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【映画評】エム・バタフライ

<おことわり>
本稿は、自分のブログに過去掲載した映画評を再掲したものです。自分の記事なので問題ないと思ったのですが、「重複コンテンツ」になってしまうようなので、今後このような再掲は控えるようにいたします。無知ゆえとはいえ、ご不快に思われた方々にはお詫び申し上げます。
ただせっかくスキをいただきましたので、本稿はこのまま残しておこうと思います。ご意見・ご批判などあれば、コメントいただければ幸いです。

デヴィッド・クローネンバーグ監督が『戦慄の絆』『裸のランチ』に続いてリリースした、1993年公開のフィルム。この当時私は心からクローネンバーグに心酔していて、その彼が「マダム・バタフライ」に想を得た映画を作ると聞いて大興奮したものだ。あの、悲恋のオペラ「蝶々夫人」、プッチーニの「蝶々夫人」。そのエキゾチズムとメロドラマの美しきオペラを、クローネンバーグが解釈して映像化する! しかも主演は『戦慄の絆』のジェレミー・アイアンズ。クランクインの噂を聞いた後、私がどれほどこの映画の公開を待ち望み指折り数えて待ったかは神のみぞ知る。

が、この映画はカルトなクローネンバーグ作品の中でも特にカルトな扱いで、日本でも米国でも長いことDVDが入手できなかった。だからもう一度観たいと思いながらなかなか果たせず、AmazonやiTunesのオンラインで観れるようになってようやく再見できた記憶がある。

映画が始まってまず感嘆するのはタイトルバックである。私はクローネンバーグのタイトルバックは常に芸術品だと思っているが、この映画のタイトルバックはひときわ素晴らしい。東洋趣味をモチーフにした、精緻な、目もあやな、エキゾチックな、なんとも美しいタイトルバック。これを観るだけでも映画料金のもとは取れる。

さて、映画が始まり、舞台は戦争前の北京。フランス大使館に勤めるルネ(ジェレミー・アイアンズ)はある日プッチーニのオペラを歌う中国の女優・ソンを見て心を奪われる。二人は恋仲になり、ルネは妻を捨ててソンをフランスに連れて帰りたいとまで思いつめるが、実はソンは中国政府のスパイだった…。

この話は実話をベースにしていて、もともと原作や舞台もあるので知っている方も多いだろうが、ルネが恋するソンは、実は男性なのである。この映画でソンを演じるのはジョン・ローン。二人は長い年月を男女のカップルとして過ごし、その間ソンはずっと中国のためにスパイ行為を働き、やがて露見して裁判となる。当時の裁判の写真には、ルネとソンが二人とも背広を来た男性として並んで写っている。証言によれば、ルネはソンが男だということに気づいていなかったという。

すごい話である。セックスまでしていてそんなことがあり得るのかと思うが、証言によれば、ソンは中国人女性の習慣だといって絶対に裸体を見せず、手を使うことも許さず、性の営みは厳重な制約のもとに行われたという。この映画の中のソンの言葉を借りれば「ルネは私の要求をすべて受け入れ、私の羞恥を尊重してくれました。私はそれらを中国の古くからの習慣だといったのですが、実のところ、それらの愛の技法は、私がただ彼のためだけに考案したものだったのです」

本当のところはどうだったのか分からないが、少なくともこの映画の中では、ルネはソンを女だと思って愛する。自分の愛人が実は虚構だったと知ったルネは精神を病み、虚構の中にしかいなかった愛人を追い求め、それを最後に自分の中に発見し(もちろん、他のどこにも存在しないのだから)、「マダム・バタフライ」の女性像に従って自死する。白人男性に捨てられた東洋人女性が自死する「蝶々夫人」の、これは恐るべき陰画と言っていいだろう。東洋から西洋への形而上学的復讐といってもいい。グロテスクではあるが、その論理の転倒は見事だ。

というのが初めてこの映画を観た時の私の感想だったのだが、長い年月を経て再度鑑賞した時、それよりももっと強く訴えかけてきたものがあった。それは、ソンのルネに対する愛である。

ソンは裁判の後、護送車の中でルネに侮蔑的に言う。「まだ私を愛しいと思っているのか」「裸を見たかったんだろ? 見せてやるよ」そして全裸になる。ルネは顔をそむけてむせび泣く。しかしこの後、唐突にソンの態度が変わる。「あなたがソンを愛した時、そこにいたのはいつも私だったのよ」と呟き、涙を流すのだ。それからもう一つ。中国でルネに別れを告げる時、ソンはこんなことを言う。「どうか、これだけは覚えていて下さい。これから何が起きたとしても、あなたと一緒に過ごした日々こそが、真実の私だったということを」

単に任務で騙していただけならば、こんなセリフが出てくるだろうか。こうなると、先の裁判の時の「それらの愛の技法は、私がただ彼のためだけに考案したものだったのです」も、違うニュアンスを帯びて聞こえてくる。ソンがルネを愛していたとするならば、裁判後に自分の全裸を見せる場面で、真に痛ましいのはルネではなくソンである。なぜならソンは常にありのままのルネを愛していたが、ルネはありのままのソンを愛したことは一度もなかったからだ。ルネが愛したのは、かつて存在したことがない女性だった。

あなたが彼女を愛した時、そこにいたのはいつも私だったのよ…。人が愛する人に向かって口にする言葉の中で、これほど哀しいものが他にあるだろうか。

一方で、ルネが受けた衝撃ももちろん残酷だ。彼が愛した女は虚構だった。何かの拍子に幻に片思いする男はいるかも知れないが、長い歳月をともにした伴侶が虚構だったと知らされる男はまずいないだろう。彼のソンに対する愛情は本当に胸を打つものだったから、余計につらい。ソンが突然フランスにやってきた時、ルネは一人暮らしをしている。彼はソンを抱きしめる。ソンが尋ねる。「奥さんはどこにいるの?」ルネは答える。「妻はここにいる。この、ぼくの腕の中に」

なんということだろう。まぎれもなく、二人は愛し合っていたのである。おそらくはどんなカップルにも負けない強い愛情で、二人は結ばれていた。ただ、運命が二人に与えたのが普通の形の愛ではない、異形の愛だったのだ。しかし異形であるがゆえに、二人の愛の物語は荘厳なまでの悲劇性を帯びている。クローネンバーグ流「マダム・バタフライ」はやはり強烈で、奥深い。

そしてそれゆえに、この映画は傑作になってもおかしくなかった。傑作といわないまでも、妖しい倒錯美とエキゾチズムに溢れた佳作になっていて良かったのである。それがマイナーなカルト作品扱いされているのは、やはりというかしょうがないというか、ジョン・ローンが女に見えないというこの一点に尽きる。正直、観ているのが辛い。ルネの目に映る美女が見えず、女装した男にしか見えない。だからラブシーンも正視できない。

演技は素晴らしいのでケチを付けたくはないが、やはりここはもうちょっと女に見える役者を持ってきて欲しかった。ジョン・ローンは顔立ちは端正だが顔が大きいし、体つきもがっちりしている。最初の候補はレスリー・チャンだったそうだが、彼ならもっと雰囲気が出たかも知れない。まあレスリー・チャンには『さらば、わが愛』とかぶるからと断られたそうなので仕方ないが、いずれにしろもっと華奢な役者にしていてくれたら、と思わずにはいられない。

それともう一つのネックは、ラストのジェレミー・アイアンズ自死の場面の異様さ。女ものの着物を着て、顔には紅おしろいを塗りたくって、鬘をかぶって自殺。とんでもなくグロテスクだ。このラストの不気味さも、本作をカルト作品にしてしまったもう一つの理由だろう。

とは言っても、先に書いたように、結末に向かうにつれて高まっていく異形の愛の哀感は見事である。最初はジョン・ローンの女装に「あちゃー」と思っていても、だんだんと物語の力に引きずられるのを感じる。また、ジェレミー・アイアンズがさまよう北京にはクローネンバーグの濃密な空気が立ち込め、異界の妖気に包まれている。あたかも『裸のランチ』のインターゾーンのように、恐ろしくも美しい何かが起きる予感をはらんでいる。

一般受けはしないかも知れないが、クローネンバーグ独特のグロテスクとアラベスクの美学に心惹かれる映画愛好者にとって、本作は十分に鑑賞する価値がある、妖しい戦慄に満ちたフィルムだと言っておきましょう。


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