけれど(前置きだったのかよ)、こんな私のように自意識に絡めとられて身動きが取れなくなる男の子が主人公の作品について書こうと思う。あ、太宰じゃないよ。ふふ。でも自意識と言えば太宰。イエス。中らずと雖も遠からず。

西加奈子「舞台」
「生きているだけで恥ずかしい――。」自意識過剰な青年の、馬鹿馬鹿しくも切ない魂のドラマ!(Amazon内容紹介より)

主人公・葉太は、太宰作品の登場人物よろしく、自意識の塊でとにかく内省が多い。物事を斜に構えるどころか、こねくりまわして一周半回る、くらいの位置から世の中を見ている。なにもそこまで…と思ってしまうくらい、用心深く、自分に酔うことを、熱くなることを禁じている。盛り上がった次の瞬間、「恥ずかしい!今のオレ、恥ずかしい!」と激しく後悔し、「調子に乗るな」と自分を戒める。出会う人、起こる物事すべてに対して耐えがたい違和感を持ち、そうすることしかできない自分に苦しんでいる。

葉太の自意識過剰なモノローグを読んでいると、笑けてくると同時にどこか自分の痛々しさが書かれているようで、おもしろいのにいたたまれない。
「これは俺のことだ、俺のことが書いてある!」という、太宰作品に触れたときの文学青年の定番のあれ。もうこれ、まさにそれ。
西さんご自身が「人間失格を読んだ人へのオマージュとして書いた」と仰っているそう。この「舞台」を読んだたくさんの人が、そんな"文学青年"たちと同じような読書体験をしているのだろう。

物語の終盤、葉太の所持金の減少と空腹が不安定な精神状態にさらに追い討ちをかける。葉太のタガが外れるある出来事があってからの、クライマックスへ向かうスピード感。これまで向き合わないようにしていた葉太の死んだ父への思いと、葉太が見えてしまう亡霊たちについて、さらには自身の生きる苦しみについての溢れる思考が、何かに追い立てられるように走り続ける葉太の体が、すべて一体化したスピード感でもって、読者にページを捲らせる。

西さんの作品は読後感がいい。散々世の中を嫌い身近な人間たちを嫌い自分を嫌ってきた葉太だけれど、孤独なように見えて結局はまったくそうではなくて、最後には現実をしっかりと見ることになる。そんなラストが良かった。

自意識を乗りこなせ

葉太や私のようなこんな面倒くさい性質、ない方が確実に生きやすいに決まってる。決まってるけれど、でも私からこの超絶面倒くさい「気にしすぎ要素」を抽出して消去してしまったら、当然だけれどそれはもう私ではなくなる。こんな人間だからこそ感じられる気持ちだったり、綴ることのできる言葉だったり、そういうものも、ないわけじゃないだろう、と思えるようになってきたのが最近のこと。
西さんの言葉を借りれば、「そんな自分も愛してほしい」。これは誰かに愛してほしい、ということではなく、私自身に、私自身を愛してあげて、という意味で言いたい。そこがすっぽりと抜け落ちているから、いつもどこか空っぽなんだよ、と。
私が私を愛してあげられれば、きっと誰かも私を愛してくれる。それができたとき、私の中の自意識という名の暴れ馬は、私のたずなによって高ぶった気を静めて、私に寄り添ってくれるようになる。ような、気がするのだ。(どんな喩えだ)

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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!