MY浅草年表作成中の覚え書き

個人的に個人的な歴史を漁ってます。

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最近の記事

《記憶と記録》なるみ信さんのこと

 1986年、高1の時だった。ビートたけしファンのクラスメートから「ねえ、なるみ信って知ってる?」と声を掛けられた。  クラスメートが声をかけてくれたのは、その住んでいた場所が本に載っていたからだろう。そこは私の中学の学区域で、彼女は同じ町の隣の中学出身だった。でも彼女はその人を知らない。だから、より地元民の私に話を振ってきた。  地元の有名人だろうが知らない時は知らない。でも、私はその人を知っていた。  というか、むしろ知り合いだった。 「知ってる!え、本に載ってるの!貸し

    • 《記録》ブログ『司会者 町田陽介』

      かつて『司会者 町田陽介』というブログがあった。 (2006年開設) https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515 日本司会芸能協会会長を務められていた町田陽介氏がYahoo!ブログ内に開設したブログには日々の徒然の他に《そして今が有る。 (今は亡き星セントに捧ぐ。) 》というシリーズ連載があった。 私がこのブログを見つけたのは確か2016年頃だったと思う。が、残念ながら既に町田氏は2011年5月11日にお亡くなりになっており、2007年1

      • 《調査》ナンセンスとナンセンストリオと、トリオスカイラインのメンバー

        「ナンセンス」という看板は1964年(昭和39年)のトリオ結成から始まり、1979年からはコンビに形態を変えて長らく活動してきたが、2018年をもってコンビを解消し、看板が消滅した。長きにわたる活動に敬意を表し、ここで少しナンセンス、ナンセンストリオについて整理してみたい。 まずは山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』(2001発行 東京堂出版)より、ナンセンストリオの項を引用させていただく。年月日の数字表記のみ手直しさせていただいた。 このトリオ、リーダーはなく、江口明(本

        • 《資料》東洋興業の小屋遍歴(暫定版)

          自分の為に表にしたものです。いつでもどこでも誰でも見られるようにネットにあげておきます。

        《記憶と記録》なるみ信さんのこと

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        • 年表目線の読書感想
          4本

        記事

          《メモ》読書雑感2

          高平哲郎『アチャラカ』ビレッジセンター著者がさまざまな媒体で書いてきた内容を一冊にまとめたもの。そういった事情で章ごとで内容の重複も多く、さらさらっと読み終わってしまった。 いったい「アチャラカ」とはなんなのだろう。私も常々考えるが、判っているのは、誰も明確な答えが出せていないってことだけだ。 その人それぞれで「アチャラカ」のイメージ像が違っている。そう思う。 いとうせいこう、井上ひさし、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、筒井康隆、別役実という作家陣がアチャラカ喜劇に挑んだ20

          《メモ》読書雑感

          堀切直人『浅草 戦後編』様々な書籍から浅草芸人についての話を時系列でまとめた本。演芸本以外からもかなり細かく調べていて、各演芸本で断片的に語られていた様々な歴史の隙間が少しずつ埋めらている。それでも浮き上がらない出来事も多いが、逆に、書かれてない隙間を自力で埋める楽しみがまだ残っている、とも言える。 なおビートたけしの件が終わったあとの章の引用元がほとんど澤田隆治の『私説コメディアン史』からなのでそのあたりを知りたい時は『私説コメディアン史』を読んだほうが早い。 細かな感想

          《調査》細かい経歴がメチャクチャな内藤陳とトリオ・ザ・パンチ

          内藤陳のWikipediaの生年月日が1936年(昭和11年)9月18日になっている。 それに対し、所属していたトリオザパンチのWikipediaを見ると1940年(昭和15年)9月18日になっている。 報道された内藤陳の死亡記事では享年75(=1936生)となっている。また、学歴は「日本大学芸術学部中退」だ。 それに対して、雑誌「 笑芸人 VOL.11 エノケン生誕100年 浅草笑芸パラダイス 」のインタビュー記事では、1957年2月設立のエノケン学校こと映演プロに高校1

          《調査》細かい経歴がメチャクチャな内藤陳とトリオ・ザ・パンチ

          《調査》山城新伍と『ちゃんばら行進曲』

          テレビタレントとしても人気のあった山城新伍が新宿コマ劇場に初登場したのは1977年8月のことだった。 『納涼喜劇まつり(夏の踊り)』と銘打たれた公演の後半は西川峰子を中心とした歌謡ショウ。そして前半が、福田善之作・演出『泣き笑いチャンバラ一代』だった。喜劇の名にふさわしく、由利徹や、同じくコマ初登場の東八郎が共演している。 この公演は、1958年にデビューした山城にとっての、芸能生活20周年を飾る、新宿コマ劇場初主演作品でもあった。 福田の弟子である大久保昌一良が、福田の名前

          《調査》山城新伍と『ちゃんばら行進曲』

          《調査》星セントはいつトリオ・ザ・パンチのメンバーだったのか

          トリオ・ザ・パンチのメンバー構成について調べている時に、星セント・ルイスのWikipediaに辿り着いた。 セントは長野で高校に通っていたころから芸人を志望しており、森繁久彌・谷啓・関敬六といった有名コメディアンにファンレターを熱心に送るような青年だった。その中の漫才コンビ・獅子てんや・瀬戸わんやから卒業後に来るよう返事をもらい、1969年に弟子入り。ルイスはその頃、晴乃ピーチク・パーチクに弟子入りしていたが、1971年にピーチク・パーチクが解散することになったため、てんや

          《調査》星セントはいつトリオ・ザ・パンチのメンバーだったのか

          《調査》船越英二の兄は曽我廼家五郎八だったのか?

          「船越栄一郎の叔父で船越英二の兄にあたる『みしまけん』という人は新宿セントラル劇場の支配人をやっていた」という話を聞いたことがあった。 この支配人という情報の真偽は判らない。 船越英二のWikipediaを見ると「兄は三島謙(本名・船越榮太郎)」とあるが兄の詳細については何も書かれていない。 ただ芸名があるということは、表舞台にも立っていた、ということなのだろう。 日本映画データベースによると、27本の映画に出演しているとある。 1950年に『龍眼島の秘密』(秀映社)とい

          《調査》船越英二の兄は曽我廼家五郎八だったのか?

          《調査》川上事務所の川上正夫

          大屋満の事を調べた時に出てきた川上事務所。 こんなマイナーな情報はどこを調べても何も判らないだろうと思っていたが、なんと『私説コメディアン史』(澤田隆治著)に載っていた。 川上事務所の主、川上正夫。 経歴をざっくり書くと《大正9年(1920年)大阪生まれ。エノケンの弟子であり、最終的に10年ほど前までは新宿コマの専属コメディアンをしたあと事務所を構えた》とある。 《10年ほど前まで》とは『私説コメディアン史』が発行された1977年から数えるので、つまり1967年頃まで専属コ

          《調査》川上事務所の川上正夫

          《調査》新宿フランス座と新宿ミュージックホール

          新宿ミュージック(ホール)は東洋興業の新宿フランス座が改名した劇場で、開場は1952年(昭和27年)、1956年(昭和31年)に改名、1966年(昭和41年)に閉館し、跡地は伊勢丹メンズ館になった、と聞いていた。 しかしラサール石井・著『笑うとは何事だ!』を読むと、「ラサールが道頓堀劇場に入った1978年(昭和53年)11月、後のコント山口君さんが『道頓堀劇場と同じ系列の』新宿ミュージックに移った」という件がある。 新宿ミュージックを調べると、かつて森繁久弥も在籍していたムー

          《調査》新宿フランス座と新宿ミュージックホール

          《資料》『芸友』名簿

          名簿『芸友 浅草芸人演劇人の集り』のお名前、職業のみを書かせていただきます。 『芸友』についてこちらも詳細は判りかねるのでお問い合わせはご容赦くださいますようお願いいたします。 ********** アイウエオ順、昭和51年4月20日現在 ********** 東 八郎《コメディアン》 阿部 昇二《コメディアン》 秋 凡児《浅草OB》 あした 順子《漫才》 あした ひろし《漫才》 愛 うえを《漫談》 荒木 おさむ《司会》 青空 球児《漫才》 青空 好児《漫才》 青木 チャン

          《資料》『芸友』名簿

          《調査》桜金造のネタにされてしまった佐山俊二

           佐山俊二のWikipediaを見ると、死の経緯は『桜金造による「身長5cmの幽霊」にて語られている』とある。金造が大先輩の死を自身の怪談噺のネタにしていたのだ。  個人的にはそのような大先輩に対して敬意も何も感じられない行為に非常に腹立たしく思っているのだが、それはここでは置いておく。実際の映像はYouTubeにもあるので各自で確認していただくとして。  大オチの「楽屋で話したその夜に亡くなった」。金造の話ぶりではイコール公演中に亡くなったように聞こえる。しかし、実際に亡

          《調査》桜金造のネタにされてしまった佐山俊二

          《調査》亡くなっているのに亡くなっていないことになっている大屋満

          ある年の、東京の別の座長公演に奴は出ていた。けれど大阪公演の頃には体調がおもわしくなく行けなくなり、かわりに俺が代役になった。 その話が決まった頃だったか大阪に移動する直前だったか、奴は電話をくれた。今回の事を詫びていたが、過去の色々な事を詫びているようにも聞こえた。それはまるで仏様のような声だった。 奴は暫くして亡くなった。 これは私がとある人に直接聞いた話だ。 この《奴》こと大屋満の、正確な没年は判らない(件の人も昔話すぎて覚えていない)。 しかしWikipediaで

          《調査》亡くなっているのに亡くなっていないことになっている大屋満