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3-3.第六部第三章 記紀が集約した皇朝前期  


3-3.記紀が集約した皇朝前期

3-3-1.記紀が集約した六つの前期皇朝と第16代仁徳

 記紀は「DNA匈奴金氏」である第26代継体以降の本史の前に、記紀編纂者達の『大王』と『大后』との前史の関係を六つの前期皇朝と第16代仁徳に集約してまとめました。それらは、記紀が時代性、歴史性よりそれぞれの皇朝の集約意図を優先させたものです。

表9は、第26代継体以前の記紀の六つの前期皇朝と第16代仁徳の年代と各皇朝が『大王』用か『大后』用かをまとめたものです。『大后』用は、呉系「トベ」系統の『大后』の父系祖の皇朝か関係する皇朝です。

表9.記紀が集約した六つの前期皇朝と第16代仁徳の期間

年代順にみていくと、先ず『大王』用の「神武B朝」の皇朝期間は、227年から292年までです。これは新羅金氏朝始祖の新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位∶262~284年)=第3代安寧に箔をつけるためで、宗主の「DNA匈奴休氏」ニニギ族である高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位∶227~248年)=初代神武B憂位居(ユウイキョ)を継承元としたものです。261年、味鄒(ミスウ)は、高句麗休氏朝ニニギ族の臣下として同行し、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)を滅ぼしました。当時は新羅王族分国となった金官加羅国の新羅王子庶子の出自の新羅金氏始祖第13代金氏味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧にとっては、新羅借用昔氏朝は宗家です。

次に、『大后』用の並立する古志朝(皇朝期間:300年~391年)と垂仁朝(皇朝期間:304年~375年)です。
    古志朝(皇朝期間:300年~391年)は、高句麗呉系倭人朝(高句麗王第15~18代)を転写して、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の日本列島初期の古系譜を集約しました。古志朝の「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖は、神武朝以前の系譜を省いて日本列島の「DNA縄文人」である為政統括者の尾張氏、大伴氏、物部氏、そして「DNA源流鮮卑族」和邇氏(多分、前族を朝鮮半島の同族の和邇氏として表記)であることを示しました。四世紀の集合化した大きな部族の分散した拠点がわかります。古志朝の倭国『大后』には、まだ一例も新羅名の別名は見出されていません。

これに対し、垂仁朝(皇朝期間:304年~375年)は、百済鮮卑族慕容部朝(百済王第11~13代)を転写して、「トベ」系統の『大后』の父系の直祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」が居住していた朝鮮半島南部を軸に記しています。垂仁朝では、記紀編纂者達に関係が特に深い和邇氏と新羅の昔氏(倭国の前族が渡島した氏族)の宗主鮮卑族慕容部を出来事の象徴主に使っています。鮮卑族慕容部は、騎馬部族から漢化による先進の文化、軍事力、産業力をもっており、倭国がこれらを吸収して新時代に移っていく草創期を垂仁朝は集約しています。更に、騎馬部族の鮮卑族慕容部は攻撃的侵略を行い、これに連動して、垂仁朝では、越系「戸売」系統から呉系「トベ」系統への倭国『大后』の主系統の変更、そして、出雲からより安全な畿内への遷都の正統性の経緯を記しました。朝鮮半島での出来事と「トベ」系統の倭国『大后』の系譜を日本列島に転写して集約しました。そのため、垂仁朝の倭国『大后』には、新羅名の別名が見出された倭国『大后』がかなりいます。

記紀で古志朝(皇朝期間:300年~391年)と垂仁朝(皇朝期間:304年~375年)を並立させたのは、記紀編纂者達の遠祖の新羅金氏始祖の第3代安寧、第16代仁徳、第26代継体以降が、朝鮮半島南部の金官加羅国の出自であったからです。

四世紀の日本列島は、いわゆる欠史八代や空白の四世紀ではなく、中国・欧米の統治体制の基本とは別な緩い集合化部族同盟です。四世紀の「DNA縄文人」は、もはや狩猟遊牧民のはるか以前の原始性を脱し、渡来弥生人と一体化した統治、文化、居住空間に変わっています。分散統治体制は、前近代性ではなく、孤立した倭国独自の多次元性カルチャによるもので、中国・欧米・朝鮮半島の単元性カルチャで評価判断するのは避けるべきです。日本列島全体の情報・輸送ができるようになって分散統治体制は可能になるものです。
したがって、父系性の亡命政権が編纂した記紀においては、母系制の天上の倭国非政事統括者の倭国『大后』の記述の背後に父系性の地上の倭国政事統括者の「DNA縄文人」である倭国部族同盟大首長『大連』の隠された姿を見ることが肝要です。記紀の倭国『大王」は、倭国には誰も居住していなかったので、倭国ヤマトの巨大古墳は、倭国『大后』族と倭国部族同盟大首長族の陵として見直す視点が必要です。

この時代の倭国は、父系性のみの中国や四韓等とは異なるカルチャで、母系制と父系性が同位共同した孤立した統治体制で、父系制の記紀の視点だけから見ることは間違いを起こします。

第一期百済王空位期(375年から420年)を利用して、「トベ」系統の『大后』の父系祖で二つに分岐した百済の熊川(クマナリ)に拠点をもつ和邇氏(以後、百済系和邇氏と言う)と宇山/羽山国王(現鬱陵島)の後裔の伽耶の熊成に拠点をもつ新羅王族待遇の和邇氏(以後、新羅系和邇氏と言う)を百済王に捏造しました。百済系和邇氏の象徴祖神は第15代応神です。新羅系和邇氏の象徴祖神は第17代履中です。第15代応神は、後の平安時代和邇氏藤原氏と秦氏の同盟を象徴する八幡神宮の主祭神となります。

この応神朝には、時代が重なる「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位∶356~402年)が垂仁朝の継承者を装って『大王』側から入れられます。

和邇氏応神朝(第15、17代)の後に、「トベ」系統の『大后』の父系祖が新羅系和邇氏である新羅・百済金氏の反正朝(402年~479年、第18~20代)が入ります。反正朝は、第3代安寧の甥の長男が第18代反正で、二男が第16代仁徳であったので金氏新羅朝の正統継承者です。「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳と第18代反正とが一代空けられたのは、第16代仁徳が百済慕容部朝を滅ぼしたので、父系祖が新羅系和邇氏である『大后』にとっては一線を画したかったのかもしれません。

金氏反正朝(402年~479年)の後に、第二期百済王空位期(475年から501年)を利用して、百済和邇氏雄略朝(475年~479年)が捏造されます。「トベ」系統の『大后』の父系の直祖は、新羅王族待遇和邇氏朴英失(ヨンシル)です。朴英失(ヨンシル)は、百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)=第21代雄略に捏造されました。朴英失(ヨンシル)は、百済系和邇氏ではなく新羅系和邇氏の可能性があります。そうであれば、「トベ」系統の『大后』の父系祖の新羅系和邇氏の系統は、第17代履中、反正朝(第18~20代)、雄略朝(第21~24代)、継体朝(第26代継体)以降と継承されています。

和邇氏応神朝(第15、17代)と和邇氏雄略朝(第21~24代)が分離したのは、利用した第一期百済王空位期(375年から420年)と第二期百済王空位期(475年から501年)が分離していたからです。これは、和邇氏応神朝と和邇氏雄略朝が捏造された傍証の一つです。

3-3-2.高句麗神武Bニニギ朝と第二期ヤマト東遷の脚色 

記紀の神武Bニニギ朝(第1~4代)は、新羅金氏の継承元として金氏皇朝の正統性を与え、また、第二期ヤマト東遷(262年頃から270年頃)として脚色しました。第二期ヤマト東遷によって、東倭国部族同盟の盟主が尾張氏から大伴氏に変わりました。

神武Bニニギ族は、7年間(248年頃~255年頃)安芸に、そして、岡山県吉備の鬼奴(キナ)国に8年間(255年頃~264年2月頃)駐留したという説がありますが、初代神武Bが261年に新羅第12代借用昔氏沾解尼師今(在位:247~261年)=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主を滅ぼしており、新羅攻略以前に倭国に侵攻するのは戦略上不自然です。ニニギ族にとっては、倭国より新羅攻略が優先課題です。倭国に侵攻したのは、神武Bニニギ族の同盟軍で、新羅借用昔氏朝の滅亡後に倭国侵攻を開始したとする方が自然な解釈になります。

第二期ヤマト東遷(262年頃から270年頃)は、記紀では初代神武B憂位居と第2代綏靖(スイゼイ)]のヤマト東遷と言われているものですが、実際には日本列島にも地盤をもつ高句麗ニニギ族の同盟軍団である「DNA匈奴」サカ(坂)族、「DNA源流匈奴」野族、「DNA呉系倭人混血縄文人」大伴氏がヤマト東遷をしました。

261年、新羅金氏7世代・新羅第12代借用昔氏沾解尼師今(在位∶247~261年)[=八坂入彦=建御名方主=第4代大国主]は、「DNA匈奴休氏ニニギ族」である高句麗第12代中川王(在位∶248~270年)=第2代綏靖(スイゼイ)との同盟違約の報復により滅ぼされます。そして、高句麗第12代中川王により高句麗・蜜友(ミツユウ)が新羅金氏8世代・新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位∶262~284年)に擁立されます。これが、新羅借用昔氏の第三期国難(261年)です。この第三期国難(261年)は、記紀の垂仁朝時代の「出雲の国譲り神話」の元となる出来事です。

高句麗第11代東川王憂位居(ユイロ/ユイキョ)(在位∶227~248年)=初代神武B憂位居と高句麗第12代中川王(在位∶248~270年)=第2代綏靖(スイゼイ)と新羅金氏8世代・高句麗・蜜友(ミツユウ)[新羅葛文王未鄒=新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位∶262~284年)]の本人は、日本列島に渡来していません。

ニニギ族の同盟軍団は日本列島北九州に回帰上陸し、後漢滅亡によって後ろ盾を失った北九州の部族連合を征圧しました。

248年に高句麗第11代東川王憂位居(ユイロ/ユイキョ)(在位:227~248年)=初代神武B憂位居が瀬戸内で歿したという説やその古墳が岡山市の5世紀の前半につくられた前方後円墳の造山古墳の説がありますが、いずれも不自然です。仮に、248年に高句麗第11代東川王憂位居(ユイロ/ユイキョ)(在位:227~248年)=初代神武B憂位居が瀬戸内で歿したのであれば、第2代綏靖(スイゼイ)は王位継承のために即高句麗に引き返す筈です。ニニギ族盟主がいなかったのでニニギ族同盟軍がヤマトになかなか入れなかったことや、ヤマトのニギハヤヒの同盟軍と交戦した時にニギハヤヒの武具から始めて匈奴の同族系であると知ったことが傍証です。

そして、ヤマト征圧後、ニギハヤヒ、尾張氏はヤマトから追放され、大伴氏が東倭国部族同盟盟主になります。尾張氏は出雲国やヤマトを追われ、拠点を尾張国(愛知県、三重県)や古志国(越前・越中・越後)や関東や新羅に移します。

新羅金氏7世代・新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)王(在位∶262~284年)=新羅葛文(カツブン)王未鄒=第3代安寧の子の新羅金氏8世代・新羅角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)は、家族環境の類似性より葛城襲津彦(ソツヒコ)に比定されます。葛城襲津彦の子の葦田宿禰は、家族環境の類似性より第16代仁徳に比定されます。
 
*「カシハラ」の語例
①金青(伽耶語音:kaci・pari=カシハラ)
(注)金首露王の本名です。金青→金官→金海と変わっていきました。金官は駕洛国初代の王名で、民族名に由来します。
②橿原(カシハラ)宮。
③難波(カシハラ⇒音韻変化:ナニワ)。
④金刺(カナサシ:カシハラの異記)宮:第29代欽明天皇(=蘇我稲目=百済第26代聖王)の皇宮。

3-3-3.「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖を集約した古志朝

古志朝は、「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖の始祖を集約した皇朝です。記紀の第6代から第9代は、欠史ではなく、高句麗王族分国である大加羅国を出自国とする「DNA縄文人混血呉系倭人」である高句麗呉系倭人朝(古志朝)を転写したものです。

記紀の古志朝(第6~9代)は、大加羅国と倭国の二か所拠点であり、母系制により王嗣子を倭国で生育した国が但馬です。「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖の始祖は、日本列島の倭国の「DNA縄文人」である尾張氏、大伴氏、物部氏であることを古志朝は記しています。そして、「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖の始祖の尾張氏と朝鮮半島に拠点をもっていた和邇氏とが、姻戚関係があったことを添えています。

この時代は、集権化王朝ではなく、分散部族同盟であったので、父系祖は倭国の各地に分散しています。「DNA縄文人」の大きな部族の拠点がわかります。大きな拠点は、倭国『大后』の同盟を示す別名に残されており、尾張国、紀の国、紀伊荒河国、近江三上国、高屋大分(タカヤノオオキタ)国、但馬・川上国、播磨・印南(イナミ)国、綺(カニハタ)国、山城・苅羽田(カリハタ)国、古志国、大(オオ)国、意富国、葛城国、等です。

300年、高句麗王族の檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)の「DNA縄文人混血呉系倭人」である大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命は、匈奴劉氏系の前趙(漢)の将軍の「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(カイ)(269年生~333年歿、大人(タイジン)即位:285年)と子の慕容廆[=第11代垂仁]と同盟して、「DNA匈奴休氏」ニニギ族である高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)[=丹波朝初代丹波道主]を滅ぼします。慕容廆(カイ)は前趙(漢)の臣下であったので、同盟していた高句麗王子・天日槍(アメノヒボコ)命が高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=第6代孝安(コウアン)に就くことを同意します。

高句麗呉系倭人朝の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である呉系「トベ」系統は、母系の倭国領国の但馬がありました。天日槍(アメノヒボコ)命は母系制により但馬で生育しており、但馬国第一之宮出石(イズシ)神社(兵庫県豊岡市出石町宮内99)の祭神の一人である由縁です。

高句麗呉系倭人朝(古志朝)は、高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=第6代孝安(コウアン)、高句麗第16代故國原(ココクゲン)王(在位:331~371年)=第7代孝霊(コウレイ)、高句麗第17代小獸林王(在位:371~384年)=第8代孝元(コウゲン)、高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)=第9代開化(カイカ)で終焉します。高句麗呉系倭人朝(古志朝)は、再三鮮卑族慕容部に反旗を翻しましたので、高句麗第16代故國原(ココクゲン)王(在位:331~371年)の王母が鮮卑族慕容部の前燕の人質となり、その時に出来たのが父系血統が「DNA鮮卑族慕容部」である高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)=第9代開化(カイカ)です。

因みに、滅ぼされた「DNA匈奴休氏ニニギ族」である高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)[=丹波朝初代丹波道主]は「DNA鮮卑族慕容部」に臣属し、「母系DNA縄文人混血越系倭人」である越系「戸売(トメ)」系統の母系の倭国領地である但馬に亡命移住します。
本来の高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王の移住先は、但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社であり、出雲の国譲りにより、越系「戸売(トメ)」系統を表から隠蔽する事情のために、但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社の近傍の但馬三之宮養父(ヤブ)神社の祭神にされた、というのが私見です。そのため、但馬三之宮養父(ヤブ)神社に祀られる祭神は、寄せ集めとなっています。現在、但馬三之宮養父(ヤブ)神社に祀られる祭神は、「母系DNA縄文人混血越系倭人」である倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)、「DNA匈奴休氏ニニギ族」である丹波朝初代丹波道主谿羽道主命(タニハミチヌシノミコト)、第9代開化天皇の皇子の「DNA鮮卑族慕容部」である船帆足尼命(フナホソコネノミコト)、「DNA匈奴金氏」である大己貴命(オオナムジ、オオ族の貴人の意)、「DNA縄文人混血呉系倭人」である少彦名命(=住吉神社祭神・上筒男命=新羅初代朴氏始祖赫居世[カクキョセイ]居西干[コセイカン、王の称号](在位:紀元前57-4年)の五座とされ、但馬の為政者の変遷を表しています。

因みに、「養父」を「ヤブ」と読むことは、現住民でさえ全く不可解な読み方です。これは、為政者である鮮卑族慕容部が押し付けた新しい漢字名「養父」とその字訓「ヨウフ」に対し、旧勢力の匈奴が非常に強い地域では、支配者が新たに適用した漢字と字音の地名が根付かず、表向き新漢字「養父」を用いましたが、呼音は以前の「ヤブ」を新漢字に適用しました。新漢字に対し旧漢字の字音を適用した奇妙な日本語が残っている例の一つです。

3-3-4.垂仁朝と第三期ヤマト東遷の脚色

(1)朝鮮半島の鮮卑族宗主の慕容部

記紀の垂仁朝(第11~14代)は、「トベ」系統の倭国『大后」の父系祖の「DNA源流鮮卑族」和邇氏・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」を飾り立てるために挿入された皇朝です。記紀の垂仁朝は、鮮卑族慕容部の伽耶逗留と百済慕容部朝の建国を軸にして、日本列島の「戸売」系統から「トベ」系統への倭国『大后』の系統変更、出雲から畿内への分散遷都、物部氏・大伴氏・和邇氏の台頭を集約しました。そして、第三期ヤマト東遷(304年直後頃)を脚色しました。

初期高句麗朝(紀元前58年~18年)、初期百済朝(紀元前18年~304年)、漢(紀元前206年~8年、25年~220年)、前燕(337年~ 370年)、北魏(386年~534年)系王族の鮮卑族拓跋部・Y-DNA「O2a2b1(M134)系」の言語は、もともと古代トルコ語/チュルク語(突厥文字)でした。
鮮卑族慕容部・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」の人は、特別に肌が白く、「白部鮮卑」とか「白捕虜(白虜/白賊)」とか呼ばれました。鮮卑族慕容部の燕人は、ペルシャ人風の風貌があったとの話があります。鮮卑族慕容部は、西の中央アジア(エフタル、突厥系)と東アジア(中国東北部、半島、列島)に分岐し、相互に緊密な往来関係があったとみられます。(黄、厚生、李『慕容燕国史話』 吉林人民出版社 2006年) 
 日本人は、アジアの中では色白だそうです。

鮮卑族慕容部の直祖は、3世紀中頃の鮮卑族の中でも有力な大人(タイジン、首長の意)の一人であった莫護跋(慕容廆の曾祖父)で、三国時代魏(220年~265年)が成立して間もない220年頃に、自らの傘下にあった諸部族を率いて遼西地方へ移住しました。彼は魏王朝には一貫して従属の姿勢を取り、238年の司馬懿(シバイ)の公孫淵討伐にも協力したことで朝廷より率義王に封じられ、昌黎郡の棘城(遼寧省錦州市義県の南)の北部一帯に住む事を認可されました。

慕容部の系譜です。
・慕容部始祖 莫護跋(3世紀中頃)。
・第2代慕容木延。
・第3代慕容渉帰(283年歿)。
・第4代慕容廆(カイ)(269年~333年、大人即位:285年)、弟:慕容耐。
・第5代慕容皝(コウ)(=第11代垂仁、前燕初代皇帝)、弟二男・慕容仁、弟三男・慕容昭。
 
第3代慕容渉帰(283年歿)の時代には遼東の北へ移住し、次第に部内の風習を漢人のものに合わせるようになりました(漢化政策)。
前趙(304年~329年)の将軍である第4代慕容廆(カイ)は、鮮卑族段部単于の娘を正室として迎え入れ、慕容皝・慕容仁・慕容昭の三子をもうけました。

285年から333年の間、慕容廆(カイ)と慕容皝(コウ)の親子は、倭国に渡来したという説がありますが、下記の慕容部の活動実績からみても不自然です。
  
285年、遼西まで進出した鮮卑族慕容部は、扶余国を攻めて占領しました。
286年、鮮卑族慕容部の大人(タイジン、首長の意)の慕容廆(ボヨウカイ、生没年:269年~333年)は、対夫余戦に勝利し、帯方郡から馬韓地方(後の百済地方)を支配下に置きました。そして、「DNA匈奴休氏ニニギ族」の高句麗第11代東川(トウセン)王(在位∶227~248年)系の「DNA鮮卑族拓跋部」である百済第8代古尓(コニ)王(在位:234~286年)を廃して、「DNA鮮卑族拓跋部」である百済第9代責稽王(セキケイ、在位:286年~298年)を擁立しました。
286年、「DNA匈奴休氏ニニギ族」の高句麗第13代高氏西川(セイセン)王(在位∶270~292年)=第4代懿徳(イトク)が遼東まで支配しようとしたので、鮮卑族慕容廆(カイ、333年歿)と同盟していた「DNA縄文人混血呉系倭人」の天日槍[=第6代孝安(コウアン)天皇=高句麗第15代美川王(在位:300~331年)]と大彦命(高句麗名不明、第8代孝元天皇の第一皇子)は、「DNA匈奴休氏ニニギ族」である高句麗第13代西川(セイセン)王(在位:270~292 年)[=第4代懿徳]を破りました。天日槍の倭国の母系地域は、兵庫県豊岡市但馬一之宮出石神社です。

高句麗休氏(高氏)ニニギ朝への侵攻征圧の後、第4代慕容廆(カイ)(269年生~333年歿)と第5代慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]の親子は、朝鮮半島を南下しました。

286年頃から304年、慕容廆(カイ)と慕容皝(コウ)の親子は、同盟した高句麗王族分国の伽耶諸国の大加羅国に逗留(トウリュウ)します。そこで、朝鮮半島南部を地盤としていた「DNA呉系倭人和邇氏」、「DNA呉系倭人昔氏(日本列島を地盤としていた前(サキ)族と同族)」と伽耶にも拠点をもっていたとみられる「DNA縄文人」物部氏と同盟軍を結成し、盟主となります。「DNA源流呉系倭人」前(サキ)族は、朝鮮半島に渡島し、新羅第4代昔氏脱解尼師今(在位∶AD57~80年)=高句麗第3代(解氏)大武神(タイブシン)王(在位:AD18~44年)[=初代鮮卑族神武A前(サキ)氏脱解(タレ)=但馬一之宮出石(イズシ)神社八前(ヤサキ)大神]に就きます。

293年、慕容廆(カイ)が高句麗に侵攻するも、高句麗・高奴子(コウドシ)が排除します。
300年、慕容皝(コウ)[=第11代垂仁]は、「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」である高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位∶292~300 年)を滅ぼしました。天日槍(アメノヒボコ)命は、高句麗第15代美川王(在位:300~331年)[=第6代孝安]に就き、「DNA縄文人混血呉系倭人」である高句麗呉系倭人朝(記紀の第6~9代)を建朝します。慕容廆(カイ)は扶余族系でなく、前趙の臣下でもあったので、高句麗王の正統性がなく、天日槍(アメノヒボコ)命の高句麗王を受け入れました。

敗れた高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)は、鮮卑族慕容部に臣属し、母系の領国がある但馬に亡命移住し、丹波朝初代丹波道主・谿羽道主命(タニハミチヌシノミコト)[但馬三之宮養父(ヤブ)神社(兵庫県養父市養父市場840)の共同主祭神]を称します。初代丹波道主・谿羽道主命は鮮卑族慕容部に臣族した証しとして、血統が「DNA鮮卑族慕容部」である第9代開化(カイカ)天皇[=高句麗第18代故国壌王(在位∶ 384~391年)の第三皇子の彦坐王[但馬国第一之宮粟鹿神社の共同主祭神]を養父(ヨウフ)としました。彦坐王は、母系制により倭国に居住していました。300年の頃には、「出雲の国譲り神話」に応じて、但馬国は、(尾張氏)、「DNA匈奴金氏」、「戸売」系統から物部氏、「DNA鮮卑族」前(サキ)族、「トベ」系統に変わっています。

因みに、支配者である鮮卑族が押し付けた新しい漢字名「養父」とその字訓「ヨウフ」の地名に対し、匈奴系の被支配者は表向き新漢字「養父」を用いましたが、呼称は以前の「ヤブ」を新漢字に適用しました。奇妙な日本の漢字語が残っている一例です。

304年、鮮卑族慕容部第5代慕容皝(コウ)は、「DNA鮮卑族拓跋部真氏(&解氏)」である沸流百済第10代汾西(フンセイ)王(在位:298年~304年)を滅ぼし、百済慕容部朝を建朝し、百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)に就きます。この百済王の倭王称号が記紀の第11代垂仁です。

この後、日本列島に渡島したのは慕容部の同盟軍である「DNA呉系倭人前(サキ)族/昔氏」、「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏、「DNA源流鮮卑族和邇氏」であり、宗主の慕容廆(カイ)、慕容皝(コウ)[=第11代垂仁]は渡島していません。鮮卑族慕容部は、百済垂仁朝の建朝の後、337年に前燕(337年~370年)を建国し、前燕滅亡後も倭国に避難移動せず、大陸を拠点にしています。日本列島や記紀は、盟主の鮮卑族慕容部、「DNA呉系倭人」和邇氏を象徴名として出来事を伝承しています。

313年、漢の楽浪郡と帯方郡が滅び、高句麗が併合しました。
337年、鮮卑族慕容部第5代慕容皝(コウ)は、前燕(337年~370年)を建国し、前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)]にも就きます。「DNA鮮卑族慕容部」族は、前燕滅亡後にも日本列島にほとんど移住せず、現中国江南地域から東北地域を本拠にします。このことは、慕容皝(コウ)=第11代垂仁が日本列島に渡島しなかった傍証です。

記紀の第36代までの倭国『大王』の誰も倭国を統治した者はいません。

339年、遼東を支配していた前燕初代文明帝慕容(ボヨウ)皝(コウ)(在位:337~348年)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=第11代垂仁]は、「DNA縄文人混血呉系倭人」である高句麗呉系倭人朝第16代故国原王(在位:331~371年)=第7代孝霊を敗北させて臣従させました。
 
鮮卑族慕容部の前燕皇統は、337年の前燕建国、339年の高句麗を臣従させたこともあって、百済から遠ざかったようです。
  
375年、百済第13代近肖古(キンショウコ)王(在位:346~375年)=第14代仲哀は、「DNA匈奴金氏」である新羅金氏9世代・奈勿尼師今(在位∶356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)=第16代仁徳]に滅ぼされ、百済慕容部朝は終焉しました。

百済慕容部朝は、百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)[=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]、早逝し追諡された百済第12代契(ケイ)王(在位:344~346年)=前燕皇太子慕容曄(ヨウ)(356年歿)、前燕の分枝の百済第13代近肖古(キンショウコ)王(在位:346~375年)=第14代仲哀の三代で終焉します。百済慕容部朝は王朝としての体はなく、「トベ」系統の倭国『大后』のために取り入れられた皇朝であることを示しています。
記紀の垂仁朝は、第11代垂仁[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)]、第12代景行[=誉津別(ホムツワケ)=ヤマトタケル=前燕第2代景昭帝慕容儁(シュン)(在位:348~360年)]、第13代成務=竹内宿祢(百済蘇我木羅氏祖)[=新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)尼師今(在位:310年~356年)=捏造王である百済第14代近仇首(キンキュウシュ)王 (在位:375~384年)]、第14代仲哀[=百済第13代近肖古(キンショウコ)王(在位:346~375年)]で終焉します。新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)尼師今は、新羅太子・于老(三国史記、249年歿、父は新羅第10代奈解尼師今)の継嗣で、「DNA鮮卑族慕容部」である垂仁朝に「DNA匈奴金氏」である『大王』を一代挿入した不自然な系譜となっているように捏造王です。第13代成務(=竹内宿祢)は、第14代仲哀の異父弟でありながら、倭国と百済の皇統の順が逆になっています。

百済慕容部朝の滅亡後、新羅第17代金氏奈勿尼師今(在位∶356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王(在位:391~412年)=第16代仁徳]が百済の覇権を握ったというのが実態です。新羅第17代金氏奈勿尼師今は、高句麗・談徳の時代に鮮卑族慕容部の前燕の臣下であったので、鮮卑族慕容部の百済王を滅ぼしたからといって百済王に就くことはできませんでした。
 記紀は、384年に「DNA氐(テイ)族」符氏・Y-DNA「O2(M122)」)」の符洛(フラク)により百済慕容部朝が滅亡したとしています。

375年に百済第13代近肖古(キンショウコ)王(在位:346~375年)[=第14代仲哀]が高句麗太子・談徳[=第16代仁徳]により滅ぼされた時から420年に新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位∶402~417年)[=第18代反正]が百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位∶420~427年)に就くまでは、百済王の第一期空位期(375年~420年)です。記紀と三国史記は、この第一期百済王空位期に百済応神朝を捏造しました。 

(2)第10代崇神が派遣した四道将軍の実体

記紀の第10代崇神が倭国平定と称して派遣した四道将軍の実体は、東倭国の呉系「トベ」系統の倭国『大后』系の領国を表し、男嗣子が政事統治していた地域[①尾張氏系東海道、②物部氏系丹波、③女王国吉備、④尾張氏系古志国]です。これは、越系「戸売(トメ)」系統に対する呉系「トベ」系統の倭国『大后』の権勢を強調するためです。派遣将軍から主要地の九州と出雲と四国が外されているのは、国譲り後も東倭国の統治外の地域であったからです。

(3)鮮卑族慕容部の伽耶逗留での出来事の倭国転写

鮮卑族慕容部第4代慕容廆(カイ)(269年生~333年歿、大人(タイジン)即位:285年)と第5代慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]の親子は、高句麗を征圧した後、朝鮮半島を南下しました。そして、同盟していた高句麗王族分国の大加羅国に逗留しました。

記紀は、慕容皝(コウ)[=第11代垂仁]が伽耶に逗留していた頃の沙穂彦と沙穂媛命の反乱の出来事を倭国に転写して記しています。但馬出自の沙穂彦と沙穂媛命は、「DNA縄文人混血呉系倭人」である大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命]の嗣子で、鮮卑族慕容部の伽耶駐留を快く思っていなかったから反乱を起こしたのです。

沙穂彦と沙穂媛命の反乱鎮定は、母系の倭国地である但馬が物部氏と和邇氏の新しい為政者に変わったことを象徴的に示す意味があります。この反乱後、第11代垂仁の後『大后』は、但馬の物部氏系になります。そして、和邇氏応神朝の『大后』は、この但馬を倭国拠点とする新羅系和邇氏になります。
例えば、宮主・矢河枝(ヤカワ)比売/宅(ヤカ)比売=物部氏山無媛連(ヤマナシヒメノムラジ)=皇夫人・和邇津野媛(姉)=新羅・伊利夫人/企利夫人[父は新羅昔氏阿飡(6等官)登保]=(三国遺事)新羅・礼生夫人=百済・八須(ハッシュ)夫人、袁那辨郎女(オナベノイラツメ)[宮主矢河枝比売の異母妹]=和珥弟媛(オトヒメ)[津野媛の妹]=新羅金氏阿留夫人は、物部氏系の但馬出自の新羅系和邇氏の系統です。

(4)304年直後頃、物部氏、前(サキ)族(含む、新羅昔氏)、和邇族の同盟軍による第三期ヤマト東遷

鮮卑族慕容部の伽耶・百済・前燕の覇権確立に伴って、「DNA縄文人」物部氏、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族(含む、新羅昔氏)、「DNA源流鮮卑族」和邇族の同盟軍は、倭国の覇権を求め回帰侵攻します。ペルシア人混血の「DNA鮮卑族慕容部」は戦闘的な騎馬民族であるだけでなく、大陸の進んだ文明(漢字など)をもっていました。これを吸収した鮮卑族同盟軍は、匈奴が覇権をもっている日本列島に回帰侵攻しました。

百済慕容部朝の王統が日本列島に来島したことはありません。日本列島にも地盤をもっていた同じ種族である朝鮮半島南部での同盟軍は、宗主の鮮卑族慕容部から先進文明を取り込み、日本列島に回帰侵攻したことを、記紀は第三期ヤマト東遷(304年直後頃)として脚色しました。

第三期ヤマト東遷は、これまでの東遷と違って、「DNA匈奴金氏」族や「DNA源流匈奴」野族との激しい戦闘が行われ、「DNA縄文人」である物部氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族(新羅名は昔氏)と「DNA源流鮮卑族」和邇氏が征圧しました。

因みに、慕容部は、統治の手段として「漢字」を使っています。「言霊(コトダマ)」は、その典型的な名残かもしれません。
 
記紀は、垂仁朝前期に東倭国の覇権が「DNA源流匈奴」野(同音韻は牛)族から「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族(新羅名は昔氏)と「DNA源流鮮卑族」和邇族に交替したことを記します。
第三期ヤマト東遷(4世紀前半頃)の同盟軍は、九州、出雲、瀬戸内、ヤマトで勢力をもっていた「DNA匈奴金氏」であるオオ(大/太/多)氏と「DNA源流匈奴」野族と各地で戦闘を展開し、畿内、瀬戸内と朝鮮半島の窓口となる博多(音韻は百済と同じ)を征しました。岡山県牛窓(「牛窓」は牛が転んだの意)に「DNA源流匈奴」野族の敗戦が地名として残っています。大阪の「食い倒れ(九夷倒れの意)」にも残っています。匈奴の大きな拠点であった大阪市泉南地域の岸和田市近辺のだんじりは、匈奴トーテムの「牛」を模したもので、激しい馬族(鮮卑族)との戦闘が祭りとなって伝承されていると思われます。

尾張氏が新羅に地盤をもっていたのに対し、物部氏は伽耶に地盤をもっていました。これにより、東倭国の倭国部族同盟盟主は、大伴氏と物部氏が並立します。
強力な武力を保持する「DNA縄文人」族は、戦闘を厭いませんでしたが、史料をみても相手を殲滅(センメツ)することはほとんどしないカルチャでした。三国史記は、敗北し死亡と記載していますが、ほとんどが国外追放であると小林恵子は指摘しています。中国・欧米は、唯一専権性で、敵を殲滅するというのが基本カルチャです。大陸での匈奴、鮮卑族はこのカルチャです。「DNA匈奴金氏」である聖徳太子が戦いを好まない平和愛好者というのは、作られた虚像です。
聖徳太子の逸話の多くは、「DNA縄文人」である物部(蘇我)馬子のことです。
倭国では、匈奴系は敗北しても、従属あるいは共存共生を選択すればよく、それなりに部族は存続できました。これは、「DNA縄文人」の為政が現在まで数万年継続できた大きな要因の一つです。

3世紀から4世紀にかけての朝鮮半島、日本列島への他種族の次々の侵攻は、倭国部族同盟盟主の「DNA縄文人」と伴侶の伽耶・新羅を出自とする倭国『大后』に恐怖(トラウマとなる)を与え、分散部族同盟から集合部族同盟への転換と大規模古墳の建造による侵攻族への威嚇を日本列島各地で展開しました。全国的に見られる多数の大規模古墳が、渡来ヤマト王権によるものであるとするのは不自然です。このような独自の様式の古墳を多数築造し、しかも全国的にできるのは、日本列島全体に居住し、人口、財力、軍事力を圧倒的にもっていた「DNA縄文人」である倭国部族同盟首長しかいないです。

ヤマトは奥まった所ですが、その分安全で、他部族の度重なる侵攻のトラウマをもった天上の非政事統括者である倭国『大后』は本拠地とします。天上の非政事統括者である倭国『大后』は、祭祀者であり、一族が王嗣子を生育します。また、種々の部族が親衛及び護衛のためにヤマトに派遣されます。ヤマトの倭国『大后』は、圧倒的な軍事力と人口と財力をもった「DNA縄文人」である倭国部族同盟大首長に守られていました。ヤマトの多くの巨大古墳は、先ず、倭国『大后』と「DNA縄文人」である倭国部族同盟大首長の陵墓でないかと考えるのが自然なことです。高句麗や百済の王が王稜の伝統様式を変えることはあり得ません。確かに分かっている例です。3世紀後半に築造された黒塚古墳(奈良県天理市柳本町1118-2)は、全長約130メートルの前方後円墳で、33面の三角縁神獣鏡、刀1・剣1、兜等が出土し、被葬者は女性と推定されています。四世紀前半頃に築造された行燈山古墳(奈良県天理市柳本町)は、全国では第16位の規模の前方後円墳で、被葬者は「DNA縄文人」と推定されています。当時は、母系制であり、通い婚でした。本居宣長は、親といえば母だけを指していたと言っています。

地上の政事統括者である「DNA縄文人」が統括する東倭国部族同盟の朝廷は、楠葉府、次の難波府で、第16代仁徳以降が示すように交通と産業の利便性がよい摂津国や河内国でした。
渡来系の倭国政事為政者が、鮮卑族の東倭国と匈奴の西倭国の二拠点に分離したのに対し、倭国『大后』は圧倒的により安全なヤマトの比重を大きくしました。これが、倭国の中心がヤマトに見えるようになる由縁です。
ヤマトは、天上の非政事統括者と地上の渡来系政事為政者が同じ地域に本拠地をもった出雲とは違います。あえて言えば、ヤマトは女王の王朝であって、畿内が男王の王朝です。

古志朝や垂仁朝の四世紀は、東倭国はまだまだ分散部族同盟の時代で、集合化する大きな部族の黎明期です。
東倭国は、ヤマト集権王朝ではなく、畿内の分散王朝です。倭国の分散カルチャは、後の幕藩体制の原初形態です。中国や欧米の思想によれば、空白の四世紀となってしまいます。

(5)神功皇后の実体

2013年、山口県下関市の長門国二之宮忌宮(キノミヤ)神社の宝物館を訪れた際、神功皇后の出自に関する一枚のパネルがありました。その時には神話の類であると思いましたが、その後、記紀の論理的事実による体系と整合していることに気づきました。

そのパネルには、 以下のように書いてありました。
 「・・・・・・ 神功皇后の神異名を気長足と言う。気長足姫の字を其のままハングル読みにすると「キ ジャン ジョク ヒ」と発音される。韓国では「国」の次に小さい国を「原」、更に小国を「足」と表現されている。「ヒ」とは字の如く姫のことであるから「キジャン国の姫」となる。韓国釜山の東に小さな町「機張・キジャン」があります。この「機張」の伝説に、「新羅に攻められ国滅ぶ、姫は共を従え当方海上の神ノ国に逃れる」 以前はこの続きに「神の国の力を得て凱旋する」とあると言うが戦後に国情により消えてしまったのだろう。・・・・」

以下は、論理的事実による推察です。
機張(キジャン)国は、現在の韓国の釜山の東側に位置する蔚山(ウルサン)市と接する機張(キジャン)郡です。
神功皇后の父は、記紀では息長宿祢[=丹波・陳安=高句麗・陳安]とされていますが、実際は母方祖父です。実父は、「DNA鮮卑族慕容部」である慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝(在位:337~348年)=息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)=第11代垂仁(スイニン)]です。神功皇后は、慕容皝が百済王に就く前後の頃の子と推測されます。息長(=機張)宿祢[=丹波・陳安=高句麗・陳安]は母方の祖父ですが、神功皇后が庶子ゆえに父の役割をしていました。第11代垂仁が、神功皇后の実父を暗示する息長宿禰王の別名をもつ由縁です。

当時、女系は、大加羅国あるいは新羅国と倭国の二拠点の居住地をもち、母系制により継嗣系の子達は基本的に倭国で生育されました。
神功皇后の母は、「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である大加羅国と倭国葛城の二か所拠点で、倭名が葛城(カツラギ)高顙/高額(タカヌカ)媛です。葛城(カツラギ)高顙/高額(タカヌカ)媛は、高句麗王族檐魯(タムロ、注:王族統治の分国の意)の「DNA縄文人混血呉系倭人」である大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命[=高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=第6代孝安]の孫です。因みに、大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命[但馬一之宮出石(イズシ)神社(兵庫県豊岡市出石町宮内99)の共同主祭神]が幼少期生育した所は、母系の倭国の但馬です。母方祖母が葛城氏菅竈由良度美(スガカマユラドミ)、母方祖父が息長宿祢=丹波・陳安=高句麗・陳安です。息長宿祢=丹波・陳安=高句麗・陳安の領国は、高句麗王族檐魯(タムロ、注:王族統治の分国の意)の大加羅国の領国の機順(キジャン)小国です。息長宿祢=丹波・陳安=高句麗・陳安は、高句麗王族系の「DNA縄文人混血呉系倭人」か新羅系の「DNA源流鮮卑族」和邇氏のどちらかですが、神功皇后が西宮市広田神社に葉山姫命=菟道稚(ウジノワキ)郎女(第17代履中の妹)を同行させたので、新羅系和邇氏です。

神功皇后は「DNA鮮卑族慕容部」である第9代開化[=高句麗第18代故国壌王(在位:384~391年)]の玄孫とあるのは時代的には逆ですが、同じ「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁が実父であることを暗示しています。第9代開化[=高句麗第18代故国壌王(在位:384~391年)]は、父系血統は「DNA鮮卑族慕容部」ですが、国体は高句麗呉系古志朝です。王母が鮮卑族慕容部の捕虜となった時の子です。

つまり、神功皇后は、父系血統は「DNA鮮卑族慕容部」である百済慕容部朝系、母系血統は「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である大加羅国系です。母方父系が、高句麗呉系倭人朝系の機順(キジャン)小国です。

356年、鮮卑族慕容部に臣属して擁立されていた「DNA匈奴金氏」である高句麗呉系倭人朝太子談徳[=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=高句麗第19代安氏&金氏広開土王/好太王(在位:391~413年)=第16代仁徳]が、「DNA匈奴金氏」である新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)尼師今(在位:310年~356年)[=第13代成務=(捏造王)百済第14代近仇首(キンキュウシュ)王 (在位:375~384年)]を滅ぼし、新羅王に就きます。その時、機張国も滅ぼされ、「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁の庶子である「機張国姫=気長足姫尊」は、新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)尼師今(在位:310年~356年)[=第13代成務=(捏造王)百済第14代近仇首(キンキュウシュ)王 (在位:375~384年)]と共に、百済、(倭国)に亡命しました。

「DNA鮮卑族慕容部」である第14代仲哀の子で倭国で生育されていた百済太子・麛坂王(カゴサカオウ)、忍熊皇子(オシクマオウジ)を神功皇后元年に滅ぼしたのも「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳(の一族)です。神功皇后も「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳(の一族)により滅ぼされます。「DNA匈奴金氏」は、スキタイ/ペルシア人の血が入っており、好戦的であり、敵の殲滅を良しとしていました。

神功皇后が、「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)[=第14代仲哀]の王妃となったのは、「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)の庶子である血統によるものです。

記紀編纂者達の倭国『大后』の父系祖の和邇氏を飾り立てるために、記紀が重要な役割をもたせたのが神功皇后です。神功皇后の記紀記載は、記紀編纂者達の倭国『大后』の要請によるものです。捏造した和邇氏応神朝が鮮卑族慕容部垂仁朝を継承とする皇朝であることと、百済垂仁朝と機順(キジャン)小国を滅ぼしたのが金官加羅国出自の「DNA匈奴金氏」である高句麗倭人朝太子談徳[=新羅金氏9世代・新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=高句麗第19代安氏&金氏広開土王/好太王(在位:391~413年)=第16代仁徳]であることを隠蔽する役割もあります。隠蔽と捏造のために数々の逸話が造作され、記紀では神功皇后は大天皇並みに扱われました。藤原不比等や平安・藤原朝にとって、呉系「トベ」系統と和邇氏系が重要なことを象徴する神功皇后です。

論理的には、「神功皇后の三韓征伐」の逸話は、統一新羅から尾張氏一族が追放され、また、同体家族であった倭国『大后』族と新羅「王妃」族との乖離が決定的になった後に、記紀に後世挿入されたと考えられる逸話です。

3-3-5.記紀と三国史記が百済王の空位期を利用して捏造した和邇氏応神朝と和邇氏雄略朝

 (1)百済王の二つの空白期(第一期:375年から420年、第二期:475年から501年)

和邇氏応神朝(百済王の第一期空位期:375年から420年)と和邇氏雄略朝(百済王の第二期空位期:475年から501年)は、百済王の空位期を利用した「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖の和邇氏を飾り立てるために記紀と三国史記が協調して捏造した皇朝・王朝です。因みに、三国史記を編纂した高麗朝は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」です。

375年に「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王(在位:346~375年)[=第14代仲哀]が滅ぼされた時から402年に「DNA匈奴金氏」である新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位:402~417年)[=第18代反正]が百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位∶420~427年)に就くまでは、百済王の第一期空位期(375年から420年)です。百済王の第一期空位期(375年から420年)のほとんどの期間の実権は、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位∶356~402年)=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)が掌握していました。

記紀は、この第一期百済王空位期(375年から420年)を利用して、百済和邇氏の実在者を百済王に捏造して百済応神朝を創作しました。
記紀は、384年に「DNA氐(テイ)族」·Y-DNA「O2(M122)」の符氏符洛(フラク)により百済慕容部朝が滅亡したとしていますが、実際は第16代仁徳による375年です。

百済王の第二期空位期(475年から501年)は、475年に「DNA匈奴金氏」である百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=第20代安康]が「DNA氐(テイ)族」馮(フウ)氏である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)]により百済王を追放された時から501年に「DNA匈奴金氏」である百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)が即位するまでです。
記紀は、この第二期百済王空位期(475年から501年)を利用して、新羅和邇氏の実在者を百済王に捏造して百済雄略朝を創作しました。

この二つの百済王の空位期間は、百済和邇氏朝である応神朝(384~420年)と百済和邇氏朝である雄略朝(475~501年)が該当し、百済和邇氏朝を分離せざるを得なかった由縁です。

(2) 二つに分岐した和邇氏

金聖昊(キム・ソンホ)によれば、「DNA源流鮮卑族」和邇氏は、中国東北部から広州馬韓(ソウル江南区)の東界地に南下して京畿辰韓をつく
り、箕(キ)氏辰国に臣族しました。箕(キ)氏辰国が終焉後、京畿辰韓に先住していた和邇氏が馬韓の統率者となり、「辰国辰(シン)王」称号を使用しました。
紀元前0世紀、沸流(フル)百済が避難移動して南下し、京畿辰韓の和邇氏を侵攻しました。この時に、和邇氏は、後の百済の国都となる熊津(クマナリ)に移住した百済系和邇氏と現韓国江原道の濊国の対岸にあった現鬱陵島に移住して于山国/羽山国(ウザンコク)を建国し、その後の651年に新羅に併合されて伽耶の熊成(クマナリ))/熊川[確かではないが、金官加羅に隣接した南側の海沿いか?]を本拠地とした新羅系和邇氏の二つに分岐しました。(出典元:金聖昊(キム・ソンホ)『沸流百済と日本の国家起源』株式会社成甲書房 1983年)。
 
記紀と三国史記は協調して、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖の和邇氏を飾り立てるために、百済王の空位期(第一期:375年~420年、第二期:475年~501年)を利用して、百済系和邇氏と新羅系和邇氏の実在者を和邇氏応神朝と和邇氏雄略朝の百済王に捏造しました。

記紀の応神朝は、百済地域熊川の和邇氏の実在者を第15代応神に、加羅地域熊川/熊成の新羅王族待遇の和邇氏の実在者を第17代履中に捏造しました。
新羅系和邇氏の第17代履中は、日本書記に後世付け加えられたという説があるように、第37代天智、子の藤原不比等の遠祖です。

(3)百済地域熊川の百済系和邇氏を元に捏造した第15代応神

沸流(フル)百済の台頭によって、馬韓・辰韓・弁韓の盟主の百済系和邇氏の借用辰王は、象徴的な王族となって権力を喪失しました。借用辰王は、沸流百済に従属し、通婚によって沸流百済王室の子弟宋親となって、月氏国の檐魯(タムロ/エンロ、注:王族統治の分国の意)主の臣智/秦支/踧支(シンチ)に任命されました。臣智/秦支/踧支(シンチ)は、馬韓、弁韓、辰韓の国内の諸小国の大きな支配権をもつ首長です。
 
その後、馬韓の借用辰王は、南部辰韓12ケ国(現在の慶尚道の地域)に移りました。ここで、百済系和邇氏と新羅系和邇氏は、近住ないし強い姻戚関係を復活します。

396年に「DNA匈奴金氏」である広開土王=第16代仁徳により「DNA鮮卑族拓跋部」である沸流(フル)百済が滅亡し、百済系和邇氏は高句麗に従属した温祚(オンソ)百済に臣属し、百済・熊津(クマナリ)に回帰しました。

百済・熊津(クマナリ)の豪族に和邇氏難波根子建振熊(タテフルクマ)命がいました。この和邇氏難波根子建振熊(タテフルクマ)命の系統者が、百済王に捏造されました。
第15代応神は、難波根子建振熊(タテフルクマ)命の子を百済第15代枕流(チンリュウ)王(在位:384~385年)=第15代応神A品夜和気(ホムヤワケ)としましたが、385年に早逝(ソウセイ)しました。それで、年配の難波根子建振熊(タテフルクマ)命=新羅借用昔氏阿飡(6等官)登保を百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)として一時しのぎをしました。難波根子建振熊(タテフルクマ)命の孫娘の宮主・矢河枝(ヤカワ)比売/宅(ヤカ)比売=物部氏山無媛連(ヤマナシヒメノムラジ)=新羅・伊利夫人/企利夫人=百済・八須(ハッシュ)夫人の異母妹の袁那辨郎女(オナベノイラツメ)=和珥弟媛(オトヒメ)]=新羅金氏阿留夫人の男子、世に言う胎中天皇を百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王(在位∶392~405年)=第15代応神B品陀和気(ホンダワケ)/品陀真若王とする応神朝の王統譜が創作されました。捏造王のため、記紀は数々の逸話を載せてくらまそうとしています。

百済応神朝は、百済系和邇氏と但馬・新羅の新羅系和邇氏と物部氏が姻戚関係を強めたことを象徴する王朝です。

応神朝の宮主・矢河枝(ヤカワ)比売/宅(ヤカ)比売=物部氏山無媛連(ヤマナシヒメノムラジ)=新羅・伊利夫人/企利夫人=百済・八須(ハッシュ)夫人、矢河枝(ヤカワ)/宅(ヤカ)比売の娘の八田媛(ヤタヒメ)は、但馬の新羅系和邇氏と考えられます。

(4)加羅地域熊川の新羅系和邇氏の第17代履中

于山国/羽山国(ウザンコク)後裔の新羅系和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)を百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)=第17代履中に捏造して新羅系和邇氏の象徴神としました。

第17代履中=和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)は、父が和邇氏日蝕使主(ヒフレノオミ)、母が袁那辨郎女(オナベノイラツメ)=新羅金氏阿留夫人(宮主矢河枝比売の異母妹)、妹が菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命です。第17代履中は、父系が百済系和邇氏、母系が新羅系和邇氏です。
書紀では、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の父は「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊/建振熊宿禰、母は和邇氏宮主矢河枝比売とし、兄弟は矢田皇女(第16代仁徳天皇の皇后)と雌鳥皇女としています。応神朝の捏造系譜を親子継承に見せかけるためです。

第17代履中の孫が和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅・朴英失(ヨンシル)=第21代雄略=[捏造王]百済第22代牟氏文周王(在位∶475~477年)であり、その後裔が第38代天智=新羅波珍飡(4等官)金善品=(養子王子)百済・翹岐(ギョウキ)王子、藤原不比等です。

応神朝の矢河枝(ヤカワ)比売の異母妹の袁那辨郎女(オナベノイラツメ)=和珥弟媛(オトヒメ)]=新羅金氏阿留夫人、袁那辨郎女(オナベノイラツメ)の娘の和邇氏菟道稚(ウジノワキ)郎女は、但馬の新羅系和邇氏です。新羅系和邇氏の菟道稚(ウジノワキ)郎女の後裔が、第38代天智、藤原不比等です。

第17代履中=和邇氏莵道稚郎子は、母系の父系祖が新羅系和邇氏である于山/羽山(ウザン)国の系譜者です。この血統は、母系の父系が濊(ワイ)の後裔である越系「戸売」系統の倭国『大后』に対抗する血統を意味します。

濊国の対岸の現韓国鬱陵島(うつりょうとう、ウルルンド、ハングル表記:울릉도)は、新羅借用昔氏宇老(ウロウ、? - 253年?)が支配権のある新羅王族分国として併合しました。因みに、宇佐(usa)の語源は、宇山(usan)です。

512年、現韓国江原道の濊国の対岸にあった現鬱陵島の「于山/羽山(ウザン)国」は、新羅第22代匈奴金氏智証麻立干(マリツカン)(在位:500~514年)[=高句麗第21代安氏文咨明王(在位:491~519年)=第26代継体]により服属させられ、新羅に朝貢させられます。「于山/羽山(ウザン、usan)国」は、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)=第17代履中]の祖国で、宇佐(usa)、ウサギ(ウサの男の意)の語源です。記紀は「羽山戸神(ハヤマトノカミ)」として神話記録しました。

藤原不比等の系譜について不思議な事実があります。藤原不比等が、娘である第44代元正天皇が即位した霊亀2年(715年)に、勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604 )」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる直近の系譜である羽山戸神[=宇遅和紀郎子(ウジノワキイラツコ)]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:菟道稚(ウジノワキ)郎女のこと]との間の8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や氏神春日の詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待って国政に掌りました。
つまり、藤原氏は、新羅系和邇氏である于山/羽山(ウザン)国王の後裔なのです。

因みに、漢音の「莵道(ウジ)」は、古代高句麗音の「太」と同じです。「ウジ(漢音)」と「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」は同語です。「ウジ(漢音)」の形成漢字は、菟道、宇遅、宇豆、太、勿吉(wuji)、藤です。「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」の形成漢字は、沸流、宇遅、太です。

記紀では、神功皇后のヤマト東遷に斎殿(トキドノ)・葉山媛命が現兵庫県西宮市広田神社に同行していますので、神功皇后の母系は新羅系和邇氏と思われます。
葉山媛命=菟道稚(ウジノワキ)郎女は、神功皇后と深い関係があり、日本で最初の斎宮の斎殿(トキドノ)として、現西宮市広田大社の創祀者です。莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)と菟道稚(ウジノワキ)郎女は、日本の源流弥生人の系譜者、菟道(ウジ)=扶余の源流系譜者の後裔者であるようで、前(サキ)神社の系統に合体して見られます。

(5)新羅系和邇氏雄略朝

記紀では、第21代雄略[=新羅・朴英失(ヨンシル)=和珥日爪(ワニノヒツメ)]は、父が第17代履中=和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子の春日和珥深目=新羅王族・朴普賢=新羅伊飡(官位2等官)朴登欣=市辺押磐(イチノヘノオシハ)皇子、母が葛城黒媛の娘の新羅・延帝夫人[伊飡(2等官)の朴登欣の娘]=新羅・普賢公主(花郎世紀:朴普賢の娘の意か)=忍坂大中姫です。

加羅で生育した和珥日爪(ワニノヒツメ)[=第21代雄略]は、新羅宮中では母系の朴氏を使った新羅・朴英失(ヨンシル)=新羅・朴守知(新羅摂政・只召太后の情人)を名乗り、百済では古称の牟(ム)氏を使った百済第22代牟(ム)氏汶洲(文周)王(在位:475~477年)に捏造されました。

第21代雄略は、大后と4人の妃がいました。妃の新羅・普賢公主=葛城国黒媛=皇太夫人葛城韓媛との間の子は第22代清寧です。妃の春日和珥童女君(カスガ・ワニ・オミナ・ギミ)=新羅・玉珍娘主との娘が春日大娘皇女です。
捏造された第24代仁賢天皇[=第21代雄略(出典:新羅・花郎世紀)]の皇后・春日大娘皇女との子が、手白香皇女(第26代継体の皇后、第29代欽明の母)です。記紀で皇后の出自が書かれていないのは、春日大娘皇女と橘仲皇女(=手白香皇女)だけです。

第21代雄略=和珥日爪(ワニノヒツメ)=朴英失(ヨンシル)が倭国『大后』の父系の直祖とされるのは、春日大娘皇女との子の手白香皇女の直系血統が、その後の倭国『大后』と新羅「王妃」となるからです。新羅朴氏思道夫人(?~614年2月歿)=手白香皇女は、新羅大元正統の祖で、後裔には、皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主、額田部皇女(554年生~628年歿)=新羅・善花公主=百済王妃・善花(百済第29代武王の先王妃)、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・宝公主=百済王妃・宝公主(百済第29代武烈王の後王妃)=新羅王妃・涓花夫人(新羅第29代武烈王の後王妃)、等がいます。また、新羅朴氏思道夫人=手白香皇女の孫の尾張目子媛=新羅摂政・只召太后=新羅王妃・息道夫人=金官加羅国王妃・金桂花は、新羅真骨正統の祖です。

以上のように、呉系「トベ」系統の倭国『大后』にとって、第21代雄略=和珥日爪(ワニノヒツメ)=朴英失(ヨンシル)は父系祖の直祖の新羅系和邇氏です。それで、父系祖の出自を飾るために、第二期百済王空位期(475年から501年)を利用して、和珥日爪(ワニノヒツメ)=朴英失(ヨンシル)を百済第22代牟(ム)氏汶洲(文周)王(在位:475~477年)に捏造しました。倭国雄略朝と百済雄略朝は、伽耶と百済の和邇氏を元にして捏造した王朝です。

第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計(をけ)と第24代仁賢(ジンケン)天皇億計(おけ)は双子の可能性があります。第21代雄略は、倭国で生育されたこともなく、倭国に渡来したこともなかったのが論理的事実です。この捏造に、万葉集も加担していることをつけ加えておきます。

雄略朝は捏造されたので不自然さが多々あり、これを隠すために多くの逸話が挿入されています。第21代雄略=百済第22代牟(ム)氏文洲(文周)王(在位:475~477年)の第三皇子の第22代清寧(セイネイ)=百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)は、それぞれ2年の短期在位期間です。2年の短期在位期間は、百済第29代法王(在位:599~600年)=上宮法王も同様で、捏造された王とみてよいです。また、第23代顕宗(ケンソウ)弘計(ヲケ)と第24代仁賢(ジンケン)億計(オケ)は、実王の証明となる高句麗王、百済王、新羅王のいずれにも即位していませんので、捏造された王です。新羅の花郎世紀によれば、第24代仁賢(ジンケン)は朴英失(ヨンシル)であるとのことで、第21代雄略と同一人です。雄略朝の「DNA呉系倭人和邇氏」である四代皆、新羅王に就いていないのは、捏造王であるからです。「DNA源流呉系倭人」和邇氏である四代では、百済王の第二期空位期(475年から501年)を埋めることができず、第26代継体の子の新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)=第25代武烈を百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)の養子百済太子にし、百済第24代牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位∶479~501年)に捏造しました。王が、養子となって氏族名を変えることは、正統性を失うことを意味します。
 
しかし、現在の通説では、第21代雄略は、実際に倭国を統治した最初の天皇とされています。「万葉集」や「日本霊異記」の冒頭にその名が掲げられています。三国史記では、百済第21代蓋鹵王が百済王に即位した時、文周は百済の上佐平(宰相に相当)として蓋鹵王を補佐します。記紀では、百済第22代文周王(=第21代雄略)は、百済家臣に殺されたことになっています。第21代雄略は、違う「DNA種族」が受け継ぐことはあり得ない「倭の武」の有力候補者の説があります。埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘に刻まれた「獲加多支鹵大王」を『記紀』に記された第21代雄略の諱である「ワカタケル」「ワカタケロ」と解し、実在の証とする説があります。記紀では、477年、第21代雄略[=百済第22代牟(ム)氏文周王]が久麻那利(クマナリ、百済・熊津を指します)を百済第22代文周王[=第21代雄略]に下賜したと記しました。第21代雄略が、伊勢神宮外宮を建立したとも。

3-3-6.新羅・百済金氏朝の新羅系和邇氏外戚の反正朝

反正朝(第18~20代)は、第3代安寧の正統な継承朝であり、応神朝の呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖を継承する皇朝として、呉系「トベ」系統の倭国『大后』側が記紀に挿入した皇朝です。つまり、新羅反正朝(新羅王第18~20代)の新羅王妃[=呉系「トベ」系統の倭国『大后』]の父系祖の系譜は、新羅和邇氏です。

応神朝には種々の倭国『大后』の系統が記されており、未だ十分な解析をしていませんが、新羅和邇氏外戚系の系統もいます。
「DNA匈奴金氏」である新羅借用昔氏朝は、越系「戸売」系統の王妃で、新羅金氏5世代・新羅第9代伐休尼師今(在位∶184~196年)=初代大国主・スサノオから始まります。そして、新羅金氏7世代・新羅第12代借用昔氏沾解尼師今(在位∶247~261年)=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主が、盟主の「DNA匈奴休氏」ニニギ族に報復侵攻され、終焉します。

記紀を編纂した「DNA匈奴金氏」朝の第26代継体以前の草創期の『大王』は、次のようです。〇数字は、相対的な世代数です。
①金氏始祖の新羅金氏8世代・新羅金氏第13代味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧、
②甥の新羅金氏9世代・新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=倭王讃=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)=第16代仁徳、
②甥の新羅金氏9世代・新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位:402~417年)=倭王珍=百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)=第18代反正(ハンゼイ)、
③新羅金氏10世代・新羅第19代金氏訥祇(トツギ)麻立干(在位:417~458年)=倭王斉=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)、
④新羅金氏11世代・新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=倭王興=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)=第20代安康、
⑤新羅金氏12世代・百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)=倭王武。

新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位∶∶262~284年)=第3代安寧は、当時は弱体で辺境の新羅王ではなく、豊かな大国の金官加羅国王であったと推測されます。
 
第3代安寧の後継には、弟の新羅金氏8世代・新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津彦の長男の新羅金氏9世代・新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位:402~417年)=第18代反正と二男の新羅金氏9世代・新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=第16代仁徳がいました。
 
475年、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)は、百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)=第20代安康]を百済から追放しました。
記紀は、一族皆殺したと記しました。
 
百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)の継嗣である島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)=倭王武が百済第25代武寧王(在位:501~523年)に即位するまでの475年から501年まで金氏百済朝は、約25年間空位になりました。
 
新羅金氏12世代・百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)は、新羅金氏11世代・新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)=第20代安康の継嗣で、朝鮮半島の政情が安定するまで、約39歳頃まで母系の倭国で暮らしていました。新羅金氏12世代・百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)=倭王武[=島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)]は、新羅王子庶子の新羅金氏12世代・第26代継体により、王位継承を長らく阻止されます。
高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=第26代継体と新羅王子継嗣の百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)との王権の継承合意は、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王の死後の501年まで要しています。

因みに、「倭の五王」の「倭」とは、日本列島の倭国のことではなく、新羅の対外別称名が原初、というのが私見です(詳細は、第五部概要、第二章2-14-2.倭国名の原初は新羅の対外称号名)。天上の非政事統括者である新羅王妃でもあった濊の後裔者の倭国『大后』が、新羅が対外称号名として濊を原語とする同音韻の「倭」を用いなくなったので、対外的に威信を示す必要が生じている日本列島の国名に用いたのが由緒、というのが私見です。

したがって、新羅は対外別称名として「倭王」を、少なくとも新羅反正朝(新羅第18~20代、百済第25代武寧王)の402年から523年までは用いていたと推察されます。その時代は、偉大な第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=倭王讃=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)が、「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により朝鮮半島から追放されて、新羅が大きな国難と弱体化に面した時代です。

3-3-7.第26代継体の継体祖の第16代仁徳

記紀は、記紀編纂者達の祖の第26代継体を第16代仁徳の傍系庶子の曾孫として、王位正統性を与えるために『大王』側の事情で記紀に第16代仁徳を位置づけました。
 
第26代継体の「継体」とは、第16代仁徳の「継体」を意味しています。「継体」が「DNA種族」が違う「DNA源流鮮卑族和邇氏」の第15代応神や「DNA源流鮮卑族和邇氏」の第21代雄略の「体」を継承することなど論理的にありえません。更に、捏造王の「体」を継承することなどあり得ません。
 
記紀は、第16代仁徳を第3代安寧の甥で後継継承者でありながら非常に離れた代にし、かつ、新羅金氏の系譜で最大版図を築いた偉大な高句麗王でありながら、前後に同血統の倭王『大王』を配置しないとし、非常な不自然さがあります。更に、記紀は、第16代仁徳の継嗣がいたにもかかわらず、子がなかったとして、反正朝(第18~20代)を和邇氏応神朝(第15、17代)の継承皇朝にしました。また、第16代仁徳は、新羅名の別名がまだ見出されていません。

第16代仁徳(推測:335±5年頃生から413年過ぎ歿)から第26代継体(推測:450年頃生~552年頃歿)までの新羅の父系系譜は、以下です。
①曾祖父:第16代仁徳=新羅金氏9世代・新羅第17代金氏奈勿(ナソツ)尼師今(在位:356~402年)。
・曾祖母:未詳。

②祖父:新羅金氏10世代・新羅・宝海=尾張弟彦。
・祖母:未詳。

③父:新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)。
・母:新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻王の妃・淑=振(フル)媛。

④新羅金氏12世代・第26代継体
=新羅葛文王立宗(新羅第23代法興帝の異母兄)
=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)
=新羅第22代金氏智証・麻立干(在位:500~514年)
=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(552年に追贈か?)
=金官伽耶国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)。
・王妃:新羅朴氏思道夫人(?~614年2月歿)=手白香(タシラカ)皇女(第24代仁賢の皇女)[母は春日大娘皇女=新羅・興道/吾道(オド)娘主]。

・妃:高句麗妃·尾張目子媛=新羅摂政只召太后=新羅・息道夫人(母:新羅朴氏保道/保刀夫人)=金官加羅国王妃・金桂花[金官伽耶国第10代金仇衡(キュウコウ)王の王妃]。
 
第3代安寧の後継は、先ず、新羅金氏9世代・新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)=第16代仁徳が就きます。

第16代仁徳(330年から340年頃の間の生まれと推測される)は、伯父の新羅王金氏始祖新羅第13代味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)=第3代安寧の後継で、父は第3代安寧の弟の新羅金氏7世代・新羅角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)=新羅伊飡(2等官)大西知(ダイセイチ、テソチ)=葛城襲津(ソツ)彦、母が尾張氏外戚系の「トベ」系統の新羅金氏休礼夫人=仲姫(ナカツヒメ)/中日女命(第14代仲哀天皇の皇后)で、新羅王族分国の金官加羅国の新羅王子庶子の出自です。

新羅・金氏休礼夫人=仲姫(ナカツヒメ)/中日女命(第14代仲哀天皇の皇后)は、父が新羅第13代味鄒尼師今=第3代安寧(アンネイ)、母が「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である紀氏荒河刀辨(アラカワトベ)命/紀伊国の荒川戸俾(トベ)です。紀伊国は、尾張氏・大伴氏の地盤です。
 
第16代仁徳の系譜で注目することがあります。第16代仁徳の母は、新羅系和邇氏ではなく、日本列島の縄文人系です。第16代仁徳の子、孫は尾張氏の別名があるのに、第16代仁徳と第21代継体には未だ見出されていません。
第21代継体の父は、葛文王(官位1等官)習宝が示すように、早逝していなければ新羅王の継嗣であったことが推察されます。

第21代継体の母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻王の妃・淑=振(フル)媛は、父は新羅第19代金氏訥祇(トツギ)麻立干(在位:417~458年)=高句麗第20代金氏毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)=第19代允恭、母は第18代反正(ハンゼイ)の娘の新羅王妃・阿老夫人/次老夫人=新羅・延帝夫人=新羅・普賢公主(花郎世紀)=忍坂大中姫[父は新羅伊飡(2等官)朴登欣=春日和珥深目]です。
第21代継体は、新羅王の正統な継承権があると思っていたと推察されます。

第16代仁徳の先『大后』は、越系「戸売」系統の同父異母妹の尾張氏系葛城国磐(イワイ)之媛命、後『大后』は呉系「トベ」系統の物部氏系但馬国八田(ヤタ)媛命です。
第16代仁徳の同父異母妹の磐(イワイ)之媛命は、第4代戸売・八坂媛命=新羅・金氏保反夫人と葛城襲津(ソツ)彦[=新羅・角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)]との間の娘です。八坂媛命の父は、新羅第13代味鄒尼師今=第3代安寧です。磐(イワイ)之媛命が仁徳天皇より血統が上になり、プライドが高く実家に帰ったのでしょうか。
第16代仁徳天皇の時に「戸売(トメ)」系統の『大后』が終焉しました。

後『大后』の八田媛命の父は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊(タテフルクマ)命=百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)=新羅阿飡(6等官)登保です。

談徳(ダントク)[=第16代仁徳]は、成人になり活路を求めて鮮卑族の慕容皝が建国した前燕(337年~370年)に行き、王族待遇の臣下になりました。このことは、談徳(ダントク)が新羅王の継嗣でなかったことを裏付けています。

356年(仁徳は31歳±5歳頃)、「DNA鮮卑族慕容部」である前燕の臣下の「DNA匈奴金氏」である高句麗・談徳[=第16代仁徳]は、「DNA匈奴金氏」である本家の新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)尼師今(在位:310~356年)[=(捏造王)百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)=第13代成務=竹内宿祢 (350年生~384年歿)]を追放し、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)に就きます。

375年(仁徳は50歳±5歳頃)、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳]は、「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)[=第14代仲哀]を滅ぼし、百済慕容部朝は終焉します。
記紀は、384年に「DNA氐(テイ)族」符氏・Y-DNA「O2(M122)」)」の符洛(フラク)が[捏造王]百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)[=新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)・尼師今(在位∶310年~356年)=第13代成務]を滅ぼしたと記しました。

百済慕容部朝の滅亡後は、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王(在位:391~412年)=第16代仁徳]が、百済の覇権を握りました。新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今は、成人後に鮮卑族慕容部の前燕の臣下であったので、鮮卑族慕容部の百済王を滅ぼしたからといって百済王に就くことはできませんでした。こうして、百済王は第一期空位期(375年から420年)となります。

386年(仁徳は61歳±5歳頃)、慕容垂は、談徳を「DNA鮮卑族慕容部」の高句麗第18代故国壌王の太子に擁立します。 

392年(仁徳は67歳±5歳頃)、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳]は、高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)に就きます。広開土王は、安息国の末裔を称し、安氏を称します。弱小国新羅を大国にし、朝鮮半島を支配した最初の新羅王出自の王で、高句麗が最大の領土となった王です。

因みに、安息国/アルサケス朝/パルティア帝国は、紀元前238年からサーサーン朝に滅ぼされた226年まで、イラン高原を支配したイラン系民族の国です。

413年(仁徳は88歳±5歳頃)、高句麗第19代安氏(&金氏)広開土王/好太王(在位:392~413年)(=第16代仁徳)は、「DNA鮮卑族拓跋部」・Y-DNA「O2a2b1a2(F444)」である北魏初代皇帝道武帝(本名:拓跋珪, 在位:371-409年)に擁立された「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」・Y-DNA「O2a(M122)」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により高句麗および朝鮮半島から追放されました。
これにより、413年から492年まで金氏高句麗朝は、約80年間中断しました。
第16代仁徳は、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により更に朝鮮半島からも80±5歳の高齢で追放されます。

高璉(コウレン)が、倭国淡路島まで侵攻し、第16代仁徳を事実上敗死させたとの説がありますが、同じ檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)の原語がある現済州島ではないかと推測されます。仮に第16代仁徳が倭国に亡命したとしても、80±5歳の高齢で倭国で偉大な王として待遇されても実際の統治はしていず、多くの逸話は後の作り話です。

『古事記』のなかの「因幡の素菟(いなばのしろうさぎ)神話」の中で(6代目)大国主命は、新羅借用昔氏朝の本家兄弟からいじめられたと書かれているのは第16代仁徳の史実ではないでしょうか。
初代大国主・スサノオを新羅金氏4代・新羅・首留(首露)[=新羅金氏4代・新羅第9代借用昔氏&金氏伐休(バッキュウ)・尼師今(在位∶184~196年)とすれば、第3代と第4代の大国主は兄弟の同世代ですから6代目の子孫は新羅金氏9代・新羅第17代鮮卑族系金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=第16代仁徳となります。スサノオ=初代大国主の6代目の子孫は、スサノオの娘[第5代戸売・磐(イワイ)之媛命]と結婚した大国主命とされており、一致します。
この他に、「因幡の素菟神話」の(6代目)大国主命の候補者には、竹内宿祢=第13代成務、第26代継体が言われています。神話と済ませば、それまでですが。
 
第26代継体以降、新羅金氏の金官加羅国系出自の高句麗王、百済王、新羅王が続きます。
<第三章以上>