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2-15. 出雲の国譲り神話の実体、2-16.源流鮮卑族和邇氏の系譜と藤原朝

[要旨]


2-15.「出雲の国譲り神話」の実体

(1)「出雲の国譲り」の論理的事実

本稿は、倭国時代を越えて論理体系を考察する必要を感じた未完成のものですが、たたき台として投稿します。

「出雲の国譲り」は、当時の国都に係わる政変ですので、連枝していた但馬国や日本列島の主要な拠点、更に、朝鮮半島の連枝した四韓の統治体制に大きな波及があります。

「出雲の国譲り神話」は、つじつまがあわない基本が多々あると感じていました。スサノオや大国主等の男王の本拠地は出雲ではなく、陵のある九州です。 「出雲」という地域名や神社名が島根県に広く使われたのは1871年以降のことです。古代は、意宇(オウ)郡とか杵築(キズキ)大社の名でした。

杵築大社(出雲大社)が京都府亀岡市から移った経緯は、少し年数の説がありますが、次のようです。
    709年に山城国出雲神社(現京都府亀岡市丹波国一之宮出雲大神宮)の主祭神・大己貴(オオナムジ)神を出雲郡の杵築神社に遷しました。
    716年、現出雲市・杵築(キズキ)大社(明治時代に出雲大社と名称変更)を創建し、丹波国一之宮出雲大神宮の主祭神・大国主神一柱のみを島根県の杵築に遷しました。
     798年、出雲国造の一族(千家氏)が丹波・出雲大神宮から出雲・杵築大社に移住しました。杵築大社の平安時代前期(716年~724年~平安時代前期)の主祭神は大穴持主命、現主祭神は第三代九州倭国王・大国主命です。

したがって、出雲大国朝の垂仁朝時代の国譲りの主場は、現在島根県出雲市の出雲大社とされていますが、実際の場所は違うことになります。

「出雲の国譲り」の頃には、倭国出雲朝は、「DNA春秋時代呉越系倭人混血縄文人」である部族同盟大首長尾張氏と「DNA縄文人混血春秋時代越系倭人」である「戸売(トメ)」系統の女王が共同統治をしていました。そして、女王と九州に領国をもつ大国主(新羅王借用昔氏)は通婚同盟をしていました。

出雲にはイザナミ[=新羅・述礼夫人=初代伽耶媛・神大市比売(カムオオイチヒメ)=初代戸賣(トメ)・春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)]、菊理(ククリ)媛命、第二代伽耶媛・宇迦之御魂=第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)[=新羅金氏玉帽夫人]の末娘の支佐加(キサカ)比売命、その娘の八坂媛命が居住していました。

八坂媛命は、闇見国(但馬国)の生まれとなっています。金属資源のある但馬は出雲の兄弟地でしたが、朝鮮半島に侵攻した他部族の脅威を避けるために、越系「戸売(トメ)」系統の女王のより安全な奥地の拠点となり、継嗣が生育される地となったというのが私見です。この強い「女王のトラウマ」は、畿内に遷都しても、同じようにより安全な奥地のヤマトを拠点にしました。

詳細は2-11章で述べましたので簡略しますが、197年に宗主であったニニギ族ウガヤフキアエズが高句麗第10代山上王(在位:197~227年)に即位したので、宗主に背反した新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)=スサノオ、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命は、新羅を初代伽耶媛・神大市比売(カムオオイチヒメ)と二男伊買に渡し、九州に避難移動します。       「DNA匈奴金氏」である初代大国主・スサノオ[=新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)]は、九州を制圧し、倭名の大(オオ)国を樹立します。これが、いわゆる九州王朝の原初です。

251年、高句麗匈奴休氏ニニギ族の伽耶への報復侵攻により、金官加羅国第3代麻品王(在位:250~251年)が滅ぼされます。この脅威から尾張氏、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命は九州筑紫国・豊国より更に安全なヤマトに避難移住します。

261年、「DNA匈奴休氏」ニニギ族の加羅・新羅の再侵攻により新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の新羅第12代沾解尼師今(在位:247~261年)[=八坂入彦=建御名方主]は敗北し、一族は九州に避難移住します。王妃の新羅金氏保反夫人=八坂媛命、初代大国主・スサノオ[=新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)=金官加羅初代金首露王]、第3代大国主・事代主命[=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)]は、尾張氏が支配するより安全な出雲に避難移住します。       この時には、第2代大国主・大歳=ニギハヤヒ=新羅太子・新羅葛文王骨正は既に歿していました。
     
推測ですが、倭国出雲朝がヤマトに国譲りをしたのは、286年から304年の間のある時期の鮮卑族慕容部の伽耶制圧、百済慕容部朝の建朝の後のことと思われます。
    前趙(漢)の将軍の鮮卑族慕容部が、朝鮮半島を南下して伽耶、百済を制圧し、伽耶に286年頃から304年頃駐留しました。そこで、鮮卑族慕容部は力をつけ、「DNA鮮卑族拓跋部真氏(&解氏)」である沸流(フツ)百済第10代汾西(フンセイ)王(在位:298~304年)を滅ぼし、304年に百済慕容部朝を建朝します。鮮卑族慕容部が伽耶、百済を制圧すると、日本列島に地盤をもつ同盟軍の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族、「DNA源流鮮卑族」和邇氏、「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏は、宗主の鮮卑族慕容部から近代文明を得、日本列島に回帰侵攻します。恐らくこの時に、騎馬民族の馬、漢字等の先進文明が日本列島に入ったと思われます。
    物部氏と前(サキ)族と和邇氏の同盟軍は、既存勢力の「DNA原始匈奴」野族と「DNA匈奴金氏」オオ(大/太/陀/多)氏と各地で戦闘を展開し、畿内、瀬戸内、出雲と朝鮮半島の窓口となる博多(音韻は百済と同じ)を制し、覇権を奪います。記紀は、これを宗主鮮卑族慕容部の第11代垂仁の出来事として、第三期ヤマト東遷(286年から304年の間のある時期)と脚色しました。ヤマト垂仁朝時代、宗主の鮮卑族慕容部が倭国に渡来したことも、為政したこともありません。

この鮮卑族慕容部を宗主とする物部氏、和邇氏、前(サキ)族の日本列島の回帰侵攻の時、筑紫に避難移住していた第4代大国主・八坂入彦=建御名方主[=新羅第12代沾解尼師今(在位:247~261年)]は、追われて伴侶の八坂媛命がいる出雲に避難移住し、そこで敗北を受け入れ、尾張氏の勢力下の信州諏訪に避難移動します。諏訪は、旧石器時代の遺跡が多数あり、天然資源である黒曜石が取れ、日本列島の「DNA縄文人」の最大拠点の一つです。

これが、記紀が垂仁朝時代に「出雲の国譲り神話」として記載した出来事の概要です。
    これにより、越系「戸売(トメ)」系統女王の根拠地があった島根県出雲地域と兵庫県但馬地域は、呉系「トベ」系統女王、物部氏、前(サキ)族、和邇氏の統治地域に変わります。この痕跡は、出雲国と但馬国のそれぞれ三つの神社の主祭神に残っています。特に、出雲国二之宮佐陀(サダ)神社と丹波一之宮粟賀(アワガ)神社は、「出雲の国譲り」に直接関係していると推測され、類似する由緒形態がみられます。

こうして、呉系「トベ」系統女王、物部氏、前(サキ)族と和邇族(トーテム馬)は、大伴氏も交えた畿内部族同盟を樹立します。
ここで、新たな畿内部族同盟は、日本列島全体を支配しようとしませんでした、できなかったのです。まだ、力の弱い分散部族同盟であり、集権化部族同盟は、後の第26代継体以降のことです。倭国鮮卑族垂仁朝(第11~14代)や倭国呉系倭人朝(第6~9代)は、空白の4世紀と言われるように集権化部族王朝以前の状態でした。
    つまり、専権父系制の「ヤマト王朝」の実体は母系制女王の拠点です。
   「トベ」系統の『大后』は、より安全を求めた奥地のヤマトを拠点とします。『大后』は、伽耶、新羅、日本列島での度重なる侵攻に会い、強いトラウマとなり、原国の伽耶・新羅と「DNA縄文人」に守られた倭国との二重母国体制を選択します。『大后』と四韓の王の継嗣を護衛する物部氏と大伴氏と前(サキ)族と和邇氏の一部がヤマトに護衛常住しました。

三世紀からのヤマトの多数の大規模古墳群は、専権父系制の「ヤマト王権」によるものではなく、外敵への威嚇防衛を原初にし、後に祭祀女王族、護衛豪族を中核とした陵と推測 されます。これを築造できるのは、人口、財力を圧倒的に持っていた伴侶の「DNA縄文人」しかいないと考えるのが自然です。記紀が記したような四韓の王が、倭国に渡来し、為政した王は、誰もいませんし、伝統的様式でない王陵を築造するのは不自然さがあります。例えば、蘇我馬子(551年生~628年歿)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)と言われている石舞台古墳とは、伴侶の額田部皇女(554年生~628年歿)のものというのが、私見です。

三世紀からの多数の大規模古墳群は、ヤマトに限らず、日本列島の各地にあることは、集権的王朝がまだなかったことを示しています。「DNA縄文人」は、約4万年前から先住していただけでなく、約5000年前頃から朝鮮半島にも乗り出し、大陸文化も吸収し、古墳時代の渡来系弥生人と同様の文明を持っていたと考える方が自然です。弥生時代の大規模な環濠(カンゴウ)集落は、「DNA縄文人」と渡来系弥生人との共同居住地であるという視点を消してはいけません。日常性は現在でも女性伴侶の文化領域で、「DNA縄文人」は、伴侶の渡来系弥生人の日常性文化を取り入れる柔軟性がありました。弥生式土器は、女性伴侶の渡来系弥生人の文化で、「DNA縄文人」も作製していたというのが、私見です。古墳の祭祀土器は、祭祀女王の文化によるものであって、陵の埋葬者が祭祀女王や「DNA縄文人」であっても不自然ではありません。

倭国部族同盟の畿内の朝廷は、ヤマトではなく交通・産業の便利な摂津国、河内国であり、大阪府の樟葉(クズハ)府/楠葉(ナンバ)府、その後の難波(ナンバ)府、住吉大社、等が考えられます。

一方、出雲大国朝時代においても、スサノオ等の大国朝首長の拠点は九州で、百済鮮卑族系畿内王朝とは並立して、いわゆる加羅および高句麗金氏系九州王朝として続いていきます。
     九州は、「出雲の国譲り」以後、新羅分国の金官加羅国系の「DNA匈奴金氏」の拠点となり、例外地は「DNA鮮卑族」の熊本と博多(音韻は「百済」と同じ)であると推測されます。

新羅、出雲、畿内、九州等を拠点としていた尾張氏は、主拠点を福井県から新潟県に及ぶ古志国(主拠点は、現石川県白山市・白山比米神社、現新潟県西蒲原郡・弥彦神社と推測)、信州の長野県諏訪市・諏訪大社、尾張の名古屋市・熱田神宮等に移しました。
    意宇(オウ)国でイザナミに仕えていた菊理(ククリ)媛命[注:菊理(ククリ)は高句麗(コウクリ)、国津(コウクリ→ククリ)の音韻変化説あり]が、石川県・白山比米神社の主祭神となり、新潟県・越後国一之宮弥彦神社に分祀された由縁です。尾張氏は、高句麗休氏朝が滅んだ後に、新羅、伽耶にも回帰しました。
尾張氏と「DNA匈奴」族は、共に移動したのかもしれません。
「DNA匈奴」族は、畿内新王権の支配外の東北地方にも避難移住しました。

記紀は、垂仁朝以前の261年の出来事を倭国に転写して、「出雲の国譲り神話」を垂仁朝に記した神話を利用して、大国主四代・八坂入彦[=新羅第12代借用昔氏(&金氏)沾解(テンカイ)尼師今(在位:247~261年)]と王妃の第四代戸売・八坂媛命[=新羅金氏保反夫人=八坂刀賣(トメ)神(諏訪大社)]をもって、越系「戸売」系統の倭国『大后』と尾張氏盟主と新羅借用昔氏朝(大国朝)は終焉したとしました。
     記紀が垂仁朝時代に「出雲の国譲り神話」を記載したのは、倭国部族同盟盟主と倭国『大后』の新たな系統変更が定着するのに年数を要したからです。

「出雲の国譲り神話」は、261年の新羅借用昔氏王朝(倭名は大国朝)の滅亡と連動した倭国政変の最終抗争の出来事です。記紀は、九州、瀬戸内、畿内の抗争を隠し、最終抗争地の「出雲」の出来事のみを神話として残しました。

「出雲の国譲り神話」の本質は、日本列島全体の統治体制の二分裂で、出雲王朝からヤマト王朝への移行にとどまらず、日本列島全体の居住者の移動と統治構造の変化を起こしました。
   「DNA春秋時代呉越系倭人混血縄文人」である尾張氏、大伴氏、物部氏の三氏族は、地上の倭国政事統括者の倭国部族同盟大首長であるだけでなく、倭国と四韓の天上の非政事統括者である倭国『大后』、つまり、四韓の王妃とその王の親衛軍を管掌する四韓の覇権者でした。

尾張氏と大伴氏・物部氏を二つの基軸とする倭国の政事統括者の分裂は、倭国だけでなく、四韓の統治体制も分裂させ、四韓に日常的に不安定な抗争を引き起こすようになりました。その源初が、「出雲の国譲り」です。

元盟主の尾張氏は畿内の統治権を明け渡し、九州、尾張国、高志国、信濃国、新羅を拠点とし、物部氏がヤマト、摂津国、丹波国、吉備国、近江国、高句麗を最終的に制したようです。

もっとも、第37代斉明A淵蓋蘇文以降は、親新羅となり、新羅・尾張氏の倭国政事統括者の地位は回帰しました。

そして、大伴氏は、大伴氏出自の県犬養三千代/橘三千代(665年?~733年歿)と和邇氏藤原不比等の娘で第45代聖武天皇の光明(コウミョウ)皇后(701年生~760年歿)、第46代孝謙(コウケン)天皇(在位:749年~758年)=重祚第48代称徳(ショウトク)天皇(在位:764年~770年)と復権しています。

ここで「DNA縄文人」が関係する時の特徴ですが、記紀、三国史記の記述と異なり、対立相手の殲滅は基本的には朝鮮半島も含めてありません。出雲の国譲りに伴って、敗北した分枝系統や「戸売」系統の分枝系統[第16代仁徳の『先大后』・磐(イワイ)之媛命(母は第四代刀賣・八坂媛命、父は新羅第13代金氏味鄒尼師今)]は、畿内に移っています。

新羅王族分国の「DNA匈奴金氏」である九州大国朝(新羅借用昔氏朝)は、新羅王族分国の金官加羅国に系統変更します。
    九州金氏王の倭名は「筑紫君」で、金官加羅国の本貫系統の第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文には筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬の別名があるように、倭国末期まで「DNA匈奴金氏」系である九州王朝と「DNA鮮卑族」系である畿内王朝は緩い関係をもって並立していたと思われます。

記紀は、倭国での「DNA匈奴金氏」と「DNA源流匈奴野族」の復権のために、「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳[=新羅第17代金氏奈勿尼師今(在位∶356~402年)=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)]の母の仲姫(ナカツヒメ)/中日女命[=新羅金氏休礼夫人(父は新羅第13代味鄒尼師今=第3代安寧)]と第3代安寧の弟の父の葛城襲津(ソツ)彦[=新羅角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)=新羅伊飡(2等官)大西知(ダイセイチ、テソチ)]の逸話を垂仁朝に挿入しました。

(2)出雲国の三つの神社と主祭神

・出雲国一之宮杵築大社[1871年(明治4)に出雲大社と改称]:島根県出雲市大社町杵築東195。
・出雲国一之宮熊野大社:島根県松江市八雲町熊野2451番。 
・出雲国二之宮佐陀神社[明治に佐太神社と改称]:島根県松江市鹿島町佐陀宮内73。
 
「出雲の国譲り」の最終の地は、女神の出雲国二之宮佐陀神社/佐太神社と推測されます。但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社[兵庫県朝来市山東町粟鹿2152]とは類似性があり、ヤマトに国譲りをしたので連枝性が隠蔽されています。

島根県東出雲地域の意宇郡は、尾張氏と「DNA源流匈奴」野族の勢力が強く、「国譲り」後も物部氏と「DNA鮮卑族」は覇権の徹底が簡単にできませんでした。「DNA鮮卑族」が名付けたと推測される新地名の「東出雲」の呼び名が、現在までも旧名の「アダカエ」が用いられていることに表れています。また、石見国一之宮物部神社(島根県太田市)は島根県西部にあり、出雲地域の杵築大社の主神主は物部氏ではなく、別系統の千家氏にしたこと、スサノオの子の系統の佐草氏を上級神官に残したことが旧勢力の強さを物語っています。
 
・出雲国一之宮杵築大社[1971年(明治4)に出雲大社と改称]:島根県出雲市大社町杵築東195 
主祭神は、平安時代前期まで大穴持命(出雲国造神賀詞)、中世のある時期から17世紀まで素戔嗚尊(スサノオノミコト)、1664年ないし1665年以降は大国主大神(スサノオの婿養子)です。
神紋は、「二重亀甲に剣花菱」紋です。
出雲大社が関係する神奈備山は、島根県出雲市平田町の「大船山」です。
島根県出雲市大社町杵築の地域は、「DNA呉系倭人」である原始出雲人=原始倭人による初の渡来系弥生人の部族同盟首長の本拠地と推測されます。

ヤマト鮮卑族官僚の千家氏(推測:Y-DNA「D1a2a2系」)は、北ルートの華北から樺太・北海道経由で本土に入植した系統の可能性があります。

尾張氏、物部氏の祖(推測:Y-DNA「D1a2a1系」)の日本列島への最初の入植経路は、南方から南海ルートの奄美経由の九州南部であると言われています。
    旧勢力が強く、物部氏が入れず、尾張氏・物部氏とは別系統の千家氏を杵築大社の主神主にせざるを得なかったことが考えられます。
 
・出雲国一之宮・熊野大社:松江市八雲町熊野2451番 
旧名は、熊野坐神社、熊野大神宮、熊野天照太神宮などです。
当初の主祭神は、クナト(来名戸/岐)神です。
     現在の主祭神は、伊邪那伎日真名子(イザナギノヒマナゴ)加夫呂伎(カブロギ)熊野大神 櫛御気野(クシミケヌ)命、素戔嗚(スサノオ)尊です。
      トーテムは、匈奴系の「亀と牛」、源流呉系倭人=原始出雲族の「蛇」です。
     神紋は、「一重亀甲に大」紋です。
    熊野神社が関係する神名火山/神奈備山は、意宇(オウ)郡の茶臼山です。

熊野神社境内摂社に、源流鮮卑族系の前(クマ/サキ)神社があります。
    熊野神社は、「戸売」系統以前の「母系DNA原始呉系倭人」である「トベ」系統女首長と「DNA原始鮮卑族前(サキ)族」が原初と推測されます。
   「熊野」神社の「熊野」は、表記順序から「母系DNA呉系原始倭人」である「クマ/熊」族と「DNA源流匈奴」「ノ/野」族が合体した「熊(女)野(男)」族です。「熊野」神社は、「戸売」系統以前の「トベ」系統の女神の最古の神社系とみられます。
   
「クマ/熊」は、呉人系のトーテム「蛇」の音韻を借用した表記漢字です。「ノ/野」は、トーテム「牛」の音韻を借用した表記漢字です。

・出雲国二之宮佐陀神社/佐太神社:松江市鹿島町佐陀宮内73
主祭神は、三殿並んでいる真中の正中殿(せいちゅうでん)は女神・佐太御子大神、伊弉諾(イザナギ)尊、女神・伊弉冉(イザナミ)尊、事解(コトサカ)男命、速玉(ハヤタマ)之男命の五柱、向かって右の社の北殿は天照大神、瓊々杵尊の二柱、向かって左の社の南殿は素盞鳴(スサノオ)尊、秘説四座の神の五柱です。本社三殿合わせて十二柱の神々が祀られています。

本社北殿の摂社の田中神社の主祭神は、西社の木花開耶(コノハナサクヤ)姫命、東社の磐長(イワナガ)姫命です。主祭神からみると、田中神社は、佐太神社の地の原初の女神神社です。

 正中殿(佐太御子大神、等)の神紋は、「(扇の紙部分を表す)地紙」紋です。古来、扇には神が宿ると信じられており、守護的な意味合いがありました。
     北殿(天照大神、瓊瓊杵尊、等)の神紋は、太陽神を意味する「輪違い」です。
    南殿(素戔嗚尊、秘説四座)の神紋は、トーテムの亀(金官加羅国匈奴金氏)を意味する「二重亀甲(無字)」紋です。

佐太神社の裏手には、神社から約六キロメートルはなれた神名火山(現在の朝日山)がそびえています。「母儀人墓所(はぎのひともとしゃ)」と呼ばれる場所です。女神である伊弉冉(イザナミ)尊のお墓と言われていますが、「DNA縄文人」の神名火山です。

「佐陀神社」の「サ(佐/狭/沙/金)」は「佐草=斯羅(シラ)=沙羅(サラ)=新羅(=?賀羅)」の略字、「ダ/タ/オオ(陀/太/大/多」は大国朝オオ(陀/太/大/多)氏の略字です。
   「佐陀」は、大国朝オオ氏系の女王国の大加羅国(後に新羅に併合された)の意です。「佐陀」は、春秋時代呉越系の文法順序の「佐(女性)・陀(男性)」です。

佐陀神社は「出雲国譲り」の当事者の神社と推測 されます。出雲市・杵築大社/出雲大社は、出雲の国譲りの時にはまだありませんでした。佐陀神社には、出雲の国譲りに関係する傍証が数々見られます。
①佐陀神社の「佐陀」は、伽耶の大加羅国の女王と金官加羅国出自の借用昔氏新羅男王が合体した名です。
②佐陀神社の本来の主祭神は女神・佐太御子大神=支佐加(キサカ)比売命で、「戸売」系統の八坂媛命=八坂刀賣(トメ)神(諏訪大社)=皇夫人・和邇津野媛=新羅金氏保反夫人]に比定されます。「国譲り」以後主祭神の一人になりました。これは、「戸売(トメ)」系統の但馬国一之宮粟賀神社と同じ事情です。
     女神・佐太御子大神=女神・支佐加(キサカ)比売命は、女神・イザナミ[=神魂(カンムスビ)命]の子の女神・倉稲魂命(ウガノミタマ)=二代伽耶媛・宇迦御魂(ウガノミタマ)命=新羅金氏玉帽夫人の末娘で、生誕地は闇見(クラミ)国(但馬一之宮粟賀神社と比定)です。
    但馬一之宮粟賀神社の主祭神の女神・倉稲魂命(ウガノミタマ)=二代伽耶媛・宇迦御魂(ウガノミタマ)命=新羅金氏玉帽夫人は、畿内であるため隠蔽されて、但馬三ノ宮養父(ヤブ)神社の主祭神の一人に挿入されました。
    佐陀神社の女神・支佐加(キサカ)比売命は、物部神社のある島根県益田市(石見国)の旧名の佐比売山(サヒメサン)[726年に三瓶山(サンベサン)に改名]の山名に残されています。新羅の蘇尸茂梨(ソラモリ)の大宜都比売(オオゲツヒメ)の末娘(乙子の意)の乙子狭姫(オトゴサヒメ)[=支佐加(キサカ)比売命]が最初に入島した地とされています。
③正中殿は、主祭神の佐太御子大神=倉稲魂(ウガノミタマ)命に父母関係の伊弉諾(イザナギ)尊・伊弉冉(イザナミ)尊・事解(コトサカ)男命・速玉(ハヤタマ)之男命の四柱が加えられました。
北殿は、「出雲の国譲り」に配慮して日本の開国祖とされた天照大神(=倉稲魂命)・瓊々杵尊の二柱を後世に付け加えられました。
南殿は、「出雲の国譲り」の男王当事者の「DNA匈奴金氏」である素盞鳴尊・秘説四座の神の五柱が祀られています。秘説四座は明らかにされていませんが、第2代大国主・大歳=ニギハヤヒ=新羅太子・新羅葛文王骨正、大歳の同父母弟の新羅王子・伊買の子で宇迦御魂命が伴侶の新羅第10代奈解尼師今(在位∶196~230年)、大歳の子の第3代大国主・事代主命=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位∶230~247年)、事代主命の弟で八坂媛命が伴侶の第4代大国主・八坂入彦=建御名方主=新羅第12代沾解尼師今(在位∶247~261年)が比定されます。
    素盞鳴尊・秘説四座は、「DNA匈奴金氏」である新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の系譜者です。
佐陀神社は、本来、熊野神社、杵築大社同様に、出雲国一之宮であっても良いです。
④三つの神紋は、非常にシンプルなものであるので、熊野神社同様に最も古いものです。亀甲紋は、金官加羅国のトーテムで、出雲系を表わしています。
古い順は、熊野神社の「一重亀甲の有」紋、佐陀神社の「二重亀甲(無字)」紋、神魂神社と阿太加夜神社の「二重亀甲の有」紋、出雲大社と能義神社の「二重亀甲に剣花菱」紋です。
⑤佐太神社は、秋鹿郡の神奈備山「朝日山」を付帯し、縄文人と春秋時代呉越系倭人との通婚同盟を行なった神社と推測されます。
⑥通説では、「佐陀」の同意漢字の解釈で、佐太(御子)大神は猿田(サルタ)彦大神とする説があります。猿田彦大神は、「DNA源流匈奴」野(トーテム牛と同音の形成漢字)族が推測されますが、別な「DNA縄文人」尾張氏を暗喩していると推測されます。神奈備山の朝日山は、本来「DNA縄文人」で、後世に伴侶の陵としたものと推測されます。
⑦出雲国二之宮佐太神社の神主は、古代は「DNA匈奴金氏」系の神宅(カンヤケ)氏でしたが、1185年以降、大伴氏系の朝山氏が神主職(正神主職)、宮司職を世襲しています。杵築大社同様に、旧勢力が強く、物部氏の代わりに大伴氏系が神主職(正神主職)に就いたと考えられます。
    733年、出雲国造の出雲臣広嶋の監修のもと、秋鹿(アイカ)郡の人、神宅(カンヤケ)臣金太理(カナタリ)の手によって出雲国風土記は編纂されました。

(3)但馬国の三つの神社と主祭神

出雲国と連枝していた但馬国の統治者は、「出雲の国譲り」によって越系「戸売」系統女王、尾張氏、「DNA匈奴金氏」から呉系「トベ」系統女王、物部氏、「DNA鮮卑族」に変更しました。この事情は、但馬国の三つの神社の主祭神に反映されています。
・但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社:兵庫県朝来市山東町粟鹿2152。
・但馬一之宮出石(イズシ)神社:兵庫県豊岡市出石町宮内99。
・但馬国三ノ宮養父(ヤブ)神社:兵庫県養父市養父市場840。
 
・但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社:兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
     
但馬は金属資源がある女王国の闇見(クラミ)国(鉄・鍛冶族の国の意)と称され、同様な出雲国とは連枝していました。伽耶・新羅への他部族の度重なる侵攻があり、九州筑紫や出雲より更に安全な但馬奥地の粟賀神社を第二本拠地とし、継嗣は母系制に従って闇見(クラミ)国で生育されました。「出雲の国譲り」の当事者である出雲国二之宮の越系「戸売」系統の佐太御子大神=支佐加(キサカ)比売命に比定される八坂媛命=八坂刀賣(トメ)神(諏訪大社)=皇夫人・和邇津野媛=新羅金氏保反夫人は、女王国の闇見(クラミ)国で生まれました。但馬国一之宮粟鹿(アワガ)神社の近辺は、金属資源が採れていました。周辺には、日本一のスズ鉱山とヒスイの原石が採れる明延鉱山(養父)、生野銀山があります。  

粟賀神社には、『粟鹿大明神元記/粟鹿大神元記』の原本(708年)を300年後の1002年に奏上者後裔に証明書として預け置いたものが京都九条家の秘庫に蔵されていて、1955年に発掘されました(現在は宮内庁が保管)。これは、日本書紀(720年撰上、最古写本9世紀)が813年から965年の間に改ざん・再編成された経緯(「日本書紀私記(弘仁私記)」宮内庁書陵部蔵写本)と対応するものとも考えられます。

現在の主祭神は、①「DNA匈奴金氏」である大国主の子の粟賀大明神・天美佐利(アメノミサリ)命[注:大国主は第2代大国主・大歳=意富美和(オウミワ)君=ニギハヤヒと比定]、②高句麗呉系倭人朝を疑似継承した「DNA鮮卑族慕容部」である第9代開化[=高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)]の第三皇子の日子坐王(ヒコイマスノオオキミ)命=海部氏志理都(シリツ)彦命、③「DNA匈奴休氏ニニギ族」であるニニギノ命の第二子で、初代匈奴系神武B憂位居(ユイロ/ユイキョ)の祖父の日子穂穂手見(ヒコホホデミ)尊(=山幸彦)の三座です。

本来の主祭神は、ヤマト東遷と伊勢神宮遷座(第21代雄略天皇25年)をした原初の主祭神である越系「戸売」系統(伴侶は尾張氏と「DNA匈奴金氏」)の女神・倉稲魂(ウガノミタマ)命[=宇迦御魂(ウガノミタマ)命ト]と推測されます。倉稲魂(ウガノミタマ)命は、粟鹿神社から丹波国三ノ宮養父神社の主祭神の一人に移入されたというのが、私見です。

因みに、京都府宮津市の丹後国一之宮元伊勢籠神社(コノジンジャ)には、伊勢神宮遷座の前には天照大神と豊受(トヨウケ)大神[=倉稲魂命]が祀られていました。804年に天照大神と豊受(トヨウケ)大神が伊勢神宮に移され、主祭神は ニニギノ命と木花開耶(コノハナサクヤ)姫の子で、初代神武の祖父である彦火火出見(ホホデミ)尊になりました。
神紋は「茗荷と菊の合せ」紋です。

粟鹿神社の祭祀の始まりの神体山は、粟鹿山(962.3m)です。

粟鹿(アワガ)神社の神主は、「出雲の国譲り」によって「DNA匈奴金氏」の但馬国鎮守阿米美佐利(アメノミサリ)命の系統から「DNA縄文人混血呉系倭人」である第8代孝元(コウゲン)=高句麗第17代小獸林王(在位:371~384年)の皇子の大彦速(オオヒコハヤ)命の子の国造・神部(ミワベ)直(アタイ)速日(ハヤヒ)の系統に変わります。神部(ミワベ、=三輪氏)直(アタイ)は、ヤマト朝の倭国『大后』が「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である「トベ」系統(伴侶は物部氏と「DNA鮮卑族」)に変わったことに対応したと考えられます。

中世頃に粟鹿神社の祭主が「DNA縄文人混血呉系倭人」である「神部直」から「DNA縄文人混血呉系倭人」である第6代孝安(コウアン)[=高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=高句麗分国・大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命[注:通説は第8代孝元(コウゲン)の第一皇子の彦坐王の子であるが時代が会わない]の狭穂彦王に始まる「日下部(クサカベ)氏」に氏族の名を変更しています。祭主の「神部直」と「日下部」は「DNA縄文人混血呉系倭人」の同族で、「出雲の国譲り」による呉系「トベ」系統への倭国『大后』の系統変更に対応しています。

「粟(あわ)鹿(が)」の「粟(アワ)」は、中国江南の春秋時代越の倭名の高志(kosi)=越(kosi/etu)を古代特産食品の「粟(アワ)で象徴した通称、隠名です。「粟(アワ)」は、「母系DNA春秋時代越系ヤオ族倭人」の第一位祭祀女王・戸賣(トメ)のオオゲツヒメ(大国の媛の意)=宇迦之御魂=第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)を暗喩しています。オオゲツヒメは、ヤマト東遷途中に、大歳と別行動をして但馬に寄っています。この但馬の地は、但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社と推測されます。本来の主祭神が「DNA春秋時代越系ヤオ族倭人」である「戸売(トメ)」系統であることは、主祭神の第一座が「DNA匈奴金氏」である大国主の子の天美佐利命[注:大国主は第2代大国主・大歳=意富美和(オウミワ)君=ニギハヤヒと比定]であり、同族の徳島県阿波(アワ)国にも同じようにオオゲツヒメの神話が残っていることから言えます。春秋時代越系第一位女王の後裔の越系「戸売(トメ)」系統から呉系「トベ」系統に移行した出雲の国譲りと伊勢神宮遷座に配慮して、越系「戸売(トメ)」系統の宇迦之御魂の名を隠したと思われます。

次に、「粟(あわ)鹿(が)」の「鹿(が)」は、伽耶諸国の賀羅=大加羅=意宇加羅の略字である「賀」の同音韻の形成漢字です。「鹿」は、扶余のトーテムでもあります。賀羅=大加羅=意宇加羅は、春秋時代越系第一位女王の後裔の女王国・春日国で、後に、新羅の分国となり、「母系DNA呉系倭人」である「トベ」系統の倭国『大后』の原国となります。

つまり、「粟(あわ)鹿(が)」は、「大加羅国系女王国の越人」の意です。

因みに、男王国の金官加羅国の略字は、「加/迦」です。
金官加羅国と大加羅国=賀羅の両方の国を表わす略字は「迦賀/加賀」で、第9代開化天皇の『大后』の伊迦賀色許売(イカガシコメ)命=伊香色謎(イカガシコメ)命の名「迦賀」に残っています。

「出雲国譲り」の時の出雲女王・八坂媛命は、闇見国の生まれです。「沙本之大闇見戸賣」(=宇迦御魂命)は、「サホ/沙本(沙羅、後に新羅領となる加羅の意)・オオ/大(大族=スキタイ混血匈奴の意)・クラミ/闇見(但馬の鉄・鍛冶族の国の意)・トメ/戸賣(第一位祭祀女王の意)」より「加羅のオオ族の鉄・鍛冶族の媛」の意です。沙本之大闇見戸賣(=宇迦御魂命)は、父が「DNA匈奴金氏&オオ族」・Y-DNA「O2a1系」、母が濊(ワイ)族の「母系DNA縄文人混血春秋時代越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」です。
 
但馬国一之宮出石(イズシ)神社:兵庫県豊岡市出石町宮内99
現在の主祭神は、「DNA源流鮮卑族八前(ヤサキ)族」である出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神と「DNA縄文人混血春秋時代呉系倭人」である天日槍(アメノヒボコ)命の二座です。

八前(ヤサキ)は、濊族の倭名のヤ(矢/八/夜)族の女性系と「DNA原始鮮卑族前(ヤサキ)族」の男性系が合体したことを示す名です。
「八前(ヤサキ)」は春秋時代呉越の文法順序ですから、出石神社は、出雲国二之宮佐陀神社/佐太神社同様に、当初は「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系倭人」である「トベ」系統の女王が主祭神と推測されます。
    因みに、匈奴や鮮卑族の名の語順は、男性が前で、女性が後です。

神紋は、拝殿が「十六八重菊」紋を染めた幕、本殿の屋根は「五三の鬼桐」紋、『官國幣社 例祭之由来と神紋』には「五三の桐及三ツ巴」と記されている。

出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神は、高句麗第3代(解氏)大武神(タイブシン)王(在位:AD18~44年)=新羅第4代昔氏脱解尼師今(在位:AD57~80年)=住吉神社祭神・底筒男命と比定され、日本列島の「源流鮮卑族」系の祖神で、初代鮮卑族神武天皇A前(サキ)氏脱解(タレ)と称することができます。 

出石神社の領域は、出石八前大神や天日槍(アメノヒボコ)命の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である女王の倭国の領国です。天日槍(アメノヒボコ)命は、高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=高句麗分国・大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命=第6代孝安(コウアン)と比定され、母系制に従って出石神社の領域で生育し、成人になって朝鮮半島に回帰しました。しかし、倭国を統治したことはありません。

・但馬国三ノ宮養父(ヤブ)神社:兵庫県養父市養父市場840
    
養父(ヤブ)の地名は、新支配者の鮮卑族により新地名の「養父(ヨウフ)」に変えられましたが、旧勢力の匈奴が新地名の「養父」を旧呼称の「ヤブ」と仲間内では呼んだことに由来します。「ヤブ」の本来の形成漢字は、残っていません。

「DNA匈奴休氏ニニギ族」である高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)が鮮卑族慕容部に敗北し、鮮卑族慕容部に臣属し、母系の但馬に避難移住し、鮮卑族慕容部を養父(ヨウフ)として丹波朝初代丹波道主・谿羽(タニハ)道主命を称しました。「養父(ヨウフ、ヤブ)」とは、鮮卑族慕容部に臣属したことを示しています。
    この時から、養父(ヤブ)地は、越系「戸売」系統の女王、尾張氏、「DNA匈奴」系から呉系「トベ」系統の女王、物部氏、「DNA鮮卑族」系の統治地域となります。

現在の主祭神は、①「母系DNA縄文人混血越系倭人」である倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)[=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)]、②「DNA匈奴金氏(倭名は大氏)」である大己貴命(オオナムジ:オオ族の貴人の意)、③「DNA縄文人混血呉系倭人」である少彦名命[=住吉神社祭神・上筒男命=新羅初代朴氏始祖赫居世(カクキョセイ)居西干(コセイカン)(在位:BC57~AD4年)]、④「DNA鮮卑族慕容部」の養子となった「DNA匈奴休氏ニニギ族」である丹波朝初代丹波道主・谿羽道主命(タニハミチヌシノミコト)、⑤第9代開化天皇[=高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)]の皇子の「DNA鮮卑族慕容部」である船帆足尼(フナホソコネ)命の五座とされています。
    但馬国の変遷した首長を網羅しているのが特徴です。

因みに、第9代開化天皇[=高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)]は、母が鮮卑族慕容部の人質になった時の子で、体は高句麗呉系倭人朝ですが、血統は「DNA鮮卑族慕容部」です。第9代開化は、鮮卑族慕容部が、高句麗呉系倭人朝を疑似継承させました。

神紋は、「丸に横木瓜」紋です。
御神体は、養父市・妙見山です。

2-16.源流鮮卑族和邇氏の系譜と藤原氏

本稿は、倭国時代を越えて論理体系を考察する必要を感じた未完成のものですが、たたき台として投稿します。

[要旨]

日本列島と朝鮮半島の鮮卑族の祖が古代遊牧狩猟民族であることから、「DNA源流鮮卑族」と本論では呼ぶことにします。

遊牧狩猟民族の和邇氏(Y-DNA「O2a2b系」)は、中国東北部から広州馬韓(ソウル江南区)の東界地に南下して京畿辰韓をつくり、箕(キ)氏辰国に臣族しました。この後、広州馬韓(ソウル江南区)の東界地の箕(キ)氏辰国が滅亡し、馬韓の統率者となり、「辰国辰(シン)王」称号を借用しました。

紀元前0世紀、沸流百済が南下して侵攻したので、京畿辰韓(ソウル江南区)に本拠をおいていた和邇氏は、二つに分岐しました。
    一つは、後の百済の国都となる熊津(クマナリ)に南遷した和邇氏(以後、百済系和邇氏と呼ぶ)です。記紀がこの系統の象徴神としたのが、応神朝第15代応神天皇[=(捏造王)百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王(在位:392~405年)]です。
    もう一つは、現韓国江原道の濊国の対岸にあった現鬱陵島に建国した于山国/羽山国(ウザンコク)で、512年に新羅が併合した系統(以後、新羅系和邇氏と呼ぶ)です。記紀がこの系統の象徴神としたのが、応神朝第17代履中天皇[=莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)=(捏造王)百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)]です。

和邇氏は、朝鮮半島を本拠地とし、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖として、記紀には雄略朝まで君臨が記載されていました。
    しかし、「DNA匈奴金氏」である第26代継体以後、記紀からは突然消えました。和邇氏は、朝鮮半島に地盤を置いていたので、新羅と百済の中で存続していたのです。

呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖は、(前族)、和邇氏で、記紀では第26代継体まで大きな影響力を持っていました。日本では、現在も和邇氏象徴神の応神天皇を祭神とする八幡宮(宇佐八幡宮、筥崎宮、石清水八幡宮、鎌倉八幡宮、等)や、住吉大社、宇治神社からもわかるように、日本の歴史に大きな影響をもっており、不思議なことです。

最近、第38代天智、子の藤原不比等は、「DNA匈奴金氏」ではなく、「DNA源流鮮卑族和邇氏」と考えられる事実に気が付きました。もし、第38代天智、藤原不比等が「DNA源流鮮卑族和邇氏」であるならば、「DNA匈奴金氏」である第37代斉明A淵蓋蘇文から皇位を簒奪した第38代天智系がその後丁重な扱いをされていることや、平安・藤原朝が和邇氏系文化を受け継いでいることなどに筋ができます。

約386年間の長期の平安時代藤原朝は、天上の象徴統括者が「DNA縄文人」、地上の政事統括者が「DNA源流鮮卑族和邇氏」の藤原氏の統治体制です。

この平安時代藤原朝は、倭国時代の母系非政事統括者と父系政事統括者の同位共同統括体制を崩し、唯一専権の文化をもつ和邇氏の父系統治者体制に移行した源初です。
    和邇氏抜きには、倭国と平安時代の日本の統治体制、文化のギャップは理解できません。

そして、1192年からの鎌倉時代から1868年の江戸時代滅亡の約676年間の武家社会は、「DNA縄文人混血呉系倭人」である織田信長、Y-DNA「C1系」である豊臣秀吉の30年間を除いて、「DNA縄文人」である天皇の賜姓氏族の平氏や源氏が父系政事統括者『将軍』となります。
    宗主の天皇に代ることはありませんでした。
    また、上級摂家の一部も「DNA和邇氏」から「DNA縄文人」系に変わっています。

因みに、高麗(918年~1392年)は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である百済地域豪族の王建(877年生~945年歿)が建国した王朝です。1145年には現存最古の朝鮮半島史書である「三国史記」を完成しました。

(1)鮮卑族源流の日本列島の前族と朝鮮半島の和邇氏

「DNA源流鮮卑族」である遊牧狩猟民族で、日本列島に居ついたのが「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」(後に朝鮮半島に回帰渡来して新羅昔氏)]、朝鮮半島に居ついたのが「DNA源流鮮卑族」和邇族/和邇氏・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」です。

DNAから見ると、「DNA鮮卑族慕容部」・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」の分枝です。「DNA鮮卑族慕容部」は、ペルシア人混血ですから、和邇氏もペルシア人混血の可能性があります。

三世紀末から四世紀始めに、鮮卑族慕容部が朝鮮半島を南下して、伽耶・新羅・百済を侵攻した時に、朝鮮半島南部に居住していた「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族(日本列島から渡来した新羅昔氏)と「DNA源流鮮卑族」和邇氏は同盟軍に参加しました。彼らは、広範囲に移動していた遊牧狩猟民族であったので、同種族であることをお互いに認識していました。

鮮卑族慕容部が伽耶・新羅・百済を制圧後の304年の直後頃に、慕容部から近代文明を得た前(サキ)族(日本列島から渡来した新羅昔氏)と和邇氏と物部氏は、日本列島に回帰侵攻し、畿内に記紀が呼ぶ百済系垂仁朝の緩い部族同盟を築きます。旧勢力の大伴氏は新同盟に合流しますが、「DNA匈奴」とは戦闘が各地で展開されました。
    大陸とは違って、「DNA縄文人」は相手を殲滅することはせず、追放するのが基本です。このような場合、記紀と三国史記は、ほとんど死亡と記しました。

集権化した朝鮮半島渡来人によるヤマト王朝が存在したとするのは願望で、王朝と呼べない垂仁朝はいわゆる空白の四世紀です。この時代も、「母系DNA呉越系倭人」である女首長・倭国『大后』と通婚同盟した「DNA縄文人」の圧倒的な軍事力、人口、財力が日本列島の統治基盤です。

(2)二つに分岐した「DNA源流鮮卑族」和邇氏

金聖昊(キム・ソンホ)は、「DNA源流鮮卑族」和邇氏の古代の朝鮮半島での移動経路を、科学的手法を用いて明らかにしました(出典元:金聖昊(キム・ソンホ)『沸流百済と日本の国家起源』株式会社成甲書房 1983年)。それによると、「DNA源流鮮卑族」和邇氏は、中国東北部から広州馬韓(ソウル江南区)の東界地に南下して京畿辰韓をつくり、箕(キ)氏辰国に臣族しました。紀元前2世紀、京畿辰韓に亡命していた箕氏朝鮮の最後の準王が没し、箕氏辰国が終わりました。この後、京畿辰韓に先住していた豪族の和邇族が、馬韓の統率者となり、「辰国辰(シン)王」称号を使用しました。

紀元前0世紀、避難移動して南下した沸流(フル)百済に京畿辰韓の借用辰(シン)王和邇氏は侵攻され、後の百済の国都となる熊津(クマナリ)に移住した百済系和邇氏と現韓国江原道の濊国の対岸にあった朝鮮半島に移住して現鬱陵島の于山国/羽山国(ウザンコク)を建国した新羅系和邇氏の二つに分岐しました。

新羅系和邇氏は、倭国の前(サキ)族が新羅に渡来した新羅昔氏と連携します。
651年に于山国/羽山国(ウザンコク)は、新羅に併合され、加羅諸国の熊成(クマナリ))/熊川[確かではないが、金官加羅に隣接した南側の海沿いか?]を本拠地としました。

B.C.75年、百済系和邇氏は、馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓としました。馬韓は、馬韓(マハン、後に百済)、辰韓(チンハン、後に伽耶諸国)、弁韓(ビョンハン、後に新羅)の三韓に分裂しました。

B.C.57年、「DNA縄文人混血呉系倭人」である新羅初代朴氏始祖赫居世居西干(コセイカン、王称)(在位:B.C.57~AD4年)が、現韓国の漢江南岸に「徐那伐(ソフル)」を建国し、AD60年まで国都にしていました。つまり、和邇氏と朴氏は古い知り合いです。

沸流(フル)百済の台頭によって、馬韓・辰韓・弁韓の盟主の百済系和邇氏の借用辰王は象徴的な王族となって権力を喪失しました。借用辰王は、沸流百済に従属し、通婚によって沸流百済王室の子弟宋親となって、月氏国の檐魯(タムロ/エンロ、注:王族統治の分国の意)主の臣智に任命されました。
   
その後、借用辰王は、馬韓から借用辰王に属していた南部辰韓12ケ国(現在の慶尚道の地域)に移りました。この時の中心地が加羅諸国の熊成(クマナリ))/熊川[確かではないが、金官加羅に隣接した南側の海沿いか?]です。

396年に「DNA匈奴金氏」である広開土王=第16代仁徳により「DNA鮮卑族拓跋部」である沸流(フル)百済が滅亡し、百済系和邇氏は高句麗に従属した温祚(オンソ)百済に臣属し、百済・熊津(クマナリ)に帰りました。

記紀と三国史記は協調して、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖の和邇氏を飾り立てるために、百済王の空位期(第一期:375年~420年、第二期:475年~501年)を利用して実在者を百済和邇氏応神朝と百済和邇氏雄略朝の百済王に捏造しました。

考察結論からは、記紀の第15代応神は百済系和邇氏、第17代履中は新羅系和邇氏の象徴天皇です。

(3)雄略朝までの「DNA源流鮮卑族」和邇氏の系譜

    和邇氏には、百済系和邇氏と新羅系和邇氏の二系統がありますが、すべての系譜者の系統はまだ明らかにしていません。

和邇氏の初期の祖・彦国葺(ヒコクニフク)命=天足彦国押人命=春日親君、二代の大口納(オオクタミ)は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」ではなく、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族(新羅名は昔氏)であることが考えられます。

表8.雄略朝までの「DNA源流鮮卑族」和邇氏の系譜

(4)百済系和邇氏の系譜

百済系和邇氏は、百済応神朝の難波根子建振熊(タテフルクマ)=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王 (在位:385~392年)、第15代応神A品夜和気(ホムヤワケ)(372年歿)=[捏造王]百済第15代枕流(チンリュウ)王(在位:384~385年)、第15代応神B品陀和気(ホンダワケ) (405年歿、胎中天皇)=[捏造王]百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王 (在位:392~405年) (405年歿)が該当します。

和邇氏難波根子建振熊(タテフルクマ)命は、借用辰王の後裔の百済熊川の豪族と推測され、この子の早逝した百済第15代枕流(チンリュウ)王(在位:384~385年)=第15代応神A品夜和気(ホムヤワケ)(385年歿)、縁故者の百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王(在位:392~405年)=第15代応神B品陀和気(ホンダワケ)/品陀真若王を百済王に捏造しました。

因みに、百済地域の豪族の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である王建(877年生~945年歿)が、高麗(918年~1392年)を建国します。

(5)新羅系和邇氏の系譜

新羅系和邇氏は、応神朝の第17代履中=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王 (在位:405~420年)、その子の春日和珥深目=市辺押磐(イチノヘノオシハ)皇子=稚野毛二派(ワカヌケフタマタ)皇子=新羅王族朴普賢=新羅伊飡(2等官)朴登欣、その子の雄略朝の第21代雄略=和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅王族朴英失(ヨンシル)=新羅朴守知(新羅摂政・只召太后の情人)=[捏造王]百済第22代牟(ム)氏文洲(文周)王(在位:475~477年)、その子の第22代清寧(セイネイ)、第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計(ヲケ)、重祚第24代仁賢天皇億計(オケ)=朴英失(新羅・花郎世紀)が該当します。

第17代履中は、金官加羅地域熊川の和邇氏で、新羅系和邇氏の象徴天皇です。
    この金官加羅の熊川/熊成(クマナリ)を拠点としていた時に、新羅系和邇氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と秦氏と大伴氏と物部氏や呉系「トベ」系統と釜山の東側の蔚山(ウルサン)市と接する機張(キジャン)郡の小さい機張(キジャン)国の神功皇后との親密な関係ができたと推測されます。

神奈川県平塚市・相模国四之宮前鳥(サキトリ)神社の主祭神は莵道稚郎子、大山咋命(明治43年に合祀)、日本武尊(昭和61年に合祀)で、新羅系和邇氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族が関係があることを示している一例です。

雄略朝の新羅王族朴英失(ヨンシル)=第21代雄略=和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅朴守知(新羅摂政・只召太后の情人)=[捏造王]百済第22代牟(ム)氏文洲(文周)王(在位∶475~477年)は、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の直祖です。

記紀では、第21代雄略[=新羅・朴英失(ヨンシル)=新羅・朴守知(新羅摂政・只召太后=尾張目子媛の情人]は、父が第17代履中=和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子の市辺押磐(イチノヘノオシハ)皇子=春日和珥深目=市辺押磐(イチノヘノオシハ)皇子=新羅王族朴普賢=新羅伊飡(2等官)朴登欣、母が葛城黒媛の娘の新羅・延帝夫人[伊飡(2等官)の朴登欣の娘]=新羅・普賢公主(花郎世紀:朴普賢の娘の意か)=忍坂大中姫、伴侶は新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女です。母系氏族名を新羅で称した朴英失(ヨンシル)は、第21代雄略や百済第22代牟(ム)氏文周王(在位:475~477年)に捏造されました。

朴英失(ヨンシル)=第21代雄略と新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女=和珥糠君郎娘(ワニノヌカキミノイラツメ)との娘の系譜は、新羅大元正統の祖で新羅第24代真興王(在位:540~576年)の王妃となる橘仲皇女(第28代宣化の大后名)=新羅・朴氏思道夫人(?~614年歿)、その娘の皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主、その娘の額田部皇女(554年生~628年歿)=新羅・善花公主=百済王妃・善花(百済第30代武王の先王妃)、その娘の宝皇女(593年生-661年歿)=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=新羅・涓花夫人=百済王妃・宝公主(百済第30代武王の後王妃)、等です。
 
第17代履中=和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)は、父が和邇氏日蝕使主(ヒフレノオミ)、母が袁那辨郎女(オナベノイラツメ)=新羅金氏阿留夫人(宮主矢河枝比売の妹)、妹が菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命です。この母系は、神功皇后の母系とルーツが同じで、記紀では神功皇后のヤマト東遷に斎殿(トキドノ)・葉山媛命[=菟道稚(ウジノワキ)郎女]が同行しています(兵庫県西宮市広田神社)。
 
雄略朝は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第21代雄略の第三皇子の第22代清寧(セイネイ)=[捏造王]百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)、[捏造王]第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計(ヲケ)[高句麗王、百済王、新羅王のいずれも即位していません]、[捏造王]重祚第24代仁賢(ジンケン)天皇億計[=新羅・朴英失(新羅・花郎世紀)]、「DNA匈奴金氏」である雄略朝の百済太子養子の第25代武烈=[捏造王]百済第24代養子牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位:479~501年)[=新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)]で終焉します・これらは、百済王の第二期空位期(475年から501年)に該当しています。雄略朝の「DNA源流鮮卑族和邇氏」の四代では、百済王の第二期空位期(475年から501年)を埋めることができず、第26代継体の子の新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)=第25代武烈を百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)の百済太子養子にし、百済第24代養子牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位:479~501年)を捏造しました。

雄略朝の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である四代皆、新羅王に就いていません。これは、不自然なことで、捏造王の傍証です。第23代と第24代は、四韓のいずれの王にもついていません、これも捏造王の根拠です。新羅・花郎世紀は、第24代仁賢(ジンケン)は、新羅・朴英失と同一人としており、捏造王を裏付けています。

現鬱陵(ウツリョウ)島の于山国/羽山国(ウザン、usan)」は、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=第17代履中]の祖国で、宇佐(usa)、ウサギ(ウサの男の意)の語源であり、藤原不比等が祖祭祀していました。記紀は「羽山戸神(ハヤマトノカミ)」として神話記録しました。

以上のように、倭国雄略朝と百済雄略朝は、伽耶と百済の和邇氏を元にして捏造した王です。第21代雄略は、倭国で生育されたこともなく、倭国に渡来したこともなかったのが論理的事実です。この捏造に、万葉集も加担していることをつけ加えておきます。

(注)漢音と古代高句麗音による違いで、「ウジ(漢音)」と「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」は同語です。「ウジ(漢音)」の漢字は、菟道、宇遅、宇豆、太、勿吉(Wuji)、藤です。「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」の漢字は、沸流、宇遅、太、です。
(注)「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛ではなく、漢音「王」の同位語の説の方が筋があります。 

(6)新羅系和邇氏の第38代天智、藤原氏

百済八大姓筆頭の沙宅(サタク)智積=中臣鎌足は、高槻市の阿武山古墳の遺体からの直接のDNA分析結果から「DNA縄文人混血呉系倭人」でした。

したがって、藤原不比等(659年生~720年没)は、中臣鎌足の養嗣子、つまり、「DNA縄文人混血呉系倭人」の沙宅(サタク)氏の系譜を継ぎました。

沙宅(サタク)智積の祖は、新羅の貴族の金思欽(サフム)の息子の沙宅己樓(サテッギル)=金道含(キムドハム) です。

百済・宝王妃(=宝皇女)は、百済大佐平沙宅(サテク)智積の弟の百済佐平沙宅(サテク)積徳の養女・百済・沙宅(サテク)ヨンになります。

藤原不比等は、実父が新羅波珍飡(4等官)金善品=第38代天智であり、母が額田王=新羅王妃・文明王后[新羅第29代武烈王の王妃]=新羅・文姫です。

新羅・金善品(=第38代天智)は、母の宝皇女が百済第30代武王(在位:600~641年)[=金官加羅国金舒玄=新羅将軍金舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)]の後王妃となった時に、百済に同行し、百済・翹岐(ギョウキ)王子を称しました。

「藤原」氏族名の由緒は、561年に新羅第24代金氏真興王(在位:540-576年)[=高句麗第23代安原王/安岡上好王(在位:531-545年)=第28代宣化(センゲ)]によって併合された伽耶の中心に位置する高霊郡の火自振(ヒジフル・日出原)で、古地名は三世紀に見られる「不斯(フシ)」です。
「ヒジフル/火自振/日出原」の語源は、『ヒ』とは『日』、「ブル/原」は小さなレベルの国の意)で読み方が「バル/原」ということで同音同義です。つまり、「ヒジフル/火自振/日出原」は「ふじわら」であり、「藤原」です。
「藤原」は、第38代天智の生地と沙宅(サタク)智積[=中臣鎌足]の祖の新羅人の居住地から名付けたと推測されます。
    日本に渡った彼らは原郷の名前の「ヒジフル」を新たな定住地に名付けました[例:大分県日出(ヒジ)市、大分県速見郡日出町]。

藤原不比等について不思議な事実があります。藤原不比等が、娘である第44代元正天皇が即位(念願の藤原系天皇朝の端緒を実現)した霊亀2年(715年)に、勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡神社[さおか]:奈良県奈良市法蓮佐保田町604)」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる、直近の系譜である羽山戸神[=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=第17代履中]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)ではなく、菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指しています]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。

つまり、藤原不比等は、地上の支配者として自分の系譜ルーツは、父系は新羅系羽山戸神[=宇遅和紀郎子(ウジノワキイラツコ)=第17代履中]、母系は扶余系加羅人の大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命のこと]にした新羅系和邇氏です。
これは、第38代天智=新羅波珍飡(4等官)金善品は、父は未詳とされていますが、「DNA匈奴金氏」ではなく「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏であることを意味します。

藤原不比等は、日本の統治を牛耳ることになる藤原氏支配体制の礎を造った人物で、大宝律令、古事記、日本書紀編纂、聖武天皇・光明子・藤原四家誕生などに直接関与しました。
藤原不比等の新たな統治体制の構造は、天上の第一位祭祀女王に因んで天皇は天上の支配者とし、第一位政事『大王(=天皇)』の代理権者の藤原氏を地上の支配者と変更しました。

古事記で記載された二人の大御神は、高句麗系の天照大御神と新羅系の迦毛(カモ)大御神[=阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ )神]の二人です。天照大御神と阿遅鉏高日子根神は同一神で、高句麗語表示の天照大御神を新羅語の音韻と漢字表記したものが阿遅鉏高日子根神です。
藤原不比等は、天上の支配者である天皇家は天照大御神の系譜であり、地上の支配者である藤原氏は迦毛(カモ)大御神の系譜としました。

つまり、藤原不比等は、伽耶の熊成(クマナリ)を本拠地とする「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏の象徴祖神の第17代履中の後裔の系譜者です。
新羅系和邇氏の藤原朝の政権は、390年間続いた長期の平安時代です。この時に、記紀は、「DNA匈奴金氏」のみを主軸とする系譜から、「DNA源流鮮卑族和邇氏」も考慮した挿入・改竄が行われ、また、日本各地の鮮卑族系神社の整備も推進されたと推察されます。
こうして、継体朝から突然消えた和邇氏が日本に厳然と位置していることが理解できます。
<以上>