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何にでもなれて何にもなれない無敵の少女

夢も現もかき乱されるような上半期を終え、お盆休みがやってきた。何人かと楽しい約束をしていたのに、流行り病が私たちの邪魔をする。大人しく実家で過ごすことにした。シフト勤務でないのは家族で私だけ。休みの半分は涼しい家をひとりで占領している。

映画フリークだったのに、なぜか観られなくなった。何かしらの緊急連絡がスマホを鳴らし、楽しみにしていた作品を流し観しなければならない日が続いたことが理由だと思う。そういうこともあるか、私は心底映画を愛しているのだから、また観られるときがくるはず。そう考えて、自分を放っている。代わりに没入しているのは読書。積読をそのままに、新しい文庫本をふたつ手に入れた。行き慣れた地元の書店、大きな帽子で知人との遭遇を避け、『国内作家50音順』の棚を行ったり来たりした。どうしても、女性作家の本を好む。あえて選んでいるわけではない、好きな本を書く人がたまたま彼女たちだっただけ。

吉本ばなな、原田マハ、角田光代、山崎ナオコーラ、三浦しをん、山内マリコ、小川洋子、凪良ゆう。心を透過していくことば。私の内側を柔らかく摘むようにして、時に刺すようにして、残っていくのがわかる。

山内マリコの『さみしくなったら名前を呼んで』を読み終えた。私と同じ世界線を生きる少女たちが描かれている短編集。登場する女性たちの年齢はそれぞれだけれど、だれもが皆んな、やっぱり少女だったのだ、ということを思う。
廃れたショッピングモール、県道沿いのレンタルビデオ屋、コンビニ脇のガードレール、恋話だらけの教室の椅子、全部全部既視感。思うように華やかになれなくて、こんなところ飛び出したくて、でも時間よ止まれとも戻れとも願ってしまう、そんな日常が目の前で繰り返すように描かれていた。なんてことのない、けれど劇的で、苦しくて、甘かった私の日々も、誰かに懐かしまれるような一冊になったのかもしれないなんて不思議な感情が湧く。

あの頃、自分を無敵だと思っていた。私は若く、未来があり、この先のなにもかもを選びとる主体者でしかなかった。窮屈な親も環境も規則もいつか跳ね除け、新しい世界できらきらの夢をまとって走っていくのだと、半ば本気で信じていた。度々卑下したりぎょっとしたり絶望したりする少女たちだけれど、そして当時の私だけれど、それでも「いつか」の前段階の時間でしかないのだと、どこか無意識に思っていた。

繊細ゆえに鈍麻にもなり、荒波を越えて心がタフになった頃、少しずつ、想像とは違う方角に舵を切り始める。それを「現実を知り、諦めた」という人もいるだろうけれど、人生の解像度が増したということなのではないかと思う。微細が見えてがっかりしたり、実力が憧れに届かなかったり、確かに切ない体験もしたけれど、別にそればかりではない。知らぬ領域を覗いて思いもよらぬ面白さを目の当たりにする。なんとなく始めた仕事で得意を発揮する。そんなふうに世界は、地に足のついた方法で広がりを見せる。私たちはその真ん中で、自分の生きる道をつけていくのだ。かっこよくてもかっこよくなくても、関係ない。振り返れば結局、なんだかんだで愛してしまう過去になる気がする。

十代を過ごした実家にいるから、より記憶と混ぜこぜで響くのかもしれない。あとがきまで読んで小説を閉じたら、強い眠気に襲われすぐにすうすうと昼寝をした。母親と喧嘩して、でも出て行く先もなく、部屋着のままマンションの階段の上でしゃがんで泣く高校生の私が夢に出てきた。Twitterには「大嫌い、大嫌い、大嫌い」と書けても、家出はできない。涙に濡れたまま眠っても、目が覚めれば元気に朝練へ向かう。希望をゼロにできないあの頃を思って、夢のあとで小さく笑った。

残り数日で休みは明ける。本を片手にうたたねする昼間は終わり、仕事が始まる。稼いだお金でまた本を買っては過去を思い、先を読む。思春期真っ只中のあなたよ、どうか全力で駆け抜けて。何者にでもなれるし、何者にもなれない。そのどちらもを楽しんでゆく夏を何度でも迎えてね。肩書きを持たない私はそれでも楽しく、そしてまだ、新しい自分を見つけられると本気で思っている。できることをしよう、やりたいことをやろうっと。もうすぐ28歳の夏、ビールの黄金を左手に、そんなことをにやりと誓う夜。

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