論理古代史

論理一貫性のあるアプローチをした小林恵子の倭国古代史に偶然出会いました。内容はそれまで…

論理古代史

論理一貫性のあるアプローチをした小林恵子の倭国古代史に偶然出会いました。内容はそれまでと大きく異なるもので、真偽を検証したいと思ったのが発端です。DNA科学を基盤にして検証、解析をしました。Noteを学びながら、15年間の概要を公表し、批判・論評を受けたいと思います。

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2024.5.19 目次:「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」の概要

<注:記事と連動していません。タイトル表記は多少変更や修正があります。> -目次- 1.「第一部 『DNA種族解析法』等の解析基盤」の概要                             1-1.新たに開発した「DNA種族解析法」 1-2.記紀の倭国皇統譜の解析における二つの基本条件 1-3.多くの種族・部族の寄り集まりがもたらす日本特有の漢字の重層性 1-4.倭国皇統の氏族名や個人名のいろいろな付け方の例 2.「第五部『DNA種族解析法』による倭国皇統の論理的事

    • 2024.5.19「3-7.和邇氏藤原不比等と倭国『大后』の外戚系統の変遷」

      3-7.和邇氏藤原不比等と倭国『大后』の外戚系統の変遷(1)和邇氏の藤原不比等 和邇氏の藤原不比等は、倭国での統治体制を天上の第一位祭祀女王に因んで「DNA縄文人」である天皇を天上の統括者とし、「DNA源流鮮卑族和邇氏」藤原氏を地上の第一位政事統括者とすることに変更しました。  日本の政事統括者を「DNA縄文人」から和邇氏に変えただけでなく、女系と男系の同位共同統治から男系のみの専権統治に変えました。それは、鮮卑族や匈奴や中国や欧米の男系のみの専権統治と同一です。ただし、天

      • 2024.5.7「3-6.親新羅の倭国亡命政権と古事記、日本書記の編纂の始まり」

        3-6.親新羅の倭国亡命政権と古事記の編纂の始まり(1)655年頃、金官加羅が本貫の高句麗宰相・淵蓋蘇文の親新羅の倭国亡命政権の樹立と古事記編纂の始まり  「DNA匈奴金氏」である新羅金氏16世代・第40代天武(在位:673~686年)=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬=高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生~686年歿)は、母が新羅金氏15世代相当・宝皇女(593年生~661年歿)

        • 3-5.「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝

          3-5.559年の「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝の初樹立と642年の高句麗の事実上滅亡(1)蘇我馬子と物部宇麻呂と高句麗第25代平原王とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世は皆同一人  倭国、四韓の歴史において、通説と大きく外れていたことの一つが、物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)と物部宗本家15世代物部宇麻呂と高句麗第25代平原王(在位:559~590年)とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)は、皆同一人であることで

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        2024.5.19 目次:「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」の概要

          3-4-6.達頭の 嗣子の舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)

          3-4-6.達頭の嗣子の舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)(1)第34代舒明(ジョメイ)(564年生~641年歿)  金官伽耶・金舒玄(576年頃生~641年歿)[=新羅将軍・金舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]の出生については父が不明朗な所がありますが、母が新羅・阿陽公主=蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫、小林恵子の史料からの推察によれば実父が達頭(=聖徳太子)(553年頃生

          3-4-6.達頭の 嗣子の舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)

          3-4-5.第29代欽明の嗣子の達頭=上宮法王=聖徳太子

          3-4.記紀の本史である第29代継体以降 3-4-1.第26代継体 3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造 3-4-3.尾張氏系の宣下朝(第27代安閑、第28代宣下) 3-4-4.物部氏系の第29代欽明(506年生~576年歿) 3-4-5.第29代欽明の嗣子の達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿) 金氏13世代・達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿)の生涯は、金官加羅の出自継承者として、ほとんどが中央アジア、ペルシアでの活動です。この系統

          3-4-5.第29代欽明の嗣子の達頭=上宮法王=聖徳太子

          3-4-4.物部氏系の第29代欽明

          *写真は、マヤのパレンケ13号神殿出土のパカル王(在位:615~683年)の妃とされる第一位祭祀女王「赤の女王」。 3-4.記紀の本史である第26代継体以降  3-4-1.第26代継体 3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造に関する考察 3-4-3.尾張氏系の宣下朝(第27代安閑、第28代宣下) 3-4-4.物部氏系の第29代欽明(506年生~576年歿) 第29代欽明(506年生~576年歿)は、物部氏と同盟し、『大連』にも一時繋ぎとして就いたが、最後は、物部氏に対

          3-4-4.物部氏系の第29代欽明

          3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造に関する考察

          *写真:2024.4.1 兵庫県三木市の伽耶院(ガ・ヤ・イン)の枝垂れ桜。伽耶同盟の後期盟主の大賀羅/大加羅(オオ・ガ・ラ)国の初期の呼音が、「賀/加(ガ)」であることを残している。二国合体を表す「迦/加(カ、金官迦羅/金官加羅の略字)・賀(ガ、大賀羅/大加羅の略字)」、第9代開化の『大后』伊迦賀色許売(イカガシコメ)命の「迦・賀(カ・ガ)」と同様に初期の呼音が残っている。 3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造に関する考察 表10 .第26代継体以降の高句麗王と

          3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造に関する考察

          3-4.第26代継体以降、3-4-1.第26代継体

          (注:写真は、2014年に旧越国の中国浙江省紹興市での土産屋での「陶塤(トウケン)」の演奏です。弥生前期の紀元前400年頃、中国の「陶塤(トウケン)」とよばれる土笛が松江市西川津遺跡・たてちょう遺跡、福岡県東部、山口県西部、丹後半島部などで出土しています。 「3-4.第六部第四章 記紀の本史である第26代継体以降」「3-4-1.第26代継体」:「3.第六部 倭国の論理的概史」-「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」 3-4.記紀の本

          3-4.第26代継体以降、3-4-1.第26代継体

          3-4-3.尾張氏系の安閑朝

          *写真は、百済第25代武寧王陵です。偶然面識のない日本人に顧問の県会議員、教育長であった公州・李さんから漢字の筆談で親切に説明·案内をしていただきました。感謝。 「3-4-3.尾張氏系の安閑朝」:3-4.第六部第四章 記紀の本史である第26代継体以降」-「3.第六部 倭国の論理的概史」-「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」 3-4.記紀の本史である第26代継体以降  3-4-1.第26代継体 3-4-2.第26代継体の三つの後裔系

          3-4-3.尾張氏系の安閑朝

          3-3.第六部第三章 記紀が集約した皇朝前期  

          3-3.記紀が集約した皇朝前期3-3-1.記紀が集約した六つの前期皇朝と第16代仁徳 記紀は「DNA匈奴金氏」である第26代継体以降の本史の前に、記紀編纂者達の『大王』と『大后』との前史の関係を六つの前期皇朝と第16代仁徳に集約してまとめました。それらは、記紀が時代性、歴史性よりそれぞれの皇朝の集約意図を優先させたものです。 表9は、第26代継体以前の記紀の六つの前期皇朝と第16代仁徳の年代と各皇朝が『大王』用か『大后』用かをまとめたものです。『大后』用は、呉系「トベ」系

          3-3.第六部第三章 記紀が集約した皇朝前期  

          3-2.第六部第二章 神武B朝前史                             

          3-2.神武B朝前史二世紀頃までは、「DNA縄文人」族は日本列島全体に分散した緩い部族同盟でした。「DNA源流呉系倭人」である原初出雲王朝も同様です。 少なくとも三世紀になると、「DNA縄文人」族と「母系DNA呉越系倭人」族の同盟が日本列島各地にあったことは、「母系DNA越系倭人」の別名からもわかります。初代戸賣(トメ)・春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)[=新羅・述礼夫人=初代伽耶媛・神大市比売(カムオオイチヒメ)]の別名には、古志国黒姫命、紀伊国節名草(フシ

          3-2.第六部第二章 神武B朝前史                             

          3.第六部 はじめに、3-1.第六部第一章 源流日本列島人                          

          第五部概要で述べた記紀が高句麗王と百済王を転写した人工系譜である等の論理的事実の妥当性を検証するために、本第六部概要では倭国の歴史的流れを概観しました。 なお、第五部概要で投稿したものと一部重複する部分があることをお断りします。 はじめに記紀は、国史らしくして編纂されたもので、金官加羅末王(=第26代継体)の後裔で、高句麗宰相であった「DNA匈奴金氏」である第40代天武(=淵蓋蘇文)が、645年の高句麗の実質滅亡後に親新羅の倭国亡命政権を樹立し、現住の倭国政事統括者に対抗す

          3.第六部 はじめに、3-1.第六部第一章 源流日本列島人                          

          2-15. 出雲の国譲り神話の実体、2-16.源流鮮卑族和邇氏の系譜と藤原朝

          [要旨] 2-15.「出雲の国譲り神話」の実体(1)「出雲の国譲り」の論理的事実 本稿は、倭国時代を越えて論理体系を考察する必要を感じた未完成のものですが、たたき台として投稿します。 「出雲の国譲り」は、当時の国都に係わる政変ですので、連枝していた但馬国や日本列島の主要な拠点、更に、朝鮮半島の連枝した四韓の統治体制に大きな波及があります。 「出雲の国譲り神話」は、つじつまがあわない基本が多々あると感じていました。スサノオや大国主等の男王の本拠地は出雲ではなく、陵のある

          2-15. 出雲の国譲り神話の実体、2-16.源流鮮卑族和邇氏の系譜と藤原朝

          2-14.倭の武王は百済武寧王、倭国の名の原初は新羅の対外称号名

          2-14.倭の武王は百済武寧王、倭国の名の原初は新羅の対外称号名 倭の五王についてはいろいろな説があり、特に倭王武については強い説がありません。これは、国内の記紀の皇統内で比定しようとすることにあります。そして、古代は特に強いですが、現在の王統でも血統の継承性が基本になります。血統の継承性がないものが易姓(エキセイ)革命です。 本来、記紀の皇統に記載されるべきであったのに、庶子系統の王位簒奪により記載されなかった王に百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)

          2-14.倭の武王は百済武寧王、倭国の名の原初は新羅の対外称号名

          2-12. 高句麗物部(蘇我)朝の初樹立、2-13.金官加羅国庶子系の中央アジアの突厥とサーサーン朝ペルシアでの活動

          2-12.559年の「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝の初樹立と642年の高句麗の事実上滅亡「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝が樹立されていたという説は、直観的な説でも眼にしたことはありませんが、蘇我馬子(551年生~628年歿)は物部宗本家14代物部宇麻呂(先代旧事本紀)と同一人であると仮定すれば、下記に示すように歴史的流れは論理的に自然です。 ただし、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古(先代旧事本紀)は、父は物部目、石上氏麻呂の父であるとし、第36代孝徳天皇(在位

          2-12. 高句麗物部(蘇我)朝の初樹立、2-13.金官加羅国庶子系の中央アジアの突厥とサーサーン朝ペルシアでの活動