内野サトル

アメリカに30年ぐらい住んで最近日本に戻りました。短いフィクションなど、時々書いていま…

内野サトル

アメリカに30年ぐらい住んで最近日本に戻りました。短いフィクションなど、時々書いています。福岡県民。 これまで書いた本や映画の感想はこちらにもあります。 https://happyend-express.com/ https://blog.goo.ne.jp/ego_dance/

最近の記事

【映画評】アスファルト

サミュエル・ベンシェトリ監督の『アスファルト』をアマプラで鑑賞した。おそらくこの映画を観る人の大部分がそうじゃないかと思うが、イザベル・ユペールが出ているという以外の予備知識はまったくなかった。他の役者さん達の中にはヨーロッパで有名な人もいるらしいが、私は全然知らなかった。監督はフランス人で、映画の舞台はフランスのどこか郊外の町にある団地である。 基本的に、分かる人だけ分かればいいというスタンスの、かなり風変りな映画だ。シュールでオフビートで寡黙。芝居の間や演出には、アキ・

    • 【超短編小説】シアトル

       シアトルはもちろん、雨が多い街として知られている。しかしこのところ半年間ずっと雨が降り続いて一日も降り止まないのは、どう考えても行き過ぎじゃないだろうか。ずっとここで暮らしているぼくだって嫌になる。空は朝になっても墨を垂らしたように暗く、窓はいつもびしょ濡れで、浴室にはどんどん黒いカビが生える。通りの四分の一が水に沈んだせいですっかり住民の数が減ってしまった。幸いぼくの住んでいるところはまだ大丈夫だが、人々の顔からはだんだんと笑いが消えていく。そしてぼくたちは折にふれ、憂鬱

      • 【短編小説】ホテル・パンプキア

         そう、ホテル・パンプキアの失墜はあまりにも急激で、かつスキャンダラスなものだった。旅行愛好家なら必ずや耳にしたことがあるこのホテルの名声が赫赫たるものだったのは、まだそう遠い昔のことではない。一流のファッション誌にして旅行誌であるT****誌の格付けでは、2007年、2011年、そして2015年と三回にわたってこのホテルが「世界でもっとも美しいホテル」に選出されたし、もちろん、そのことを知らない者はこの業界にはいない。  ホテルは南太平洋に散りばめられた美しい島々の中でも

        • 【書評】死の枝

           久しぶりに松本清張の短篇集を読んでなかなか面白かったので、感想を書き残しておきたい。  本書には11篇入っていて、そのほとんどがいわゆる倒叙推理である。違うのは冒頭の「交通事故一名」、それから「家紋」「不法建築」ぐらいだ。「不在宴会」は犯人視点ではないので厳密には倒叙ミステリとはいわないだろうが、ある関係者が警察に隠している秘密を暴かれないかとヒヤヒヤする展開はまるっきり倒叙ミステリそのもの。しかも事件の犯人は結局最後まで分からないという、珍しいパターンだ。  そして他

        【映画評】アスファルト

          【超短編小説】眠り姫、もしくは不眠症患者が見た夢

           コネチカットの大学に通っていた一時期、ぼくはひどい不眠症に悩まされたことがあった。眠り姫を見たのはそれとちょうど同じ頃だ。  秋の午後、ぼくは木立に囲まれた図書館にいた。レンガ造りの壁には木漏れ日がまだら模様を作り、閲覧室では広々とした空間を静けさが満たして、あるかなきかの咳払いや囁きだけが空気を震わせていた。立ち上がった時、ぼくの視線はふとひとりの女子学生に惹きつけられた。彼女は机の上に突っ伏して、安らかな寝息を立てていた。淡いブルーのシャツとぴったりしたジーンズがほっ

          【超短編小説】眠り姫、もしくは不眠症患者が見た夢

          【短編小説】地中海の死

           私は妻を連れて地中海に面したその小さな島にやってきた。それは夏のいちばんいい季節で、海はきらめき、崖は黒く湿り、浜辺の砂は洗いたてのシーツのよう、散歩道に立ち並ぶ木々は太陽から滴る金の蜜を浴びたみたいだった。島のサイズは大きくも小さくもなく、人々は素朴で気立てが良かった。小石がちらばった道にはロバが行きかっていた。  そう、それはとても美しい島だった。私は妻を喜ばせたかった。できることなら妻の顔にかつてそこにあったあの優しい笑みを取り戻し、ついでに私への信頼を遠い過去から

          【短編小説】地中海の死

          【超短編小説】ナイルでは

           古代エジプトの女王クレオパトラは蛇に噛まれて死んだあと、輪廻転生の複雑きわまりないプロセスをくぐり抜けて、現代のニューヨークで暮らすアルバニア人女性イレーンとなった。イレーンはグリニッジ・ビレッジで油絵を勉強しているごく平凡な画学生だったが、ちょうど20歳になった誕生日の翌週、オリーブオイルの瓶を踏みつけてアパートの階段から転げ落ち、そのはずみに前世の記憶をすっかり取り戻した。幸い、ひじを軽くすりむいた以外にケガはなかった。  イレーンは自分の心の中に生じた大きな変化に戸

          【超短編小説】ナイルでは

          【超短編小説】妻のペンギン

           何の前触れもなくペンギンが配達されてきた日のことを、ぼくは今でもよく覚えている。配達人はペンギンが入った籠と一緒に、組み立て式プールみたいなものをぼく達のアパートへ運び込んだ。それがペンギンの家だということは分かったが、その見慣れない物体が発する威圧的なオーラがぼくを落ち着かない気分にさせた。妻が「ここに置いて下さい」とか「それはあっち」とか言うのを黙って眺めている間、時々ペンギンの丸っこい目とぼくの視線がぶつかった。ペンギンは怯えたり騒いだりする様子もなく、大体において静

          【超短編小説】妻のペンギン

          【書評】ミラノ 霧の風景

           私が須賀敦子氏の名前を知ったのは、イタリア人作家アントニオ・タブッキの翻訳者としてだった。まず『インド夜想曲』を読み、『島とクジラと女をめぐる断片』を読み、『逆さまゲーム』を読んだ。私の読書史上、このタブッキとの出会いほど感慨深いものは他にない。魅せられたという言葉では到底足りない、感性を根こそぎ塗り替えられるような経験だった。でもそれは最初からいきなりガツンと来るものではなく、さりげなく、時間をかけてじわじわと沁み込んできて、気がつくといつの間にかそこにあった、という風な

          【書評】ミラノ 霧の風景

          【超短編小説】ドバイ

           その赤ん坊が生を受けたのはマンハッタン島のちょうど真ん中あたり、蒼穹の高みに向かって林立する摩天楼の谷間のどこかだった。エレベーターの中に捨てられたか、自殺者の置き土産か、あるいはおじけづいた誘拐犯のしわざか、そのあたりのことは誰にも分からない。  赤ん坊が入ったバスケットは地上200メートルのビル外壁の手すりの上で揺れていた。それを見つけた三人の窓拭き清掃人は仕事の手を休め、バスケットをそっと床に置いた。安らかに眠るピンク色の赤ん坊を囲む彼らの姿は東方の三賢者さながらだ

          【超短編小説】ドバイ

          【超短編小説】プラネタリウムの建造者たち

          この町にはプラネタリウムが多過ぎるという外部の人々の批判を、私たちは決して軽んじているわけではない。まして私たちがそれに気づいていないふりをしているという非難は的外れもいいところだ。この町に住む私たち以上に誰がこの現状を憂い、深刻な問題として受け止めるだろうか。この町を歩く時、私たちは実にたくさんのプラネタリウムを目にする。あのすべすべしたドーム状の屋根の数々は、まるでシマウマの群れか何かみたいに向こうから進んで目に飛び込んでくる。それらがあまりにたくさん存在するために、私た

          【超短編小説】プラネタリウムの建造者たち

          【超短編小説】アナコンダ

           その日の夕刻、ブロンクス動物園の飼育人ボブは片手にバケツ、片手にモップを持ってアナコンダのケージに入って行き、そこに蛇ではなく一人の若い女を発見した。見回したが、蛇はどこにも見当たらなかった。  青ざめた蛍光灯の光の下でしばらく立ち尽くしたまま、何がなしざわつくような思いで女を眺めた。というのも女にはどことなく、アナコンダを思わせるところがあったからだ。  20代後半か30歳ぐらいで、赤毛で、汗じみたTシャツの上にごつくてキズが入った革のジャケットを羽織り、全体に薄汚れ

          【超短編小説】アナコンダ

          【超短編小説】ディア・ジョン

           1990年代の一時期、ぼくはあのジョン・レノンと同じアパートに住んでいた。こう書くときっとあなたは言うだろう、ジョン・レノンは1980年に撃たれて死んだじゃないかと。  もちろん、世界中の人々がそう信じていて、新聞や本やインターネットのそこらじゅうにそう書かれているのは知っている。しかしぼくは今ここに、ぼくだけが知る真実を明らかにしたいと思う。実はあの頃ジョンはまだ生きていて、メイン州の小さな町にある学生向けアパートのぼくの隣の部屋で、世の中から隠れるようにしてひっそりと

          【超短編小説】ディア・ジョン

          【映画評】エム・バタフライ

          デヴィッド・クローネンバーグ監督が『戦慄の絆』『裸のランチ』に続いてリリースした、1993年公開のフィルム。この当時私は心からクローネンバーグに心酔していて、その彼が「マダム・バタフライ」に想を得た映画を作ると聞いて大興奮したものだ。あの、悲恋のオペラ「蝶々夫人」、プッチーニの「蝶々夫人」。そのエキゾチズムとメロドラマの美しきオペラを、クローネンバーグが解釈して映像化する! しかも主演は『戦慄の絆』のジェレミー・アイアンズ。クランクインの噂を聞いた後、私がどれほどこの映画の公

          【映画評】エム・バタフライ

          【映画評】街の灯

           チャップリンの代表作といえば『黄金狂時代』『モダンタイムズ』あたりが有名だが、この『街の灯』も文句なく代表作の一つであり、最高傑作候補であることは誰もが認めるところだろう。チャップリンの泣きと笑いが最高の形で融合している。ギャグの洗練度も増し、前作の『サーカス』あたりと比べてもひときわシャープに決まる感じがあり、ロマンティック度に関してはもちろんチャップリン作品中最高だ。そしてなんと言っても、古今東西星の数ほど映画はあれど、これほど劇的なラストシーンを持つ作品は稀なのだ。

          【映画評】街の灯

          【超短編小説】海のパースペクティブ

           もしも喝采を浴びるために生まれてきた男がいるとすれば、市長こそそれだとサンドラとぼくはいつも話していた。市長はまだ若く、多分30代半ばぐらいで、『或る夜の出来事』のクラーク・ゲーブルを思わせる針金っぽい髭を生やし、いつもビシッと髪を撫でつけ、英国紳士風のジャケットを粋に着こなしていた。そのくせ俗物じみたところがまるでないのは、誰といても君だけは特別だよと密かに告げるような、あのラクダっぽい睫毛とはしばみ色の瞳のせいに違いなかった。彼が市民ホールで演説をする時、ぼくらは毎回ス

          【超短編小説】海のパースペクティブ