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【書評】ミラノ 霧の風景

 私が須賀敦子氏の名前を知ったのは、イタリア人作家アントニオ・タブッキの翻訳者としてだった。まず『インド夜想曲』を読み、『島とクジラと女をめぐる断片』を読み、『逆さまゲーム』を読んだ。私の読書史上、このタブッキとの出会いほど感慨深いものは他にない。魅せられたという言葉では到底足りない、感性を根こそぎ塗り替えられるような経験だった。でもそれは最初からいきなりガツンと来るものではなく、さりげなく、時間をかけてじわじわと沁み込んできて、気がつくといつの間にかそこにあった、という風なものだった。

 もちろん、それがタブッキという作家特有の魅力であることは間違いないけれども、今考えると、これらのタブッキ作品の日本語訳には、おそらく半分ぐらい須賀敦子さんの感性が注入されているのだと思う。訳者あとがきでタブッキの魅力を語る柔らかい須賀さんの文章からは、間違いなく小説そのものと同じ香りが漂ってきた。人生や、文学や、人間に向き合う須賀さんの姿勢やものの見方は、まったく同じではないにしてもタブッキに近しいものがあり、それらが微妙に共鳴して、あの『インド夜想曲』その他作品群の、独特の空気感を作り上げていたような気がする。

 今回、そんな須賀さん本人の作品を初めて読んだわけだけれども、上に書いた私の予断、というか予感めいたものがしっかりと裏づけられる結果になった。やっぱりそうだったんだなという納得感と、もっと早く読めば良かったという後悔がないまぜになった読後感を味わった。告白すれば、イタリア暮らしの経験をお洒落に書いて読者の憧れを掻き立てるようなエッセイなんじゃないだろうか、と一抹の不安を抱いていたのだが、それは完全に払拭された。というか、須賀敦子さんがそんなエッセイを書くわけないですよね、すみません。

 本書は基本的には、イタリアに夫と一緒に住んでいた13年間の回想記である。といっても当時と現在、あるいは夫の死の直後などの時間線が交錯し、歳月の中を自在に行き来しながら作者は回想と思索を書き綴っていく。そこにあるのは、自分が当時感じたこと、今感じること、そして年月をかけて自分の中で熟成してきたことに誠実に向き合い、大切なことを拾い上げていこうとする意志と矜持であり、その誠実さこそが本書の何よりの魅力だと思う。巻末の解説で、大庭みな子も「見せびらかしもてらいもない」「みずみずしい」と須賀さんの文章を評している。

 エッセイの主要な題材はイタリアで暮らした頃の個人的な経験で、夫との思い出、仕事のこと、同僚や友人たちとの交流などだが、そこに芸術作品(小説や詩や映画)への思いが大きく関わってくる。著者にとって芸術作品は生活に密着したきわめてパーソナルなものであって、それらは彼女の人生と分かちがたく結びつき、溶け合っている。だから彼女は何のてらいもなく、どんな見せびらかしの意図もなく、それらに言及する。それは蘊蓄でもなく、自己演出でもなく、もちろんライフハックでもなく、自分にとって大切な芸術作品の本質を手探りでもう一度確認しようとする、どこまでも内省的なこころみだ。

 エッセイの具体的な内容を少しだけ紹介したい。最初の章のタイトルは「ミラノの霧」。ミラノの濃い霧は昔から有名らしいが、その霧が最近なくなりつつあるという話だ。かつて友人と一緒にそんな濃霧の中を車で走った記憶や、もう死んでしまった夫についてのミラノ時代の記憶に続いて、最後に友人の弟のエピソードが語られる。須賀さんの家に遊びにきた友人を、霧の中、その友人の弟が車で迎えに来るはずだったのにいつになっても現れない。きっと用事ができたのだろうと軽く考えていたら、実は霧の中の事故でなくなっていた。須賀さんは知らなかったが、この日彼は旅行から戻る長距離ドライブの途中で、姉を迎えに来ることになっていたという。悲劇的なエピソードだが、須賀さんはそれをさりげなく、とても静かに呈示してこの章を終える。

「マリア・ボット―ニの長い旅」の章では、一人の個性的な女性との交遊が描かれる。仕事で知り合い、ふだん着でどこへでも行く人という印象以外は特に何もなかったこの女性だが、実は起伏の多い数奇な人生を送って来た人であることが後になって分かる。そんな彼女のユニークな生き方を、須賀さんは「ふだん着でどこへでも行く人」というメタファーの中に鮮やかに収斂させ、愛情をこめて描き出す。

「きらめく海のトリエステ」では、トリエステという町とともに詩人ウンベルト・サバが題材になる。イタリアの詩人サバは伝統主義的で素朴な詩人として知られるそうだが、須賀さんの夫はサバをこよなく愛し、須賀さんもまたこの詩人に特別な愛着を持っている。この章の最後近く、須賀さんがイタリアの友人達と集まった時にサバが話題になる。が、彼女はイタリア人たちの排他的な(外国人にサバが分かるわけない、というような)サバ観に悲しみをおぼえる。そしてひとり眠りにつく前、こっちのサバ(つまり夫と自分が愛したサバ)が本当のサバだ、と独白する。

「舞台の上のヴェネツィア」は、もちろんヴェネツィアについて。須賀さんは映画『ヴェニスに死す』に言及しながら、この町のさまざまな異なる顔を紹介していく。喧騒の町、観光客向けの町、滅びゆく町、仮面の町。その時々でまったく異なる顔を見せる、まるで舞台の上で役割を演じているかのような町、ヴェネツィア。他のどんな町とも違うこの謎めいた町に戸惑いながら、彼女はヴェネツィアへ何度も訪れ、その表情に目をこらす。そしてラスト、冬のヴェネツィアの女たちのまるで女優のようなたたずまいを新鮮な驚きとともに眺めた時、彼女たちとこの町のイメージが重なり合うことによって、この文章は締めくくられる。

 他にもナポリのこと、映画『鉄道員』のこと、仕事でつきあった友人達のことなどが題材となっているが、須賀さんの内省的な視点、時間をかけても本質的なものを見極めようとする姿勢はいつも変わらない。イタリアという国のイメージから、一種の憧れをもってこのエッセイを手にする読者もいるかも知れないが、須賀さんの文章はありがちな異国暮らしの紹介文、紀行文とはまるで違う。それは私達にひととき芳醇な異国情緒を味わわせてくれるだけでなく、いつしかそれを超えて、普遍的な人生の深みへと連れていってくれるのである。

 ちなみに、丸谷才一氏は本書を自著『快楽としての読書 日本篇』の中で取り上げ、「この本の主題は喪失なのだ。...(中略)... われわれは数多くの貴重なものを失いながら生きつづけなければならないという辛い認識を、当今まれな上質な散文によって差出す」と評している。

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