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2024.4.15「3-4-6.達頭の継嗣の舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)」


3-4.記紀の本史である第26代継体以降 
3-4-1.第26代継体
3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造
3-4-3.尾張氏系の宣下朝(第27代安閑、第28代宣下)
3-4-4.物部氏系の第29代欽明(506年生~576年歿)
3-4-5.第29代欽明の継嗣の達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿)

3-4-6.達頭の継嗣の舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)

(1)第34代舒明(ジョメイ)(564年生~641年歿)

 金官伽耶・金舒玄(576年頃生~641年歿)[=新羅将軍・金舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]の出生については父が不明朗な所がありますが、母が新羅・阿陽公主=蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫、小林恵子の史料からの推察によれば実父が達頭(=聖徳太子)(553年頃生~630年歿)[=百済第29代法王(在位:599~600年)]です。
 金舒玄(576年生)の家系図では、父は百済檐魯(タムロ)の任那伽耶王の金武力(506年生)[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=蘇我稲目=第29代欽明]、祖父が金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体(450年頃生)、母が新羅・阿陽公主[=蘇我堅塩(キタシ)媛]です。誕生日から見ると、金武力(506年生)=第29代欽明は、金舒玄(576年生)=第34代舒明の祖父です。
 いずれにしろ、金舒玄(576年頃生~641年歿)=第34代舒明(ジョメイ)は、第26代継体、第29代欽明、達頭と同様に金官加羅の本貫系統者です。
 
576年頃(舒明誕生、達頭は23歳頃、欽明は70歳)、新羅金氏14世代・達頭=上宮法王が、西突厥を連れて新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)を滅ぼした時に、551年にペルシアから朝鮮半島に回帰し、新羅に帰っていた新羅・阿陽公主=蘇我堅塩媛との間に金舒玄が生まれました。父を達頭から第29代欽明に変えたのは、第34代舒明が第29代欽明の後継であるとの箔をつけるためと、儒教倫理を考慮して、後世改ざんしたものです。
 
第34代舒明(ジョメイ)=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)は、父が達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿)=西突厥の第2代西面可汗達頭可汗(カガン)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)(在位:576~603年)=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:629年4月27日~629年6月17日)=[捏造]百済第29代法王(在位:599~600年)、母が新羅・阿陽公主=皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫=石上氏宮古郎女(先代旧事本紀)です。
 新羅・阿陽公主=蘇我堅塩(キタシ)媛は、母が尾張目子媛[=新羅摂政只召(チソ)太后]、父が物部倭古/弓削倭古=西突厥・吐務(トム)=蘇我稲目=第29代欽明で、高句麗時代の子と推測されます。
 
次は、第34代舒明(=百済第30代武王)の伴侶と子です。

金舒玄(576年頃生)[=第34代舒明]と額田部皇女(554年生)との間の高句麗での私通の子が、高向玄理=高向黒麻呂=高向宇摩=阿部臣麻呂=高向王(590年末生)です。小林説は、達頭=聖徳太子が、590年末に東突厥に入る前に子の高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第34代舒明と同盟した時、嬰陽王は高向玄理を身ごもった後宮の女を達頭に贈りました。百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=第20代安康]の子の百済武寧王と同様に当時の「摩腹子(注:新羅では身分の低い官吏が妊娠した妻を自分の上役に贈る制度で、日本の連れ子)」という慣習です。

金舒玄(=第34代舒明)と新羅王妃・万明(マンミョン)皇后との間の子が、統一新羅の最大貢献者の金庾信(ユシン)(595年生~673年歿)と額田王[第37代斉明A淵蓋蘇文の『大后』、第38代天智天皇の妃]=新羅・文明王后文姫[新羅第29代武烈王の王妃)=鏡王女(藤原鎌足の正妻時代]です。
 新羅王妃・万明皇后は、父が新羅・粛訖宗[=金官加羅・金武力=第29代欽明]、母が新羅・萬呼(マノ)太后、母方祖母が尾張目子媛です。

 高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=金舒玄(576年頃生)=第34代舒明]と宝皇女(593年生)との高句麗での子が、高句麗・大陽王[=百済第31代義慈王(在位:641~660年)=第36代孝徳(コウトク)]です。

百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明(576年頃生)]の百済先王妃は百済・善花公主[=新羅・善花公主=額田部皇女(554年生~628年歿)]、後王妃は百済王妃・宝公主=百済名:沙宅(サテク、倭名は中臣氏)ヨン[=新羅・宝公主=宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・涓花夫人(新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の王妃)]です。
 
因みに、百済・沙宅(サテク)ヨン(=宝皇女)は、倭名が中臣氏である百済佐平沙宅(サテク)積徳の養女です。「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である中臣鎌足(大阪府高槻市 阿武山古墳遺体)は、兄の百済大佐平沙宅(サテク)智積です。沙宅(サテク)智積の祖は、伽耶です。

以下は、第34代舒明の年代を追った経歴です。
 
576年頃、金舒玄が誕生しました。その後、新羅将軍・金舒玄になります。
 
590年(舒明は14歳頃)、金舒玄[=第34代舒明]は、父・達頭[=上宮法王=聖徳太子]の根回しで、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=金官伽耶・金舒玄=新羅将軍・金舒玄=百済第30代武王(在位:600~641年)]に就きます。これは、ペルシアに永久移住した高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子の継嗣の物部(蘇我)蝦夷[=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]が4歳位の幼少のための一時繋ぎでした。
 
600年(舒玄は24歳頃、蝦夷は14歳頃)、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]は、一時繋ぎの条件であった高句麗王を退位する代わりに、百済第30代武王(在位:600~641年)を物部氏から与えられます。しかし、第34代舒明は、高句麗王を退位しようとしませんでした。これが物部氏との離反になり、滅亡の契機になります。
 第34代舒明=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)は、高句麗王と百済王に同時に即位していても、三韓を統一せず、高句麗と百済さえ統一しませんでした。出来なかったのです。背後の実権者は、「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部氏と尾張氏だったからです。
 
618年(舒明は42歳頃、達頭は67歳、蝦夷は32歳頃)、達頭=上宮法王がペルシャに移住すると、物部(蘇我)蝦夷[=高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)]に高句麗王を奪回され、第34代舒明は百済王に専従します。第34代舒明は、第26代継体や第29代欽明の場合と違って、三韓から追放されませんでした。父が達頭のための配慮です。
 
628年(舒明は51歳頃、達頭は75歳位、馬子は77歳歿)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]が、息子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。
 
629年(舒明は52歳頃、達頭は76歳位)、628年に第31代用明=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子が歿したので、百済第30代武王はやっと第34代舒明(ジョメイ)である倭王『大王』の称号を物部氏から得ることができました。本来の舒明(ジョメイ)の倭王『大王』の称号期間は、590年から641年です。
 
630年(舒明は53歳頃、達頭は78歳頃歿)、父・達頭が、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第27代皇帝シャフルバラーズ(在位:630年4月27日~630年6月17日)に就き、40日後にサーサーン朝の貴族によって殺害されました。

641年(舒明は64歳頃歿、蝦夷は55歳頃)、百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明(576年頃生)]は、歿します。

(2)第36代(末王)孝徳(コウトク)=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)

 第36代孝徳(コウトク)=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=高句麗・大陽王は、父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)]、母が宝皇女[=百済王妃・宝公主=百済王妃・沙宅(サテク)ヨン=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=新羅王妃・涓花夫人]です。
 第36代孝徳は、高句麗で高句麗王継嗣として生まれましたが、父が物部氏により高句麗王を追放されたので、高句麗王は継承できず、百済王を継承しました。

百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]の百済先王妃は百済宝公主/沙宅(サテク、倭名は中臣氏)ヨン[=新羅・宝公主=百済・宝公主=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位∶602~661年)の王妃]、後王妃は百済・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)]です。
  「間人(ハシヒト)」は、波斯(ハシ)人=ペルシア人と同意です。
  間人(ハシヒト)皇女は、父が百済第30代武王(在位∶600~641年)[=第34代舒明]、母が宝皇女(593年生~661年歿)です。間人(ハシヒト)皇女は、百済佐平・木氏の養女となり、百済王妃になります。
 間人(ハシヒト)皇女[=百済・木氏恩古(ウンゴ)]は、倭(ヤマト)姫王(627年生~672年歿)、大田皇女(?~667年歿)、鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)=第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良(ウノサララ)(在位:694~697年)達の母である蘇我遠智娘(オチノイラツメ)と同一人と推測されます。そして、石上氏麻呂の母かもしれません。
 
627年(天智誕生、宝皇女は34歳)、新羅・宝公主=宝皇女は、新羅第25代真智(シンチ)王(在位:576~579年)の異母弟の金仇輪との間に新羅波珍飡(4等官)金善品[=第38代天智]を生みます。新羅・宝公主が、百済武王の後王妃となった時に、金善品は共に移り、百済第31代義慈王の養子の第二王子・翹岐(ギョウキ)を称します。
 金仇輪の母は新羅・朴氏思道夫人(?~614年2月歿)[新羅第24代真興王(在位:540~576年)の王妃]=手白香皇女、母の父は新羅和邇氏の新羅王族・朴英失[=第21代雄略]です。朴英失、金仇輪、金善品[=第38代天智]の本貫は伽耶で、新羅・和邇氏です。
 
642年(天武は19歳頃、蝦夷は56歳頃)、高句麗宰相&将軍の淵蓋蘇文(623年生)は、祖父・金舒玄の復讐と「DNA匈奴金氏」の高句麗王朝を奪回するために、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]を高句麗で殺害します。これによって、物部氏は、第26代継体以来の金官加羅系金氏との信頼を無くし、同盟を解消します。
   淵蓋蘇文は、曾祖父が達頭=上宮法王=聖徳太子、祖父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明=百済第30代武王(在位:600~641年)]、父が高句麗・高向玄理、母が宝皇女です。
 記紀は、高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]の『大后』の宝皇女を傀儡として第35代皇極(コウギョク)B宝皇女に捏造しました。
 
645年乙巳(イッシ)、中大兄皇子(627年生)=百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅波珍飡(4等官)金善品=第38代天智]らが、「DNA匈奴金氏」王朝を奪回するために、「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部(蘇我)蝦夷の子の高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺します。物部(蘇我)入鹿は高句麗王の継嗣であるので、母の宝皇女の倭国で居住していました。宝皇女(593年生~661年歿)にとっては、自身の安全を確保してくれる物部氏との関係は最優先事項ですが、子の中大兄皇子(627年生)と孫の高句麗宰相&将軍の淵蓋蘇文(623年生)との板挟みでした。
 書記は、645年に蘇我入鹿が、中大兄皇子[=第38代天智]・中臣鎌足(阿武山古墳の被葬者)[=百済大佐平沙宅智積]らによって宮中にて暗殺され、父の蘇我蝦夷(実際には642年に高句麗で殺された)は翌日自死したと記していますが、物部(蘇我)蝦夷は倭国と三韓の覇権者であり、戦わずして自死するなどありえません。
 
645年乙巳(イッシ)の変の後、女系(推定:宝皇女)によって「DNA呉系倭人混血縄文人」である6歳の石上氏(イソノカミウジ)麻呂(639年生~717年没)をもって継承されます。物部(蘇我)入鹿の母は、宝皇女です。(物部氏)石上氏麻呂は現在の天皇に繋がる血統祖です。因みに、「石上氏」は、女系氏族名です。
 
655年(天武は22歳頃)、高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生)は、高句麗を出国し、親新羅の倭国亡命政権の第37代斉明(サイメイ)A蓋蘇文=筑紫君(=九州・倭国王)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬(推定在位:655~667年)に就きます。『大后』は、新羅第4代真骨正統首主・額田王[=新羅王妃・文明王后文姫(ムニ)]です。高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生)は、百済を見離しただけでなく、百済を新羅に併合する密約を交わしていても不自然ではありません。
 記紀は、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文の不都合な事実を隠蔽するために、『大后』額田王は新羅第4代真骨正統首主で身代わりにできず、淵蓋蘇文の母の宝皇女を第37代斉明(サイメイ)B宝皇女に捏造しました。
 
660年、百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。義慈王、太子隆が降伏して、多くの臣下と共に唐都・洛陽に強制連行されます。同年義慈王は唐で没したとされています。
    同年、百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅・金善品=第38代天智]は、一端高句麗に行きます。避難移動ではなさそうです。百済・翹岐(ギョウキ)王子は、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)と新羅との密約を知っていたと思われます。その後、母・宝皇女と共に倭国に避難移動しました。
 
661年、68歳の母・宝皇女(593年生~661年歿)が、倭国前線基地の九州筑紫で歿します。心労からでしょうか。
 因みに、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]の歿年は、額田部皇女、間人(ハシヒト)皇女と同様に、伴侶の新羅第29代武烈王(在位:602~661年)と同年です。
 
663年、百済王族や遺臣達と倭国は、百済復興を目指し白村江の戦いをしましたが敗れました。その後、唐は旧百済領の経営に乗り出しましたが、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられました。
 百済が白村江の戦いに敗れた時、この場所から後宮の3000人の官女が身を投げたと伝えられている落花岩の伝説がありますが、後世の作り話です。義慈王、太子隆が降伏して、捕虜となっているのに、官女が捕虜後を支えないで身投げしたりする行動パターンは、朝鮮半島では珍しいことです。高麗、李氏朝鮮の時代、女性は国のために貢女とされるのが普通です。身投げしたとされる落花岩の場所は、河に落ちるのではなく、下の岩に当ります。人数も伝統的な誇大化数字です。多数の貢女を隠蔽するための後世の儒教の作り話とみてよいです。

665年、記紀では、間人(ハシヒト)皇女[=百済・木氏恩古(ウンゴ)]が、没します。
 記紀では、間人(ハシヒト)皇女は母の第37代斉明B宝皇女陵である越智岡上陵に隣葬されています。実際に遺骨があるのか、分骨であるのか、未詳です。百済・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女]は、百済滅亡(660年) により665年から唐の戦争捕虜になったのか未詳にされています。母が新羅・宝公主(=宝皇女)であるので、百済・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女]は、唐に連行されていないと考えられます。
 
668年、高句麗第28代宝蔵王(在位:642~668年)は唐に連行されますが、高句麗の架空末王と見なされ、唐の王族待遇を受けます。
 
676年、新羅が朝鮮半島を統一しました。

(3)舒明朝のエピローグ

 舒明朝は、記紀の編纂者達にとって直近の祖朝です。第29代欽明の金官加羅系の後継として、高句麗王、百済王を継承し、百済を終焉させた王朝です。
 舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)は、第3代安寧、第16代仁徳、第26代継体、第29代欽明以来の新羅王族分国の庶子新羅王子の宿命をもった金官加羅の出自系統です。
 この傍系の金官加羅の出自系統から、四韓の宗国で、扶余族盟主の後裔である高句麗王、百済王を弱小で辺境の新羅国から輩出するという奇跡に近いことをしました。
 舒明朝は、587年の丁未の変以来の物部総本家の推古・皇極朝との覇権抗争を決算した皇朝で、このために衰退・滅亡しました。その大きな出来事は、642年の高句麗宰相・淵蓋蘇文(=第40代天武)による高句麗第27代栄留王=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷の弑逆、645年の乙巳の変での百済・翹岐(ギョウキ)王子(627年生~672年歿)=新羅波珍飡(4等官)金善品(新羅第25代真智王の弟の金仇輪の子)=中大兄皇子[=第38代天智]らによる高句麗太子・物部(蘇我)入鹿の暗殺、668年の第38代天智による第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文の皇位簒奪(サンダツ)、672年の大海人皇子[=淵蓋蘇文=第37代斉明A=第40代天武]による第38代天智の暗殺がありました。それらは、記紀に記載するにはあまりにも不都合な事件でした。淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)[=第40代天武]が関与した時代の倭王『大王』の系譜自体を改竄せざるを得ないことでした。
 第34代舒明(ジョメイ)は、第29代欽明と同様に、物部氏と同盟して興隆し、離反することによって衰退します。第26代継体、第29代欽明、第34代舒明(ジョメイ)、第36代孝徳は、三韓の「DNA縄文人」である実権者の尾張氏か物部氏と離反した時に、追放されます。これが、達頭=聖徳太子と第40代天武の遺言の十七条の憲法の第一条、「倭(=縄文人政権)に背くな」の源初です。
 
第34代舒明(ジョメイ)の母が違う子供達は、高句麗、百済、新羅、倭国の各国の王に即位ないし覇権を握りました。母が違う系統が、高句麗、百済の滅亡を早め、統一新羅の原動力となります。

 高句麗は、第34代舒明(ジョメイ)と額田部皇女の孫の淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(595年生~673年歿)が高句麗宰相・将軍として高句麗の覇権を掌握し、高句麗物部朝を滅亡しました。そして、655年頃に親新羅の倭国亡命政権の第37代斉明A淵蓋蘇文を樹立し、倭国『大后』を新羅真骨正統第4代首主・額田王としました。

 百済は、第34代舒明(ジョメイ)と宝皇女[=百済王妃・宝公主=新羅後王妃・涓花夫人]との子の百済第31代(末王)義慈王(在位:641-660年)=第36代孝徳(コウトク)で、百済末王となります。

 新羅は、第34代舒明(ジョメイ)=新羅・金舒玄将軍と新羅王妃・万明皇后=天明/天命公主との子は、新羅統括将軍となり、後の統一新羅の最大貢献者である金官加羅・金庾信(ユシン)(595年生~673年歿)と、妹の新羅真骨正統第4代首主・額田王[新羅・文明王后(新羅第29代武烈王(在位∶602~661年)の王妃)、第37代斉明A淵蓋蘇文の倭国『大后』、第38代天智の妃]です。

 達頭=上宮法王=聖徳太子は、高句麗物部朝と深く関わっており、物部氏に協力して高句麗欽明朝や百済舒明朝の建朝の役をしました。しかし、高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)が642年に高句麗物部朝を滅ぼしたことによって、物部氏のバックアップをその後失いました。淵蓋蘇文は、倭国政事統括者の「DNA縄文人」の力をよく知っており、物部氏から新羅・尾張氏に乗り換えました。

舒明朝は、物部氏との同盟により興隆し、物部氏から離反し高句麗を追放されました。
     百済を終焉させた新羅金氏16世代・百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=第36代孝徳は、金氏宗国の尾張氏系の新羅に見離され、高句麗物部朝を父が滅ぼしたので物部氏に見離され、宗主の高句麗は事実上滅亡しており、百済は滅亡すべくして滅亡したと見ることができます。
 ただし、東倭国は、物部氏と百済垂仁朝と百済応神朝と百済雄略朝の和邇氏にとって重要な意味がありますが、過去のことです。しかし、和邇氏後裔の藤原氏にとっては、過去のことではなく、現在のことです。これが、滅亡後の百済が脚色された理由です。
 高句麗物部朝を滅ぼした第34代舒明(ジョメイ)の孫の淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(595年生~673年歿)が、物部氏を見限って、新羅の尾張氏の陣営につく道は、新羅と尾張氏に利用だけされることを意味し、閉ざされていました。現在の主流の天武評価が粉飾に満ちたものであり、実際は第40代天武に在位中は孤独であったとの分析もあります。
 
古事記は、本貫が金官加羅の出自系統である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生~673年歿)が、金官加羅系の宗家である百済舒明朝を見離して、親新羅の倭国亡命政権を樹立した時に王位正統性を粉飾するために、第33代推古(スイコ)天皇B額田部皇女(554年生~628年歿)を直の継承元とした編纂を発議したもので、舒明朝は除外されています。
 また、日本書記は、新羅・尾張氏外戚の女帝・第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と新羅本貫の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原不比等が編纂責任者です。第44代元正(ゲンショウ)の母は、『大后』になれず、第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)に匹敵できる皇位正統性を示すために第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を自らの継承元として編纂したものです。
 古事記も日本書記もいずれも舒明朝は、終焉王朝で大きな意味をもっていません。したがって、舒明朝の真実を隠蔽・改ざんするのは当然の帰結です。今後の詳細な解明を待ちたいと思います。
 
終焉王朝である舒明朝は、論理的に不自然な伝承が多々見られるのは、必然の帰結です。
 
次の時代は、物部氏の代わりに、伽耶本貫の和邇氏が新羅・尾張氏と組んで、倭国で興隆します。
 因みに、「藤原」の語源は、伽耶の中心に位置していた火自振(ヒジフル)です。火自振(ヒジフル・日出原)の古地名は、三世紀に見られる「不斯(フシ)」です。『ヒ』とは『日』のこと、「ブル」は九州各地の「原(注:小さなレベルの国の意)」の読み方が「バル」ということで同音同義です。「ヒジフル(火自振)」は「ふじわら(藤原)」です。 
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