見出し画像

2024.4.9「3-4-5.第29代欽明の継嗣の達頭=上宮法王=聖徳太子」



3-4.記紀の本史である第29代継体以降
3-4-1.第26代継体
3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造
3-4-3.尾張氏系の宣下朝(第27代安閑、第28代宣下)
3-4-4.物部氏系の第29代欽明(506年生~576年歿)

3-4-5.第29代欽明の継嗣の達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿)

 金氏14世代・達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿)の生涯は、金官加羅の出自継承者として、ほとんどが中央アジア、ペルシアでの活動です。この系統は、達頭の子の山背皇子=サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝(末王)ヤズドガルド3世(在位:632~651年)、山背皇子の子のペーローズ王子[=ヤズガルド三世(在位:632~651年)=中国名:卑路斯]と続いています。

そして、達頭は、倭国『大后』中の『大后』である金氏14世代相当の額田部皇女の中央アジア、ペルシアで寄り添った第二伴侶であり、宝皇女の父、欽明朝(金氏13世代・第29代欽明)の後継王朝である金氏15世代・第34代舒明の父です。

達頭は、記紀では倭国太子、傀儡が第33代推古B額田部皇女、三国史記百済本記では百済第29代法王(在位:599~600年)と捏造されています。倭国太子が百済王であることはなく、百済王であれば倭王『大王』です。このように、達頭は、記紀と三国史記の両方で地位が食い違って捏造されている珍しい例です。
 近年、達頭=上宮法王=聖徳太子の非実在者説がありますが、記紀は称号を粉飾しても、実在者しか扱いません。
 現在においても、聖徳太子像は、名前を始めとし、実像とかけ離れた多くの粉飾像が流布されています。例えば、物部(蘇我)馬子の幼児での高句麗移動が原像である聖徳太子幼児像です。十七条の憲法は、歿後に作成されたものであり、かつ、第一条「和(=倭)をもって貴しとなす」は「DNA縄文人」である倭国統括者には背くなという意のものが、達頭の武力行使・敵殲滅の波乱万丈の人生と全く違う武力を用いない平和主義に曲解されています。蘇我氏は、古代史最大の悪者にされたりしています。

達頭の足跡を以下に追ってみます。
 
553年頃(欽明は47歳頃、達頭誕生)、第29代欽明と新羅・太陽公主=穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女(622年歿)[仮定:532年頃から538年頃に誕生]との子の達頭が誕生します。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女の「間人はペルシアの意」が示すように、達頭は、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女が551年にペルシアから高句麗に帰国した時の子か、ペルシアでの子です。

花郎世紀(ファラン・セギ)による系譜の方が矛盾がなく、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女 =新羅・太陽公主[仮定:532年頃から538年頃に誕生]は、母が只召(チソ)太后[仮定:515年頃生]、父が葛文王立宗[=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(552年に追贈か?)=金官伽耶第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=新羅第22代金氏智証麻立干(在位:500~514年)=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=第26代継体]で、姉が蘇我小姉君[532年頃生]=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主です。蘇我堅塩媛[532年頃生]、蘇我小姉君[仮定:532年頃から538年頃に誕生]、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女[仮定:532年頃から538年頃に誕生]は、第26代継体(推測:450年頃生~552年頃歿)が、西突厥に永住移動した頃の子であると思われます。
 穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女 =新羅・太陽公主の母は、蘇我小姉君(532年頃生)=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主とする系譜がありますが、達頭が生まれた時は穴穂部間人皇女まだ幼児(仮定:547年頃以降誕生)となり、不自然です。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女は、蘇我小姉君の妹か双子か同一人です。

 達頭の主な伴侶と子です。
・菟道貝蛸皇女(敏達天皇・推古天皇の皇女)
・橘大郎女(尾張皇子の娘。菟道貝蛸皇女の姪)
・刀自古郎女(蘇我馬子の娘)[=(二代目)刀自古(トジコ)郎女=物部鎌足姫大刀自=宝皇女(593年生~661年歿)]
 :山背大兄王[=サ-サ-ン朝ペルシア帝国(末王)皇帝ヤズドガルド3世(在位:632~651年)]
・膳大郎女(膳臣傾子の娘)
 
「聖徳太子」という名は、第二次世界大戦後に広まったもので、古代の文献には見られない後世の尊称ないし諡号(シゴウ)です。「聖徳太子」の名は『懐風藻(奈良時代751年の日本最古の漢詩集)の序に見えるのが初出であり、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まりました。
 『上宮聖徳法王帝説』は、書紀編纂以降の824年以降に成立した聖徳太子に関する系譜・伝記などを集成した記録で、記紀に対して異説を含みます。
 聖徳太子信仰は、奈良時代に皇族や僧侶の間で広まり、平安時代以降に盛んとなり、中世には一般人にまで広まりました。 この太子信仰の広まりとともに、さまざまな伝説が生まれました。 

現在の通説では、叔母の推古天皇B額田部皇女の下で、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った、と美化されています。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となりました。
 しかし、達頭=上宮法王=聖徳太子の足取りをみると、ほとんど中央アジアとペルシアと朝鮮半島です。
 現在の通説の達頭=上宮法王=聖徳太子は、偶像化されており、蘇我(物部)馬子と混合されています。
 
以下に、達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿)の足跡をみます。

551年、サーサーン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になっていた蘇我稲目=第29代欽明の娘の蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)[母は尾張目子媛(505年頃誕生)]が高句麗に帰国しました。この時、蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫(532年頃誕生)、蘇我堅塩(キタシ)媛の妹の石上氏蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主[仮定:532年頃から538年頃に誕生]、蘇我小姉君の妹の穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主[仮定:532年頃から538年頃に誕生]は、揃ってサーサーン朝ペルシア帝国から帰国したようです。
   551年のサーサーン朝ペルシア帝国からの帰国は、ホスロー1世とエフタルとの対立が激化したことが考えられます。588年に、ホスロー1世は、突厥西方(現イリ)の室点密(シチテンミツ/イステミ)[=第29代欽明]と同盟を結び、長年の懸案だったエフタルを滅亡させました。
 
553年頃(達頭誕生)、達頭は、金官加羅の金武力[=蘇我稲目=第29代欽明]と穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主[仮定:532年頃から538年頃に誕生]の子として誕生しました。倭国山城で生育したとされていますが、父が高句麗王であったので、庶子ながらも母系の倭国山城国で生育されたようです。額田部皇女も倭国山城国で生育しています。蘇我馬子も山城国かもしれません。
 
559年(達頭は6歳頃)、父の高句麗第24代陽原王(在位:545〜559年)[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明=『大連』物部大市御狩]は、『大連』物部守屋により高句麗王を追放され、更に朝鮮半島からも永久追放され、中央アジアに移住します。

559年(達頭は6歳頃、欽明は53歳、馬子は8歳)、倭国政事統括者である物部宗本家第14世代『大連』物部守屋は、「DNA匈奴金氏」である蘇我稲目の子として物部総本家の「DNA縄文人」である幼少8歳の物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)]に擁立しました。
 
562年(達頭は9歳頃、欽明は56歳)、父の蘇我稲目[=第29代欽明=高句麗第24代陽原王(在位:545〜559年)]が、西突厥の初代西面可汗・室点蜜(イステミ、室点密第26代可汗、瑟帝米)/シルジブロス(在位:562年~576年)に就きます。
 
574年頃(達頭は21歳頃)、「DNA匈奴金氏」である達頭は、鮮卑族拓跋氏が建国した北魏(386年~535年)に仕官します。
 
576年(達頭は23歳頃、欽明は71歳歿)、父・蘇我稲目=第29代欽明が中央アジアで歿します。

576年(達頭は23歳頃)、突厥の初代両面可汗の室點蜜[=蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明]の後継は、子の玷厥(テンケツ)[=達頭(553年頃生)=上宮法王=聖徳太子]が継いで、第二代西面可汗・達頭可汗(タルドゥ・カガン、在位:576年~603年)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)に任ぜられ、中央アジアの統治を任されました。
 
576年頃(達頭は23歳頃)、新羅金氏14世代・達頭=上宮法王が、母の大加羅国を新羅が併合した報復で、西突厥を連れて新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)を滅ぼしました。
 
576年頃(達頭は23歳頃、舒明誕生)、達頭が新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)を滅ぼし時、達頭(=聖徳太子)と新羅王の一族の娘(推定:新羅・阿陽公主=蘇我堅塩媛)との間に金官加羅・金舒玄[=新羅将軍・金舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)]が生まれた、と小林恵子は推察します。新羅・阿陽公主=蘇我堅塩媛(532年頃誕生)は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の伴侶で、ペルシアから551年に朝鮮半島に回帰し、新羅に帰っていました。
 皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃生)=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主は、母は未詳とされ[推測:尾張目子媛=新羅·摂政只召(チソ)太后(仮定:515年頃生)]、父が第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)です。

つまり、尾張目子媛(仮定:515年頃生)の娘である蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主(532年頃生)の子は、①父が物部目である物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年誕生)、②父が第29代欽明=蘇我稲目(506年生)である額田部皇女(554年生)、③父が達頭(553年頃生)である第34代舒明(ジョメイ)(576年頃生)です。
 
587年丁未(達頭は34歳頃、馬子は36歳)、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子=物部宗本家14代物部宇麻呂=第31代用明(ヨウメイ)]が、物部(蘇我)蝦夷の誕生祝いに高句麗を訪れた物部宗本家14世代『大連』物部守屋を殺害するというハプニングが起こりました。物部(蘇我)馬子は、高句麗王を退位し、義父の蘇我稲目を追ってペルシアに永久移住します。
 
590年(達頭は37歳頃、馬子は39歳)、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子=物部宗本家14代物部宇麻呂=第31代用明(ヨウメイ)]は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)に就きます。後に、達頭(=上宮法王=聖徳太子)は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)の腹心のシャフリバザール将軍となります。達頭(=上宮法王=聖徳太子)は、物部(蘇我)馬子が蘇我稲目を義父であると知っても、信義を通したことへの恩返しをします。
 
590年(達頭は37歳頃、馬子は39歳、舒明は13歳頃)、達頭の子の金舒玄(577年頃生)は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明(ヨウメイ)=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]の後継として、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=金官加羅第12世代・金官加羅・金舒玄=第34代舒明(ジョメイ)(577年頃生~641年歿)]に就きます。達頭と額田部皇女が物部(蘇我)蝦夷[=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]への一時繋ぎに擁立します。
 
590年(達頭は37歳頃、馬子は39歳、額田部皇女は36歳)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]と王妃マリア[=(推測)額田部皇女]との子のカワード2世(在位:628年)が誕生します。

593年(達頭は40歳頃、額田部皇女は39歳、宝皇女誕生、舒明は16歳頃)、達頭(=上宮法王)が東突厥を征圧した頃、達頭と額田部皇女との間に宝皇女(593年生~661年歿)[=新羅・宝公主=百済王妃・宝公主(百済第30代武王の王妃)=新羅・涓花夫人(新羅第29代武烈王の王妃)]が西アジアで誕生します。額田部皇女の群婚伴侶は、第一が「DNA弥生人混血縄文人」である倭国部族同盟大首長の物部宗本家14代物部宇麻呂=物部蘇我馬子、第二伴侶が金官加羅の「DNA匈奴金氏」である達頭です。
 
593年同年(達頭は40歳頃、額田部皇女は39歳、宝皇女誕生、舒明は16歳頃)、達頭(=上宮法王)(551年頃生)は金官加羅と(倭国)に帰る途中、子の高句麗第26代嬰陽王(在位:590~618年)[=第34代舒明]に額田部皇女(554年生~628年歿)と赤子の宝皇女(593年生~661年歿)を預けます。
 この頃でしょうか、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子は、後に妃となるアルメニア王妃の姪である皇女シーリーンと熱愛します。
 
598年(達頭は45歳頃)、達頭可汗はエフタルを征服し、都藍可汗と同盟しアヴァールを討ったことを、東ローマ皇帝のマウリキウスに報告しています。

598年(達頭は45歳頃)、記紀では、達頭=上宮法王=聖徳太子が異母弟の第32代崇峻(スシュン)を殺害しました。記紀は、達頭の百済第29代法王(在位:599~600年)の捏造を隠蔽するために三韓のいずれの王にも即位していない第32代崇峻を捏造します。また、記紀は、達頭の傀儡として第33代推古B額田部皇女を捏造します。これらは、不都合な出来事を隠蔽するために記紀が挿入した作り話です。
 
599年(達頭は46歳頃)、達頭(=聖徳太子)は、百済第28代恵王(在位:598~599年)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子(551年生)]を継いで、百済第29代法王(在位:599~600年)に即位したとされていますが、これは百済第28代恵王の架空即位を隠蔽するための法王の架空即位です。記紀と協調して百済本記は事実をかなり改ざんしています。
 
599年(達頭は46歳頃)、達頭(=聖徳太子)は、隋に敗れ、韃靼、高句麗、百済を経由して日本に亡命回帰したとされています。
 600年(達頭は42歳頃)、上宮法王(=達頭=聖徳太子)は、北九州に再上陸したとされています。
 
600年(達頭は47歳頃、舒明は23歳頃)、達頭(=聖徳太子)の子の高句麗第26代嬰陽王(在位:590~618年)[=金官伽耶・舒玄=新羅将軍・叙玄=第34代舒明]は、百済第30代武王(在位:600~641年)を兼ねます。高句麗第26代嬰陽王の退位の条件として、物部氏が百済王を用意したものです。しかし、高句麗第26代嬰陽王は退位しようとしませんでした。
 
601年(達頭は43歳頃)、上宮法王(=達頭=聖徳太子)は、播磨の斑鳩(イカルガ)に宮を建てたとされています(現斑鳩寺)。 
 
606/607年頃(達頭は53/54歳頃)、ホスロー2世[=物部(蘇我)馬子]は、イラン中央部のスパハーンにまで侵入した突厥=エフタル(Turko-Hephthalite)を退けるため、スムバト4世をアナトリア半島から呼び戻し、イランへ派遣しました。
 
613年(達頭は60歳頃)と614年(達頭は61歳頃)、将軍シャフルバラーズ[=達頭]はダマスカスとエルサレムを包囲占領し、聖十字架(真の十字架)を戦利品として持ち去りました。
 
618年(達頭は65歳頃)、シャフルバラーズ将軍(=達頭)が、エジプトを征服しました。
 
621年(達頭は68歳頃)、記紀では上宮法王(=達頭=聖徳太子)は歿したことになっていますが、実際には 中央アジア、サ-サ-ン朝ペルシアにいます。
 
623年(達頭は70歳頃、宝皇女は30歳)、宝皇女(593年生~661年歿)と高句麗・高向玄理との間に、淵蓋蘇文[=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文=重祚:第40代天武(在位:673~686年)]が高句麗で生まれます。
 
627年(宝皇女は34歳、天智誕生)、宝皇女(=百済王妃・沙宅ヨン)と廃位になった新羅第25代真智王(在位:576~579年)の弟の金仇輪との間に、新羅波珍飡(4等官)金善品[=第38代天智(在位:668~672年)]が誕生します。
 新羅波珍飡(4等官)金善品は、伽耶が出自で、新羅系和邇氏です。後に、金善品[627年生。新羅第30代文武王の王妃の慈儀王后の父]は、母の宝皇女(593年生)=新羅・宝華公主[新羅・美室/美室宮主の娘。百済第30代武王の王妃]と共に百済に行き、百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明(ジョメイ)=高句麗26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)]の養子となり、百済・翹岐(ギョウキ)王子を称します。

因みに、いろいろな説があり一致しないところがありますが、現在得られた情報を今後の検討の参考に記します。
 新羅葛文王立宗=金官伽耶第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体]と新羅・只召(チノ)太后[=尾張目子媛]との子は、長男が新羅第24代真興(シンコウ、チノン)王(在位: 540~576年)[=第28代宣化]、万呼夫人(555年生~?歿年)、新羅葛文王金国飯の三人です。 
 新羅第24代真興王(在位::540~576年)[=第28代宣化]と新羅朴氏思道夫人=手白香皇女との子は、長男は新羅・銅輪王子、次男は新羅第25代真智王(在位:576~579年)、三男は新羅・金仇輪です。

628年(達頭は75歳位、馬子は77歳)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]は、息子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。カワード2世は、590年生まれで、母は王妃マリア[=(推測)額田部皇女]です。因みに、倭国に回帰していた伴侶の額田部皇女(554年生~628年歿)も同年に歿したことになっています。飛鳥の蘇我馬子とされる古墳は、額田部皇女の古墳かもしれません。
 
628年(達頭は75歳位)、カワード2世(在位:628年)の子が、サーサーン朝第26代皇帝アルダシール3世 (在位:628年9月6日~630年4月27日) (621年生~ 630年4月27日歿) に就きました。
 
629年(達頭は76歳位、舒明は52歳頃)、第31代用明=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子が歿したので、百済第30代武王はやっと第34代舒明(ジョメイ)である倭王『大王』の称号を物部氏から得ることができました。本来の舒明(ジョメイ)の倭王『大王』の在位期間は、590年から641年です。
 
630年(達頭は77歳頃)、シャフリバザール将軍・宰相(=達頭)は、サーサーン朝第26代皇帝アルダシール3世 (在位:628年9月6日~630年4月27日) を殺害して、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第27代皇帝シャフルバラーズ(在位:630年4月27日~630年6月17日)に就きました。即位の40日後に皇帝シャフルバラーズは、サーサーン朝の貴族によって殺害されました。
    法隆寺境内の中宮寺の百済観音の法冠は、小林恵子が明察したように、サ-サ-ン朝ペルシア帝国の皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子と皇帝シャフルバラーズ( 在位:628年9月6日~630年4月27日) =達頭が使用したものであることが濃厚です。
    因みに、中宮皇后は、達頭(=上宮法王=聖徳太子)と宝皇女との子の「間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=(推測)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=百済王妃・木恩古(モクウンゴ)(百済第31代義慈王の王妃)です。
 
632年、上宮法王(聖徳太子、達頭)の継嗣の山背皇子が、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝(末王)ヤズドガルド3世(在位:632~651年)に就きます。
 山背皇子の母は、(二代目)刀自古(トジコ)郎女=物部鎌足姫大刀自=宝皇女(593年生~661年歿)です。
 記紀は、643年に聖徳太子の継嗣の山背皇子一族は、物部(蘇我)入鹿に斑鳩(イカルガ)宮を襲われ、斑鳩寺(法隆寺)において一族皆自害したと常套手法で改竄しています。
 
651年、サ-サ-ン朝ペルシアの首都クテシフォン(現在のイラク)が陥落し、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝第19代(末王)ヤズドガルド3世(在位:632~651年)(=山背皇子)はトハリスタン地方のバルブ(現ブハラ)に逃れましたが、メルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は滅亡します。 

651年にサーサーン朝が崩壊し、東方に遠征駐屯していた山背皇子の子のペーローズ王子[=ヤズガルド三世(在位:632~651年)=(中国名)卑路斯]とその軍はその地に留まり、長安まで赴いて亡命政府を設立しましたが、成功しませんでした。
 
657年、659年、書紀は、ベローズ3世(中国名:卑路斯)[在位(亡命中):651~679年]が、祖母の宝皇女(593年生~661年歿)を頼って、奄美経由で筑紫についた、と記しています。
 
トルコ国、キルギス国、ウクライナ国の現在も伝えられている伝承に、「自分たちと日本人は同じルーツを持つ東と西に分かれた“兄弟”だ」があるそうです。
 トルコ国民の多くが日本人に対して好意的な感情を持ち、世界的にも親日国だといわれています。トルコ人の中には、「昔、中央アジアにいた民族の内、西に行ったのがトルコ人で東に行ったのが日本人、なのでトルコ人と日本人は兄弟だ」と言う人がよくいるそうです。
 トルコ民族の祖先といえるテュルク(中国語は突厥)系民族は、もともと中央アジア由来のモンゴロイドですが、アジアとヨーロッパの交差点であるアナトリアで長く暮らしてきた背景から、現在のトルコ人は遺伝的にバルカン半島やコーカサスの影響が強いとされています。トルコ国民のDNA調査では、遺伝的祖先になっている地域の割合は、ヨーロッパと中東がそれぞれ40%で、残り20%は中央アジアや南アジアという研究結果も出ています。
 これは実際、紀元前3~4世紀頃ユーラシア大陸で強大な勢力を持っていた「匈奴」が東西に分かれて広がり、一方はトルコに、もう一方は日本にやってきたという説もあるくらいですので、あながち間違っていないのかもしれません。
<以上>