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2024.4.2修正「3-4-3.尾張氏系の宣下朝」

*写真は、百済第25代武寧王陵です。偶然面識のない日本人に顧問の県会議員、教育長であった公州・李さんから漢字の筆談で親切に説明·案内をしていただきました。感謝。

「3-4-3.尾張氏系の宣下朝」:3-4.第六部第四章 記紀の本史である第26代継体以降」-「3.第六部 倭国の論理的概史」-「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」


3-4.記紀の本史である第26代継体以降 
3-4-1.第26代継体
3-4-2.第26代継体の三つの後裔系統

3-4-3.尾張氏系の宣下朝(第27、28代)

 宣下朝(第27、28代)は、物部氏系の第26代継体と尾張氏系の高句麗妃・尾張目子媛との子の皇朝で、兄の高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:498~531年)=第27代安閑(アンカン)、弟の高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)です。新羅尾張氏の覇権下の王朝です。尾張氏系の高句麗王は、これが最初で最後となります。
 宣下朝は、記紀の倭王『大王』としては第28代宣下で終焉しますが、この王朝は、新羅で続きます。

498年(継体は48歳頃)、第26代継体は、高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)を新羅・尾張氏との約束で退位させられ、高句麗妃・尾張目子媛との子の兄の高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:498~531年)=第27代安閑(アンカン)が高句麗王を継承しました。
 
500年(継体は50歳頃)、第26代継体は、2年のブランクの後、新羅金氏12世代・新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香の後継として、新羅金氏12世代・新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)に就きました。高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:498~531年)=第27代安閑(アンカン)は、新羅王に就くことができませんでした。
 
506年(継体は50歳頃)、継体と高句麗妃・橘仲皇女との間に、庶子新羅王子の第29代欽明が誕生します。

514年(継体は64歳頃)、第26代継体は、新羅・尾張氏により新羅金氏12世代・新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)を退位させられ、その後継は異母弟の新羅金氏12世代・新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香です。
 
521年(継体は71歳頃)、第26代継体は、母系の金官加羅国に移動し、7年の王位ブランクの後、521年に金官伽耶国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)に就きます。尾張目子媛は、金官加羅国金仇衡(キュウコウ)王=第26代継体の妃・金桂花となって同行しています。
 
527年(継体は77歳頃)、物部氏は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体]の要請により、物部氏が支配する近江国の近江毛野率いる東倭国物部軍を朝鮮半島に出兵しようとします。これを九州に地盤をもっていた筑紫国造大伴氏磐井(イワイ)が新羅・尾張氏と組んで阻止しようと動きました。528年(継体天皇22年11月)に物部氏14世代『大連』物部麻佐良の子の物部氏15世代物部麁鹿火(アラカイ)は、大伴氏磐井(イワイ)を鎮圧しました。これが、磐井(イワイ)の乱と呼ばれているものです。
 
531年(継体は81歳頃)、兄の第27代安閑(アンカン)が高句麗王を譲位し、弟の高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)]が即位します。
 
532年(継体は82歳頃、欽明は26歳)、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体が新羅宗家に反乱を企だてので、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香は、金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体を金官加羅国と朝鮮半島から追放し、独立支配権を持った新羅王族分国の金官加羅国を新羅に併合します。第26代継体は、中央アジアの突厥に永住移動します。
 この時、百済は継体系の百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=第29代欽明]、高句麗王は尾張連草香系の高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)です。朝鮮半島は、緊迫情勢です。
 
532年頃(欽明は26歳頃、尾張目子媛は25歳から45歳位か?)、高句麗、新羅、金官加羅国から第26代継体が追放されて不安定となった金官加羅国妃・金桂花=尾張目子媛は、第26代継体の子の百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)=金官加羅・武力=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=物部大市御狩(先代旧事本紀)=物部倭古/弓削倭古(先代旧事本紀)]を頼りにしてか、第29代欽明との間に、皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・金珍娘主を生みます。後に、蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主は、西突厥・吐務[=蘇我稲目=第29代欽明]の子として、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になります。
 第29代欽明は、新羅摂政只召(チソ)太后[=尾張目子媛=新羅・息道夫人]の情人の魏花の名で記されています。
 記紀は、皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛の母は、橘仲皇女に改ざんしています。

545年(欽明は39歳)、百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明=『大連』物部大市御狩(先代旧事本紀)]は、細(サイ)群系(尾張氏系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)]から激しい争いの末、高句麗王位を簒奪(サンダツ)し、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)にも即位しました。
 それは、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)[=尾張連草香]以来、新羅が真骨正統(尾張氏系)の独占体制に変わったので、倭国物部氏にとって高句麗王の外戚の系列化は盛衰をかけた戦いでした。
 三国史記は、高句麗第24代陽原王(=蘇我稲目=第29代欽明)は王位争いに敗れた細群(尾張氏系)の二千余人を皆殺しにしたと記しました。しかし、敗れた細(サイ)群(尾張氏系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)は、新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)]に就いて存命し、高句麗王子・安岡上王=第30代敏達(ビダツ)は百済に亡命して存命します。
 
554年、百済に亡命していた高句麗王子・安岡上王[=第30代敏達(ビダツ)]は、百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]と物部氏との交渉の末、百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)の後継として、やっと百済第27代威徳(イトク)王(在位:554~598年)に就くことができました。
 これで、物部氏は百済と高句麗の覇権を握り、新羅・尾張氏を弱体化させることができました。

559年(欽明は53歳)、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明(キンメイ)は、一時繋ぎの約束の高句麗王を退位しないので、『大連』物部守屋により高句麗と朝鮮半島から追放されます。高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)の後継は、8歳の物部(蘇我)馬子=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)です。
 
562年(欽明は56歳)、蘇我稲目(506年生)[=第29代欽明=高句麗第24代陽原王(在位:545〜559年)]が、異母兄の突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)[=吐門(新唐書)]を継いで、西突厥の初代西面可汗・室点蜜(イステミ、室点密第26代可汗、瑟帝米)/シルジブロス(在位:562年~576年)に就きます。
 
562年(欽明は56歳)、新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)]は、蘇我稲目の報復侵攻の恐れから独立支配権をもった新羅王族分国の大伽耶国(=高霊(コリョン)伽耶)を新羅に併合しました。この大伽耶国(=高霊伽耶)の新羅併合によって、朝鮮半島南東部はすべて新羅国とし、体勢を強化しました。
 
576年(欽明は70歳、達頭は23歳頃)、新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)は、西突厥第2代西面可汗達頭可汗(カガン)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)(在位:576~603年)[=達頭=上宮法王=聖徳太子]により滅ぼされます。これは、達頭にとって、母国の大加羅国を宗国新羅に併合した報復です。
 577年頃のこの時(第34代舒明誕生)、ペルシアから帰国していた蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・金珍娘主と西突厥第2代西面可汗達頭可汗(カガン)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)(在位:576~603年)[=達頭=上宮法王=聖徳太子]との間に金官加羅12世代・金官加羅・金舒玄[=第34代舒明(ジョメイ)(577年頃生~641年歿)=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)]が生まれます。
 この蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・金珍娘主の娘達後裔が物部氏と尾張氏の両系統となる額田部皇女、宝皇女等であり、倭国『大后』の後期の継承系統となります。

576年、新羅金氏13世代・新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)の後継には、新羅金氏14世代・新羅第25代(廃位)真智(シンチ)王(在位:576~579年)が就きます。
 真智王(生年不詳~579年歿)の母は、新羅朴氏思道夫人で、倭名は未詳です。思道夫人は、朴英失[=第21代雄略]の娘です。王妃は朴氏の知道夫人です。この頃から、新羅王妃の倭名は未詳になります。
 真智王が若かったので、摂政を只召(チソ)太后[=高句麗妃・尾張目子媛=新羅・息道夫人=金官加羅国王妃・金桂花(金官加羅第10代金仇衡の王妃)]がしました。

記紀は、これらの不都合な出来事を隠蔽するために、物部氏系の高句麗王妃・石姫皇女と第29代欽明との子の第30代敏達(ビダツ)=高句麗王子・安岡上王=百済第27代威徳(イトク)王(在位:554~598年)と第30代敏達の子の第32代崇峻(スシュン)を不連続な皇統系統として挿入します。第32代崇峻(スシュン)は、三韓のいずれの王にも即位していないので、捏造された倭王『大王』です。

以上のように、宣下朝は、朝鮮半島での第26代継体の尾張氏系の最初で最後の高句麗の王朝です。そして、朝鮮半島での物部氏と尾張氏の棲み分けを決める緊迫した三韓情勢の前兆の時代です。
 宣下朝と欽明朝は並立朝との説がありますが、倭国でのことではなく、新羅と高句麗・百済の棲み分けです。
 特筆することは、倭国『大后』は棲み分けをしないで、依然新羅王妃族との同体家族をその後も継続しています。
<以上>