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3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造に関する考察

*写真:2024.4.1 兵庫県三木市の伽耶院(ガ・ヤ・イン)の枝垂れ桜。伽耶同盟の後期盟主の大賀羅/大加羅(オオ・ガ・ラ)国の初期の呼音が、「賀/加(ガ)」であることを残している。二国合体を表す「迦/加(カ、金官迦羅/金官加羅の略字)・賀(ガ、大賀羅/大加羅の略字)」、第9代開化の『大后』伊迦賀色許売(イカガシコメ)命の「迦・賀(カ・ガ)」と同様に初期の呼音が残っている。


3-4-2.第26代継体以降の皇統譜の構造に関する考察 

表10 .第26代継体以降の高句麗王と百済王と記紀の同一人の倭王『大王』

記紀の本史である第26代継体以降の皇統譜は、多くの系統を繋ぎ合わせており、国の皇統譜の体をなしているとは言い難いです。これは、記紀が元々母国の高句麗、百済滅亡後の倭国亡命政権をもっともらしく見せかけるために創作した系譜に原点があって、正統な国史ではないからです。とは言うものの、記紀が事実を元に隠蔽、改ざんをしている限り、根気よく科学的論理で探究していけば、事実が湧き出てきます。科学的論理は、この宇宙が138億年前に誕生したことを突き止めたのですから。

第26代継体以降の皇統譜は、第26代継体の継嗣の安閑朝(第27代安閑、第28代宣下)、第26代継体の嗣子の欽明朝(第29代欽明)、第29代欽明の継嗣の敏達朝(第30代敏達、[捏造王]第31代崇峻)、そして、第29代欽明の嗣子の達頭、達頭の嗣子の舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)、更に、第29代欽明と額田部皇女と深い関係があった「DNA縄文人」である高句麗物部朝(第31代用明、第35代皇極)の六つの系統を繋ぎ合わせた皇統譜です。
 第33代推古B額田部皇女とその娘の第35代皇極B宝皇女は、記紀が粉飾した達頭と隠蔽した物部(蘇我)蝦夷の傀儡である女帝です。

このような複雑な構造の皇統譜にせざるを得なかったのは、記紀編纂者達が直接関係する不都合な出来事を隠蔽するためと、第40代天武が親新羅の倭国亡命政権であり、記紀が人工的に作った皇統譜であるためです。
 
第31代継体以降の六つの皇統系統は、物部氏と尾張氏による対立・抗争しながら、第31代継体の多面性をそれぞれがある面を引き継いでいきます。
 
安閑朝(第27代安閑、第28代宣下)の第27代安閑は、父が第31代継体、母が高句麗妃・尾張目子媛です。その弟が第28代宣下で、新羅・尾張氏系の最初で最後の高句麗王朝です。尾張目子媛と父の尾張連草香の母は、未詳とされています。
 
第29代欽明(506年誕生)は、父が第31代継体(550年頃誕生)、母が(金官加羅国)王妃・手白香(タシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)です。第29代欽明は物部氏と同盟し、安閑朝(第27代安閑、第28代宣下)の第28代宣下から百済王や高句麗王を簒奪して就きました。また、第31代継体の出自の金官加羅の第二拠点である中央アジアの突厥の系譜も引き継ぎました。欽明朝(第29代欽明)は、高句麗物部朝(第31代用明、第35代皇極)の一時繋ぎの高句麗王として擁立されました。最後は物部氏から高句麗王、朝鮮半島から追放され、中央アジアの突厥に永住移動します。
 
敏達朝(第30代敏達)の第30代敏達は、父が第29代欽明[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)]、母が高句麗王妃の石姫皇女です。
 本来、第30代敏達は第26代継体、第29代欽明の正統継嗣ですが、高句麗物部朝の樹立によって閉ざされ、記紀の皇統譜の矛盾を隠すために挿入された皇朝となります。それは、父の第29代欽明が『大連』物部守屋により一時的な繋ぎとして高句麗王に擁立されたにもかかわらず、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)]を手放さなかったので、追放されたからです。

第32代崇峻は、第29代欽明の子の実在者ですが、三韓のどの王にも即位していないことが示すように、記紀が不都合な出来事を隠蔽するために、倭王『大王』に捏造したものです。
 
達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃誕生)は、父が第29代欽明(506年誕生)、母が 穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女 =新羅・太陽公主 で、記紀は倭国太子と百済王に捏造し、第33代推古B額田部皇女を傀儡にしました。達頭は、第29代欽明の中央アジアの突厥の系譜を引き継ぎます。そして、高句麗物部朝の物部(蘇我)馬子に忠誠を尽くし、物部(蘇我)馬子のサーサーン朝ペルシアの系譜も引き継ぎます。また、達頭は、欽明朝(父)と舒明朝(子)の繋ぎ役と、高句麗物部朝を欽明朝に擬制的に取り入れる役割をします。額田部皇女は、第一伴侶が物部(蘇我)馬子、第二伴侶が達頭で、高句麗王妃、サ-サ-ン朝ペルシア帝国王妃、百済王妃を歴任する『大后』中の『大后』です。
 「DNA匈奴金氏」である欽明朝から舒明朝との間の断絶は、「DNA縄文人」である高句麗物部朝(第31代用明・物部蘇我馬子、第35代皇極・物部蘇我蝦夷)の樹立によって引き起こされたものです。欽明朝(第29代欽明)と舒明朝朝(第34代舒明、第36代孝徳)との断絶を埋め、継承性を示すために、第29代欽明の子であり、第34代舒明の父である達頭を倭国太子に、また、第33代推古B額田部皇女を達頭の傀儡としました。第34代舒明は、実父の達頭ではなく、達頭の父の第29代欽明の子として系譜の一貫性を見せかけました。
 記紀は、第33代推古B額田部皇女を達頭の傀儡にします。また、達頭との娘の宝皇女を物部(蘇我)蝦夷の傀儡として第35代皇極B宝皇女(593年生~661年歿)にして付け加えました。宝皇女は、母の額田部皇女の百済武王妃を引き継いだ後王妃、新羅王妃にも就きます。宝皇女は、物部宗家『大連』を復興させた石上氏麻呂の母と推測され、また、第38代天智の母です。宝皇女は、倭国朝とその後の親新羅倭国亡命政権、統一新羅を繋ぐ役でもあります。記紀は、達頭、額田部皇女、宝皇女の多くの逸話を創作し、第38代天智、第40代天武が倭国朝を継承したことを強調します。
 
舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)の第34代舒明は、実父が達頭=上宮法王=聖徳太子(記紀は父を任那伽耶・金武力=第29代欽明とする)、母が皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主=石上氏宮古郎女(先代旧事本紀)=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻です。舒明朝は、達頭の継嗣皇朝というよりは金官加羅を母国とする皇朝で、欽明朝の金官加羅の系譜と高句麗王と百済王を引き継ぎました。
 第34代舒明[=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)]は、高句麗物部朝の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)への一時繋ぎとして高句麗王に擁立され、高句麗王退位の代わりに百済王をあてがわれたにもかかわらず高句麗王を退位せず、最後は高句麗王を追放され、百済王に専属しました。第34代舒明が朝鮮半島から追放されなかったのは、殺害された『大連』物部守屋の後継がいず、物部氏の覇権が弱くなっていたからです。
 第34代舒明の継嗣の百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=第36代孝徳は、宗主の高句麗は既に642年に実質滅び、バックの物部氏は『大連』物部(蘇我)蝦夷=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)を暗殺した「DNA匈奴金氏」に不信感をもち、660年の必然的な百済滅亡の末王となります。ただ、舒明朝と同じ母国の伽耶の出自である倭国『大后』に配慮して、記紀は脚色して記しています。
 660年の百済滅亡は、高句麗・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)と尾張氏系新羅との同盟密約があったのではないかと思えるほどです。
 
高句麗物部朝(第31代用明、第35代皇極)の第31代用明=物部(蘇我)馬子は、父が物部目、母が蘇我堅塩(キタシ)媛=物部氏宮古郎女=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻です。高句麗物部朝は、『大連』物部守屋により559年に物部(蘇我)馬子を擁立して建朝されました。第31代用明=物部(蘇我)馬子が、血統誤解から物部(蘇我)蝦夷の誕生祝いで高句麗に来た「大連」物部守屋を587年丁未(馬子は36歳)に殺害しました。高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)は、「DNA匈奴金氏」の高句麗王朝の再興を目論んで第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)を高句麗にて642年に暗殺しました。第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷でもって、高句麗は642年に事実上終焉します。
 記紀は、系譜系統の一貫性を見せかけ、不都合な事実を隠蔽するために、高句麗物部朝の第31代用明・物部(蘇我)馬子の第一伴侶であり、達頭の第二伴侶である額田部皇女を傀儡の第33代推古天皇B額田部皇女とし、系譜系統の一貫性の仲介役としました。三国史記百済本記は、記紀と連動して、高句麗物部朝の第31代用明・物部(蘇我)馬子を百済第28代恵王(在位:598~599年)に捏造し、そして、達頭を百済第29代法王(在位:599~600年)に捏造しました。そして、高句麗物部朝の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)を滅ぼした高句麗宰相・将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A=第40代天武]と、高句麗太子・蘇我入鹿を滅ぼした中大兄皇子[=第38代天智]の不都合な事実を隠蔽するために、高句麗物部朝の物部(蘇我)馬子の実父は第29代欽明とし、高句麗物部朝を欽明朝に繰り入れました。そして、物部(蘇我)馬子は、物部馬古と蘇我馬子の二人の存在に分割しました。

もう一つ付け加えたいのが、尾張目子媛の娘の皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃に誕生)の系統です。蘇我堅塩(キタシ)媛[=物部氏宮古郎女=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻]は、実母が尾張目子媛[=新羅摂政只召(チソ)太后](記紀は手白香皇女を母とする)、父が第29代欽明です。蘇我堅塩(キタシ)媛は、物部氏、女性氏族名の弓削氏、新羅の公主(正妃の娘の称号)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻といった多くの別名と経歴をもっています。そして、蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃に誕生)は、父が物部目の物部(蘇我)馬子、父が第29代欽明の額田部皇女、父が達頭の第34代舒明の生母です。皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛は、尾張目子媛のもう一つの後裔系統であり、その後裔には物部氏系である額田部皇女、宝皇女、間人(ハシヒト)皇女、鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生-702年歿)がいます。皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛の後裔系統は、物部氏系と尾張氏系の混血系統です。皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛の別名からは、「蘇我氏」はペルシアあるいは突厥の倭名、「弓削氏」は新羅・尾張氏系の女性氏族名の倭名が考えられ、今後の課題です。皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛が新羅・阿陽公主と同一人であれとすれば、蘇我堅塩(キタシ)媛の実母が手白香(タシラカ)皇女ではない根拠になります。
 
以上のように、記紀は、欽明朝(第29代欽明)と舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)を基軸皇統譜とし、時代性と統治体制の継承性を無視した皇統系譜を編成しました。いわゆる倭国皇朝は、第36代孝徳で終焉し、その後は、親新羅の倭国亡命政権の皇統譜です。そこに、繋ぎと不都合な出来事を隠蔽するための捏造王もまじえた皇統系統を挿入しました。

古事記の編纂を発議した倭国亡命政権の第40代天武の最大目的は、遠祖の金官加羅国王の第26代継体以来から続いた第40代天武の系譜を示し、尾張目子媛の後裔の第33代推古B額田部皇女の後継継承者であること示すことと、自分の不都合な出来事を隠蔽することです。
<以上>