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2024.4.1改訂「3-4.第26代継体以降」「3-4-1.第26代継体」

(注:写真は、2014年に旧越国の中国浙江省紹興市での土産屋での「陶塤(トウケン)」の演奏です。弥生前期の紀元前400年頃、中国の「陶塤(トウケン)」とよばれる土笛が松江市西川津遺跡・たてちょう遺跡、福岡県東部、山口県西部、丹後半島部などで出土しています。

「3-4.第六部第四章 記紀の本史である第26代継体以降」「3-4-1.第26代継体」:「3.第六部 倭国の論理的概史」-「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」

3-4.記紀の本史である第26代継体以降


3-4-1.第26代継体(推測:450年頃生~539年頃歿)

(1)第26代継体の祖系譜

 492年、第26代継体が高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)に就き、「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳の金氏高句麗朝が復興しました。

記紀編纂者達の直祖が、第26代継体(推測:450年頃生~539年頃歿)[=新羅葛文王立宗=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)=金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)] で、これからが記紀の本史です。

第26代継体以前の神武朝(第1~4代)、古志朝(第6~9代)、垂仁朝(第11~14代)、応神朝(第15、17代)、第16代仁徳、反正朝(第18~20代)、雄略朝(第21~25代)は、金氏初期系譜に関係する前史をテーマ毎に集約したものです。

父系制の第26代継体は、第16代仁徳の「体」を継承したもので、母系外戚系であっても、種族の違う第15代応神や第21代雄略の「継体」はあり得ません。

新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)(=第26代継体)は、503年に国号を新羅とし、王の称号を使い始めました。

第26代継体は、第3代安寧の甥の庶子(二男)系の第16代仁徳(推測:335±5年頃生から413年過ぎ歿)の後裔で、第3代安寧の甥の嗣子(長男)系の反正朝(第18~20代)と対立する関係がありました。

第16代仁徳から第26代継体までの新羅の父系祖の系譜は、以下です。
①曾祖父:第16代仁徳=新羅金氏9世代・新羅第17代金氏奈勿(ナソツ)尼師今(在位∶356~402年)
・曾祖母:未詳[推測:先皇后・尾張氏系葛城国磐(イワイ)之媛命]。

②祖父:新羅金氏10世代・新羅・宝海=尾張弟彦
・祖母:未詳。

③父:新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)
・母:新羅金氏鳥生夫人=金官加羅国第9代鉗知王(在位:492~521年)の妃・淑=近江国振(フル)媛。

④第26代継体
・王妃:新羅朴氏思道夫人(?生~614年2月歿)=手白香(タシラカ)皇女[母は新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女、父は重祚第24代仁賢(ジンケン)=和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅・朴英失]。
・妃:新羅・息道夫人(生没未詳)=尾張目子媛[第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)の妃]=金官加羅国妃・金桂花[金官加羅国第10代金仇衡の王妃]、新羅第24代真興王(在位: 540~576年)=高句麗第23代安原王(在位:531~545年)(=第28代宣下)の摂政・只召(チソ)太后[父は新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香、母は未詳]。
 
第16代仁徳から第26代継体までの系譜をみると、不可解なところがあります。尾張氏の名をもつ祖父と父に対し、曾祖父・第16代仁徳と第26代継体には尾張氏の名が見いだされませんでした。
 第16代仁徳の子で、第26代継体の祖父の新羅金氏10世代・新羅・宝海=尾張弟彦は、官位がなく、別名として尾張氏をもちます。弟彦であることから、第16代仁徳の庶子であったと推察されます。新羅・宝海の母は、未詳とされています。第16代仁徳(推測:335±5年頃生から413年過ぎ歿)は、新羅王を67±5歳頃まで就いており、新羅・宝海=尾張弟彦の新羅王承継順位は低かったとみられます。
 第16代仁徳は、「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により高句麗王だけでなく朝鮮半島からも追放されて、子の新羅・宝海=尾張弟彦は、402年以降は密かに暮らしていたと推察されます。
 ところが、継体の父の新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)は、早逝したとはいえ、新羅太子級の官位と、別名として尾張氏と倭名をもっていました。また、継体の母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国妃・淑=近江国振(フル)媛は、父が新羅第19代金氏訥祇(トツギ)麻立干(在位:417~458年)=高句麗第20代金氏毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)=第19代允恭、母が第18代反正(ハンゼイ)の娘の新羅王妃・阿老夫人/次老夫人=新羅・延帝夫人=新羅・普賢公主(花郎世紀)=忍坂大中姫[父は新羅伊飡(2等官)朴登欣=春日和珥深目]で、父母共に反正朝です。

これらからみると、第26代継体は新羅反正朝の継承者の資格があったと言えますが、父の習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)と母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国妃・淑=振(フル)媛の系譜は後に改ざんされていることも考えられます。第26代継体と母は、尾張氏系ではなく、物部氏系です。

新羅王嗣子は倭国で生育しますが、第26代継体は庶子系であり、本来倭国で生育できません。父の習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)が早逝した後に母と共に倭国に渡来していますので、身の安全のためと考えられます。父の習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)と祖父の新羅・宝海=尾張弟彦は古志国の尾張氏系とされていますが、第26代継体は、母・振(フル)媛が物部氏系[振(フル)媛の拠点は大加羅国と近江国]ですから新羅王族分国の庶子系です。
 『日本書紀』によれば、450年頃に第26代継体は近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生しており、母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国第9代鉗知王(在位:492~521年)の妃・淑=振(フル)媛は、倭国の古志国ではなく物部氏支配の近江国が拠点です。振(フル)媛の母の忍坂大中姫は、和邇氏系、物部氏系です。したがって、第26代継体には、尾張氏の別名はありません。
 日本書記編纂者達は尾張氏系であり、第26代継体は遠祖であるので、尾張氏(古志)系にこじつけています。
 したがって、母の新羅金氏鳥生夫人=振(フル)媛は呉系「トベ」系統の大加羅国が本拠国で、第26代継体が生まれた所は新羅王の妃系の大加羅国であり、父の新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)は新羅の太子であったと推測されます。
 つまり、継体は、新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)の庶子でした。母の新羅金氏鳥生夫人=振(フル)媛が、金官加羅国第9代金鉗知(カンチ)王(在位:492~521年)の妃・淑となったことや、第26代継体が、最後に金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)に就いたことは、新羅王族分国系であることを裏付けています。

記紀の本史は、新羅金氏の系譜の中で、独立支配権をもった新羅王族分国である金官加羅国の出自の王統譜が基盤です。金官加羅国は、新羅金氏の発祥国であり、第3代安寧=新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)の出自国です。

(2)第26代継体の生涯

 450年頃、第26代継体(推測:450年頃生~539年頃歿)は、庶子新羅王子として、母の大加羅国で誕生しました。

457年頃(継体は7歳頃)、第26代継体は、父の新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)が早逝したので、母に連れられて母の倭国の近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)に7歳頃に移住しました。
 『日本書紀』は、450年頃に第26代継体は物部氏系の近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生し、記紀編纂時に父の尾張氏系の古志国に移ったと改ざんしています。尾張氏系の記紀編纂者達にとっては、直祖が尾張氏と無縁であっては困るからです。

465年頃(継体は15歳位)、新羅王族分国の金官加羅国の庶子新羅王子は、成人になると活路を求めて国外に出ます。第26代継体は、成人になって先ず北魏に、そして中央アジアの柔然に行き、力をつけました。

柔然(漢音:じゅうぜん、拼音:Róurán/ローラン)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家です。「魏書」などでは蠕蠕(ゼンゼン)、「宋書」などでは芮芮(ゼイゼイ)、「周書」「隋書」などでは茹茹(ジョジョ)と表記されます。日本では、大津市の膳所(ゼゼ)の地名などに残っています。

日本書記が伝える第26代継体の記録は、出生から振媛が越前国に連れ帰るまで(第26代継体は約7歳位)の幼少の頃はありますが、次の記録は57歳の頃(子の第29代欽明が誕生する506年頃)になっており、約50年間の継体及び振媛の記録はありません。
 第26代継体は、465年頃の成人(継体は15歳位)から492年(継体は42歳位)の高句麗王に就くまでのほとんどを中央アジアで暮らしました。これは、第26代継体が、晩年朝鮮半島から追放された時、倭国ではなく、中央アジアの突厥(長男・突厥イリが柔然を滅ぼす)に永久移住したことや、第26代継体の子の伽耶国庶子系の後裔が中央アジアで活躍していることも裏付けています。中央アジア(柔然や突厥)は、金官加羅国の古来から由縁があるもう一つの本拠地です。

第26代継体の最初の子は、中央アジア生まれの突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)[=吐門(新唐書)]です。伊利(イリ)可汗は、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(552年に追贈か?)[=第26代継体(推測:450年頃生~?歿)]の長男です。伊利(イリ)可汗は、突厥部の部族長となり、茹茹(柔然)可汗国の土門(トメン:万人長)となります。552年、柔然を滅ぼし、突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)に就きます。
 因みに、吐務[=第26代継体]の異母弟は、西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)[=第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)]です。

490年頃(継体は40歳頃)、第26代継体(450年頃生)は、中央アジアで力をつけ、490年頃に朝鮮半島に回帰し、同じ伽耶を拠点としていた大伴氏と物部氏と和邇氏と同盟します。この頃、第26代継体は、朝鮮半島の大伴氏と物部氏の同盟の証として、37歳頃の春日大娘皇女(生没年不詳、推測:455年頃生)=新羅・興道/吾道(オド)娘主=和珥糠君郎娘(ワニノヌカキミノイラツメ)(和珥糠君の娘)と同盟します。春日大娘皇女との子はいないとされています。

第26代継体(450年頃生)が高句麗王、新羅王に着位するライバルが、新羅金氏12世代・島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)[=百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)]です。島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)=倭王武は、新羅金氏11世代の新羅第20代慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=百済第21代蓋鹵(ガイシ)王(在位:455~475年)=第20代安康=倭王興の継嗣です。

春日大娘皇女(生没年不詳、推測:455年頃生)の最初の通婚者(正妃)は、「DNA匈奴金氏」である島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)[=百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)=倭王武]と比定され、王太妃として武寧(ブネイ)王陵に疑似同葬(孫が代理同葬)されました。継嗣の武寧(ブネイ)王は、庶子系の第26代継体(450年頃生~539年頃歿)の同族内政敵です。春日大娘皇女(455年頃生)と島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)との子が淳陀太子(482年頃生~513年歿)です。

春日大娘皇女(生没年不詳、推測:455年頃生)と島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)[=百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)=倭王武]とのもう一人の子は、手白香(タシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)と比定されます。韓国劇ドラマのスベクヒャンと同一人と比定されます。
 手白香(タシラカ)皇女は、新羅大元正統(物部氏外戚系)の祖である朴氏思道(サド)夫人です。手白香皇女(タシラカ)皇女は、橘仲皇女と同一人説があったり、誕生年代の点から今後の見当が必要です。

第26代継体(450年頃生~539年頃歿)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)=金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)]は、手白香(タシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)を(大加羅国母国)王妃、尾張目子媛(生没年未詳、母は未詳、尾張連草香の娘)を492年頃に高句麗妃にします。

492年(継体は42歳頃)、第26代継体は、朝鮮半島の大伴氏と物部氏の同盟協力によって、新羅・尾張氏系の新羅金氏12世代・島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)[=百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)]を退けて、高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)[=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)]に就きます。
 
大伴氏と物部氏は、「DNA縄文人」である地上の政事統括者『大連』で、共に東倭国朝廷の軍事を管掌していました。宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏でした。この時期は、倭国の筆頭統括者は大伴氏でした。新羅王族分国の王妃系の大加羅国と男王系の金官加羅国は、大伴氏が親衛軍を管掌する覇権者です。
 大伴氏は、伽耶で生育した第21代雄略と第26代継体を擁立し、最盛期を迎えます。大伴氏の最初の『大連(オオムラジ)』の記録(日本書記)は、第21代雄略の時代の大伴氏11世代大伴室屋(ムロヤ、生没年不詳)で、物部氏12世代物部目(メ)と共同『大連』です。次に、継体・欽明朝の『大連』は大伴氏13世代大伴金村であり、その当時は物部氏以上の権勢をもっていました。

498年(継体は48歳頃)、物部氏系の第26代継体は、新羅・尾張氏により高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)を退位させられます。
 第26代継体の高句麗王後継は、高句麗妃・尾張目子媛の子の第27代安閑(アンカン)=高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:519~531年)です。

500年(継体は50歳頃)、第26代継体は、2年のブランクの後、新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)]に就きます。

503年(継体は53歳頃)、新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)=第26代継体]は、国号を新羅とし、王の称号を使い始めました。

506年(継体は56歳頃、欽明誕生、手白香(タシラカ)皇女は15から20歳位か?)、新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)=第26代継体]と(金官加羅国)王妃・手白香(タシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)との間に、第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)が誕生します。第29代欽明は、物部大市御狩(先代旧事本紀)=物部弓削倭古(先代旧事本紀)=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)=物部大市御狩(先代旧事本紀)=新羅・魏花、等の多くの別名があります。

512年(継体は62歳頃)、新羅第22代金氏智証麻立干(マリツカン)(在位:500~514年)[=第26代継体]は、新羅・尾張氏と対抗するために現韓国江原道の濊国の対岸にあった朝鮮半島に移住して建国された現鬱陵島の「羽山国(ウザンコク、=于山国)」を異斯夫を使い服属させ、朝貢させて勢力を補強します。「羽山国(ウザンコク、=于山国、usan)」は、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)=第17代履中]の祖国で、宇佐(usa)、ウサギ(ウサの男の意)の語源であり、藤原不比等が祖祭祀しました。倭国『大后』の祖系譜と深い関係があります。記紀は「羽山戸神(ハヤマトノカミ)」として神話記載しました。

514年(継体は64歳頃)、第26代継体は、新羅・尾張氏により新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)を追放され、出自の金官加羅国に避難移住します。
 第26代継体の新羅王後継は、異母弟の新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香です。以後、新羅王は、尾張氏系のみになります。

521年(継体は71歳頃)、第26代継体は、7年のブランクの後、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)に就きます。妃は、金桂花[=尾張目子媛=新羅・息道夫人(法興王の嫡女で、真興王の母)=新羅摂政只召(チソ)太后]です。尾張目子媛は、高句麗妃以来、第26代継体に付き添っています。

527年(継体天皇21年、継体は77歳頃)、物部氏は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体]の要請により、物部氏が支配する近江国の近江毛野率いる東倭国物部軍を朝鮮半島に出兵しようとします。これを九州に地盤をもっていた筑紫国造大伴氏磐井(イワイ)が新羅・尾張氏と組んで阻止しようと動きました。528年(継体天皇22年11月)に物部氏14世代『大連』物部麻佐良の子の物部氏15世代物部麁鹿火(アラカイ)は、大伴氏磐井(イワイ)を鎮圧しました。これが、磐井(イワイ)の乱と呼ばれているものです。
 これにより、『大連』物部麻佐良は、『大連』大伴金村を政界から引退させました。大伴氏本体を征圧したわけではないですが、これにより、東倭国および高句麗の筆頭覇権者は、物部氏に移り、物部氏の栄華に入っていきます。ただし、大伴氏と王妃系の大加羅国及び伽耶の和邇氏との強い関係は、崩れませんでした。

532年(継体は82歳頃)、異母弟の新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香は、反新羅行動の金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体を金官加羅国と朝鮮半島から追放します。第26代継体は、金官加羅国の第二本拠地の西突厥に永住移動します。
 そして、新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香は、独立支配権を持った新羅王族分国の金官加羅国を532年に新羅に併合します。

539年頃(継体は89歳頃)、第26代継体は、西突厥で没します。倭国に回帰することはありませんでした。   

552年、伊利可汗(第26代継体の長男)は、柔然を滅ぼし、突厥初代大可汗に就きます。552年(継体は生存していれば102歳頃)、第26代継体の長男の突厥初代伊利可汗から第26代継体は西突厥大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)を追諡されます。

記紀は、この第26代継体の519年の高句麗王追放から532年の金官加羅国王追放までの朝鮮半島の流浪の歴史を倭国に転写して、継体の倭国常住部族が約20年間ヤマトに入るのに苦労したと記しました。東倭国の政事統括者は物部氏であり、第26代継体の一族は尾張氏系にも関係が深かったからです。

宮内庁が指定する継体天皇陵は、『延喜式』諸陵寮によれば、摂津国嶋上郡三嶋野に所在していたことになっています。現在、宮内庁によって管理されている継体天皇陵は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市、前方後円墳)ですが、これは嶋下郡に属し、墳丘形態や埴輪などから五世紀中頃に比定されています。一方、嶋上郡に所在する時代が合う六世紀前半の前方後円墳の今城塚古墳が継体天皇陵であるとの説もあります。「DNA匈奴金氏」である第26代継体は高句麗王や新羅王であったので、伝統的な王陵様式と違う前方後円墳の様式にすることはありえません。太田茶臼山古墳や今城塚古墳は、規模の大きさからみて、摂津国、あるいは、倭国を統括支配していた「DNA縄文人」である物部氏の倭国部族同盟大首長『大連』の王陵であると考える方がむしろ自然です。

「DNA縄文人」は石器時代から創意工夫に富み、伴侶の倭国『大后』の意見や朝鮮半島にも5000年程度は居住して情報を取り入れて、新しい文化・文明を更に創意工夫をして積極的に取り込んでいます。 弥生時代や古墳時代は、渡来弥生人の女性伴侶の意見を取り入れて、創意工夫をして倭国風にした「DNA縄文人」が主導した文化・文明です。
 現在の国内の外来文化・文明のほとんどの製作は日本に居住している外来人による、と考える日本人はいません。茶室、山水画・花鳥画、中国料理、フランス料理、イタリア料理等の外来文化・文明は、外国に原初があっても、日本に居住した外国人が日本で製作したもの、製作している、と考える日本人はいません。
 外国に原初があっても、皆日本風にアレンジされて、原国とは違った工夫が追加されたり、日本人が創作して本国にはない外国文化・文明とされた例は数多あります。

(3)第26代継体の主要な三つの後裔系統

 第26代継体(推測:450年頃生~539年頃歿)は、多くの王妃、妃と子がいますが、その中で主要な三つの後裔系統があります。
 
①中央アジアの未詳の女性との子
第26代継体の若い時の長男の土門:土門(古テュルク語のブミン/カガンの意)=突厥大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)。 
 *第26代継体の二男は、西突厥初代西面可汗・室点蜜(イスミテ)/シルジブロス(在位:562年~576年)[=第29代欽明]です。以後、後裔系譜が続きます。

②高句麗妃・尾張目子媛[=金官加羅国第10代末王金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)の妃・金桂花=新羅・息道夫人=新羅摂政只召太后]の子
・兄の第27代安閑(アンカン)=高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:519~531年)。
・弟の第28代宣化(センゲ)=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)。
*576年、西突厥に移住していた達頭(=上宮法王=聖徳太子)が西突厥を連れて、新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)を滅ぼします。
 
③(金官加羅国)王妃・手白香(タシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)との子
 第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)=和珥日爪(ワニノヒツメ)
=新羅・魏花[魏花は只召(チソ)太后(=息道夫人)の情人]
=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)
=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)
=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)
=物部大市御狩[義父は物部目(先代旧事本紀)]=物部贄古(ニエコ)/石上贄古(ニエコ)[義父は物部尾輿]=物部弓削倭古。
 *第29代欽明の後裔は、第30代敏達、第32代崇峻、[捏造王]第33代推古A達頭=達頭=上宮法王=聖徳太子、第34代舒明、(末王)第36代孝徳です。

(4)545年頃以降、尾張氏外戚の新羅系と物部氏外戚の新羅王族分国の金官加羅国系との朝鮮半島での覇権抗争が激化

 日本列島の部族同盟の最初の盟主の尾張氏と新興の物部氏との抗争は、王妃の外戚所属を軸にして、朝鮮半島の国間に日常的に緊張と抗争を起こします。四韓の王妃と王の親衛軍は、尾張氏、大伴氏、物部氏の覇権軍が管掌し、四韓は二重政事体制でした。どちらから王妃を輩出するかによって、一族の盛衰が分かれます。また、母の財産相続権は実娘のみにあり、親と言えば母だけを指していたように、異母の子は政敵でした。

新羅と高句麗あるいは百済との抗争は、王妃の外戚の尾張氏と物部氏との間の抗争とも、新羅出自系と新羅王族分国の金官加羅国出自系との抗争ともみることができます。日本の封建時代に各地でみられた「お家騒動」と類似しています。

新羅の王妃族には、尾張氏系の真骨正統と物部氏系の大元神統の二つがありした。
 
高句麗の王妃族の外戚には、尾張氏系の小夫人(クノオリクク)の細(サイ)群と物部氏系の中夫人(クノオリクク)の麁(ソ)群の二つがありました。

尾張氏系は、父か母の父系で所属が判断されています。新羅正妃の子達の所属国は新羅です。母の倭国の小国は葛城国、事情がある時は畿内を離れた古志国、尾張国等です。葛城国の「葛城」は新羅朴氏の倭名で、葛城国は尾張氏系「トベ」系統『大后』系の支配小国です。
 新羅の尾張氏系である真骨正統の祖は、新羅第23代金氏法興王(在位∶514~540年)=尾張草香の娘の新羅・息道夫人=新羅摂政・只召(チソ)太后[=高句麗第21代文咨明王(=継体)の細群・小婦人の高句麗妃・尾張目子媛=金官加羅国第10代金仇衡=第26代継体の妃・金桂花]です。
 真骨正統の祖の尾張目子媛と尾張草香の母は、未詳とされています。 
 尾張氏系の女王族は、新羅真骨正統祖・尾張目子媛(仮定:480年頃誕生)、新羅真骨正統第2代首主・新羅萬呼(マノ)太后(555年生~?年歿)、新羅真骨正統第3代首主・新羅王妃・万明皇后=天明/天命公主、新羅真骨正統第4代首主・新羅王妃・文明王后文姫(ムニ)[新羅第29代武烈王金春秋(在位:654年~ 661年)]=額田王[第37代斉明A淵蓋蘇文の大后、第38代天智の妃]、十市(トオチ)皇女、藤原宮子[第42代文武(在位:683~707年)の妃]、第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)=阿陪皇女=新羅王妃・慈儀王后[新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661年 ~ 681年)]、第44代元正(ゲンショウ)(女帝)(在位:715~724年)で終焉します。 
 新羅真骨正統第4代首主・新羅王妃・文明王后文姫(ムニ)[新羅第29代武烈王金春秋(在位:654年~ 661年)]=額田王[第37代斉明Aの大后、第38代天智の妃]までの新羅王妃族には、倭国の出自者はいません。この新羅真骨正統の系譜は、連続系ではなく、欠世代があります。

尾張氏系の男王族は、新羅金氏8世代・新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦、第26代継体の祖父の新羅金氏10世代・新羅・宝海=尾張弟彦、第26代継体の父の新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)、新羅金氏12世代・新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香、新羅金氏13世代・第27代安閑(アンカン)[新羅王に即位していない]=高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:519~531年)、新羅金氏13世代・新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)=高句麗第23代安原(アンゲン)王/安岡上好王(在位:531~545年)です。
 そして、新羅金氏14世代・新羅王第25代(廃位)真智王(在位:576~579年)から新羅金氏15世代・第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)までは、他国の国王に就いていず、倭名も見出されていません。
 新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦以外は、物部氏が統括支配者である倭国で生育した新羅王はいません。
 新羅金氏8世代・新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦は、新羅金氏7世代・第3代安寧の子で、母が「戸売」系統三世代・河俣(カワマタ)毘売(ビメ)で、倭国の尾張氏系葛城国で生育しました。
 新羅金氏12世代・新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香の母は未詳とされています。候補者には、新羅・延帝夫人=忍坂大中姫[母は弟日売真若比売命(古事記)=葛城国の黒媛=皇太夫人韓媛]がおり、倭国の支配小国は尾張氏系の葛城国です。 

物部氏系は、「倭国は母の国」によって母の父系で判断されており、物部氏と和邇氏が外戚です。男王族は金官加羅国、女王族は大加羅(オオガラ)国、女王族の倭国の支配小国は山城国、事情がある時はヤマトを離れた近江国、但馬国、吉備国等です。第26代継体=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)の母の振(フル)媛=新羅金氏鳥生夫人の倭国は物部氏系の近江国です。
新羅・大元神統の祖は、大加羅国出自の新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女の娘の新羅朴氏思道夫人=手白香皇女です。新羅・大元神統とは、新羅王族分国の大加羅(オオ・ガラ)国(略字は「賀(ガ)」)と金官加羅(キンカン・カラ)国(略字は「迦(カ)」)の女王系統を指すのかもしれません。

まだ検討が必要ですが、大元神統と真骨正統の両系統と考えられ系統があります。第29代欽明と高句麗妃·尾張目子媛(系譜では手白香皇女)との子に新羅・阿陽公主=蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫]、異母妹の新羅・金珍娘主=蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫がいます。そして、蘇我堅塩(キタシ)媛の後裔系譜には、額田部皇女(554年生~628年歿)=新羅・善花公主=百済先王妃・善花、新羅・太陽公主=石上氏穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]=百済後王妃・宝公主=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]、百済王妃・木恩古(モクウンゴ)(百済第31代義慈王の王妃)=間人(アナホベハシヒト)皇女、倭(ヤマト)姫王(627年生~672年)=(推測)間人(アナホベハシヒト)皇女=(推測)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)、大田皇女(?~667年歿)、鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)=第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良がいます。
 新羅金氏8世代・葛城襲津彦(ソツヒコ)の娘の磐之媛、額田部皇女の倭国は山城国です。

金官加羅国出自系の倭王『大王』は、新羅金氏9世代・第16代仁徳、新羅金氏12世代・第26代継体(450年頃生~552年頃歿)=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)、新羅金氏13世代・第29代欽明(506年生~576年歿)、新羅金氏14世代・第30代敏達(ビダツ)、新羅金氏15世代・第32代崇峻、新羅金氏14世代・第33代推古A達頭、新羅金氏15世代・第34代舒明、新羅金氏16世代・第36代(末王)孝徳です。
 新羅金氏9世代・第16代仁徳は、父が尾張氏系の新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦、母が物部氏系の新羅金氏休礼夫人=仲(ナカツ)姫命で、物部氏系の新羅王族庶子に属します。

物部氏系の第26代継体を朝鮮半島から追放したのは、異母弟の尾張氏系の新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香です。

528年の磐井(イワイ)の乱の鎮圧は、倭国と伽耶と高句麗の筆頭統治者が大伴氏から物部氏に移ったことを意味します。

第26代継体の後継の母が尾張氏外戚系の新羅王継嗣系[第27代安閑(アンカン)、第28代宣化(センゲ)]と物部氏外戚系の新羅王族分国の金官加羅国系庶子[第29代欽明]とが、朝鮮半島の金氏王朝の覇権を争います。    
 545年頃の第29代欽明の時代から、倭国と高句麗は物部氏外戚系、新羅は尾張氏外戚系と棲み分けが始まります。これは新羅と倭国との乖離の始まりで、尾張氏系の統一新羅の原初となります。以後、第29代欽明の後裔が、高句麗と百済の王統となります。

覇権抗争の中でも、545年の王妃外戚の小夫人・細(サイ)群系(尾張氏系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)]からの中夫人・麁(ソ)群系(物部氏系)の百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]との高句麗王位の争奪は、激しい争いでした。結果は、第29代欽明が武力で高句麗王位を簒奪(サンダツ)しました。
 これで、第26代継体の尾張氏外戚系の高句麗朝は終わります。それは、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)(=尾張連草香)以来、新羅が真骨正統(尾張氏系)の独占体制に変わったので、倭国物部氏にとっては高句麗王の外戚の系列化は盛衰をかけた戦いでした。
 三国史記は、高句麗第24代陽原王(=第29代欽明)は、王位争いに敗れた細群(尾張氏系)の二千余人を皆殺しにしたと記しました。三国史記では、敗北した王はほとんど殺されたことになっていますが、生きています。匈奴系、鮮卑族系は、戦争で勝利することは敵を殺すことで、名誉とするカルチャです。これに対し、「DNA縄文人」の孤立した戦争カルチャは、勝敗が決したら敵を生かすこと、完全な勝利を求めないことです。
 したがって、敗れた細群(尾張氏系)の二千余人の皆殺しや白村江の3000人もの女官が飛び降りた話や第35代崇峻の殺害は、作り話の可能性が大です。
<以上>