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2024.5.19「3-7.和邇氏藤原不比等と倭国『大后』の外戚系統の変遷」


3-7.和邇氏藤原不比等と倭国『大后』の外戚系統の変遷

(1)和邇氏の藤原不比等

 和邇氏の藤原不比等は、倭国での統治体制を天上の第一位祭祀女王に因んで「DNA縄文人」である天皇を天上の統括者とし、「DNA源流鮮卑族和邇氏」藤原氏を地上の第一位政事統括者とすることに変更しました。
 日本の政事統括者を「DNA縄文人」から和邇氏に変えただけでなく、女系と男系の同位共同統治から男系のみの専権統治に変えました。それは、鮮卑族や匈奴や中国や欧米の男系のみの専権統治と同一です。ただし、天上の統括者の「DNA縄文人」である天皇と地上の政事統括者の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原氏との分権は維持されました。
 つまり、日本の源流のアイデンティティは、倭国時代と記紀だけに依存しない「DNA縄文人」と「DNA源流鮮卑族和邇氏」の両方を考慮する必要が生じました。
 
藤原不比等は、古事記、日本書記の編纂の実務責任者で、そして、日本の政治を牛耳ることになる藤原朝体制の礎を造った祖です。大宝律令・古事記、日本書紀編纂・聖武天皇・光明子・藤原四家誕生などに直接関与しました。
 
「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原不比等(659年生~720年歿)は、実父が新羅波珍飡(4等官)金善品(627年生~672年歿)=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智(推定在位:668~672年)、母が額田王=新羅王妃・文明王后[新羅第29代武烈王(在位∶654~661年)の王妃]=新羅・文姫です。
 藤原不比等は、中臣鎌足の次男とされていますが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、第38代天智の落胤(ラクイン)と実父が記されています。
 藤氏家(トウシカ)伝(760年に成立)は、鎌足伝、貞慧伝、史(不比等)伝(消失)、武智麻呂伝より成り、史伝のみ消失しています。

藤原不比等は「DNA源流鮮卑族和邇氏」であることが別にも残されていました。藤原不比等は、娘である第44代元正天皇(在位:715~724年)が即位した霊亀2年(715年)に、勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿[現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604]」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる羽山戸神[源流鮮卑族和邇氏宇遅和紀郎子(ウジノワキイラツコ)を指す]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[第17代和邇氏履中=莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)=百済第18代腆支(テンシ)王 (在位:405~420年)の妃の菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指す]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。
   つまり、藤原不比等、藤原氏は自分の系譜ルーツを、父系は新羅系和邇氏第17代履中、母系は伽耶人の和邇氏菟道稚(ウジノワキ)郎女としました。このことは、第38代天智=新羅波珍飡(4等官)金善品は、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1系」ではなく「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」であることを指します。
 藤原不比等が、自分の邸宅に天神八座を祀るにあたって、勅許を得たのは、国体に和邇氏を加える行為であったからです。
 
新羅・金善品[=第38代天智]は、母の宝皇女が百済第30代武王(在位:600~641年)[=金官加羅・金舒玄=新羅将軍・金舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)]の後王妃となった時に、百済に同行し、百済・翹岐(ギョウキ)王子を称しました。
 
「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」である藤原不比等(659年生~720年歿)は、「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である藤原鎌足の養嗣子となり、つまり、百済八大姓筆頭の「DNA縄文人混血呉系倭人/韓人」の沙宅(サタク)智積[=中臣鎌足]の系譜を継ぎました。沙宅(サタク)智積の祖は、新羅貴族の金思欽(サフム)の息子の沙宅己樓(サテッギル)=金道含(キムドハム) です。
 百済・沙宅(サテク)ヨン[=新羅・宝公主=宝皇女]は、百済大佐平沙宅(サテク)智積の弟の百済佐平沙宅(サテク)積徳の養女になります。

次に、不比等の妻と子です。
・678年頃(不比等は19歳頃)、不比等は、蘇我連子[父は蘇我倉山田石川麻呂=(推測)第34代舒明]の娘・蘇我娼子=(推測)額田王を嫡妻として迎えました。
o長男は南家祖・藤原武智麻呂 (680年生~737年歿) 、
o次男は北家祖・藤原房前(681年生~737年歿)、
o三男は式家祖・藤原宇合(694年生~737年歿)。

・妻が五百重娘 (不比等の異母妹。元第40代天武夫人)と不比等との子:
o 四男の京家祖・藤原麻呂(695年生~737年歿) 。

・ 妻が賀茂比売 (父は 賀茂小黒麻呂)[=(推測)額田王]と不比等との子:
o 長女の藤原宮子(683年?生~754年歿)[文武天皇夫人、聖武天皇母]。
藤原宮子は、淵蓋蘇文の子の第42代文武(モンム)(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]の夫人となり首(オビト)皇太子[=第45代聖武(在位:724~749年)]を生みます。
 三国史記は、新羅第30代金氏文武(ブンブ)王は、遺詔によって、新羅では初めて火葬された王となり、骨壷は日本海の浜辺の大石の上に葬られた海中王陵と改ざんしました。実際には、新羅第30代文武(ブンブ)王は、新羅王を追放され、倭国に避難移動しています。

・妻が県犬養三千代(橘三千代)[父は 県犬養東人。もと美努王妻で文武天皇と聖武天皇の乳人、橘諸兄・橘佐為・牟漏女王の母]:
o 三女の藤原光明子(安宿媛、藤三娘)(701年生~760年歿)[ 聖武天皇の光明皇后、孝謙(称徳)天皇の母]。

· 生母不明
o 二女:藤原長娥子 [長屋王室]。
o 四女:藤原多比能(吉日)[橘諸兄室]。
o 五女?:藤原殿刀自 [大伴古慈斐室]。

第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)は、父が第38代天智、母が蘇我姪娘(メイノイラツメ)[蘇我倉山田石川麻呂の娘=(推測)第34代舒明の娘)=(推測)額田王]、兄が藤原不比等ですが、天上の天皇の始まりです。つまり、藤原朝の始まりが女帝から始まったのは偶然ではありません。

「藤原」氏族名の由緒は、561年に新羅の第24代真興王(在位 :540~576年)[=第28代宣化(センゲ)=高句麗第23代安原王/安岡上好王(在位:531~545年)]によって併合された伽耶の中心に位置する火自振(ヒジフル、日出原)で、古地名は三世紀に見られる「不斯(フシ)」です。「原(バル)」は、小さなレベルの国の意です。「ヒジフル(hijifuru)」は「ふじわら(fujiwara)」であり、「火自振」は「藤原」です。「藤原」は、第38代天智の生地と沙宅(サタク)智積[=中臣鎌足]の祖の新羅貴族の金思欽(サフム)の息子の沙宅己樓(サテッギル)=金道含(キムドハム) の居住地から名付けたと推測されます。  

古事記で記載された二人の大御神は、高句麗系の天照大御神と新羅系の迦毛(カモ)大御神[=阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ )神]の二人です。天照大御神と阿遅鉏高日子根神は同一神で、高句麗語表示の天照大御神を新羅語の音韻を漢字表記したものが阿遅鉏高日子根神です。
 藤原不比等は、天上の支配者である天皇家は天照大御神の系譜であり、地上の支配者である藤原氏は迦毛(カモ)大御神の系譜としました。
 つまり、藤原不比等は、伽耶の熊成(クマナリ)を本拠地とする新羅系和邇氏の「DNA源流鮮卑族和邇氏」の象徴祖神の第17代履中の後裔の系譜者です。百済系和邇氏の第15代応神は、百済地域の熊川(クマナリ)を本拠地とする「DNA源流鮮卑族和邇氏」の象徴祖神です。日本書記が百済にこだわった由縁の一つです。

以下、主要な年譜に沿ってみます。

659年、藤原不比等(659年生~720年歿)が誕生します。

670年(不比等は11歳頃)、養父・中臣鎌足[=百済大佐平沙宅(サタク)智積]が歿します。大阪府高槻市奈佐原の阿武山(アブヤマ)古墳の遺体が、1934年に京都帝国大学地震観測所の地下から発見され、被葬者を藤原鎌足=中臣鎌足に比定する説が知られています。棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていました。1982年、遺体の全身エックス線写真の原板が地震観測所から見つかり、被葬者は腰などを骨折する大けがをしていました。Y-DNA解析もされ、非公式に「DNA縄文人混血呉系倭人」が流布しています。
 
672年1月7日(不比等は13歳頃)、実父・第38代天智が京都山城で大海人皇子により暗殺されます。同行していた中臣鎌足は、670年に歿したことに改ざんされています。
 
678年頃(不比等は19歳頃)、不比等は、蘇我連子(父は蘇我倉麻呂)の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えました。
 
689年頃(不比等は30歳頃)、日本書紀に不比等の名前が出る初出で、判事に任命されました。
 
697年(不比等は38歳)、第40代天武の子の軽皇子が第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]に即位するのに際し功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。また、阿閇(アヘ)皇女[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)]付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となります。
 
698年(不比等は39歳)、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされました。不比等の養父系である従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することとされました。
 
720年5月21日(不比等62歳)、藤原不比等が病のため、第40代天武の第六皇子の一品(皇族品位)舎人(トネリ)親王(676年生~735年歿)が急いで日本書紀を編纂完成し、尾張氏外戚系の第44代元正(ゲンショウ)(女帝)(在位:715~724年)に撰上(センジョウ)しました。30巻に添えられた系図1巻は消失しています。

720年8月3日、藤原不比等(659年生~720年没)が62歳で歿します。

(2)「DNA縄文人」の倭国統括氏族等の変遷

 第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)以降、倭国『大后』の外戚系は、「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a系」である倭国の政事統括者筆頭の物部氏から尾張氏、大伴氏、そして、「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」である藤原氏へと変遷します。

(a)第37代斉明A淵蓋蘇文の『大后』額田王から外戚が新羅・尾張氏

 第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)=第40代天武[=高句麗宰相・将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)]と第38代天智(推定在位:668~672年)[=新羅波珍飡(4等官)金善品=百済・翹岐(ギョウキ)王子]は、親新羅の倭国亡命政権です。
 第37代斉明A淵蓋蘇文から(女帝)第44代元正(在位:715~724年)までは、新羅・尾張氏外戚の倭国『大后』額田王=新羅真骨正統第4代首主・額田王=新羅王妃・文明王后の系譜で、新羅・尾張氏が外戚として覇権をもちました。

①第37代斉明A淵蓋蘇文の倭国『大后』:額田王=新羅真骨正統第4代首主・額田王=新羅王妃・文明王后[母は新羅王妃・万明皇后、父は金官加羅・金舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第35代舒明]

②第38代天智の倭国『大后』:倭(ヤマト)姫王(627年生~672年)=(推測)額田王

③追諡第39代弘文=大友皇子の倭国『大后』:十市(トオチ)皇女[母は額田王、父は第40代天武]

④第40代天武の倭国『大后』:先皇后(姉)・大田皇女(?~667年歿)、後皇后(妹)・鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)[母は尾張氏外戚系の蘇我遠智(オチ)娘=(推測)間人(ハシヒト)皇女、父は第38代天智]。間人(ハシヒト)皇女の母は、額田王と推測される。

⑤第41代持統(ジトウ)A高市王子の倭国『大后』:鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)[母は蘇我遠智(オチ)娘=(推測)間人(ハシヒト)皇女、父は第38代天智(推定在位:668~672年)]

(b)第42代文武の『大后、妃』から新羅・尾張氏と和邇氏藤原氏が外戚並立

①第42代文武(在位:683~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)][父は第40代天武(623年生~686年歿)、母は額田王]の倭国『妃』:藤原宮子[母は額田王、父は藤原不比等]
 藤原宮子は、文武天皇の単独の夫人となり首(オビト)皇太子[=第45代聖武天皇]を生みます。
 第40代天武(623年生~686年歿)の子の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が新羅王を追放され、第40代天武(在位:672年~686年)の覇権は新羅・尾張氏に見離されて弱まっていきます。

第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)=新羅王妃・慈儀王后[母は蘇我姪娘(メイノイラツメ)=(推測)額田王、父は第38代天智、兄は藤原不比等]
    712年、古事記(最古写本1371年)が額田王の母系孫の尾張氏外戚系の第43代元明(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に献上されました。 
 天皇の天上の支配者の始まりです。つまり、藤原朝の始まりが女帝から始まったのは偶然ではありません。
 しかし、この古事記は、後に国史から外され、本居宣長が探し出すまでは陽を見ることはありませんでした。

第44代(女帝)第44代元正(在位:715~724年)[母は藤原宮子、父は草壁皇子、継母は第43代元明(ゲンメイ)=新羅王妃・慈儀王后

(c)第45代聖武の『皇后』からの始祖は大伴氏出自の県犬養三千代/橘三千代で、外戚は藤原氏

 第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)から第49代光仁(コウニン)(在位:770~781年)までの『皇后』は、大伴氏出自の県犬養三千代/橘三千代を始祖とし、外戚は藤原氏です。
 大伴氏系県犬養三千代/橘三千代の系譜の詳細は隠され、母は未詳です。
 大伴氏は万葉集の大伴家持に見られるように天皇を支える公家となり、尾張氏後裔は武家棟梁になっていきます。

①第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)の『皇后』:光明皇后(701年生~760年歿)=安宿(アスカベ)媛=光明子[母は大伴氏県犬養三千代/橘三千代、父は藤原不比等、異母姉は藤原宮子]

(女帝)第46代孝謙(コウケン)天皇(在位:749年~758年)(718年生~770年歿)[=重祚第48代称徳(ショウトク)天皇(在位:764年~770年)]、[母は藤原氏出身の光明皇后、父は第45代聖武(ショウム)]。
 子女なし。

③(廃帝)第47代淳仁(ジュンニン)(在位:758~764年)[父は第40代天武の皇子・舎人親王、母は 当麻老(タイマノオユ)の娘・当麻山背]の『皇后』:和邇氏系粟田 諸姉(アワタノモロネ、生没年不詳)[藤原真従の妻で、没後に第47代淳仁の妃となった]

(女帝)重祚第48代称徳(ショウトク)(在位:764年~770年)[=第46代孝謙(コウケン)]。
 
子女なし。
 
⑤第49代光仁(コウニン)(在位:770~781年)[父は第38代天智の第7皇子・施基親王=志貴皇子、母は紀橡姫(父は贈・太政大臣紀諸人)]の『皇后』:井上内親王[母は「夫人」大伴氏系県犬養広刀自、父は第45代聖武]

(d)第50代桓武からの外戚は藤原氏で、天皇は「DNA縄文人」の大伴氏か尾張氏か物部氏?

①第50代桓武(カンム)天皇(在位:781~806年)[実父は不明、継父は白壁王(後の第49代光仁)、生母は和氏高野新笠]の『皇后』:藤原乙牟漏(オトムロ)[父は藤原式家の藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘で尚侍兼尚蔵(就任時期不明)・阿倍古美奈]。
「DNA縄文人」である第50代桓武(カンム)天皇(在位∶781~806年)は、「DNA縄文人」である日本統括者が『天皇』を称した始まりで、現在まで続いている天皇の直祖です。また、賜姓氏族の桓武平氏の始祖です。
 ただし、第50代桓武の「DNA縄文人」の氏族は不明なところがあり、母系の詳細も未詳です。第50代桓武の「DNA種族」は、大伴氏か尾張氏か物部氏かですが、今後の解析が必要です。
 第50代桓武の『皇后』は藤原氏系で、外戚は藤原氏です。

母の「夫人」高野 新笠(生年不詳~790年歿)は、第49代光仁の宮人で、後に「夫人」となります。和氏高野 新笠の母は宿禰姓の土師真妹(ハジノマイモ)、父は百済の夫餘氏の子孫で和氏の史姓の和乙継(ヤマトノオトツグ)です。高野新笠は、「母系DNA呉系倭人(=和人)」・Y-DNA相当「O1b2系」です。高野 新笠(生年不詳~790年歿)の祖は「母系DNA呉系倭人(=和人)」である春日大娘皇女(生没年不詳、推定:455年頃生)=新羅・興道/吾道(オド)娘主、娘の新羅大元正統の祖である手白香(タシラカ)皇女=新羅・朴氏思道夫人(?~614年2月歿)=?百済公主・スベクヒャン(守百香/手白香)[父は百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)=倭王武=島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)]です。
 第50代桓武の母が百済武寧王の後裔であることは、母系系譜によるものです。百済武寧王は、父が新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=倭王興=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)=高句麗太子安興(宋書)で、本来新羅王の正統継承者ですが、伽耶傍系の第26代継体に新羅王、高句麗王を簒奪されました。したがって、第50代桓武は、母系系譜からみても、百済の渡来人ではありません。

(e)「DNA縄文人」である日本『天皇』の賜姓皇族の摂家と武家

 「DNA縄文人」である天皇の賜姓皇族が、第50代桓武の孫の桓武平氏から次々と誕生します。平安時代末期には桓武平氏の平氏、鎌倉時代は八幡太郎義家の源氏、桓武平氏の北条氏、室町時代は八幡太郎義家の足利氏の賜姓皇族から武家政権が誕生します。徳川将軍は、八幡太郎義家の源氏系で、Y-DNA「新表示:D1a2a系、 旧表示:D1b1a2b1a1(Z1504, CTS8093)」とする説があります。
    因みに、織田信長は「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」、
豊臣秀吉はY-DNA「C1a1(M8)」とする説があります。
 明治時代以降も天皇は、「DNA縄文人系」・Y-DNA「D1a2a系」と変わっていません。
 現在、藤原氏の上級摂家は、「DNA縄文人」とする天皇の賜姓皇族の後裔のYーDNA「新表示:D1a2a系、旧表示:D1b1a2系」に変わっています。第107代後陽成天皇(在位:1571年~1617年)の男系12世子孫の近衞文麿、伏見宮家は、「DNA縄文人」・YーDNA「新表示:D1a2a系、旧表示:D1b1a2系」です。

(3)「DNA源流鮮卑族和邇氏」の系譜と分岐した二つの系統(「2-16.源流鮮卑族和邇氏の系譜と藤原氏」を再掲)

(a)「DNA源流鮮卑族」の日本列島の前(サキ)族と朝鮮半島の和邇氏

 「DNA源流鮮卑族」は、当初は遊牧狩猟民族で、日本列島に居ついたのが「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」(後に朝鮮半島に回帰渡来して新羅昔氏)]、朝鮮半島に居ついたのが「DNA源流鮮卑族」和邇族/和邇氏・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」です。後に、日本で合流します。
 DNAから見ると、「DNA鮮卑族慕容部」・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」の分枝です。「DNA鮮卑族慕容部」はペルシア人混血ですから、和邇氏もペルシア人混血の可能性があります。

三世紀末から四世紀始めに、鮮卑族慕容部が朝鮮半島を南下して、伽耶・新羅・百済を侵攻した時に、朝鮮半島南部に居住していた「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族(日本列島から渡来した新羅昔氏)と「DNA源流鮮卑族」和邇氏は同盟軍に参加しました。彼らは、広範囲に移動していた遊牧狩猟民族であったので、同種族であることをお互いに認識していました。

鮮卑族慕容部が伽耶・新羅・百済を制圧後の304年の直後頃に、慕容部から近代文明を得た前(サキ)族(日本列島から渡来した新羅昔氏)と和邇氏と物部氏は、日本列島に回帰侵攻し、畿内に記紀が言う百済系垂仁朝の緩い部族同盟を築きます。旧勢力の大伴氏は新同盟に合流しますが、「DNA鮮卑族系」と先住の「DNA匈奴系」とは各地で戦闘を展開しました。
 大陸とは違って、「DNA縄文人」は相手を殲滅することはせず、追放するのが基本です。しかし、記紀と三国史記は、ほとんど敗北死と記しました。

集権化した朝鮮半島渡来人によるヤマト王朝が存在したとするのは自己都合の願望で、王朝と呼べない分散した弱い部族同盟の垂仁朝はいわゆる<空白の四世紀>です。
 この時代も、「母系DNA呉越系倭人」である女首長・倭国『大后』と通婚同盟した「DNA縄文人」の圧倒的な軍事力、人口、財力が日本列島の統治基盤です。

(b)紀元前0世紀、二つに分岐した百済系和邇氏と新羅系和邇氏

 金聖昊(キム・ソンホ)は、「DNA源流鮮卑族」和邇氏の古代の朝鮮半島での移動経路を、科学的手法を用いて明らかにしました(出典元:金聖昊(キム・ソンホ)『沸流百済と日本の国家起源』株式会社成甲書房 1983年)。それによると、「DNA源流鮮卑族」和邇氏は、中国東北部から広州馬韓(ソウル江南区)の東界地に南下して京畿辰韓をつくり、箕(キ)氏辰国に臣族しました。紀元前2世紀、京畿辰韓に亡命していた箕氏朝鮮の最後の準王が没し、箕氏辰国が終わりました。この後、京畿辰韓に先住していた豪族の和邇族が、馬韓の統率者となり、「辰国辰(シン)王」称号を使用しました。

紀元前0世紀、避難移動して南下した沸流(フル)百済に京畿辰韓の借用辰(シン)王和邇氏は侵攻され、後の百済の国都となる熊津(クマナリ)に移住した百済系和邇氏と現韓国江原道の濊国の対岸にあった朝鮮半島に移住して現鬱陵島の于山国/羽山国(ウザンコク)を建国した新羅系和邇氏の二つに分岐しました。

新羅系和邇氏は、倭国前(サキ)族が新羅に渡来した新羅昔氏と連携します。
 651年に于山国/羽山国(ウザンコク)は、新羅に併合され、加羅諸国の熊成(クマナリ))/熊川[確かではないが、金官加羅に隣接した南側の海沿いか?]を本拠地としました。

B.C.75年、百済系和邇氏は、馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓としました。馬韓は、馬韓(マハン、後に百済)、辰韓(チンハン、後に伽耶諸国)、弁韓(ビョンハン、後に新羅)の三韓に分裂しました。

B.C.57年、「DNA縄文人混血呉系倭人」である新羅初代朴氏始祖赫居世居西干(コセイカン、王称)(在位:B.C.57~AD4年)が、現韓国の漢江南岸に「徐那伐(ソフル)」を建国し、AD60年まで国都にしていました。つまり、和邇氏と朴氏は古い知り合いです。

沸流(フル)百済の台頭によって、馬韓・辰韓・弁韓の盟主の百済系和邇氏の借用辰王は象徴的な王族となって権力を喪失しました。借用辰王は、沸流百済に従属し、通婚によって沸流百済王室の子弟宋親となって、月氏国の檐魯(タムロ/エンロ、注:王族統治の分国の意)主の臣智に任命されました。
 その後、借用辰王は、馬韓から借用辰王に属していた南部辰韓12ケ国(現在の慶尚道の地域)に移りました。この時の中心地が加羅諸国の熊成(クマナリ))/熊川[確かではないが、金官加羅に隣接した南側の海沿いか?]です。
 396年に「DNA匈奴金氏」である広開土王=第16代仁徳により「DNA鮮卑族拓跋部」である沸流(フル)百済が滅亡し、百済系和邇氏は高句麗に従属した温祚(オンソ)百済に臣属し、百済・熊津(クマナリ)に帰りました。

記紀と三国史記は協調して、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖の和邇氏を飾り立てるために、百済王の空位期(第一期:375年~420年、第二期:475年~501年)を利用して実在者を百済和邇氏応神朝と百済和邇氏雄略朝の百済王に捏造しました。

考察結論からは、記紀の第15代応神は百済系和邇氏、第17代履中は新羅系和邇氏の象徴天皇です。

(c)雄略朝までの「DNA源流鮮卑族」和邇氏の系譜

和邇氏には、百済系と新羅系の二系統がありますが、すべての系譜者の系統はまだ明らかになっていません。
 和邇氏の初期の祖・彦国葺(ヒコクニフク)命=天足彦国押人命=春日親君、二代の大口納(オオクタミ)は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」ではなく、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族(新羅名は昔氏)であることが考えられます。

表8.雄略朝までの「DNA源流鮮卑族」和邇氏の系譜


(d)百済系和邇氏の系譜

 百済系和邇氏は、百済応神朝の難波根子建振熊(タテフルクマ)=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王 (在位:385~392年)、第15代応神A品夜和気(ホムヤワケ)(372年歿)=[捏造王]百済第15代枕流(チンリュウ)王(在位:384~385年)、第15代応神B品陀和気(ホンダワケ) (405年歿、胎中天皇)=[捏造王]百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王 (在位:392~405年) (405年歿)が該当します。

和邇氏難波根子建振熊(タテフルクマ)命は、借用辰王の後裔の百済熊川の豪族と推測され、この子の早逝した百済第15代枕流(チンリュウ)王(在位:384~385年)=第15代応神A品夜和気(ホムヤワケ)(385年歿)、縁故者の百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王(在位:392~405年)=第15代応神B品陀和気(ホンダワケ)/品陀真若王を百済王に捏造しました。

因みに、百済地域の豪族の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である王建(877年生~945年歿)が、統一新羅後の高麗(918年~1392年)を建国します。また、李氏朝鮮王も「DNA源流鮮卑族和邇氏」です。現韓国は、鮮卑族の文化が非常に濃厚となります。

(e)新羅系和邇氏の系譜

 新羅系和邇氏は、応神朝の第17代履中=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王 (在位:405~420年)、その子の春日和珥深目=市辺押磐(イチノヘノオシハ)皇子=稚野毛二派(ワカヌケフタマタ)皇子=新羅王族朴普賢=新羅伊飡(2等官)朴登欣、その子の雄略朝の第21代雄略=和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅王族朴英失(ヨンシル)=新羅朴守知(新羅摂政・只召太后の情人)=[捏造王]百済第22代牟(ム)氏文洲(文周)王(在位:475~477年)、その子の第22代清寧(セイネイ)、第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計(ヲケ)、重祚第24代仁賢天皇億計(オケ)=朴英失(新羅・花郎世紀)が該当します。
 第17代履中は、金官加羅地域熊川の和邇氏で、新羅系和邇氏の象徴天皇です。
 この金官加羅の熊川/熊成(クマナリ)を拠点としていた時に、新羅系和邇氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族、秦氏、大伴氏、物部氏、そして、呉系「トベ」系統と釜山の東側の蔚山(ウルサン)市と接する機張(キジャン)郡の小さい機張(キジャン)国の神功皇后との親密な関係ができたと推測されます。
 
神奈川県平塚市・相模国四之宮前鳥(サキトリ)神社の主祭神は莵道稚郎子、大山咋命(明治43年に合祀)、日本武尊(昭和61年に合祀)で、新羅系和邇氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族が合体関係があることを示している一例です。

雄略朝の新羅王族朴英失(ヨンシル)=第21代雄略=和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅・朴守知(新羅摂政・只召太后の情人)=[捏造王]百済第22代牟(ム)氏文洲/文周王(在位:475~477年)は、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系直祖です。
 記紀では、第21代雄略[=新羅・朴英失(ヨンシル)=新羅・朴守知(新羅摂政・只召太后=尾張目子媛の情人]は、父が第17代履中=和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子の市辺押磐(イチノヘノオシハ)皇子=春日和珥深目=市辺押磐(イチノヘノオシハ)皇子=新羅王族朴普賢=新羅伊飡(2等官)朴登欣、母が葛城黒媛の娘の新羅・延帝夫人[伊飡(2等官)の朴登欣の娘]=新羅・普賢公主(花郎世紀:朴普賢の娘の意か)=忍坂大中姫、伴侶は新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女です。母系氏族名を新羅で称した朴英失(ヨンシル)は、第21代雄略や百済第22代牟(ム)氏文周王(在位:475~477年)に捏造されました。

朴英失(ヨンシル)=第21代雄略と新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女=和珥糠君郎娘(ワニノヌカキミノイラツメ)との娘は、新羅大元正統の祖で新羅第24代真興王(在位:540~576年)の王妃となる手白香皇女(第24代仁賢&第26代継体の大后名)=橘仲皇女(第28代宣化の大后名)=新羅・朴氏思道夫人(?~614年歿)です。第50代桓武の母の高野新笠は、この後裔と推測されます。
 
第17代履中=和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)は、父が和邇氏日蝕使主(ヒフレノオミ)、母が袁那辨郎女(オナベノイラツメ)=新羅金氏阿留夫人(宮主矢河枝比売の妹)、妹が菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命です。この母系は、神功皇后の母系とルーツが同じで、記紀では神功皇后のヤマト東遷に斎殿(トキドノ)・葉山媛命[=菟道稚(ウジノワキ)郎女]が同行しています(兵庫県西宮市広田神社)。
 
雄略朝は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第21代雄略の第三皇子の第22代清寧(セイネイ)=[捏造王]百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)、[捏造王]第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計(ヲケ)[高句麗王、百済王、新羅王のいずれも即位していません]、[捏造王]重祚第24代仁賢(ジンケン)天皇億計[=新羅・朴英失(新羅・花郎世紀)]、「DNA匈奴金氏」である雄略朝の百済太子養子の第25代武烈=[捏造王]百済第24代養子牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位:479~501年)[=新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)]で終焉します。
 これらは、百済王の第二期空位期(475年から501年)に該当しています。 
 雄略朝の「DNA源流鮮卑族和邇氏」の四代では、百済王の第二期空位期(475年から501年)を埋めることができず、第26代継体の子の新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)=第25代武烈を百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)の養子の百済太子にし、百済第24代養子牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位:479~501年)を捏造しました。

雄略朝の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である四代皆、新羅王に就いていません。これは、不自然なことで、捏造王の傍証です。第23代と第24代は、四韓のいずれの王にもついていません、これも捏造王の根拠です。新羅・花郎世紀は、第24代仁賢(ジンケン)は、新羅・朴英失と同一人としており、捏造王を裏付けています。

現韓国鬱陵(ウツリョウ)島の于山国/羽山国(ウザン、usan)」は、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=第17代履中]の祖国で、宇佐(usa)、ウサギ(ウサの男の意)の語源であり、藤原不比等が祖祭祀していました。記紀は「羽山戸神(ハヤマトノカミ)」として神話記録しました。

以上のように、倭国雄略朝と百済雄略朝は、伽耶と百済の土豪の和邇氏を元にして捏造した王です。第21代雄略は、倭国で生育されたこともなく、倭国に渡来したこともなかったのが論理的事実です。この捏造に、万葉集も加担していることをつけ加えておきます。

(注)漢音と古代高句麗音による違いで、「ウジ(漢音)」と「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」は同語です。「ウジ(漢音)」の漢字は、菟道、宇遅、宇豆、太、勿吉(Wuji)、藤です。「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」の漢字は、沸流、宇遅、太、です。
(注)「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛ではなく、漢音「王」の同位語の説の方が筋があります。
<以上>

<投稿予定>
4.倭国以降の記紀に関する今後の課題