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3-4-4.物部氏系の第29代欽明

*写真は、マヤのパレンケ13号神殿出土のパカル王(在位:615~683年)の妃とされる第一位祭祀女王「赤の女王」。

3-4.記紀の本史である第26代継体以降 
3-4-1.第26代継体
3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造に関する考察
3-4-3.尾張氏系の宣下朝(第27代安閑、第28代宣下)


3-4-4.物部氏系の第29代欽明(506年生~576年歿)

 第29代欽明(506年生~576年歿)は、物部氏と同盟し、『大連』にも一時繋ぎとして就いたが、最後は、物部氏に対抗して追放されました。物部氏と同盟したのは、共に、新羅に差別化されていた伽耶が本拠地であったからです。物部氏に追放されたのは、「DNA匈奴金氏」で、違う種族であったからです。もう一つ特質することは、金官加羅は古来より中央アジアの柔然・突厥を第二本拠地としていたことです。それは、物部氏や尾張氏や大伴氏が、ペルシアやエジプト、ローマ帝国、イスラム圏、キリスト圏の情報を得ていたことを示します。

父は、第26代継体で、独立の支配権をもった新羅王族分国の金官加羅国の出自です。母は、第26代継体の(金官加羅国)王妃となった物部氏系の手白香(テシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)=新羅朴氏思道夫人です。
 金官加羅・金武力=第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)は、母系制によって、母の一族の伽耶で庶子新羅王子として生育し、長じて高句麗に移ります。
 主な伴侶と子です。作為が多いです。
・皇后・石姫皇女(父は第28代宣化天皇)
 :第30代敏達天皇
・妃・堅塩(キタシ)媛(生没年未詳)(父は蘇我稲目宿禰=第29代欽明)
 :(?第31代用明天1皇)
 :額田部(ヌカタベ)皇女
 :(?山背(ヤマシロ)皇子)
・妃・小姉(オアネ)君(父は蘇我稲目宿禰=第29代欽明)
 :(?穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇女)(子が厩戸皇子=聖徳太子)
 :泊瀬部(ハツセベ)皇子=第42代崇峻天皇
・妃・糠子(ヌカコ)(父は春日日抓臣)
 :春日山田皇女(第27代安閑の皇后、子なし)
 
506年(継体は56歳頃、欽明誕生、手白香(テシラカ)皇女は15歳から20歳位でしょうか)、金官加羅・金武力[=第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)=新羅・魏花(魏花は只召(チソ)太后(=尾張目子媛)の情人)=新羅・粛訖宗(スックルチョン)=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=物部大市御狩(先代旧事本紀)=物部倭古/弓削倭古(先代旧事本紀)]が誕生しました。
 
因みに、物部氏、春日大娘皇女=新羅・興道/吾道(オド)娘主、手白香(テシラカ)皇女=新羅・朴氏思道夫人(?~614年2月歿)は、新羅ではなく、新羅王族分国の伽耶が本拠地です。このことは、新羅・正元神統の王妃族は、新羅ではなく、新羅王族分国の伽耶が本拠地であったことが考えられます。
 
519年(欽明は13歳)、蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、第27代安閑との高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)(=第26代継体)の後継争いに敗れ、百済に亡命し、一族は百済木(キ)氏を称します。
 
523年(欽明は17歳)、蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、反正朝の王位継承正統者の百済第25代武寧王(在位:501~523年)の後継として父の金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体=新羅第22代金氏智証・麻立干 (在位:500~514年)=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)]のバックアップにより百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)に擁立されます。百済第25代武寧王(在位:501~523年)の継嗣の淳陀太子(482年頃生~513年歿)は、倭国で没しています。
 
531年(欽明は25歳)、百済第26代聖王(在位:523~554年)[=29代欽明=蘇我稲目(506年生)]は、細(サイ)群系(尾張氏外戚系)の高句麗第22代安蔵王(在位:498~531年)[=第27代安閑(アンカン)]に圧力をかけて細(サイ)群系(尾張氏外戚系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=第28代宣化(センゲ)=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)]に譲位させました。
書紀は、531年(欽明は25歳)あるいは532年に第29代欽明=蘇我稲目(506年生)[=百済第26代余氏聖王/聖明王(在位:523~554年)]は倭国亡命と記載していますが、小林恵子は新羅に行ったと推測しました。記紀は、高句麗第22代安蔵王(在位:498~531年)は倭国に亡命し、第27代安閑(アンカン)に即位したと記しましたが、蘇我稲目=第29代欽明は倭国ではなく新羅に行き、新羅に亡命した高句麗・安蔵王(在位:498~531年)[=第27代安閑(アンカン)]を新羅で殺害したのです。
 
532年(欽明は26歳)、新羅第23代金氏法興王 (在位:514〜531年)=尾張連草香は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体=新羅第22代金氏智証・麻立干 (在位:500~514年)=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)]を反新羅の黒幕の動きにより追放し、独立な支配権をもった新羅王族分国の金官伽倻国を新羅に併合しました。高句麗・安蔵王(在位:498~531年)[=第27代安閑(アンカン)]の殺害の黒幕ないし当事者は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体であったからです。
 
物部本宗家第14代物部麻佐良(マサラ)の子の物部本宗家第15代物部麁鹿火(アラカビ)(536年歿)と分家の第15世代物部尾輿(オコシ)の時代に物部本宗家の世襲が不安定になりました。物部尾輿の子に物部守屋(モリア)(587年歿)と姻族の「DNA匈奴金氏」である物部御狩/大市御狩[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]がいました。第29代欽明の母が高句麗の麁(ソ)群(物部氏外戚系)中婦人の高句麗妃の新羅朴氏思道夫人=手白香(タシラカ)皇女(新羅第24代真興王の王妃)]でした。
 536年直後(欽明は30歳頃)、物部本宗家第15代物部麁鹿火(アラカビ)(536年歿)の世継ぎがなく、また、『大連』物部氏の継承候補者となる物部守屋(モリア)(587年歿)も幼く、物部本宗家分家の姻族である蘇我稲目(506年生)=第29代欽明が物部御狩/大市御狩の名で『大連』を中継ぎすることになりました。蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、物部御狩/大市御狩の家族環境が同じであることより『大連』物部御狩/大市御狩(先代旧事本紀)に比定されます。
   そのため、第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)は、物部大市御狩(義父は『大連』物部目、457年から474年には少なくとも生存)、物部贄古(ニエコ)/石上贄古(ニエコ)(義父は安閑・欽明両天皇の頃の『大連』物部尾輿、534年から552年には少なくとも生存)、物部弓削倭古、といった物部氏の別名をもっています。
 
『大連』物部尾輿は、弓削倭古連[=物部大市御狩(先代旧事本紀)=蘇我稲目=第29代欽明]の二人の娘の弓削阿佐姫[=蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主]と異母妹の弓削加波流(カハル)姫[=石上氏蘇我小姉君]を妻としました。弓削阿佐姫の母は、新羅・真骨正統祖で尾張氏系の高句麗妃の尾張目子媛=新羅・摂政只召(チソ)太后です。弓削加波流(カハル)姫の母は、橘仲媛[新羅第24代真興王(在位:540年~576年)(=第28代宣化)の王妃]=?手白香(テシラカ)皇女です。つまり、『大連』物部尾輿は、新羅・真骨正統祖と新羅・大元神統系の両方の娘と通婚しています。
 
532年頃(欽明は26歳頃、堅塩媛誕生)、蘇我堅塩(キタシ)媛(推測:532年頃生まれ)=新羅・阿陽公主が、第29代欽明と高句麗妃であった尾張目子媛との間に誕生します。後に、蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主は、西突厥・吐務[=蘇我稲目=第29代欽明]の子として、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になります。第29代欽明は、新羅摂政只召(チソ)太后(=尾張目子媛=新羅・息道夫人)の情人の魏花の名で記されています。記紀は、皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛の母は、手白香(テシラカ)皇女=新羅・朴氏思道夫人(?~614年2月歿)に改ざんしています。蘇我堅塩(キタシ)媛の娘の額田部皇女や蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫の娘の石上氏
石上氏穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女がペルシアないし中央アジアと関係があり、倭国『大后』の系譜上重要な位置を占める蘇我堅塩(キタシ)媛の素性については今後の課題が残されています。
 
538年(欽明は32歳)、百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=蘇我稲目(506年生)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)]は、百済国都を熊津(クマナリ、忠清南道公州市)から泗沘(シビ、忠清南道扶余郡)に遷都し、「南扶余」と国号を改め、百済王姓を扶余から取った「余氏」に変えました。このことからも百済第26代聖王(=第29代欽明)は、百済第25代武寧王(在位:501~523年)の実子ではないことがわかります。
 
百済聖王(=蘇我稲目=第31代欽明)は、540年から7年間は百済本記に登場しません。小林恵子によれば、百済外にいたからです。
538/552年、仏教が、百済から倭国に公伝されました。372年、仏教が、高句麗第17代小獸林王(在位:371~384年)[=第8代孝元(コウゲン)]の時代に前秦から公伝されました。384年、仏教が百済国内に入りましたが、本格的に普及するのは6世紀初頭です。
 新羅は、新羅第23代法興王(在位:514~540年)[=尾張連草香]が仏教を公認しました。
 倭国には、渡来人(帰化人)が倭国『大后』への朝鮮半島の新しい文明として仏教の仏像や仏典を献上しました。522年に来朝した司馬達等(止利仏師の祖父)はその例です。
 日本書紀は、日本への仏教伝来ついて、第29代欽明天皇「戊午年」[注:「戊午年」は欽明時代に存在しないが、「戊午年」は欽明13年(552年)と解釈されている]に百済の聖明王/聖王[=第29代欽明]が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教を賞賛した上表文を献上したと記されています。この上表文中の『金光明最勝王経』の経文は703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の粉飾で、上表文の部分の書紀の記述の信憑性が疑われています。欽明天皇13年(552年)についても、釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年にあたるなど、後世の作為で、宣下3年「戊午年」(538年)説があります。百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]が、母の手白香(テシラカ)皇女=新羅・朴氏思道(サド)夫人(534年生~614年歿)[新羅第24代真興王(在位:540年~576年)の王妃]に新舶来品の一つとして献上したのが原初です。
 
545年(欽明は39歳)、第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目は、物部氏と同盟して、高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化]から高句麗王位を簒奪して高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)]に就きます。
 それは、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)[=尾張連草香]以来、新羅が真骨正統(尾張氏系)の独占体制に変わったので、倭国物部氏にとって高句麗王の外戚の系列化は盛衰をかけた戦いでした。 
 三国史記は、高句麗第24代陽原王(=蘇我稲目=第29代欽明)は王位争いに敗れた細群(尾張氏系)の二千余人を皆殺しにしたと記しました。しかし、敗れた高句麗第23代安原(アンゲン)王/安岡上好王(在位:531~545年)=第28代宣下は、新羅に移動して新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)として存命しており、誇張です。
 
551年、サーサーン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になっていた蘇我稲目=第31代欽明の娘の蘇我堅塩(キタシ)媛が高句麗に帰国しました。この時、蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫(532年頃誕生)、石上氏蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主は、揃ってサーサーン朝ペルシア帝国から帰国したようです。551年のサーサーン朝ペルシア帝国からの帰国は、ホスロー1世とエフタルとの対立が激化したことが考えられます。588年に、ホスロー1世は、突厥西方(現イリ)の室点密(シチテンミツ/イステミ)=第29代欽明と同盟を結び、長年の懸案だったエフタルを滅亡させました。

552年(継体は102歳頃、欽明は46歳)、異母兄の第26代継体の長男の土門(古テュルク語のブミン/カガンの意)が、柔然を滅ぼして、突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)に就きます。
 552年(継体は102歳頃、欽明は46歳)、第26代継体(506年生まれ)が、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム) となります。これは、継体の歿後の追贈称号と思われます。
 552年(欽明は46歳)、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(=継体天皇)の子(兄)の伊利(イリ)可汗(在位:552~?年)は柔然から独立すると、シル川方面に異母弟の室點蜜[=西突厥のシルジブロス/室點密可汗(シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目(506年生~570年歿)=第29代欽明(キンメイ)]を配置し、西方の守備と攻略を任せました。
 蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、552年から559年まで、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)と西突厥・室點蜜の両方で活動していることになります。 
 
553年頃(欽明は47歳頃、達頭誕生)、第29代欽明(=蘇我稲目)が高句麗王と百済王の時に、新羅・太陽公主=穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女(622年歿)との子の達頭が誕生します。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女の「間人はペルシアの意」が示すように、達頭は、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女が551年にペルシアから高句麗に帰国した時の子です。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女 =新羅・太陽公主は、母が石上氏蘇我小姉君(612年歿)=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主、父が第29代欽明です。ただし、母が、蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫(532年頃誕生)の異母妹の蘇我小姉君(612年歿)ですので、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女は幼少(仮定:550年頃誕生)で、今後の課題です。達頭の経歴からみると、金官加羅系ですので、母が物部氏系の手白香(テシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)=新羅朴氏思道夫人]である蘇我小姉君(612年歿、仮定:535年頃誕生)が母であっても不自然ではありません。蘇我小姉君と穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女は、同一人の可能性があり、達頭は突厥西方の室点密(シチテンミツ/イステミ)=第29代欽明と穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女(蘇我小姉君のペルシア時代の名か?)とのペルシアでの子とした方が、達頭の経歴により一致します。
 
554年(欽明は48歳)、百済に亡命移住していた高句麗王子・安岡上王[=第30代敏達(ビダツ)]は、父の蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明の百済王を継承して、百済第27代威徳(イトク)王(在位:554~598年)に即位しました。
 554年7月(欽明は48歳)、記紀と三国史記百済本記は、百済第26代聖王(在位:523~554年)[=蘇我稲目(506年生)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]は、大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦い、緒戦で奇襲を受けて戦死したとしていますが、高句麗王には在位していますので、これらは常套手法の作り話です。三国史記高句麗本記では、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)(=蘇我稲目)は、559年に歿しています。小林恵子によれば、実は、百済聖王[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]は、西突厥に移動し、シルジブロス(室點密可汗)(在位:562年~576年)に就きました。記紀では、第29代欽明(キンメイ)(=蘇我稲目(506年生))は、570年歿です。三人の別人として、三つの死亡年が捏造された典型例です。
 
高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明は、物部守屋(モリア)が長じて『大連』を継いでも、『大連』も高句麗王も手放そうとしませんでした。
 556年(欽明は50歳)、4歳の「DNA縄文人」である蘇我馬子(551年生)=物部宗本家14世代・物部宇麻呂は、「DNA弥生人混血縄文人」である物部宗本家14世代『大連』物部守屋の後ろ盾により、倭国から一端百済に移動待機しました。高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]を引退させ、物部宗本家14世代・物部宇麻呂=蘇我馬子(551年生)を第25代平原王の後継とする『大連』物部守屋の策でした。
 
559年(欽明は53歳、馬子は8歳、達頭は3歳頃位)、高句麗第24代陽原王(在位:545〜559年)[=蘇我稲目(506年生)=『大連』物部大市御狩=第29代欽明]が物部(蘇我)馬子への高句麗王への継承を守らないので、『大連』物部守屋により高句麗、朝鮮半島から永久追放され、金官加羅の第二本拠地である中央アジアに移住します。
 559年(欽明は53歳、馬子は8歳)、倭国政事統括者である物部宗本家第14代『大連』物部守屋は、尾張氏外戚の新羅に対抗するために高句麗物部朝化を図り、「DNA匈奴金氏」である蘇我稲目の子として「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部総本家の幼少8歳の物部宗本家14代物部宇麻呂=蘇我馬子(551年生ま~628年歿)を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)]に擁立しました。
 
562年(欽明は56歳、達頭は9歳頃)、蘇我稲目(506年生)[=高句麗第24代陽原王(在位:545〜559年)=第29代欽明]が、西突厥の初代西面可汗・室点蜜(イステミ、室点密第26代可汗、瑟帝米)/シルジブロス(在位:562年~576年)に就きます。
 
562年(欽明は56歳)、新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)]は、西突厥の初代西面可汗・室点蜜(イステミ、室点密第26代可汗、瑟帝米)/シルジブロス(在位:562年~576年)[=蘇我稲目=第29代欽明]の報復を恐れて、蘇我稲目の母国である独立した支配権を持っている新羅王族分国の大加羅国(一名:高霊(コリョン)伽耶)を新羅に併合し、続いて、倭国政事統括者の物部氏が支配する倭国分国の日本府任那を滅ぼしました。朝鮮半島南東部はすべて新羅国となり、物部氏は、朝鮮半島の分国拠点を失いました。
 
567年(欽明は61歳)、突厥大可汗・木汗可汗(在位:553年~572年)の代に、室點蜜[=蘇我稲目=第29代欽明]は、サーサーン朝ペルシャ帝国と共同してエフタルを滅ぼしました。
 
574年頃(達頭は15歳頃)、達頭は、金官加羅の慣例によって、新天地を求めて北魏に仕官します。
 
576年(欽明は71歳、達頭は18歳頃)、蘇我稲目=第29代欽明は、金官加羅の第二拠点の中央アジアで逝去します。
 576年(達頭は18歳頃)、突厥の初代両面可汗の室點蜜[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]が退位(死歿)し、子の玷厥(テンケツ)[=達頭(553年頃生)=上宮法王=聖徳太子]が後を継いで、第二代西面可汗・達頭可汗(タルドゥ・カガン、在位:576年~603年)阿史那(アシナ)氏玷厥玷厥(テンケツ)に任ぜられ、中央アジアの統治を任されました。達頭は、欽明の高句麗王や百済王や金官加羅国の継承ではなく、中央アジアの西突厥を継承します。
<以上>