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子に還る迷子

子に還る迷子


「暗闇に迷い込む私たちはそこに『親』を探し求めるものね」 

「静、コーヒーでよい?」
「美味しいのをお願いね」
「そのつもりだよ」
 優は慣れた手つきで弧を描いていく。
「優はコーヒーを淹れるとき何か考えている?」
「何も考えていないよ。今日も美味しくできるかなぁ、くらい」
「そっか。早く落ちろよ、とか思わないんだ?」
 カップを二つ持って優は席に着いた。
「思わないね。思うくらいならドリップなんてしないよ」
「そっか。それもそうね」
「それよりもこの香りを嗅ぐと安心する」
「この香りが好きなんだ?」
 静は鼻を近づけた。
「うん。この香りには思い出があるから」
「そうなんだ」
「二十歳になる前かな。それまでコーヒーなんて飲めなかったんだ。好んで飲む人の気持ちが分からなかったね、全く」
 静は頷きカップに口をつけた。
「でもね、起きがけに飲んだあのコーヒーのおかげでその美味しさに気付くことができた」
 静は遠い目をしてカップを見つめる優を視認して煙草に火をつけた。
「その前の晩、僕は一人でバーにいたんだ。外の光が一切漏れ入ることなく遮断されて、ちょうどそう、このコーヒーみたいにこっくりとした色で内装が統一されたバーだった。ぼんやりとした橙色の灯りをまたぼんやりと照り返しているその空間は静寂で、温度のない何かに抱かれているような感覚を覚えさせるものだった。とても安らぐものだったけれど同時に温度のある何かに抱き締めてほしくさせるものでもあった」
 静は長く煙を吐いた。
「そのとき彼女は一席空けた隣の席に腰掛けて白ワインを飲んでいた。腕を交差させ片手で本を読むその姿はとてもリラックスしているように見えた。身に付けていたのもカーディガンにジーンズというものだったからその影響もあるのかもしれないけれど、本を伏せグラスに口をつけるときだけとても大人びて見えた。だから年齢が分からなかった。同い年くらいかもしれないしうんと年上なのかもしれない。まあ僕にとって年齢なんてどうでもよかったのだけれど。それで僕は彼女が本をしまうのを待った。じっと目を閉じ彼女がページを捲る柔らかな音を聴きながら。ほどなくして彼女の椅子を引く音を耳にして僕は目を開けた。帰ってしまうんだなと思った。思って目を遣ると目が合った。それで彼女は会釈するようにしてそれから小さく微笑んだ。僕は彼女を追いかけるように店を出た。先を歩く彼女の横に並ぼうとしたら彼女がこちらを確認するでもなく、『うちに来る?』と呟いた。そして僕を見てまた、『来る?』と微笑んだ」
「それで、やったんだ」
 優は頷いた。
「部屋に着くと彼女は服を脱ぎすぐに僕のものも脱がせた。カーテンは閉めきられ電気も点いていなかったけれど、薄暗闇の中の彼女は目を開けてはいなかった。ああ、好きなんだな、そう思った。それから僕も目を閉じた。終わって僕はすぐに寝たんだと思う。目を覚ましたときにはもう彼女はカーテンも開けずに、かといって電気も点けずに、一日の始まりを告げる朝陽がカーテンの隙間から少し洩れ入る仄暗い部屋で静かに朝ごはんを作っていた。普段はカーテンを全開にして陽の光をふんだんに取り入れながら過ごしているみたいなのだけれど、僕の気持ち良さそうな寝顔を見るとまるで起こす気になれなかったらしい。『いつまででも気の済むまで寝ていてよかったのに』って。しばらく身体の怠さに任せ横になっていたのだけれどようやくベッドから上半身だけを起き上がらせると、彼女はまずコンロの火を消し鍋の蓋を閉め、急に部屋が明るくならないようにそっとカーテンを開けそして僕の目を見ながら、『おはよう』と微笑んだ。そしてまた、『ゆっくり眠れた?』と、僕の答えるのを期待していない風に尋ねた。彼女の動きは静かで無駄がなく、なんだか懐かしい気持ちで見惚れてしまった」
「それでコーヒーも淹れてくれたんだ」
 そう言って静は煙草を揉み消した。
「その彼女とはそれからは?」
 優は緩慢な動作で首を横に振った。
「コーヒーの匂いを嗅ぐ度に思い出すんだったらもう一度会ったりしたのかと思った」
「いや、いいよ、思い出すだけで。彼女はコーヒーを飲みながら教えてくれたよ、『あなたとおそらく五つも離れていない子どもがいるの』って。本当かは分からないけれどね。でもその言葉で十分だったよ」
「ねえそれって、良い、思い出なの?」
「良い思い出だよ」
「そう、ならよいけれど」
 優は冷めたコーヒーに砂糖を一つ落とした。

 静はおもむろに席を立ちカーテンを開けた。
「ねえ、優、今日は晴れるかしら?」
「えーっとね…」
 優はコーヒーを啜りテーブルの端にある新聞に手を伸ばした。
「あ、静、そこの眼鏡取ってくれない?」
 静は左手にあるくたびれた革のソファの上の眼鏡を取り手渡した。
「今日は晴れだね。降水確率10%、最高気温21度、最低気温11度。外を出歩くには最適な天候になるんじゃないかな。どこか行きたいところはある?」
「そうねえ…」
 静はソファに腰を下ろし遠くの稜線を眺めた。未だ薄暗く木々ははっきりと確認できないが、朝陽を背に受け徐々に視覚的にも優しいその姿を現わしつつあった。
「ねえ、優、小さい頃に目が疲れると遠くの山を見ろって言われなかった?」
「ああ、言われたかな。でもあんまりちゃんと見なかった気がする。三秒眺めてもう終わり」
「そうなんだ」
「静は見てた?」
「うん。目が疲れるということが私には分からなかったけれど、ああ、山って眺めるものなんだ、そう思ってからこうして朝起きたときや電車に乗っているときなんかはぼーっと眺めていたよ」
「山、かあ」
 優は新聞を置き眼鏡を取って、静の横顔とその先にある山とを眺めるでもなしに眺めた。
「登ったことはないの?」
 優は言った。
「何度もあるよ。全部同じ山だけれど一時間くらいで登れる低い山」
「そうなんだ。それはどこの?」
「学生の頃住んでいたところの裏手の」
「ここから近い?」
「車だと一時間くらいじゃないかな」
「そっか、近いね。じゃあ今日はそこに行こうよ」
「そうねえ…」
「静が学生の頃住んでいたところまで一時間、登るのに一時間。往復にしても四時間」
「そうねえ。まあでもたまには太陽の下で体を動かさないといけないよね」
「じゃあ、決まり」
 優はそう言って勢いよく立ち上がった。
 静も立ち上がり伸びをし、静のいなくなったソファは名残惜しそうにとてもゆったりと元の形に戻っていった。
 優はテーブルの上のカップを手に取り台所で中身を流した。底に沈殿した砂糖を優しく撫でるように指で掬った。
「静ってさ」
「うん」
 ハンガーにかかっていたシャツに腕を通しボタンを留める静の後ろ姿を見た。
「甘いもの、食べなかったよね」
「そう?でも小さい頃よりは食べるようになったよ」
「下山してから山の麓の甘味処で何か食べたいんだけれど」
 優は静の横に立ちクローゼットにしまってあったシャツを手に取った。
「それならさ、下山する頃にはちょうどお昼時だろうから定食屋さんかどこかに入ってそれから街をぶらぶらして、その後で甘いものを食べようよ」
「うーん…」
「あ、山の麓の甘味処っていう風情を楽しみたかった?」
「いや、静の言うように、登って降りて、お昼を食べて、近くを散策して、甘いものを食べてって考えていったら、晩御飯も美味しいものを食べて帰ってきたいなと思ってさ」
「いいね、それ。今の気分はお魚かな。でもそのときになったらお肉が食べたいとか言っているかも」
「静は天ぷらが食べたいと言うと思う」
「それって優が食べたいからそう言っているんじゃなくて?」
「それもあるかもね」
 荷物を詰めたリュックを背負い静は玄関に向かって歩いて行った。
「じゃあ、行こっか」
 朝陽で明るみ始めた部屋のカーテンをまた閉めた。

「下道の方が空いているよね?」
「そうだね。土曜日だから尚更下道の方が混雑していなくて良いんじゃないかな」
 助手席に座る静はシートベルトを締めながら言った。犬の散歩やジョギングなど周りを見渡しながら道を行く人々の姿が休日を思わせる。
「静ってさ、運転免許持っている?」
「持っていたよ。でも今は持っていない」
「失効したの?」
「そうじゃなくて、もう乗れないと思ったから」
「事故?」
「うん。自損事故」
「生きていてよかったね」
「そんなに酷いものじゃなかったから」
「そっか」
 信号が赤に変わるのを認め優は減速した。コンビニの袋を提げた男性が子どもを腕に抱き横切って行った。
「ねえ、優、お母さんたちはいつから一緒に住もうと決めていたのかしら?」
「さあ、いつからだろうね」
 男性の肩越しに子どもが手を振っている。静はそっと手を挙げた。
「でも、しょっちゅう会ったり電話したりしていたから仲は良かったよね」
「そうだね。まだお母さんと一緒に住んでいた頃は一時間二時間と電話しているのを見ていたから、姉妹ってそんなものなのかなって思っていたよ」
「静は?お姉さんとは?」
 信号が青に変わった。
「そっか、優、知らないんだよね」
「何を?」
 優は静をちらと見た。
「景子姉はいないんだ、もう。十五年も前に私の今の歳で亡くなったの」
「え?」
「薬を大量に飲んで」
 静は窓を少し開け煙草に火をつけた。
「…そうだったんだ」
 優はペダルを踏む強さを徐々に強めていった。
「物心ついてからは会っていなかったからほとんど顔も思い出せないけれどそれでも…」
「そうよね。景子姉は私と十五歳離れていたからね、優ともだから十七歳離れていたんだよね」
「うん…、じゃあ、四十二歳で…」
「うん。景子姉は二十歳で結婚して子どもを産んで主婦になったの。私はその頃まだ小さかったから景子姉が家を出て行ってからはなんだかお姉ちゃんというよりは親戚のお姉さんという感じになってしまって、姉妹だとはあまり感じていなかった。それに、遠くの方に越してしまったから余計に。旦那さんがどんな方で子どもはどんな子なのか、子どもだった私はいまいちよく知らないの。なんだか変よね、家族なのに」
「それでも会ったりしていたんじゃないの?」
「亡くなる前数年はたまに会っていたけれど、景子姉が二十代三十代の頃は私は全く」
「そっか」
「仲が悪いわけじゃなかったんだけれど、これだけ歳が離れていてそれに別々に暮らしているとなると私から会おうと言うのもなんだか。親はたまに会ったりしていたみたいだからそれでよいんじゃないかとも思って。お母さんが言うには最後の方は別居していたみたいだけれど」
「そっか。じゃあお子さんは?旦那さんが?」
「そうだろうね」
 静は窓の隙間を通すように細く強く煙を吐き、言った。
「小学生くらいの頃って繰り返し命の大切さについて考えさせられたじゃない。生物はそれぞれ一つ命を持っていて、そこに優劣はなく等しいもので、だからないがしろにしてよいもんじゃない。身近に、命がなくなることつまり死ぬことに触れる機会がなかった私にはとても効果的だったね。みんな死ななきゃよいのになぁって本気で思っていた。でもさ、そんな願望なんてものはとても残酷なものだよね。道端で死んでいるバッタ、カマキリ、セミ。彼らを目にする度に少し息が浅くなるんだよね。ハッとするの、死んでいることに。そして家に帰って、アニメとかじゃなく報道番組とかがついていたりするとさ、事故、事件、自殺、心中、様々な形があるけれど誰かが亡くなっているのを目にする。みんなの大切なはずの命の終わりが淡々と読み上げられるだけで右から左に流れていくのを見ていると、なんだかおかしくなりそうだった。死んでもこの程度なんだなって思ってしまったの」
 静は深く煙草の煙を吸い込んだ。
「生きていれば五年十年会わない人だっているし、もっとそれ以上に、会わないままの人だっている。そんな人たちが生きているか死んでいるかなんて分からないじゃない。そうなれば生きるも死ぬも会うも会わないも似たように考えてしまって。一日一時間一分一秒、その間にも世界では果てしのない人々が死んでいて、だからってわけでもないけれど、景子姉が亡くなったって聞いたときとても安らかな気持ちで受け入れられた。それに自ら死を選んだということは、生きることが嫌になったのだろうしそれは仕方がないことだって思った。もっと密に会って姉妹らしくしていればまた違ったことを思ったのかもしれないけれど、そんなものは意味がない。生きていてほしい。死なないでほしい。苦しくなったら他に場所がある。一人じゃない。相談してほしい。そんな無責任なことは言えないからね」
 変わり映えのしない道を静と優の車だけが進んで行く。優はハンドルを握る手を緩めることはない。
「私はその頃結婚したばかりで、子どもができればよいねって夫と言い合っていた。でもそんなときに景子姉が亡くなったって聞いて私は戸惑った。本当に子どもがほしいのかな。ほしいほしくないじゃなくて授かるものだと言うけれどそんな綺麗事は置いておいて、もし産まれた場合私は責任を持って生きて育てていけるのかな。もし子どもが死にたいと思ってしまったときに私は許可してしまいそうで恐ろしくなった。景子姉が亡くなったときのように仕方がないことだと思ってしまったらどうしよう。私が死にたくなったら子どもはどうするの。実体のない不安に駆られ私は一人深海に潜って行くような感覚に襲われたの」
 静は煙草を揉み消した。そしてすぐにもう一本を取り出し火をつけようとした。
「あそこのコンビニに寄って行こうか。何か飲み物でも買っておこう」
 優はそう言って前方後方共に確認し、左にハンドルを切った。
「そうね。ごめん」
 静は出した一本を箱にしまってシートベルトを外した。
「優、何がほしい?」
「いや、僕も行くよ。ありがとう」

「静」
「うん?」
 休日の高揚感からか、後部座席で目一杯の笑顔でじゃれ合う子どもたち、眠気を引きずり化粧が未だ馴染むことなく仏頂面でいる助手席の女性、咥え煙草で窓に寄りかかりながら進むトラック運転手、対向車線を走る車にはでもそれぞれの朝を迎えた空気が密閉されている。
「いとこ同士って不思議なもんだね」
 優は言った。
「そう?」
「だってこうして中学のとき以来の再会で二人でいるのに、なんだか一緒に暮らしてきた家族みたいな心持ちで喋ることができるから」
「それもそうね。でも、会わないようになるまでは姉弟のように一緒にいる時間が長かったから、その懐かしさも加味されてのことじゃない?」
「うん。それもあるね」
「もし私たちが引っ越さなかったら本当に姉弟みたいになっていたかもしれないし思春期の男女みたいに変に意識して疎遠になっていたかもしれないし、中学のときに離れたおかげかもね」
 静はコンビニで買った炭酸水を勢いよく開けた。
「いる?」
「ありがとう」
「お母さんたちが一緒に暮らすって言い出さなかったらもう会っていなかったかもしれないよね」
「うん。それはそうだと思う」
「それにしても二人が借りたあの家、なんだか不思議な感じがする。落ち着くような落ち着かないような」
「そうかな?」
「しない?」
 静はリュックから出した日焼け止めクリームを薄く伸ばして塗っていった。
「どこにでもあるアパート…、強いて言うなら年季の入ったホテルの一室っていう感じかな。それ以外には特に何も思わないけれど」
「そうそう、そういうことよ。アパート自体は新しくもなんともないどこにでもあるものだけれど、その部屋の中にお母さんが長く使ってきた家具と優のお母さんが使ってきた家具とが一緒くたになって配置されているせいで、寛げるような背筋が伸びるようなそんな感覚を行ったり来たりしないといけない気がするのよ」
「まあ、言われてみるとそうかも」
「優はお客様気分でいるから気にならないのかもしれないけれど、捨てるべきは捨てて残すべきは残してってしないと、なんだかまとまりがなくていつまで経ってもお家にはならないんじゃないかしら」
「静は二人のお母さんみたいだね」
 優は笑った。
「だってさ」
 静は日焼け止めクリームの蓋を閉めた。
「私たちよりも長い間離れて生きてきた二人がまたお互いに一人になった老後を二人で過ごそうとしているんだから、気持ち良く過ごしてほしいじゃない。それに二人ともお父さんとの思い出があるから処分できないっていうわけじゃなくて、ただ持っているっていう感じだから余計に気になるのよ。それにあのアパートもそんなに広くはないし。例えばダイニングテーブルなんて変よ。四人がけの角ばったテーブルと四人がけの丸みを帯びたテーブルと、ましてやその高さも合っていない二つが並んで置いてあるなんてさ、どれだけ奇抜さを売りにするレストランでもやらないんじゃないかしら。それに、八人座れるテーブルで二人だけでご飯を食べるなんて想像するだけで寂しい風景じゃない」
「確かにそれはそうだね。一人で食べるご飯よりももしかすると寂しいかもしれない」
「もしかしなくてもそうよ。いなくなった席を埋めるために二人で住み始めようとしているのにずっとその空席を眺めていたら、いつかおかしくなっちゃうわよ。少なくとも私だったらそうなると思う」
「じゃあ二人に静から提案してあげてよ」
「そうだね。そうする」
 静は頷いた。
「あ、炭酸水、開いているじゃない」
「あ」
「閉めないと抜けちゃうんだからね、しかるべきは閉じ込めておかないと価値を失うんだから」
 静はそう言って炭酸水を手に取った。
「ま、いっか、閉めないままでも」
 そこかしこにある泡が移動しては弾け、車の振動に揺られながらゆっくりとそれを繰り返した。


 
「おはようございます」
 山ですれ違う人々は皆一様に挨拶を欠かさない。足元を見ながら登っていても人の気配を感じれば顔を上げ笑顔になる。
「おはようございます」
 静と優も少し乱れる息を整えて挨拶をした。
「低い山だからって油断していたよ」
 優は立ち止まり腰を伸ばした。
「優はまだそんな歳でもないじゃない。でも私もなめていたわ。学生の頃は走って登った記憶があるけれど、二十年近く経てば当然衰えるよね」
「こうやって時が経ったのを露骨に感じるのも悪くはないけれどね」
 リュックから水を取り出し開けながら優に手渡した。
「あれ?さっきのじゃないね?」
「当たり前じゃない。コンビニで一緒に買っておいたのよ。水分補給はしっかりしないと」
 優は慇懃に水で口を潤した。
「あっ、この道この道」
 静は整備された登山道から横に延びる細い道を指差した。
「抜け道?」
「どうなんだろうね、そっちの道みたいに手摺が付いていたりするわけではないから正式な道ではないのかもしれないけれど、こうやって落ち葉が踏み固められているのを見ると、通っている人も相当数いるみたいよ。私もこの道ばかり通っていたしね」
「なんだか隠れ家に続く道みたいでよいね」
「童心に帰る?」
「そんなところかな」
「自然に囲まれると安心するよね」
「うん。僕はここに来たことがないけれど来たことがあるような気持ちにさせてくれる」
「分からないよ。来たことがあるかもしれないじゃない」
「いや、ないと思うよ」
「私がどうしてこの細い道を選んで登るかというとね」
 静は歩調を緩めた。
「体を横にしないと人とすれ違えないような横幅しかない落ち葉が堆積した細い道と、それをアーケードのように無数の木々が覆っているこの空間のこの閉塞感が好きだからなの」
 下を見遣れば少しの湿気を含んだか弱い落ち葉とその隙間を縫うように上向く図太い雑草。上を見遣れば大勢の人々の目を愉しませる本番前夜のように嬉々としている葉群れ。優は焦点を定めずに前を見つめた。
「この閉塞感はとても自由だと思う。密閉され閉じ込められていても、風が吹けば葉は揺れるし揺れればそっと太陽も覗いてくれる。そういうゆとりのおかげで記憶のどれをここと繋げてもそれを抱き上げてくれて、またときにはさらっていってくれる。そういう錯覚も許容してくれる。ここはだから目に見えるものでは汚されていないんだと思うの」
「うん」
 優は頷いた。
「例えば僕は緑を基調とした建物に金色の文字で『insomnia』と描かれたカフェにいたんだ。テラス席に座り、スーツ姿の人々が脇目も振らずに歩く姿を片肘をついてぼんやりと眺めていた。そこに深緑の、雨天に遠目に見る山のように冴えない色のカップを二つ持った女性が僕の前に腰を下ろした。そして何も言わずに僕の前に一つそれを置いた。僕もだから何も言わずにそれを手に取り口にした。味はなかった。それは中身のないものだったから。僕はまたそれをテーブルに置き席を立った。店を出てそれから僕はスーツ姿の人々を盲目的に追いかけた。その道はちょうど砂時計を平面にしたような形で、歩を進めれば段々とすぼんでいく形をしていた。その道は歩道としては機能していたけれど同時に諦観を剥き出しにして隠すことはないようなそんなものだった。彼らはそのくびれの部分を律儀に一列に並びすり抜けて行った。僕も彼らに倣って通ろうとしたけれど、そこは確かにこの細い道と見まごう程に閉じ木々が生い茂っていた」
「面白いね、それ」
 静は愉しそうに軽やかな声で言った。
「それで、そこを抜けると何があったの?」
「そこを抜けるとちょうどそう、女性が一人、ベンチに腰掛けていた」
 そう言って優はベンチに腰掛ける女性に目を遣った。
「何それ本当?」
「おはようございます」
 優は静に笑みを返すだけでそのまま女性のいる方に歩み寄った。
「おはようございます」
「お隣、お邪魔してもよろしいですか?」
「ええ、もちろんですよ。ここは皆のものですから」
 女性は揃えた膝の上にあったタオルでベンチの落ち葉を払い落とした。
「すみません。ご丁寧にどうもありがとうございます」
 女性と優に挟まれるようにして静は腰を下ろした。
「今日は良い天気でしょう」
 後ろで一つに纏められた豊かな白髪混じりの髪のように、滑らかな調子で女性は言った。
「そうですね。申し分のない天気です」
「少しお話してもよいかしら。聞き流していただいて構わないから」
「はい」
 優はベンチの端に残っていた一枚の落ち葉を掴み眺めながら頷いた。それを目の端で捉えた静は背筋を伸ばし、行儀よく膝の上に手を置き二人を交互に見た。
「私は夫とよくこの場所に来ました。初めてここにたどり着いたのは本当に偶然でした。偶然というより迷ったんですね。いつものルートで頂上を目指せばよかったのですけれど、そのときはどういうわけか夫が、『いつもの道じゃつまらないから別の入り口を探してみよう』と言って、入り口とも呼べないような、草が繁茂する洞窟の入り口のようなところを無理やり入って行ってしまいました。私は一人待っているわけにもいきませんから、置いて行かれないように夫の背中だけを見つめてついて行きました。少し進めば道とは呼びたくはないですけれど、動物が通って草がなぎ倒され、それでできたらしい平坦なところが続いていくのを発見しました。夫はそれを見て、『やっぱり同じように考える人がいるんだよ』と嬉しそうに言っていましたけれど、私は大型の、それは例えば熊や猪などの比較的大きな体躯の動物が通っただけだろうと思いました」
 静は煙草に手を伸ばしかけさっと反対側のポケットからガムを取り出し、一つ口に放り込んだ。
「それでも道はなだらかに上向いていますから着実に頂上には近づいているんだろうと自分を納得させ、夫の後に続いて進んで行きました。すると不思議なものでそれは徐々に広がりを見せ道らしき道になっていくように感じました。少しばかりの安堵を覚え足取り軽く進んでいましたら、小屋のようなものが点々と道なりに建っていました。それは木造でその弾力を失った古いものでした。その前には人一人がすっぽりと入れる壺のようなものがありました。それもまた錆びて輝きを失い、小屋と同じくらい年季の入ったものだと見受けられました。『あれは何かしら?』と私が尋ねると夫は、『ここで昔狩猟でも行われていたんじゃないか』と言いました。確かにここでは猪を食したりするということを耳にしたことがありましたから、夫の言う通りだろうと思いました。それで尚も進んで行くとまた道が狭まり道とは呼べないようなところに入って行きました。しばらくすると正にここ、このベンチにたどり着きました」
 女性は愛おしそうにベンチに触れた。
「そしてここで、『不思議な場所もあるものね』と言い合いながら少しばかり休息を取りました。ここから頂上に行くのはもう道なりをまっすぐ進めば迷うこともないですから造作もないことです。そうして帰りに同じ道を通って帰ろうとしたのですけれどそっちの道、おそらくあなた方が通って来た道を発見しましたから行ってみると、拍子抜けするくらいに容易に、整備された登山道に出てしまいました。そしてそれ以降私たちがこの山へ来るときはこのベンチを目指して来るようになりました。子どもをどこかに遊びにやって二人で来ることもしばしばでした。この空間、とても小さな開けっぴろげな自然のお部屋で私たちはたくさんのことを話しました。言葉にすればそれらは様々な色を持った思い出となりここに積もっていくような気分がしました」
 優は手に持っていた落ち葉に視線を落とした。
「しばらくして夫と子どもに会えなくなってから私は一人ここを目指して何度か足を運んだのですけれど、不思議とたどり着けなかったのです。それが今日ようやくたどり着くことができました。喜んでよいことなのかどうなのかそれは分かりません。それでもこうしてこの場所であなた方にお会いできたということはとても喜ばしいことです。夢や記憶や思い出といったものはとても曖昧なものです。曖昧で表情がありません。たくさんのお面を持った方たちが頭の中に存在します。ただ現実だけが、目の前のものだけが流れるように麗しい七変化を見せてくれます。それが生きていることだと私は思います」
 彼女はリュックから丁寧に個包装されたコーヒー豆を二つ取り出して静と優に手渡した。
「ここでお会いできたのも何かのご縁ですから受け取ってください」
「え?よいんですか?ありがとうございます。私たちも何かないかな…」
 静はリュックのチャックに手を伸ばした。彼女は制するように静の手に手を重ねて言った。
「年寄りの話を聴いてくださり、どうもありがとうございます。直に雨が降りますから頂上は目指さずに下山なさい。風邪を引いてしまいますから」
「雨?今日は降らないって…ねえ?」
 静は優に目を遣った。
「ありがとうございます。それでは僕たちはまた来た道を通って下りることにします。どうも、ありがとうございます」
 優は立ち上がり手にある葉を彼女に手渡した。彼女は微笑みそれを受け取った。
「さ、行こっか」
 静は寝起きの人がするように大きく伸びをしながら歩いて行く優に釣られるように立ち上がり、彼女に一度頭を下げその後を追いかけて行った。

「ねえ、よく分からないんだけれど」
「ん?」
「あのおばさんと、優は知り合いなの?」
 登山口と書かれた看板を振り返り確認してから静は言った。
「いいや。全く知らない人だと思うよ」
 そう言って優は一度天を仰いだ。
「じゃあ尚更よく分からない。優の話も、彼女があそこにいたことも、優と彼女が妙に通じ合っていたことも何もかも全て。私は夢を見ていたわけではないよね?」
 静はリュックに手を突っ込んだ。
「いや、だってコーヒー豆があるもん、夢ではないよね。それに何、夫と子どもと会えなくなったって言っていたけれど、離婚?死別?なんなの?」
「静、おばさんの顔、覚えている?」
「白髪混じりの…、どこにでもいるおばさんっていう感じだったんじゃない?取り立てて描写するようなところもない感じの」
「とても失礼な話だけれど僕もそうだよ。仮に僕が著名な画家だとして彼女の似顔絵を描いてくれと頼まれても、多分描けないと思う。髪の毛と輪郭と、それは描けても表情まではまるで描ける自信がない」
「そうでしょう。それがなんだっていうの?」
「彼女と旦那さんが偶然見つけたあの場所で、彼女は子どものような旦那さんやお爺さんのような旦那さんや、様々な旦那さんを発見したんだと思う。毎日一緒に暮らしていても見えないような表情があそこではたくさん見られたんだろうね。でも旦那さんと何らかの事情で会えなくなってからはその表情一つ一つが固定された一枚の写真として彼女の中に残ってはいたんだろうけれど、それも時間が経てば次第に表情のないものになっていきつつあったんだと思う。毎日見るものは忘れないけれど、そうでなければ過去のものになって自分の理想や想像に彩られて不確かなものになっていっちゃうと思うんだ。そうだとしても今日あそこに来てあそこに残された空気が彼女の記憶を刺激して、旦那さんと話したことや彼の体温、声色、匂い、旦那さんを構成する全てのものが鮮明に思い出されんだと思うよ。それはもちろん表情も含めてね。静の言うようにあの閉塞感はとても自由なんだろうね。旦那さんが生きているのかどうなのか、僕には分からないけれど彼女の中では今日もまた生きていて、その表情は過去のものかもしれないし彼女と一緒に歳を重ねてきたものなのかもしれない」
「その、だから…」
 静は言葉に窮して優を見た。
「とても曖昧なものを言葉にしそのことでまた新たな曖昧なものになっていく、ということ」
「余計に分からないんだけれど。まあいいわ。表情は忘れもするし思い出しもするし変化もするし、何だって自分の思う通りに描けちゃうってことね」
 興味を失ったように早口で言った。
「うん、記憶なんてものはとても脆いものなんだろうね」
「ねえ」
 腕を捲って静は言った。
「本当に雨、降ってきたじゃない」
「すごいね、あのおばさん」
「あのおばさんがすごいのか、優が新聞を見間違えたのか」
「後者もあるね」
 優は笑った。
 呆れた表情で一瞥し静は車に走り寄った。
「お昼ご飯食べに行くよ。早く」
 優は車の鍵を取り出した。

「ごちそうさまでした」
 その意味を習ったばかりの子がするように神妙な面持ちで、静は形式的に頭を下げた。それを見た優は刹那目を瞑り黙した。二人の前にある、鈍い青が濃淡豊かに垂れるうどん鉢にはほんの少しの天かすが漂っている。
「そんなやり方初めて見た」
「そう?」
「うん。前もそうだった?」
「前ってもう二十年近くも前だよね。覚えていないけれどそうじゃないかな」
「そっか」
 静はお冷やを手に取り上唇に一瞬触れさせた。
「晩御飯の影響じゃないかな?」
「晩御飯?」
「うん。一人で食べることが多かったから」
 静より少し長くそうして優はお冷やをテーブルに置いた。
「関係ある?」
「あった、僕にはね。寂しかったんだろうね、学校では皆で声を合わせてそうするのに家では一人だと」
「そうなんだ」
 傘をそれとして機能させず引きずっていた子どもが、父親に抱き上げられ笑顔になった。父親は肩に和紙に垂れた墨汁のような文様をいくつも作った。
「雨、ずっと降りそうね」
 静は言った。
「そうだね。どうしよっか。撤回してもよい?」
「うん」
 静は笑った。
「何か分かる?」
「うん。疲れたって顔しているもん」
 優は俯き加減に苦笑いした。
「でも、どこかでコーヒーだけ飲んで帰ろう。運転中眠くなったら嫌だから」
「そうだね。運転、ありがとうね」
 そう言って伝票を片手に静は席を立った。
「ごちそうさまでした」
 優は隣のテーブルを拭く店員の背中に向かってそう言った。

「ここなんてどうかしら?」
 優は静がそう言うなり傘を閉じ店先の傘立てに差した。買ったばかりのそれは一振りもすればほとんどの水滴を地面に撒き散らした。
「ブレンドを二つお願いします」
 おしぼりを運んできた店員に優は言った。彼女は後ろで結んだ髪を揺らすことなくカウンターに戻って行った。
「こういうソファってよいよね」
 座り心地を確かめるように座り直し、静は言った。
「うん。昼寝には最適だと思う。お母さんたちの家にあるソファと似ているよね」
「あ、確かにそうね。あれは私が実家にいた頃に買ったものなんだけれど、始めのうちはだからちゃんと反発力のあるソファだったのよ。それが今となっては…」
「しっかり歳を重ねてきたってことだ」
「まあ、そんなところね」
 静はもう一度座り直した。
「お待たせ致しました」
 丁重に扱われるべき繊細な音を奏でて二人の前にそれは置かれた。
「あ、そうだ。優ってアイルランド行ったことあるの?」
 スプーンで一周円を描き静は言った。
「いや、ないけれど?」
 優はカップを回し左手で持って一口飲んだ。
「え、だってさっき言っていたじゃない?『insomnia』と描かれたカフェに行って、とかなんとか。やっぱりあれって本当の話ではないの?」
「さあどうだろう。本当の話だと思うけれど」
「自分の話なのにものすごく曖昧なのね」
「なんでアイルランドなの?」
 優は静が煙草を取り出すのを認め、テーブルの上の灰皿を静の側に滑らせた。
「ありがとう」
 静は火を点け言った。
「だって『insomnia』はアイルランドのコーヒーチェーンよ、確か。旅行で行ったときに印象的な名前だったからよく覚えているのよ」
「そうなんだ。じゃあ僕はテレビか映画か何かで見たんだろうね。それとも何かで読んだか。行ったことがないのは確かだよ」
 記憶を確かめるように一度目を瞑り、一つ頷いた。
「そうなんだ。まあいいわ。さっきの山での一連の出来事はおかしな浮遊物として明日になればどこかに流れて行っているだろうから」
「UFOみたいに言うんだね」
 優は笑った。
「正直に言うと僕はあまり記憶に自信がないんだよね。自分で見たものは全て覚えている自信があるんだけれどそれがいつどこで見たものなのか分からなくなるんだ」
「それは私だってそうよ。図書館のように整然と記憶も全て保管されていればよいけれどそうはいかないものじゃない?」
「そうなんだけれど、現実や映画で見たことも、夢や小説で思い描いたことも全て僕の頭の中で明確な繋がりのない写真として保存されていくんだ。そしてその写真は時間の経過と共に印象的なもの以外は排除され、ときにひょんな繋がりを見せて事実と異なるものになってしまうときがある」
「さっきの山の話もその一つだということね」
 そう言った後、静はふっと息を吐いた。二人同時にカップを手に取り啜り、音も鳴らさずそれを置いた。
「例えば小説を読んでいるとき、僕は登場人物の顔、そして表情を想像する。それはそこから与えられた少ない情報の中から実生活の中でそれに近しいと思われる人物をあてがって想像し、そして自分の頭の中で物語を進めて行く。その物語が終わり長い時間が経った後、ふとどこかの場面を思い出したとすると、自分の頭の中だけで見た場面なのにそれを僕が現実で見たものとして探し求めるんだ。切り取られたその場面は他の関係のない類似したものと符合し勝手に色付き、本当の物語とはかけ離れて僕の頭の中に、厳密に言えば新しくはないけれど、新たなものとして記憶される」
「それで掘り起こされる記憶が古ければ表情も消え去って、その場面が持つ風景と似たようなもの同士が繋がっていくからより事実からは遠いところに着地するのね」
 静はそう言って煙草を揉み消し、三度頷いた。
「うん。似たようなもの同士は匂いでも繋がっているんだよね」
 そう言って優はカップを持ち上げ鼻に近づけた。
「例えばコーヒーの匂いにまつわる記憶があったとしてそれらはコーヒーという区分に自動的に収まっていく、アルバムみたいに。そしてまたその匂いを嗅いだときにその区分にある写真が無作為に数枚瞬時に抜き出される。けれど悲しいかな、その中の一枚を選んで思い出そうとしても、まるでそう、あそこにあるドリッパーみたいな円錐の筒を覗き込んでいるかのようにその先がまるで見えない」
 カウンターでお湯を注ぎ淹れる店員に目を向けた。
「詳細までは全く思い出せないってわけね」
「うん。何千何万というピース、それも類似してどれがどこか判然としないピースを持て余し投げ出してしまいたくなる、そんなジグソーパズルを突然強いられたような気分になる」
「それは嫌ね」
 静は笑った。
「それくらいにうやむやなものだからこそ」
 優は静の目を見て言った。
「今、静の頭の中にあるそのUFOみたいな浮遊物も未知のものではなく確固とした何かとして頭の中に留まる可能性だってあるかもしれない」
「確固とした何かって?もう既に朧げだけれど」
 静はゆったりとした動作でカップに指を絡めた。
「例えばさっきのその朧げな記憶の中に埋没してしまいそうなおばさんの顔にお姉さんのお子さんの顔を重ね合わせてみるとする」
「景子姉の子ども?」
「例えばね」
 優は言った。
「想像の中のまた想像になるんだけれど、まあいいわ、それで?」
「挨拶をしベンチに腰掛け、話をしている。その内容は置いておいて、会えてよかったな、だとか、愉しい話だな、だとか何かその場面に対する感想も一緒に想像する。それを日を置き数回繰り返す。そうすると五年十年と経ったときにそのおばさんとの出会いはお姉さんのお子さんとのそれに取って代わって記憶されているかもしれない」
 静は腕を組み目を瞑った。
「やらなくてよいよ」
 優は笑った。
「そう?面白そうじゃない。でもなんとなく言いたいことは分かる気がする」
「小学生のときのような昔の記憶ってもう俗に言うセピア色の洒落た郷愁に彩られたものではなくて、褪せ切ってほぼ真白に近づいているんだよね、僕の中では。だからそこにまた色を重ねていくのは真っ新なキャンバスに描いていくのとあまり変わらないんだ」
「自分を欺くことって簡単なことなのかもね」
「とても優秀な司書さんがいてくれると有難いんだけれどね」
「そうね。でもそれは有難いけれど有難いだけで味気ないよ」
 二人はカップの残りを飲み干した。


 
「雨止んだね。どうする?」
 静は新品然とした傘をたたみながら優に目を遣った。
「そうだね。お母さんたちはいつ戻ってくるんだっけ?」
「今日の夕方には帰ってくるんじゃなかったかしら。新幹線で駅に十六時頃に到着だって言っていたよ」
「そっか」
 優はそう言って車の停めてある方に足を向けた。
「晩御飯、四人で食べる?せっかくだしさ、外で」
 優は言った。
「疲れているんじゃない?」
「大丈夫だよ、家の近くで食べようって言えば。家で何か作るよりよいんじゃない?」
「そういう問題じゃないと思うけれど」
 静は小さな水溜りを大股で避けた。
「とにかく一旦戻ろっか」
 優は大きく伸びをしてから車のドアに手を伸ばした。
「優はさ、結婚したいと思ったことはある?」
 シートベルトを締め体を向き直してから静は言った。
「ないかな」
「そうなんだ」
「でも、考えたことはあったよ」
 ウインカーを出した方にいる静を見遣った。
「六年と付き合っていた人がいるんだけれど、その人とね」
「それはいつの話?」
「八年前かな」
「何でしなかったのって聞くのは少し無粋かしら」
「そんなことないよ」
 優は笑った。
「殊更話したりするようなことでもないけれど」
「じゃあ尚更聞きたいわ」
 シートベルトを正して優を見た。
「そっか」
 優はまた一つ笑みをこぼした。
「『似ている人はたくさん存在していて、自分だけが特別ではない。けれど生きている限りでは自分が主人公だという自惚れも必要。』そういう、言葉が好きな彼女だった」
「面白い方ね」
「うん。言葉を食べて太りたいって言っていたからね。でも写真や絵画の言葉のない芸術も好きだったよ」
 静は煙草を取り出した。
「彼女はだから僕の話にもとても興味深そうに耳を傾けてくれた。僕は他愛のないことでもするすると言葉になっていくのを感じられた。うんうんって頷きながら話を聞いてくれる、そんな存在の大切さにようやく気付いたね、そのとき」
「うんうん」
 優は相好を崩し、続けた。
「彼女はそういう異物を受容できる心を持っている一方で、『いろいろなものに触れることはとても刺激的で素敵なことだけれど、その数が増えれば増えるほどよいってものでもないと思う。自分が許容できる範囲で触れていけば良い。たくさん触れてその各々の引力に引っ張られ自分が分裂し疲弊してしまうくらいなら何もしないほうが私にとってはよいときもある。』そんなことも言ってしまえるくらいに自分のバランスをよく理解した人だった」
 数センチ窓を開け優は続けた。
「ある日映画を観に行ったんだ。何が上映されているかを確認しないで単館上映を観に行くってことをやっていたんだよね。そしてそのときは海外のもので確かフランスの映画だったと思うんだけれど、瀟洒な建物が建ち並ぶ町の小さなエピスリーが舞台のものだった。そこでは一人の若い女性が働いていて、その人が主人公だった。そこに毎日のようにやってくる一人の少女がいた。おそらく主人公よりも少し若い二十歳に満たない子だったかな。線の細い少女一人では食べきれないような量の食材を買って行くから当初主人公は、家族のために買って行っているのかそれともどこか職場の調理係として働いているのか、そんなところだろうと思っていた。それであるとき主人公がお休みの日に町を歩いていると、両手にたくさんの食材を抱えたその少女を発見し声をかけようと少し後をつけてみたんだ。すると主人公の住むアパートの目と鼻の先にあるアパートに入って行こうとしたからそこでようやく声をかけた。『こんにちは』って。すると彼女は小さく会釈するだけでそのまま逃げるように部屋に入って行った。でもその日を境にエピスリーで顔を合わせる二人は挨拶程度のほんの少しの会話を交わすようになっていき、ある日主人公が少女を、『カフェでお話しない?』って誘った」
 静は架空のカップに口をつけた。
「それである日はカフェへ、ある日はレストランへ、ある日はバーへ。そうして二人は仲を深めていった。そんな日々にあって主人公は親から送られてきた大量のトマトを少女にお裾分けしようと、出勤前初めて少女の部屋を訪れた。どこか怯えるように身を屈めて出てきた少女は主人公を認めて不意に涙を流した。心配になり主人公はそのまま少女と部屋に入った。すると部屋は夥しい食材とその食べかすと、そういうものが乱雑に床を埋めていた。主人公は黙って少女の手を握り締めそれから体を抱き締めた」
 交差点で止まり、静は煙を吐き出し優は人差し指でハンドルを撫でた。
「コンビニ、寄らなくてよい?」
「うん、大丈夫よ。ありがとう」
 手押し車を押す腰の曲がった老人を二人は見送った。
「少女を抱き締め主人公は、『今日から私の家においで。』そう言って静かに涙を流し続ける少女をまた抱き締めた」
 優は隣に座る静をちらと見た。
「そうして物語は続いていくんだけれど、エンドロールのときに彼女を見ると目線は真っ直ぐにクレジットを眺めていて、手元では涙を拭っていたハンカチを丁寧に畳んでいた。映画の世界から抜けきっていない頭のままで隣にいる彼女を見ていると不意に僕は、『何をしまいこんでいるの?』そう口にしていた。そのときはまだ曲が流れていたからあまりよく聞こえなかったんだと思う。彼女は物音に反射するように僕の方を見てそれから柔らかく微笑んだ。映画館を出て近くのカフェに入り僕たちはカウンターに横並びに座って、会話もしないまま通りを行く人々を眺めていた。そうすると彼女が、『何かに絶望することは決して悪いことではないと思うの。中途半端なそれはよくないかもしれないけれどその淵まで行ってしまうと、引っ張られればどこへでも行けそうなくらいに身軽になっているかもしれないから』って言ったんだ。独り言に近いものだったけれど」
 優は一つ深呼吸した。
「彼女の絶望の淵はどこだったんだろう。彼女はそこから何に引っ張られて今ここにいるんだろう。彼女の心には何がしまいこまれているのだろう。何に涙を流すんだろう。そんなことを考えていたら彼女は言った。『映画を観て琴線に触れ涙するのと同じように、頭の中にある数えきれないほどの記憶や情報の一つないし幾つかが誰かの話す話によって刺激されあたかも自分が今ほしかった言葉が目の前にあるような錯覚に陥ることがある。共感はそうやってそこかしこで生まれると思う。そういう瞬発的なものは歩いて躓く小石に過ぎないかもしれないけれど、例えばその躓いた小石に心惹かれ手に取る時間があったならばそれは私にとってとても幸せなことなの。優が上映中に目を閉じて耐えるように泣いていた理由はもちろん知りたいよ。でも今は聞かない。言葉なんて軽いものにするべきものじゃない気がするから。時間を共にする中で優の揺らぎに触れていきたい。』それで彼女はコーヒーを飲んだよ。『美味しいね』って言って微笑んでね」
 静がシガーソケットに吸い殻を入れるのを目の端で捉え優は言った。
「結婚を何でしなかったのか。その答えになっていないよね」
「言わなくていいよ。そのままにしておいて」
 静は言った。

「優ちゃん、何して遊ぶ?」
 女は言った。
「ぼくはサッカーがしたい」
 少年は言った。
「サッカー?いいね、やろっか。優ちゃんの上手なキック、見せてよ」
「うん!」
 少年は女に手を引かれ公園に向かっている。少年は上体が前のめりになりながらもそれに合わせて器用に足を出し走っている。女はその斜め後ろをボールを前で抱え歩いている。
 少年と女以外誰も歩いていない道を少年は、枯葉が枯葉の原型を留めいてるものを見つけては走り寄り踏みつけ、軽快な音を立てて粉々になるそれらを認めては女の方を振り向き笑っている。
「優ちゃん」
 女は言った。
「その今優ちゃんが踏んづけている葉っぱをさ、踏んづけないでこの袋に集めてよ、この袋がいっぱいになるまで。そしたらさ、何かよいことがあるかもしれないよ?」
 女はポケットからビニールの買い物袋を取り出し少年に手渡した。
「私もやるからさ、さあ、勝負だ。どっちが早いかな?」
「うん!」
 少年は枯葉の近くに走り寄るとしゃがみこみ、飛べない雛を包み込むように少年の手のひらよりも大きなそれらを一つ一つ袋に入れている。
「おねえちゃん、いっぱいになったよ!」
 少年は両手で抱きかかえたそれの上から赤らませた頬を突き出すようにして女を見上げ言った。
「早いねぇ、優ちゃん。優ちゃんの勝ちだ」
 少年は緩めた頬を引き締めこくんと一つ頷いた。
「いいことって、なに?」
「後ろ、見てみて?」
 女はしゃがみこみ少年の後方を指差した。
「どう?」
「みちがきもちいい」
「そうだね。何で気持ち良いんだろう?」
「はっぱがないから」
「じゃああっちはどうかな?」
 女は逆方向を指差した。
「チョコレートケーキみたい」
「はは、チョコレートケーキか。でもそうだね、茶色い葉っぱで覆われているもんね。この道っていつもチョコレートケーキみたいだった?」
「ううん。いつもはきもちいいよ」
 少年は唇を尖らせ言った。
「どうしていつもは気持ち良いんだろう?」
「はっぱがないから」
「うん、そうだね。ここは何で気持ち良いのかな?」
 少年は女の指の方向を振り返った。
「ぼくがひろったから」
「そう、優ちゃんが拾ったからここは気持ちが良いんだ。じゃあいつもは?」
 少年は目の前にある女の目をじっと見つめた。
「だれかがひろったから?」
「そう、優ちゃん、正解!」
 頭を撫でられ少年は破顔した。
「優ちゃんはほうきを持って道を掃除している人を見たことない?」
「あ、あるよ!ぼくよりもうんと大きなほうきをもってる人!えがおで『おはよう』っていってくれるんだ」
「そっか。それも気持ちが良いね」
「うん!」
「この道が気持ち良い状態なのはね、そういう方たちが掃除をしてくれているおかげなんだ。だから優ちゃんはいつも気持ち良いところを歩けるんだよね。もちろん、雨が降ったり風が吹いたりして、自然の力で葉っぱが押しやられ綺麗になっていることもあるけれど、そういうときは溝に溜まっちゃうこともあるんだ」
 そう言って女は少年の手を取り側溝を覗いた。
「ほら、溜まっているでしょう?自然の力ではこうして溝に溜まりその先はどうすることもできないんだ。この溝に何も溜まっていないところを見たことはある?」
「うん。まえにボールがころがっておちたときはなにもなかったよ」
 少年は言った。
「そっか。だからね、道だけじゃなくここも掃除してくれている人がいるってことだよね」
「うん」
「きもちいい?」
「うん!きもちいい!」
 少年と女は手を繋いで歩いて行った。

「静、夕ご飯どうしよっか?」
 女は言った。
「つくる」
 少女は言った。
「作るって静、何を作るの?」
「カレーをつくる。おねえちゃん、てつだって」
 少女は女に笑顔を向けた。
「そうねえ…、食材はあるかな?」
 女は席を立ち冷蔵庫を開けた。少女は横で女を見上げている。
「うーん、ありそうね。じゃあ、カレーにしよう」
「うん!」
 少女は女の膝に抱きついた。
「はい、じゃあまずは何をする?」
「おいもさんをきる」
「ううん。まずは手を洗う。はい、腕捲って、手出して」
 座っていた椅子を移動させ女はそこに少女を立たせた。
「綺麗になった?」
「うん、なった」
 袖まで水が伝ってしまわないように前にならえをし、女を見た。
「はいはい。じゃあちゃんと拭いてね、静ママ」
 そう言って女はタオルを差し出し背後に回り、少女にエプロンを着せた。
「おいもさん、きる?」
「せっかちなママね。おいもさん切るよ。でもその前に…」
 じゃがいもを少女に手渡した。
「静ママ、おいもさんをどうするでしょう?」
「きる!」
「そうなんだけれど、その前にやることがあります」
 少女は手にあるじゃがいもを骨董品を鑑定するような眼差しで見つめている。
「いつも食べているカレーを思い出して。その中のおいもさんはどんな感じ?」
「おいしい!」
 少女は言った。
「美味しいね。他には?」
「つるつるしててきれい」
「綺麗ってことは、何かがないんじゃない?」
「あ、かわ!」
「うん、じゃあ洗って皮を剥くよ」
 餅を丸めるように滑らかに少女はじゃがいもを洗っている。
「よし。じゃあ洗い終わったらピーラーで皮を剥きます。上から下に優しくね。ゆっくりやろっか」
 女は引き出しからピーラーを取り出し手渡した。
「ぬりえの塗り残しは?」
「かっこわるい」
「うん、じゃあこのおいもさんも格好良く剥いてあげてね」
「うん!」
 少女は塗り師のように丹念に色を変えていく。
「できた!」
 少女は剥いたそれを両手で包み女に差し出した。
「うん、綺麗になったね。お待たせしました。じゃあ、切るよ」
「やった!」
 少女は尚も手にあるそれに笑顔を向けている。
「包丁はまだ一人で使うには危険だから私が手伝うね」
 そう言って女は後ろに回り少女の手に包丁を持たせ、その上から包むようにしてそれを持った。
「注射は嫌い?」
「きらい」
「嫌いだよね」
「こわいもん」
「そうだね。おいもさんも切られるの怖いだろうから静がしっかり左手で優しく、大丈夫だよって伝えてあげようね。んー、例えが下手だな。まあいっか。切るよ」
「うん!」
 少女はまな板に横たわるじゃがいもを左手で押さえた。
「おねえちゃんも」
 そう言って少女は女の手を取りじゃがいもに乗せた。
「なんだか変ね」
 少女はくすがったそうに身をよじっている。
「はい、しっかり立って」
「おいもさん、きるよ」
「はい。おいもさん、切るよ」
 少女は始終笑みを絶やさず食材を切っていった。

「あ、起きた?」
 ソファから立ち上がった静を見て優は言った。
「うん。少し寝ちゃっていたみたい。夢を見たわ」
 静は優の座るテーブルに移動し足を組みながら言った。
「僕もだよ」
 本を閉じ眼鏡を置いた。
「優も寝ていたの?」
「そうみたい。ほんの十分くらいだと思うけれどね」
 ティッシュを一枚手渡した。
「そっか。ありがとう」
「どんな夢を見たの?」
 優は尋ねた。
「褒められることに慣れていない可愛い男の子の夢」
「そうなんだ」
「優は夢、見ていないの?」
 静は尋ねた。
「見たよ」
「どんな?」
「お姉ちゃんを独り占めする可愛らしい女の子の夢」
「良い夢だね。癒されたんじゃない?」
「うん。おかげさまで」
 優は静の目を見てから伏し目がちに笑みをこぼした。
「ねえ、もうそろそろお母さんたち、駅に着く頃よ」
「そうだね。迎えに行こっか」
「家にいた方がよいんじゃない?連絡手段がないわよ」
 腰を浮かした優を制するように早口で告げた。
「大丈夫。駅のロータリーから目を凝らしていればすぐに見つかるよ」
 そのまま一つ欠伸をした。
「それもそうね。そのままどこかお店に連行しちゃおっか」
 優は笑みを返した。
「優もそう考えていたんでしょう。悪い子だね」
 静は笑った。

 駅構内の一角の『あなたの持つこんな顔』と銘打った、地元の小中学生によって描かれた五十人にも上る似顔絵の展示を認め、静と優は車から降りた。
「似顔絵ってよいよね」
「そうだね。動的なものは抵抗があるけれど」
 優は続けた。
「こういう一見無表情に見えるものがあるとなんだか安心する」
 優が指差した一枚を静は眺めた。
「笑顔でいなければいけない理由なんてどこにもないんだからね。そういうことを小さい頃に理解しておきたかった」
 優は言った。
「笑顔の強要なんてあった?」
 静は先を促した。
「いや、強要なんて強い言葉では表現しないけれど、笑っていない子がいると不安になったり、友達だけじゃなくても先生や親が笑っていないとなんだか落ち着かなかったんだよね」
「そういうことね。自分が笑顔でいなければいけないって言っているんだと思った」
「自分のことは棚に上げてね」
 優は表情を崩さず言った。
「何をしようにも誰かの視線が気になっていたんだよね。良いことでも悪いことでも」
「その誰かっていうのは大人、特に親とか先生とか」
 静は呟いた。
「そう。露骨な表情では感情を表さない人たち。口調や仕草から感情の機微を読み取れなかった僕は笑顔以外の全てを無意識的に恐れていたんだと思う。今になって思えば、笑顔は抱擁に似た位置づけだったのかな」
「うん」
「子どもの頃は一日中笑顔でいないと不安になって、大人になればずっと笑顔でいる人を見ると無理をしていないかと不安になって。寄り添うなんて生易しいことは言わないでこういう何気ない無表情をこそ抱き締める覚悟を持って周りの人と接したい。なんて気障なことを思ったこともあったね」
 そう言って優は似顔絵から腕時計に視線を落とした。
「もう着くね」
「うん。改札で待っていよっか」
 静はコートのポケットに手を入れたまま身を翻した。

「旅行はどうだった?」
 静は後部座席の美和子にミラー越しに話しかけた。
「楽しかったわよ。美味しいものを食べて温泉に入って、久しぶりにお酒も頂戴して。良いものだったわね。ねえ、貴美子」
「そうね。楽しかったわ。お姉さんたらお酒が入ると饒舌になっちゃってね、私一人じゃ相手をしきれないの。周りを優雅に舞う蝶々が見えたわ。それくらいに軽やかに幸せそうに話すのよ。旅館でピクニックをしているような心持ちかしら」
「誇張が過ぎるんじゃないかしら」
「私にはそう見えたのよ」
「そう?でも正真正銘舞い上がっていたのは貴美子のほうよ」
「そうかしら」
「そうよ。若い男性に話しかけられたときのことよ」
 静と優は苦笑いを浮かべ見合い、後部座席で繰り広げられる会話に耳を傾けた。
「話しかけられたらきちんと相手をするのがせめてもの礼儀ってものよ。見目麗しい子がたくさんいらっしゃるのに私に声をかけてくださって有難いじゃない」
「お母さんナンパされたの?」
 優は調子外れな声を出した。
「ナンパ?そう言うのかしら?でも違うわ。レストランで食事をしていたときにたまたまご一緒しただけよ」
「そうね。若いって言ってもあなたたちよりもずっと年上の方よ」
「バスや電車で隣り合った方とお話しすることがあるでしょう。それに似たものよ」
「なんか違う気がするけれど」
 静は言った。
「疲れてはいないの?」
「疲れるような旅行はしないわよ」
「まあそれもそっか」
 静と優は再び顔を見合わせた。
「そろそろ着くよ」
 優は言った。
「四人で食事をするのは初めてね」
「そうね」
「優の発案よ」
 静は悪戯っぽい笑みを優に向けた。
「あらそうなの。ありがとう」
「お待たせしました。着いたよ」
 右手にハンドルを切り優は言った。

「それじゃあ時間はまだちょっと早いけれど、乾杯」
 優は言った。
「乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
 静は豪快に白髭を作り、美和子と貴美子はグラスに少し口をつけただけでジョッキを置いた。
「飲まないの?」
 静は中指で素早く一拭きしてから対面に座る二人に言った。
「泡は好きじゃないのよ。それにたくさんの量を嗜めるわけでもないからゆっくり頂くの」
 美和子はそう言い貴美子は頷いた。
「そうなんだ。優には悪いけれど私は飲むよ」
 隣に座る優に肩をぶつけた。
「どうぞ。ウーロン茶でもビールでもあんまり変わらないから」
 テーブル中央に盛られた枝豆を一つ口に放り込んだ。
「強がっちゃって。あ、そうだ。早速だけれど」
 静は言った。
「家の家具、どうにかしたら?」
「どうにかって?」
「二人の使っていたものがそのままあそこにあるじゃない。二つある必要のないものは一つにするとかして処分したらどうかなって」
「そうするつもりよ」
 美和子は言った。
「そうなの?」
「そうよ。旅行に行って決めたのよ」
「お姉さんが突然言い出したの」
「私も雑多に物が有り過ぎてどうにかしないとなと思っていたのよ。それで貴美子と旅行をして思ったの。捨ててしまおうってね」
「思い出に浸っていても仕様がないでしょう」
 貴美子は細い指でジョッキを持ち上げた。
「せっかく姉妹で住み始めるんだから」
 おしぼりで水滴を拭い美和子もジョッキを手に取った。
「そっか」
「それに」
 美和子は言った。
「思い出の品を残していても、今から私たちが生活していく中でまた思い出が更新されていくんだからそれはそれで寂しいじゃない。お父さんと結婚してからの思い出は貴美子との生活には直接交わらせず私の頭の中に放り込んでおくわ。そうすれば貴美子がお茶をこぼしてもビールをこぼしても何をしてもぼやけることがないわ」
「私はそんな間抜けではないわよ、ねえ?」
 貴美子は正面の優に目を遣った。
「どうだろうね」
 優は緩めた口元にグラスを近づけた。
「まあでも私たちが呆けてしまわないようにしなくちゃいけないわよ」
「それはそうね。あと二十年は生きるつもりだからね」
 二人を見て静は笑みをこぼした。
「そんなに生きるつもりなの、貴美子」
 美和子は半ば呆れたような声を出した。
「そんなにってお姉さん、二十年経っても平均寿命に届くかどうかってくらいよ」
「長いわねぇ」
「長くはないわよ。生まれてから成人するまでと同じくらいじゃない。あっという間に過ぎるわよ」
「親の庇護の下で生きるわけじゃないんだからそんなにやさしいものじゃないわよ」
「お母さんは長生きしたくないの?」
 静は尋ねた。
「長生きはしなくていいわ。四六時中不安に駆られながら生きるなんて御免よ」
「でも旅行は楽しかったんじゃないの?優雅に舞っていたって」
「そうよ」
 貴美子は静に微笑みかけた。
「そんなものは束の間よ。不安の中にいる方がうんと長いわ。まあそんなことを言い出したら誰しもが不安の中で生きているんだから…、いちいち口にすることではないわね」
 そう言って美和子は姿勢を正した。
「お母さんのそういうところ、私は好きよ」
「どこがか分からないけれど好きなら嬉しいわ。ありがとう」
 貴美子と優は見合わせ目を細めた。
「二人は今日、何していたの?」
 貴美子は言った。
「山、行ってきたよ」
「私が学生の頃住んでいた近くの山」
「あら、そうなの」
 美和子は言った。
「なんだか迷子になった気分だったわ」
「迷ったの?」
「まあそんなところだね」
 優はそう言って笑った。
「気をつけなさいよ。遭難でもされたら困るわよ」
「そんな場所じゃないから大丈夫だよ」
「そうよ」
 静は枝豆を手に取った。
「相変わらず一粒のものを食べるのね」
 美和子は言った。
「相変わらずって?」
「小さい頃からそうよ」
「そうだっけ」
 静は手にあるそれを眺めたまま言った。
「景子も静も二人して一粒のものしか食べないからお父さんと私が二粒のものを食べていたのよ。枝豆に限らず例えばこういう天ぷらも」
 美和子はさつまいもをおてしょに移した。
「家で天ぷらをするときってこういう真ん中の大きなもの以外に端の皮が多い部分も揚げるじゃない。そうすると二人して端っこばかり食べるのよ。とんかつも端っこだったわね」
「そうみたい」
 優を見てそう言い煙草を取り出した。
「吸っても大丈夫?」
 二人に尋ねた。
「大丈夫よ」
 二人は言った。
「ありがとう」
 優の灰皿に伸びる手を認め言った。
「次頼もうか?」
 優はメニュー表を貴美子に手渡し言った。
「そうね。何を頂こうかしら」
 貴美子は首から下げた眼鏡を掛けメニューに目を落とした。
「お姉さん、一緒に白ワインなんてどうかしら?」
「よいわね。静も一緒にどう?」
「そうね。飲もうかしら」
「じゃあ、頼んでくるよ」
 優は言った。
「呼べばよいじゃない」
 静は腰を浮かした優に言った。優は手を洗う真似をしそのまま席を立った。
 三人は最後の一口を喉に流し込んだ。
「考え方って遺伝するものなのかな?」
 静が口を開いた。
「どういうこと?」
 美和子は言った。
「例えば私が旅行は息抜きになるから行ったほうが良いと思っていてそのことをお母さんも同じように思っているとか。そういう物事の捉え方だけじゃなくてもっと言えば、人は生を受けたらその天寿を全うすべきだ、とかそういう精神的なものも」
「死んでしまいたいと思うかどうかってことが言いたいんでしょう」
 貴美子は言った。
 頷き静は煙を吐いた。
「一般論は述べたくはないけれど、大概の方が一度や二度考えることじゃないかしら」
 貴美子は左手で輝く指輪を見て続けた。
「名前が付くとそのものとの距離が急速に近づくでしょう。ビールはビールという名があってこそビールとして受け入れられる。静は静という名があって受け入れられる。同様に自殺というのにも自殺という名があって受け入れられる。けれどもその自殺という方法は名前がないほうがもしかすると望ましいかもしれないわ。経済的に逼迫した方が大金を稼ぐ方法というものに飛びついてしまうように、自殺という代えのきかない方法に手を出してしまう方を多く生み出してしまう可能性もあるような気がするの。精神的に参ってしまっているときに不運にも自殺という文字を見た場合、一筋の光のように感じてしまうこともあるでしょう。新発見、又は再発見という喜びを伴ってそれを見てしまうかもしれないわ。その周りをずっと彷徨っている人は多くはないでしょうから」
 煙草を揉み消し静は言った。
「生きていればよいことがあるとか、死んだら悲しむ人がいるとか、何かと耳触りの良いことが述べられるけれどそんなのは結局見えない未来に対するものじゃない。見えない未来の中に死というものが見えてしまった人はそんな楽観的な言葉になびくようなところにはもう既にいないわ。そこまで行ってしまう前に何か声をかけられたりすれば立ち止まって違う光を見られるかもしれないけれど、そういうところにいる人は幸か不幸か耐えられてしまうものよ。何にかっていうのは言葉にし難いけれど、耐えられてしまうものよ。人に頼った経験を思い返せない人は水中で溺れもがくように声を出せずに沈んでいく一方よ」
「失礼します。お待たせ致しました」
 引き戸を引き個室に入り、店員がワインボトルとグラスを配膳しその背後を通り優が席に着いた。
「グラスは三つでよろしいでしょうか?」
「はい。ありがとうございます」
 店員は一礼し扉を閉めた。
「注ぐよ」
 優はそう言ってボトルを手に取った。
「ありがとう」
「ねえ、ふと思い出したんだけれど」
 ささやかにに揺れる黄金色を眺めながら静は言った。
「連想ゲームってあったでしょう。覚えている?」
「ワイン、フランス、パリ、という風に繋げていくゲーム?」
「そうだけれど小さい頃にやっていたの覚えていない?例えば私が、『ある日少女は祖母のお家に遊びに行くことにしました』と言えば次の人が、『祖母は電車で二時間の場所に住んでいます』という具合に文章を繋げて物語を創るのよ」
「やっていたわねぇ」
 美和子は言った。
「面白い遊びだと思いながら聞いていたのを覚えているわ」
「それを四人でやらない?」
 静は言った。
「お酒も入っているし全部覚えていく自信がないわ」
 貴美子は言った。
「いいのいいの。単なるお遊びなんだから。私から始めてもよいかしら?」
 そう言って美和子は白ワインで口を潤した。
 二人して目を瞑っているのを認め優はグラスに口を近づけ言った。
「何でお母さんまで目を瞑っているのさ」
「お姉さんと同じものを見ないといけないでしょう」
 そう言ってまた目を閉じた。
「始めるわよ?」
 静と優は鼻から抜けた息を吸い込み、暗い照明を照り返す美和子の赤子のようなつややかな唇を眺めた。
「うん、じゃあお母さん。お母さん、貴美子おばさん、優、私の順でいきましょう」

 あなたに最後に会ったのはいつでしょう、いつかしら。隣に座るあなたの手には上等な手袋がはめられていたからあれは冬のことだったかしら。

 私はいつでもあなたの冷たい手を包み温めてあげたかったけれどあなたはそれでも私の手を包んでくれましたね。

 ときに体温以外が全て不遜に感じて仕方がないんだということを言っていたのを覚えています。

 そんなときのあなたの横顔はとても美しいものでした。美しいと言えば失礼かしら。

 いいえ。美しいと言わせて頂戴ね。白く繊細な鼻梁はいつでも見惚れてしまうものでした。

 前髪で目元が隠れているだけあなたの横顔はあなたの心を表情豊かに表しているように感じていました。

 いつからかあなたのその横顔に陰りが見えたような気はしていましたけれど果たして私はそれを尋ねることはしませんでした。あなたと私はいつでも包み包まれ、そう思い込んでいたから尋ねなかったのでしょう。

 年齢を超えてあなたは生来、その温かな胸で人を抱き留めるために両腕を大きく広げている、そんな人でした。

 それを生まれ持った性格だと言えばそれは甘えかもしれません。それを生まれ育った環境によるものだと言えばそれは怠慢かもしれません。

 けれどもそんなことを考えるのはあなたと会わなくなってからのことであって、あなたに触れられている間はその胸に抱かれるばかりでした。

 相手の不在を慮り自分が自分でなくなるような時間は振り返ればいつも不毛だと言っていましたけれど、私はそういう時間を過ごしているような気がします。

 もしかするとそれは目の前にいる人を大切にしたいというあなたの想いから発せられた言葉かもしれませんけれど、私には不在の人がより強烈に頭の中に存在するようです。

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 頭の中だけに存在するあなたは大変に従順な役者さんです。というのも私が脚本、演出共に一人で執り行うのですからそれは仕方がないことですけれど。

 どの時代どの役柄でもあなたは器用にこなしてくれます。けれども私があなたに会わなくなって以降、私の中のあなたはそこで止まってしまっていますからたとえ想像しようとしてもできません。一緒に歳を重ねられないということはやはり寂しいです。

 人生、人が生きるそのことだけで礼賛されることなのにどうしてそのことをないがしろにしてしまうんだろう。あなたのその言葉が徐々に分かるようになってきた気がします。

 生きるという当たり前の上に当たり前のように立っている間は気付かないことですけれど、あなたが与えてくれた問いによって私は窄みかけていた視界がまた広がったように感じます。

 私たちはこのように茫漠としたところに安住しながらもどうしてそのことに不安を感じまたときに安心するのでしょう。

 もたれかかるところを失った途端に自らの脆さを痛感するというようなことを味わう度に、歳をとっているようで歳をとっていないようなそんな感覚に陥ります。

 一人では決して生きられないという自覚を求められる一方で、『誰かの為』という活力源だけを頼りにしては自分をも破壊してしまう危険性を孕んでいる。それは少し不条理である気がします。

 何かにまたはどちらかに全身を傾けることができたならばそれは楽なのかもしれません。そうはできないからこそ自分でバランスを見つけていかなければなりません。そのバランスが他人から見れば恐ろしく不安定なものだとしても。

 話が少し逸れてしまいましたけれど、あなたがいなくなってからの私には等しく過去と未来がありました。けれど今となっては莫大な過去があるだけで未来というものは大変に僅少なものになってしまいました。莫大であるからこそ私は僅少なものにまだ希望を抱けるのかもしれません。

 全て物事に折り合いをつける必要なんてないのだろうと思います。私はあなたにいつまででも抱かれながら生きていきたいと思います。

 耳にすること目にすること全てが綺麗事に感じてしまいます。まだまだ未熟なのでしょう。けれどもふと思い出すあなたの言葉でそれらがまた一方で現実だと思えることもあります。私はあなたのおかげで真白なキャンバスを持ち続けられるのだと思います。

 生きるという困難な物語に向き合う辛さとその輝きを今更ながら教えられている気がします。知らず知らずに背中を見てしまうものなのですね。

 ありがとう。


「ねえ、優」
 夜も更け静まり返った公園のベンチを二人が温める。
「一日って早いものね」
「そうだね」
 暗闇に目だけを浮かび上がらせていた黒猫が街灯の下を走って行った。
「山で女性に貰ったコーヒー、優、持って帰る?」
「いや、静が持って帰りなよ」
「いいの?」
「うん」
「いつか淹れるとき何を思い出すかしら」
「迷子になったときの道標になるとよいね」
 優は立ち上がり静に手を差し伸べた。

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