カンナユウタ

塾講師です。 作詞作曲が趣味でした。 そして書くことが好きで、 また少しづつやりたいこ…

カンナユウタ

塾講師です。 作詞作曲が趣味でした。 そして書くことが好きで、 また少しづつやりたいことを取り戻そうと、ゆるく生きています。

最近の記事

あんなに熱中していたことをやらなくなってしまったって話

昔あんなに熱中していたことも なんだかすっかりやらなくなった なんてことはよくあること。 自分も数十年間続けてきた趣味を 父が亡くなったのをきっかけに ぱったりとやらなくなってしまった。 使い古されてしまった言葉を使うと 「心にぽっかりと穴が開いた」 ってやつなのかもしれない。 父はケガと病気で身体障がい者だった。 それは自分が生まれたときから すでにそういう状態だったので、 自分にとっては 特に衝撃的なことでもなかった。 父は優しく、都合の悪い体を うまく使ってなんでもす

    • あれが僕にとってロックが本当に面白かった時期なのかもしれないって話

      1980年代の前半は、僕にとって 目まぐるしいことのオンパレードだった。 まず、当時中学生だった僕は、 びっくりするほどのド田舎で 友人とハードロックバンドを結成して ドラマーの座に就いたことだ。 当時はNWOBHM(ニューウェイブ・ オブ・ブリティッシュ・ヘビーメタル) のムーブメントが起き始めた頃。 それまでは「ハードロック」 と言われていた音楽が、 「ヘビーメタル」に変わっていった頃だ。 はっきり言って僕には何度聞いても その違いがよく判らなかった。 僕らのバンドのギ

      • 「これが自分のロックの芽生えなのかも」って話

        小学生の頃の話だけにおぼろげなのだが、 きっとこれが自分にとっての ROCKの目覚めだったのかも…って話。 僕が初めて買ったレコードは、 「太陽にほえろ!」。 このレコードがそんなに欲しかったのか というと、実際はそんなでもなかった。 でも、その当時の僕には、 自分のレコードを持つということへの 強い憧れと意味があったのだ。 ド田舎の小学生だった僕が、 いろんなことを我慢して ようやく貯めた3000円。 僕はその大金を握りしめて 「とにかく自分のレコードが欲しい」 という

        • 「次の駅へ!」

          僕の住んでいたド田舎の町には、 それでもローカル線が通っている。 1時間に1本から2本はあり、 住んでいた頃は特に不便を 感じることはなかった。 心配になるほどギシギシ音がしたり ボックス席に他人同士が座ることを 許さない田舎の謎ルールがあったり、 都会生活に慣れてしまった僕には、 今となっては「トホホ」なことも 数多くあるが、 それでも思い出が詰まった 愛すべきローカル線である。 2011年3月11日の東日本大震災で 三陸鉄道が受けた被害を テレビで見たときは、なんだか

        あんなに熱中していたことをやらなくなってしまったって話

          「たいして音楽が好きじゃない人」って言われちゃった話

          あれは大学生の頃だろうか、 「レコードやCDを買うほど好きな  ミュージシャン」について 友人たちと話をしたことがある。 要するにレコードやCDを沢山買う人 のほうが音楽好きだという、 ただのマウントの取り合いなわけだが 僕はこのことにとても傷ついてしまった。 クマよけの鈴を鞄につけて登校するほど ド田舎出身の僕が都会の大学に入学して、 友達がいない寂しさから入ったのが バンドのサークル。 ほとんどの人が都会育ちで 地方出身者でも、自分ほど田舎から 出てきた人は珍しかった。

          「たいして音楽が好きじゃない人」って言われちゃった話

          ディストーションでギャァァーン

          僕が中学生の頃はニューミュージックが 全盛で、ヒットチャートの約半分は ニューミュージック系のミュージシャン が占めていた。 このミュージシャンたちが宣伝した アコースティックギターはバカ売れし、 僕が住んでいた、あのドドドド田舎 でさえ、ちょっとした音楽好きなら 間違いなくギターを持っていた。 「えっ!?お前が?」っていう友達が ギターを持っていた時には 目を丸くして驚いたものだ。 ちなみにこのニューミュージックだが、 音楽的なジャンルのくくりではなく、 シンガーソングラ

          ディストーションでギャァァーン

          アリスとジューダス・プリースト   その5

          放課後、教室で結果を待っていた僕たちに 職員会議が終わった先生から朗報が舞い込んだ。 「バンド、やってもいいってよ。」 話を聞くと、どうやら会議では 吹奏楽部以外には演奏させないという方向で 話がまとまりかけていたらしいのだが、 最後の最後に、校長先生が、 「生徒がやりたいことに対して、 なんでもそうやって締め付けるのは 良くないのでは?」 という一声で一転。ロックバンドの演奏を 許す方向で決まったらしいのだ。 この校長先生、当時としては珍しいほど 生徒と交流してくれる良い先

          アリスとジューダス・プリースト   その5

          アリスとジューダス・プリースト  その4

          僕たちのバンドは、少しずつ ロックバンドに変容していった。 何より僕にとって大きかった変化は、 裕がバンドを抜けたことだった。 その頃の彼は、あまり人前に出ることを 好まなかったため、 それは自然なことではあったのだが、 彼と始めたバンドに彼がいないのは、 とてつもなく寂しかった。 とにかく、中学2年生の後半になると、 僕はロックバンドのボーカルに なっていたのであった。 しかしながら、そこには 大きな問題があった。 僕には、ヘビーメタルの ハイトーンの声が出なかったのだ。

          アリスとジューダス・プリースト  その4

          思いがけない収穫?

          ほとんどリサーチもしないで         「note」に飛び込んで 手探りで書いていますが、 レイアウトやら画像の貼り付けやら わからないことだらけです。 まぁわからないことはわからないとして、 とりあえずはいいんです。 ですが、他の方の記事を読むと、 皆さんのレベルの高さに 自分の稚拙さと薄っぺらさを痛感します。 で、自分にもわかる記事から いろいろ勉強してみようと思って、 音楽関係やDTM、宅録、作詞作曲等で 検索してどんどん読んでいたんです。 すると、ある方が、自

          思いがけない収穫?

          アリスとジューダスプリースト その3

          その日僕たちは黒川の家にいた。 ドラムのオサムは部活動で忙しく、 僕と裕、そして黒川の3人だったと思う。 黒川の家は町の商店街の中にあり、 この町ではそこそこ知れた自営業を営んでいたので 家というよりは、店舗兼自宅のビルだった。 僕と裕は、黒川のお母さんが持ってきてくれた 紅茶とケーキを面の前にして、 わかりやすいほどに緊張していた。 4階建ての家、きれいなお母さん、そして紅茶とケーキ という組み合わせは、中学2年生の田舎の男子を 緊張させるには十分だった。 「まあ、食べて

          アリスとジューダスプリースト その3

          アリスとジューダス・プリースト その2

          僕たちのバンドは、その第一歩を踏み出した。 アコースティックギターとボーカルが僕と裕、 ドラムには野球部のオサム、 そしてエレキギターにイケメンの黒川だ。 4人の興奮は見た目にわかるほどで、 休み時間や放課後にはいつも肩を寄せ合い、 顔を近づけて、ずっとバンドのことを話し合っていた。 当然レパートリーは「アリス」だった。 また、ギターの黒川のたっての希望で、 「甲斐バンド」もレパートリーに加えられた。 何度も言うが、僕たちが住んでいたのは、 とにかく何もない田舎町だった。

          アリスとジューダス・プリースト その2

          自己紹介

          突然noteに書き込むことを決めた。 自分でも、なぜそうしたのかは うまく説明できないが、 もう十分歳をとったことで、 何かしら書き残しておこうと思ったようだ。 思い返せば2年前に他界した父親が、 ずいぶん前に老後の楽しみの一環として 自分史を自費出版した。 そのときは、「へぇー」くらいにしか 思っていなかったのだが、 今にして思えば、 少し父が羨ましいと思っていたように感じる。 こうやって「書き残しておこう」などと思うとは、 確かに彼の血を引き継いでいるのかもしれない。

          アリスとジューダスプリースト 1 

          時は1980年代前半、 僕は中学生だった。 あの頃の日本は、原宿の「竹の子族」が踊り狂い、 校内暴力、家庭内暴力が社会問題となっていた。 しかし、僕が住んでいた田んぼと畑と山しかないような超マイナーな田舎町では、そんなことはどこ吹く風。 テレビの中の騒ぎは、まるで遠い異国の出来事のように、中学生の僕には、本当にどうにかなりそうなほど、平和で退屈な日々が繰り返されていた。 「ニューミュージック」の一大ブームがあったのもこの頃だった。さすがの我が愛すべきド田舎にもこの流れはど

          アリスとジューダスプリースト 1