《記録》ブログ『司会者 町田陽介』

かつて『司会者 町田陽介』というブログがあった。
(2006年開設)
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515

日本司会芸能協会会長を務められていた町田陽介氏がYahoo!ブログ内に開設したブログには日々の徒然の他に《そして今が有る。 (今は亡き星セントに捧ぐ。) 》というシリーズ連載があった。
私がこのブログを見つけたのは確か2016年頃だったと思う。が、残念ながら既に町田氏は2011年5月11日にお亡くなりになっており、2007年1月29日(月) 午後 1:53 から始まったこのシリーズは2008年3月27日(木) 午前 0:04 の第55回を持って更新を停止している。
更に、Yahoo!ブログは2019年12月15日をもってサービスを終了してしまい、町田氏のブログも消滅してしまった。

《そして今が有る。 (今は亡き星セントに捧ぐ。) 》は司会業の入り口まで語られておらず、是非とも最後まで書き上げて、ひとつの本としてまとめて頂きたかった。それが叶わないのはとても残念だ。
しかしこれは間違いなく町田陽介という芸人の私史であり、昭和30年代から40年代にかけての芸能史でもある。若き日のご自身や当時のお仲間のお話、その頃のコント台本など内容が多岐に渡りとても面白く、またどれもとても貴重なお話ばかりだ。

これがただ消えゆくのはあまりにも勿体なく、ブログ消滅前に記事を控えさせてもらっていた。この内容の貴重性を鑑み、勝手ながらここに公開させていただく。
ただ「全文を公開」と言いたいのだが……うっかり第1回と第2回を記録し忘れてしまっていた。またブログ掲載日も控え忘れていて……詰めが甘くお恥ずかしい。
ただ、第1回と第2回は序章でも本編でもないような内容だった(から控えなかった)と記憶している。とはいえこの手の記録は全文保存が基本だと思うので。
大変失礼いたしました。


私は町田氏の関係各位に連絡が取れるような立場でも無く、ですのでこちらで無許可に掲載させていただきますが、《そして今が有る。 (今は亡き星セントに捧ぐ。) 》の著作権その他諸々の権利は町田陽介氏ご遺族様にあります。したがって関係各位から異議がありました場合、速やかにこの記事を削除いたします。

そして今が有る。 (今は亡き星セントに捧ぐ。)

序章『近日公開。』・第3回~第5回

序章『近日公開。』
  
序章『近日公開。』実は4,5年前から暖めている原稿が有ります。
これは、今は亡き星セント・ルイスのセントとの生前の依頼によって私が著した「私史」なのです。
出版しようとして私が執筆した原稿なのですが、まだ整理されていない荒原稿ですが一気に書き上げた
ものです。何故それを書くに至ったかを説明しますと、5年程前のある日セントから唐突に電話が有り
ました。彼とは特に親しかったわけではなく、仕事の現場でたまに会う程度でしたが、その彼から或る
日電話があり「昔のコントを教えて欲しいので会って呉れませんか?」という電話が有りました。
会って酒を飲みながら話をしていると、次から次へと思い出してきました。
何回か会って話している内にムラムラと活字に残しておこうという意欲が沸いてきて、自分の歴史と共
に自分の体験の中から産まれたコントを書き上げた作品なんです。これを順次ブログに入れようかなと
考えていますが、なんせ膨大なのでどうしようかなと考えています。
それをブログに書き込んだところで、それがどうしたという逡巡もあります。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27466743.html

第3回
これは自慢出来る事なのかどうかは判らないけれど、巨匠とか大御所とか呼ばれる人は半世紀もの長き
にわたり一つの道を究め、その業績を讃えられるものだが、私の場合は信じられない程多岐に亘ってあ
らゆるジャンルの芸能活動を行ってきた。私なりのささやかな自慢でもある。
児童劇団から始まって、新劇、ヌード劇場のコメディアン、軽演劇、大坂の家庭劇、女剣劇、お笑いの
世界を経て現在の司会者の世界へと転身してきたのだが、司会者としての仕事が一番長くなった。
司会という仕事は実に奥の深い芸能で、それまでに培ってきた技がそのまま役に立っていたのだ。
司会の世界しか知らない司会者よりも、明らかに視野が広い。
私が司会者に成ったとき心に誓ったのは、今までの司会者とは違うものを司会技に入れようと思って
いました。それまでの司会者の概念は、陰に徹して目立ってはいけない。縁の下の力持ちになれが、
通説になっていました。私は「面白くなければショーではない。」がモットーでしたが、評価するのは
お客様ですので、こればっかりはなんとも言えない。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27711828.html

第4回
子供の頃の私は極度のはにかみ屋であった。
例えば毎年お正月になると、貧しいながらも両親が整えてくれたお仕着せの晴れ着で外に出るのが恥ずかしくて、玄関でモジモジしていた記憶がある。
晴れがましい事が面はゆくて、若い頃もすぐに顔が赤くなってしまって他人によくからかわれたものだった。結婚してからも妻になにか弁明しなくてはならない時なども、すぐ顔が赤くなるので嘘を正当化しようとしていると誤解されてしまう始末なのだった。
その反面芸事は大好きで、学芸会などでも役が振り分けられるのをドキドキしながら期待したものだった
。それと、未だに劇場の初日の開演前は緊張感に襲われる。
一歩舞台に踏み出してしまえば、その呪縛から逃れられるのだ。飛行機嫌いの人が何回乗っても慣れない
のと同じで、これだけは慣れっていう事はない。
落語家の円生師匠の言葉に「舞台で最初から最後まで上がりっぱなし、これは素人。ぜんぜん上がらない
これも素人。最初は上がるけどじょじょに自分を取り戻す、これが玄人。」
巧く喋ろうとか演じようとすれば当然プレッシャーがかかるわけで、意識するしないに拘わらず舞台に立つ人の乗り越えなければならないハードルの一つでもある。
心地よい緊張感などと言えるのは、かなり年期の入った人の言葉で、そこには自信の裏付けがあってこそ
なのだと思う。ともあれ舞台の魔力に魅入られて、気が付いたら半世紀近くが過ぎていた。
もう充分だなどと思った事は1度もなく、まだまだやり残した事が沢山有るように思えてならない。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27738218.html

第5回
“キャットウオーク”という言葉がある。
文字どうり猫歩きである。音をたてず静かに狭い所を歩く事だ。
劇場の舞台の真上、劇場の規模にもよるが凡そ18メートル~20メートル位高い天井部分簀の子状になっている。ここをキャットウオークというのだが、後にも先にもたった一度だけ其処に上がった事がある
。まだ十代の終わり頃、新劇の研究生当時に裏方を兼ねた実習参加という形で、新協劇団と劇団中芸の合同公演で、西村晃主演の「国定忠治」を神戸国際会館で上演した時に、大詰めの処刑シーンに雪を降らす
為に簀の子に昇ったのだ。
今でこそ雪マシーンが有って簡単ですが、当時はこの手法でした。
生まれつき高い所が苦手で、未だに高架歩道橋を渡るのさえ恐怖を感じるくらいである。
その時の恐怖感を想像してみて下さい。足がすくんで一歩も動けなかった苦い思い出が甦る。
しかしその下に展開する舞台は、子供の頃に見た「覗きカラクリ」の様で、まるで別世界を覗き見たように異様な後継であった。
高所恐怖症と闘いながらも、その美しい世界に見ほれてこれは私の天職と感じたものだった。
以来四十数年この道一筋に歩み続けて、多少歩みは遅いけど一歩一歩たゆまず今も歩いている。
生きてきた証しとして、ちょっと振り返ってみたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27764612.html

第6回~第10回

第6回
それは正に偶然の賜物であった。
下北沢にある「劇団新児童」の稽古場で、その日も稽古前のひととき車座になって、それぞれ持参の弁当を食べようと包んでいた新聞紙を広げた途端、目に飛び込んできた記事に吸い寄せられた。
「おい!これ見てみろよ。」思わず叫んでしまった。そこには軽演劇・劇団員募集の広告が載っているではないか。記事によると近々浅草に軽演劇の劇場が誕生する。ついては研究生を一般公募するという。
私が19才の秋の事であった。
その頃移動演劇教室として、全国各地の小中学校に教育の一環として演劇を上演して廻る劇団の一員として仕事をしていた。「ビルマの竪琴」「宝島」「アラジンと不思議な魔法のランプ」などの演劇を主に東北地方を中心に学校廻りの公演をしていた。のちに俳優として活躍した成田三樹夫氏も仲間の一人だった。又その頃高校生でその後早稲田に進み、のちにNHKのアナウンサーとして活躍した松田輝雄氏も劇団の一員だった。私は仲の良い金沢新太郎と蓮尾朗と共に参加していたのだ。
当時劇団の研究生のアルバイトとしては良い条件で、俳優として日額700円裏方を兼ねると950円を貰えた。今の金額に換算すると約10倍くらいでしょうか。昭和30年代の前半は学校も整備されてなく、講堂も無い学校はざらでぶち抜き教室に机を並べて舞台を作るものだから、動き回るとグラグラして不安定な舞台でしたが、子供達の歓声と拍手に励まされたものでした。
中でも感動的だったのは「やまびこ学校」で映画化された、山形の小学校の生徒が傘を斜めに背負い2時間もかけて本校の演劇教室に来てくれた事でした。山形では弁当を忘れても傘を忘れるなという位に雨の多い所であったのだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27791581.html

第7回
移動演劇教室は午前中に公演を終えて、すぐに舞台をバラして次の学校へと移動して設営するのだが、
場所によってはかなりの距離を移動をトラックで行う。俳優さんと女優さん達は列車移動ですが、裏方は
積み込みが終わるとトラックの荷台に乗るのだが、道具で一杯の荷台の窪みを見つけて潜り込むのだ。
当時道は無舗装でしたのでガタガタ揺れるのですが、不思議な事にそんな状況でも疲れからか眠る事が出来るんですよ人間は。そんな日々の明け暮れの中で、将来の夢を語り合った仲間が蓮尾と金沢と私の三人
だった。共通した夢として新劇ではない、もっと軽い商業演劇に漠然と憧れていたのだ。
最年長の蓮尾はずーと児童劇団畑で育ってきた人で、金沢も同じ様な仕事に携わってきた人だった。
私は小学校4年の時に、青山にあったテアトル・ピッコロという児童劇団に入ったが、すぐに辞めて
「劇団木馬座」(影絵の木馬座とは違う)に入った。
ひとみひろしという人が主宰する劇団で、この先生に演劇の楽しさを教えられた。
中学時代は夏になると「緑陰子供会」といって公演の片隅で紙芝居や人形劇を、集まってきた子供達に見せるのである。私の動きが悪いと人形を操りながら先生は私を蹴ったりしたものでした。
学校回りの芝居もこの時代に体験した。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27818485.html

第8回
高校2年の時に新劇の「新協劇団」の試験を受けて、第11期生として研究所に入った。
17才になったばかりで、勿論同期の中では最年少で、殆どの人が二十歳過ぎで中には三十過ぎの人も居て、男女比率は半々の40名程だった。演技の基礎訓練から舞踊、そしてエチュードと週に3日のレッスンだった。回りが皆年上でしたのでちょっぴり背伸びをして、一緒にお酒を飲んだり演劇論に時を忘れて
終電車で帰る事もしばしばだった。又高校3年の頃は映画にのめり込んで、学校帰りはそのまま新宿に直行して新宿名画座あたりで2本立て・3本立ての映画をはしごしたものだ。
「第17捕虜収容所」「戦場に架ける橋」や、ミュージカルの「アニーよ銃をとれ」「雨に唄えば」「スター誕生」「ホワイト・クリスマス」などは何回も何回も見た。喜劇ではダニーケイが好きで、学校などでよくその真似をしたものだった。
加えて学校廻りの仕事をしている為に、高校での成績も急降下し出席日数も危なかったが、なんとか切り抜けて卒業だけは出来た。両親は私に大学進学して欲しいと思っていたようだ。
父は大蔵省でしたし、兄も入省していたので母は同じ道を歩ませたかったようだが、私はそんな母に「お願いだから俳優の道に進ませてほしい。大学に行ったと思って4年だけ面倒みてほしい。それ以後は自分ひとりの力でやっていくから。」と説得した。
末っ子の強い気持ちに押し切られる形で以来何も言わなくなった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27825330.html

第9回
高校を卒業してからの私は演劇一筋の明け暮れで、アルバイトをするかたわら図書館通いをして片っ端から戯曲集や外国文学を読みふけった。この頃から本を読む習慣が身についた。アルバイトとしては楽劇団
「わらび座」の合唱の仕事や、人形劇団「ひとみ座」の声の吹き替えの仕事をした。
この劇団は湘南の何処だったか今では記憶にないが、大きな洋館に劇団員全員が共同生活をしている。
何度か稽古で通っているうちに、その劇団形態に引きつけられましたが人形劇団なので、人形の操作と声
のみでしたので入団はしませんでした。
丁度その頃真山美保の「日本中が私の劇場」を読んで感動し是非入りたいと思い資料を取り寄せたり、知り合いを通じて情報収集をしたところ、外からみると楽しそうだけど中に入ると結構きついぞと言われた
のでしばしためらった。
その頃、新協劇団の第11期卒業試験公演が行われた。
私は田中千禾夫の作品「笛」の息子役であった。これは100万円の宝くじが当たった家族に巻き起こった騒動をコミカルに描いた作品でした。公演後正式に劇団への入団発表が有った。
思ったよりも狭き門で、38人中合格したのは3人だけで、その中に私が入っていたのだ。
だが、その頃の劇団は左翼色が強くてついていけないものを感じていたので入団する気は無かった。
そんな折り、劇団の1期先輩を中心に新しい劇団を作るから来ないかと誘われた。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27859377.html

第10回
新しい劇団への誘いが無かったら、真山美保の「新制作座」に入っていたと思うし、もしそうしていたら
それからの人生も大きく変わっていたと思う。
「自由劇場」という劇団は新協10期生を中心に他劇団からも多数参加したが、11期からは私だけでした。後年、個性的な俳優として頭角を現した山谷初男がいた。
秋田なまりがひどく、1年中半ズボンを穿いていたのが強い印象として残っています。
劇団活動をしながらもアルバイトに精を出した。それが児童劇団の学校廻りだったのである。
蓮尾と金沢とは特に仲が良く、夜を徹して語り合ったものだったが、何と言っても大変だったのは貧乏
の極みで、私の姉の貴金属などを持ち出して質入れして流してしまい、姉に泣かれたりしました。
そんな折りの浅草の話だった。
面接は東洋興行の本社で行われ、高崎三郎氏と緑川四郎氏によって始まった。
「川島君は(私の本名は川島です)新劇出身なんだね。どうして応募する気になったの?」と聞かれて
「はい。私は元々軽演劇を志していたのです。そのきっかけとして演技の勉強の為に新劇の劇団に入りました。」と答えましたが我ながら巧いことを言ったもんだと思い、良い感触を得た様に思いました。
後日合格の知らせを受け本社を訪れました。「良かったね。だけど東洋劇場が開場するまで半年かかるから、それまで各劇場でコメディアンとして修行しなさい。川島君は池袋フランス座に行きなさい。蓮尾君
と金沢君は浅草ロック座だ。」と言われた。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27864692.html

第11回~第15回
 「入れて貰った。」「御前会議」「宝物」「新聞」

第11回
東洋興行傘下には、浅草フランス座・浅草ロック座・池袋フランス座・新宿ミュージックホールとヌード
劇場が4座有った。私が行く事になった池袋フランス座には筆頭コメディアンに、後の大川橋蔵の「銭形平次」の遠藤太津朗の子分役をやった池信一さん他、10名程のコメディアンがいて、私はその末席に化粧前を構えた。新入り研究生の私は月給3000円で、源泉税を引かれて手取り2700円であった。
朝は先輩の楽屋入りの30分前に入って、化粧前の水を変えたり楽屋の掃除をし、お湯を沸かして次々に
楽屋入りしてくる先輩達にお茶を入れたり履き物(出し物によって履き物が変わる)を揃えたりする。
私は池さんについて身の回りのお世話をするのが主な仕事で、特に何か教わるでもなく着物の着方とかを
見て覚えるしかなく、袴の穿き方たたみ方・帯の閉め方を目で覚えたものだ。
一番困惑したのは、裸の女性を見るのは初めてだったし、しかも一人ではなく大勢のおっぱいに囲まれて
目のやり場に困ってしまった。そんな私をからかってわざと膝の上にまたがってきたり、おっぱいを押しつけてきたりされて、思わず赤い顔をすると余計にからかわれたものだった。
しかし慣れというのは恐ろしいもので、半年もすると平気で抱きとめたりしていた。
町田陽介という芸名は中学生の頃から決めていた。ラジオ番組で「新しい道」という、臼井正明さん主演
の新聞記者が土地のヤクザにペンで立ち向かうというドラマで、その格好いい名前を芸名にしようと心に
決めていた。映画俳優の待田京介がまだ有名になる前につけたのだが、後にあやかって名前つけたのって
聞かれる度に「いや、俺の方が先だよ。」って答えていた。
しかし折角ある芸名も殆ど呼ばれず「坊や」で片づけられた。
金沢新太郎は谷川新二と名乗り、蓮尾朗は水が合わないと辞めてしまった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27889174.html

第12回
          コント  「入れて貰った。」
   
     舞台中央に乞食の親娘がすわっている。父の脇には段ボールに
     「メクラでイザリ」と大きく書かれている。
     父は眼が見えないようだ。
     下手から男が出る。乞食を見てポケットから小銭を出して乞食
     の前に置いてある入れ物にいれる。
 娘   「お父ちゃん、入れて貰った。」
 父   「大きいのか、小さいのか?」
 娘   「小さいの。」
 父   「(小声で)お有り難うございます。」
     そこへ別の男がきて札を入れる。
 娘   「お父ちゃん、入れて貰った。」
 父   「大きいのか、小さいのか?」
 娘   「大きいの。」
 父   「(大声で)おありがとうございます。」
     又、一人通りかかり小銭を入れる。
 娘   「お父ちゃん、入れて貰った。」
 父   「大きいのか、小さいのか?」
 娘   「小さいの。」
 父   「(小声で)おありがとうございます。」
     と、そこへサングラスを掛けた怪しい男が現れ乞食の娘に目をつける。
     辺りを見回し娘の手をとって連れ去る。
 娘   「(オフマイクで)お父ちゃん入れて貰った。」
 父   「大きいのか、小さいのか?」
 娘   「とても大きいの。」
 父   「(オーバーに)おありがとうございます。」
     ジャン ジャン。    暗転
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27902519.html

第13回
コント「入れて貰った。」。これが池袋フランス座での初めてのコントで、私の役は通りすがりの小銭
を入れる役だった。半年の間に沢山のコントをやったのだが、今残念ながら思い出せない。
多分記憶に残る程の面白いものがなかったのかもしれない。

            コント「御前会議」

     舞台中央に大机。正面に第1軍装の明治天皇がいる。
     上手側に3人、下手側に3人の政府要人閣僚がそれぞれの軍装で居並ぶ。
明治天皇 乃木、今何時だ。
乃木大将 はっ、只今十一時五十九分であります。
明治天皇 うん、それでは御前会議を終わる。

          ジャン  ジャン     暗転

このコントは出演者全員がブツブツ文句を言った。
衣装の着付けに10分位掛かるのに、コントは10秒で終わってしまうのだ。
しかし、今改めて考えると、なんとも楽しいコントであった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27922292.html

第14回
           コント「宝物」

     舞台中央に乞食が一人座っている。
     脇に「メクラでツンボの哀れな男にお恵みを。」の札がある。
     と、そこに何やらいわく有りげな男がなにやら隠し持って現れる。
     乞食に気がつきギョッとするが、脇の看板を読んでホッとして辺りを
     見回し人気がないのを見て、舞台の奥手に何やら隠す。
     乞食はメガネ越しに男を見る、その気配に男は振り向く。
     あわてて乞食は知らんぷり。男は安心して去っていく。
     乞食は去っていった男を見送っていたが、立ち上がり男の隠したものを
     拾ってきて、辺りを伺い包みを開く。又包んである。
     広げると又包んである。何回か繰り返し最後に物が現れる。
     広げると「越中ふんどし」だった。

            ジャン  ジャン       暗転
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27951847.html

第15回
             コント「新聞」

     ここは公園。舞台中央にベンチが一つ。
     そこに男がひとり腰掛けて、両手で新聞を広げて読んでいる。
     そこへ男が現れて新聞を読んでいる人の隣に座り、新聞をのぞき込む。
     新聞男は迷惑そうにしていたが、やがて新聞を二つに切って相手に渡す。
     貰った男はちらっと新聞に目を通したが、すぐに捨てて又覗き込む。
     新聞男は迷惑そうにして、又新聞をちぎって渡す。
     男はざっと目を通して捨て、又覗き込む。
     新聞男は憤然とちぎってまた渡す。
     何回か繰り返す内に新聞は殆どなくなり、新聞男は残った一片を投げつけ
     去っていく。
     男はニンマリと笑ってポケットから新しい新聞を出して読み始める。 
  
          ジャン  ジャン      暗転

「宝物」も「新聞」もセリフは有りません。マイムである。
BGMが流れる中でのパントマイムをスケッチと称していた。幕間のコントとしては当時多かった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27955762.html


第16回~第20回
 「仁丹」

第16回
ヌード劇場の賃金体系は女性上位であった。
各劇場のトップダンサーは、当時大卒の初任給が1万3800円と歌に歌われたような時代に4万円~
5万円は取っていた。それに引き替えコメディァンはピンで1万8000円でキリは3000円という
賃金体系であった。
踊り子さんは皆優しくてお人好し。私は殆ど毎晩お姉さん達にお食事に招待されました。
昼は昼で、3,4人から手作りのお弁当が差し入れられました。
何故か、踊り子さん達からは可愛がられました。
座長の池さんから誘われてナイトクラブの仕事をする事になりました。
横浜の「ブルースカイ」というクラブで、ショータイムが1回目が夜10時で、2回目は深夜の2時からですから当然その日は帰れず、一番電車を待って帰るのだった。
これからのコントはちょっと長いかもしれないが定番コントです。長いので途中で次回へいくでしょう。

           コント「仁丹」

     兄貴分と子分の二人が、まるでスケートをするように、スイスイと登場。
 子分  兄貴ィ、もう腹が減ってあるけないよ。
 兄貴  うるせ-な。ガタガタ言ったって鐘が無くっちゃおまんまは食べられないの。
 子分  世の中不公平だよな。見てくれよ兄貴。ほら、みんな裕福そうで美味しそうにお酒を飲んで
     綺麗な姉ちゃんの肩抱いてよ。
 兄貴  こらっ。あんまりジロジロみるな。皆さん強そうだし、喧嘩になればこっちはからきしだもん     な。昔から言うだろ「色男金と力はなかりけり」ってな。
     それより金目の物を探すんだ。
 子分  金目の物、金目の物か(と、言いながらウロウロ探す。)
     あっ、兄貴ィ大変だ、こんな物が落ちていたよ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/27983685.html

第17回

 兄貴  ハンドバッグじゃないか。ワニ皮のビニールじゃないか、これは上物だぞ。
     (と言ってバッグの口を開けようとした瞬間。)
 刑事  待てっ。そこの二人待ちなさい。
     (刑事に呼び止められて、バッグを互いに押しつけ合うが結局子分の手に。)
 刑事  何しているんだ。今何か隠したろう?
     (二人首を振る。)
 刑事  その手に持っているものはなんだ。? ん?
 子分  こ、これは僕のカバンです。
 刑事  ちょっと見せなさい。私は横浜警察の佐田刑事だ。
     (と言って、手帳をちらっと見せる。見ようとする子分。ギャグ有り。)
 刑事  なにをやっているんだ。遊んでる場合じゃない。これは女物じゃないか。
 子分  い、いえあのう、これは形が良いので妹のを使っているんです。
 刑事  自分のものだったら、中のものは判っているはずだ。
     (とバッグを開ける。その間に兄貴が刑事の後ろに回り込む。)
 刑事  何が入っているんだ。えっ?
     (刑事の後ろで兄貴が手で四角を作る。)
 子分  えーとね。えーと。四角形のもので。
     (と言いながら目で兄貴を追う。その目線を辿って刑事後ろを振り向く。ごまかす兄貴。)
 刑事  何やってんだ。
 兄貴  いえ、最近運動不足なもんで、運動を。
 刑事  自分のものが判らないなんて、怪しいぞ。
     (兄貴が、四角を畳んで顔を拭くそぶりをする。)
 子分  あのう、四角い四角いハンカチ。
 刑事  うん。ハンカチな。丸いハンカチなんてないぞ。よし他には?
     (兄貴覗き込む。気配に刑事が振り向くとあわててごまかす兄貴)

         このあたりで    次回へ  
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28023886.html

第18回

 刑事  他にはなんだ?
 子分  えーとね。
     (と言いながら兄貴を見る。兄貴バッグを覗いて、唇に指を引くしぐさをする。
      気配に刑事が振り向く。あわててごまかす兄貴。)
 子分  えーとね、口にチャックを。
 刑事  チャック?
 子分  そうそう、口紅だ。口紅に決まってるだろう。
 刑事  なにを威張ってるんだ。口紅はあるぞ。
     ちょっと待てよ。男のお前がなんで口紅なんか持っているんだ?
 子分  えー、それはですね。たまにゲイバーで働いているんです。
 刑事  お前がか?化けもんだな。まあ良い。それで他には何がある?
 子分  えー、あとはですね。
     (兄貴を見る。兄貴近づいて中を覗こうとするが、突然刑事振り向く。
      あわててごまかし、踊りはじめる。)
 刑事  何踊ってんだよ。静かにしろ。  さあ、後はなんだ?
     (兄貴鼻をかむしぐさをする。ふいに振り向く刑事。)
 刑事  何をやっているんだ、さっきからお前は。
 子分  彼は花粉症なんですよ。答えは分かりました。
 刑事  答えってなんだ。お前のカバンの中身の事だぞ。
 子分  ですからね。
     (兄貴は片手からなにか引っ張り出すしぐさをする。)
 子分  片手でこう持って、こう引っ張り出して、そしてさ、煮てさ、焼いてさ、食って、
     それを木の葉でちょっと隠なせよ。
     (と踊り出す。)
 刑事  いい加減にしろ。踊っている場合じゃないだろ。

           このへんで     次回へ  
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28048443.html

第19回

 子分  ですから。
     (兄貴を見る。兄貴何かを引っ張り出して、畳んで鼻をかむしぐさ。)
 子分  判りましたよ。判りました。皆まで言うな。
 刑事  何も言ってない。何かと聞いているんだ。
 子分  ですから、引っ張って畳んで、鼻をかむ。ティシュペーパーだ。
 兄貴  (思わず)ピンポーン!
 刑事  なんだお前は。
     (兄貴とっさに卓球の素振りの真似をしてごまかす。)
 刑事  ティシュペーパーで手間をとらすな。他には?。
     (兄貴、仁丹を教えようと帽子の形とか、軍服を着た仁丹のパッケージを説明しようと
      あせるが、中々伝わらない。)
 子分  えーとですね。帽子があるでしょう?
 刑事  それがどうした?
 子分  立派なヒゲがあって、たすきが有って帽子をかぶっているんです。
 刑事  お前、何を言ってるんだ。えっ?
 子分  ええ、ですからそれを口にいれるんですよ。
 刑事  だから、それが何か聞いているんだ。自分の持ち物が判らないなんておかしいぞ。
     ちょっと、署まで来て貰うぞ。
 兄貴  なんで判らないんだ。仁丹だよ、仁丹。終わり、暗転!。パッ!。

この当時は、コントの終わりにジャンジャンと音楽を入れたり、演者が言葉で「終わり!」とか
「消えろ!」とか、「パッ!」「暗転」とか言っていた。
特にこの「仁丹」は演者のアドリブに頼るところがあって、遊び心とイタズラっ気が必要で、
それによっては20分~25分はいけるコントなのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28059654.html

第20回
私が最初にやった役は刑事役で、一番アドリブをしないで演じる役所で、次ぎに刑事が難しい。
子分は1番芸達者な人が務める場合が多いが、何年かする内にどれでもこなせるようになるのである。
この時を機会にキャバレーの仕事は増えていった。
座長の池さんは私の分として一回につき300円呉れるのだ。
衣装は、普段コントで着る衣装なのだが、女装のためには大柄の踊り子さんの衣装を無断で持ち出し
翌朝本人が楽屋入りしてくる前に戻しておくのだが、ある時に大事件が起こってしまった。
その日のキャバレーの仕事を終えて、楽屋に戻った。劇場の夜警さんには日頃鼻薬をかませてあるの
だが、たまたま電源を落として夜警さんが席をはずしていた。仕方なくローソクのあかりをたよりに
部屋に入ったが、あやまって歌手の人のドレスに火を点けてしまったのだ。
安物のドレスだから燃えやすいというわけではないが、1瞬の出来事だった。
あわててもみ消して大事には至らなかったが、2度と着られる状態ではなかった。
翌朝、劇場前で待ち伏せをして、本人をつかまえて「なんとか内聞にして」と平謝りして、たしか
2千円くらいで赦して貰った。
幸いだったのは、この歌手の人は私の高校の1年先輩で、同じ演劇部だったのでそれも幸いした。
なによりも、火事にならずに済んだ事に胸をなで下ろした。
この頃東京のストリップショー界に衝撃が奔った。
それまでの東京の常識をガラリと変えたのが、関西ヌードの進出だった。

番外話
誰が読んでくれるのか判らないが、たまさかお笑いに携わる人が読んだらどんな感想をよせてくれる
だろうか。一人の新人のコメディァンがなんだか判らないながらやたらもがいていた時代の話です。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28071146.html


第21回~第25回
 「左様の棒」「追われる男」

第21回
いよいよ、池袋フランス座にも関西ヌードが登場したのだ。
それは正に衝撃的でした。それまでの東京のヌード劇場ではパンツは必ず着けていたのですが、関西
ヌードは最後のポーズで全裸になるのですから、噂が噂を呼んで連日超満員でした。
そんなお客さんもコントになると新聞を読んだり、居眠りのふりをするのだ。それが関西ショーが始
まると目をランランと輝かせて舞台を見入るのだ。
その関西ヌードショーにはコメディァンも3,4人ついて来た。踊り子の夫だがコントも持ち込みで
あった。

          関西コント「左様の棒」
ちょっと頭の軽い与太郎に見合い話が持ち上がったが、名うての馬鹿者なので纏まる話も纏まらない
と考え、父親が一計を案ずる「お前は喋るなよ。何を聞かれても左様、左様とこれだけ答えろ。」と
釘を刺す。そして「こうしよう。この紐の先をお前のチンチンに結ぶぞ。父ちゃんが紐を引っ張った
ら、お前は左様、左様と答えるのだ。それ以外は喋るな。」と決める。
やがて仲人と共に相手とその親がくる。最初のうちはなんとか話の辻褄があっていたのだが、ちょっ
と話が込み入ってくると、元々トンチンカンだったのが益々混乱してきて、余計な事を喋ろうとする。
あせった親が紐を強く引っ張ると与太郎たまらず「左様の棒がちぎれるぞ。」
              ジャン ジャン   暗転

この頃既に、ちょっと前に流行ったガングロ達が履いていた厚底靴を関西の踊り子は履いていた。
この頃から急激にその露出度とえげつなさが加速していったのだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28265983.html


第22回
そして、いよいよ待ちこがれた浅草の東洋劇場が華々しく開場した。
こけら落としの当時の出演者は、池信一・石田映二・水島一郎の3本柱に佐藤久雄さんや北川国彦さん
等がいて、私達研究生がいたのだ。同期に現在お笑いのナンセンスの原田研二もいた。
女優陣は前田通子・炎加代子・林京子・村上三重などの他専属の女優兼ダンサーズがいて、更に緑が丘
音楽舞踊学校「グリーンヒルフォーリーズ」の卒業生を中心に構成されたチームであった。
当時の浅草は人出も多く、週末ともなるとロックの映画街は行き来する人でごったがえしていた。
炎加代子主演「ズべ公天使」という芝居とショーの2本立てで、当時のプログラムが手元にあるが、そ
れによると入場料は100円であった。
「ズべ公天使」での私の役は、伊勢湾台風の被害地にお茶とおにぎりを売りにくるヤクザの子分役で、
セリフは「暖かいお茶が20円。」というたった一言だったのだが、私はこの一言をどう表現しようか
と考えました。他の子分役の人は3っ4っのセリフが有りましたが、私はたったの一言なのだ。
ここは一つやってやろうと、頭のてっぺんからひねり出すような声で「ァタタカイお茶がニジューエン」
と言うと客席が爆笑した。「あ、やった!」と思い、引っ込み際にもう一発「ァタタカイお茶がニジュー
エン」とかましたら、再び起こる爆笑を背に受けて確かな手応えを感じたものでした。
出番の多さとかセリフの多寡に拘っていた芝居の世界で、たった一言のセリフや、少ない出番でも自分
の存在感を主張できる事を肌で実感できたのは確かで、一つの壁を乗り越えた感が有った。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28306439.html

第23回
私の劇場内での評判もうなぎ登りで、ある日高崎先生に呼ばれた。
「町田君、評判いいぞ。これからも頑張れよ。」と声を掛けられた。「はい、頑張ります」頬を紅潮させ
て答えたものだった。そして次回作品で準主役に抜擢された。
なによりの楽しみは、徹夜の舞台稽古であった。2日間にわたって芝居とショーを舞台終演後明け方まで
行われるのだ。普通は翌る日も舞台があるから時間のある限り寐るのだが、若い我々は楽しくって寐るな
んて勿体なくて、菓子などを食べながらワイワイやっていた。
ある日の事、日劇から和ちゃん先生事、泉和助さんが稽古中に楽屋を訪れた。
私達にとって神様のような存在の和ちゃん先生。コメディァンとしてのあらゆる技を兼ね備えた方でした。そして私達若者に「悪魔サタン」の話をしてくれました。
これは文字には出来ません。話が始まったときは皆棒を飲んだようになってしまいました。
若い女の子達も車座に座っていたのだが、一様に下を向いてしまった。放送禁止用語バリバリの話でした
から。ところが途中から笑いが起こりはじめ、その内に爆笑に変わったのです。
落ちになる辺りでは皆ひっくり返って涙を流しての笑いようで、終わったときは思わず拍手が起こった程
で凄い話術だとおもいました。45年経った今でも鮮やかに印象に残っている出来事で、それからしばらくの間「悪魔サタン」と言うだけで笑い転げたものでした。
普通は、最初に聞き手に引かれてしまったら話を続ける気力も失せてしまうでしょうに。
次回は、その和ちゃん先生の日劇でのコントからお届けしましょう。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28324430.html

第24回

             コント「追われる男」     (「ジャニーギター」の曲が流れて、舞台明るくなる。
      洋風の部屋。正面に窓がありカーテンが掛かっている。上手にドアが有る。
      中央にベッドが置かれ、金髪の女が寝そべっている。)
ドアが激しく叩かれる。女が物憂く身体を起こす。尚も激しくドアが叩かれる。
女は窓のカーテン越しに外を見て、ドアに近づき外の気配を確かめてドアを開ける。転げるように部屋に
男が入ってきた直後、足音がドアの外を駈け抜け、やがて遠ざかる。ホッと溜息をつく男。
女はベッドに戻る。男は帽子を取り頭を下げる。一礼して部屋を出かかる男に女は腕を伸ばして指で誘う
。男はベッドへ行き手に軽くキスをして行きかける。女はもだえて尚も男を誘う。
男は意を決して、まずは帽子を取って投げる。シャツのボタンをゆっくりとはずす。
見つめ合ったまま、男はシャツを脱ぎ上半身裸となる。尚も目で誘う女。
男はベルトをはずし、ズボンを脱ぐと越中ふんどし姿になる。
流れていた「ジャニーギター」がピタッと止まる。
女 「なんだ。日本人か!。」

            ジャン  ジャン    暗転
このコントは最後の落ちまでパントマイムなのがお洒落なのだ。
これも和っちゃん先生のネタなのだが、「誰か一万円札持ってるか?ちょっと貸して?。」渡すと
「よく見てな。これ一万円だよな。(と言って、それをくしゃくしゃに丸めてそれを広げる。)これも
一万円。(更にくしゃくしゃにして広げる。)はい、これも一万円。(同じ事を何回か繰り返すと段々
お札は小さくなっていく。声も情けなさそうにしていく。)これも一万円。(お札は最終的に2×3センチくらいに小さくなるが、ベソをかきながら) はい、これも一万円。」
小さくなったお札は水を掛けると元に戻るのだ。
これも爆笑だった。間といい話術といい素晴らしい芸であった。もっと沢山の舞台を見ておきたかったと未だに悔やんでいる。
その和っちゃん先生も晩年は淋しいものであった。一人暮らしのために死後何日かして発見され
看取ったのは可愛がっていた猫だったという。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28347045.html
  

第25回
さて、評判を呼んだ東洋劇場「ずべ公天使」は炎加代子の人気も上々で、時あたかもヌーベルバーク全盛
時代で、巷では大島渚監督のヌーベルバーク作品が上映されていた。
更なる充実を計る為に、ロック座から東八郎(今は故人となりましたが後にトリオ・スカイラインのリーダーとして活躍)、池袋フランス座から松美はじめ・文部おさむ、新宿ミュージックホールから岸野柳助
(現、ナンセンスの岸野猛で、この当時は柳助と名乗っていた。)が補強されて、一層充実した布陣とな
った。「浅草新喜劇」と銘打って、大坂の「番頭はんと丁稚どん」の向こうを張って「東京丁稚どん」と
いう芝居をしたのだ。池信一・石田映二・東八郎が丁稚に扮し、私もかなり良い役を貰った記憶があります。東洋興行社長の作品で「奪われた夜」というのには、後に日劇ミュージックホールで看板スターとして活躍した高見斐紗子が抜擢された。初々しい彼女はたちまちスターとして看板女優となった。
その彼女とは、後に「今晩は、ミュージックホールです。」で全国を回り各地のキャバレーなどでショー
やコントをしたのだった。
さて話は東洋劇場に戻ります。
開場当時は珍しさも有ってか、連日大入り満員で週末などは満員札止めの盛況ぶりであったが、次第に
翳りが見え始め、ウイークデーなどは空席も目立つようになりました。
ショーのテコ入れの為か客寄せの為か、玉乗りの江川マストンや人間ポンプ。青い目の外人歌手やらが出演したがその効果は空しかった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28528816.html

第26回~第30回
 「金閣寺」「最後の晩餐」

第26回
東洋劇場の客入りが減った一因には、女剣劇の台頭があった。
斜め向かいの常磐座に大江美智子・浅香光代・神田千恵子や、青い目の女剣劇筑紫美津子が出演し連日多くの客を集めていた。朝開場前から常磐座の前は長蛇の列で、それを横目に見ながらいまいましい気持ちで楽屋入りをしたものでした。
しかし、後に私がこの女剣劇に自分がかかわる事になろうとは、夢思わなかった。
東洋劇場に歌舞伎畑から明石豊という役者が出演した。その彼から聞いた歌舞伎界のイビリ話。
食事をしていると先輩が「旨いか?」と聞いてくるので「はい、美味いです。」と答えると「そうか、飯は美味いけど、芸はまずいな。」とくる。次ぎに又「めしは美味いか?」と聞かれ「いえ、不味いです」
と答えると「そうか、お前の芸と同じだな。」と言われるそうだ。「そんな程度だったら良いじゃないですか。」と言うと「そんなのは序の口だよ。持ち道具を隠されたり衣装をカミソリで裂かれたりした事も
有ったよ。」と言う。どの世界でもそれは付きものみたいなものだった。
特に我々研究生は生意気盛りでしたから、先輩達によく怒られました。
東洋にキドシン(木戸新太郎)・シミキン(清水金一)が出演したときは、劇場の扱いも悪く研究生の楽屋と同じだった。鼻持ちならない程の生意気な私達に腹を立てたのか、ある日いきなりシミキンが私達の
化粧前に向かってナイフを投げつけてきた。幸い壁に当たっただけだったが、振り返ったときのシミキン
の目は怒っていた。しかし、すぐに元の柔和な顔に戻って「御免、御免。向こうへ投げようとして手が滑ったんだ」と言ったが、あれは今でいうキレたんだと思う。
しかし、それ以来私達も「先生、先生。」と気を遣うようになったのだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28550338.html

第27回
当時は月給が少なかった。毎日家に帰るのが勿体ないというので楽屋泊まりの許可を貰って寝泊まりしていたし、着る物も東京衣装の舞台衣装を日常に着用していた。
ゲストの前田通子さんが、そんな私達にお米とか野菜を持ってきてくれたのだ。
又、人情厚い浅草ですから、あちこちのお店でお世話になりました。
特に「長岡屋」という日本ソバ屋さんには、我々貧乏役者は随分お世話になったものだ。
20円のかけそばも10円増しで替え玉してくれたり、ご飯をこっそりと呉れたりしたが浅草から新宿へ
移転してしまった。
浅草の劇場の脇に美味しい中華ソバ屋があり、よく出前を取っていたのだが、そこの奥さんがちょっと変
だった。出前専門のお兄ちゃんがいるのだが忙しい時には奥さんが楽屋に持ってきてくれるのだが、いつも顔にやけどの痕が新しいのや古いのやら一杯あるのだ。
不思議に思って、出前のお兄ちゃんが来た時に聞いてみた。
兄ちゃんによると、夫婦がセックスをする時に旦那がタバコの火を奥さんの顔に押しつけるんだそうで、
「ギャー!」と言う奥さんの悲鳴で度々兄ちゃんは起こされるそうだ。
世の中には変わった趣味の持ち主もいるものだなぁと思う。
おまけにこの奥さんの声が凄いのだ。ガラスを金属でこすったような声で、姿が見えなくてもすぐ判る。
給料日に楽屋に集金に来るのもこのかみさんなのだが、いつもピーピーの私達は溜まったツケをなんとかかわそうとしていたが、逃がすまいと舞台の袖で待ち構えているのが見えると、暗転になった途端に舞台から飛び降りて客席を抜けて外に飛び出てしまう。
その日さえ過ぎてしまえば次の給料日までは催促無しなのだ。
おおらかというか、のどかというか確かに良い時代であった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28588457.html

第28回
昭和35年の春の出来事だった。
劇場に衝撃が奔った。看板女優の炎加代子が心中事件を起こしたのだ。相手は照明係だったというのだが
私達の記憶にその男性はない。炎加代子は命を取りとめたガ、相手の男性は死んでしまったのだ。
そして、それを機に芸能界を引退してしまった。松竹映画に主演するなど活躍し時代の先取りをするような女性だと思っていたが、実はとても繊細な神経の持ち主だったのではないかと思う。
私達にとってもう一つショックな出来事が起こった。
客の減少を防ぐ手だてとして、ショーの形態を変えるというのだ。基本的にそれまでは開場当時の専属の
ダンサーズによって構成されてきたが、それをやめてショー全体をヌードショーにしてしまおうというの
だ。やはり浅草という所では軽演劇などは無理なのかと軽い失望感に襲われた。
ある日高崎三郎に呼ばれた。「君も知っていると思うが、これから劇場が変わるのだが君は劇場に残らないか?」と言われた。だが私の志と違う方向へ向かうのに耐えられず「いいえ、私は軽演劇がやりたくてこの劇場に来たのです。変わってしまうのなら辞めて別の道を探りたいと思います。」と答えた。
「いや、芝居はそのままで、変わるのはショーだけだから。」と言われたが、何故か次元の低い感じが否めなかった。確かに6カ月とはいえ池袋のフランス座にいたのだから拘るのは変かなと思いながらも、先生の「惜しいよ。君はきっと良いコメディァンになるよ。」の言葉に、おだてに弱い私は「でも浅草は私に向いていないんじゃないかと思うんです。」「じゃあ新宿に行きなさい。新宿は洗練されたセンスの客層だから、君にはピッタリだよ。」というわけで、結局新宿ミュージックホールに移籍する事になった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28625030.html

第29回
新宿ミュージックホールは今の伊勢丹別館の所ですが、当時は丸物ストアーが1階で2階が劇場になっていた。私と同じ時期に東洋劇場を去っていった人がいた。まずは私の師匠であった池信一氏が大川橋蔵主演のテレビドラマ「銭形平次」の遠藤太津朗の子分役としてレギュラー出演の為京都へ、石田映二氏は東宝演劇部に入りその頭角を現しましたが、酒癖が悪く東洋時代でも飲むと人格が変わってしまって、誰彼かまわずブン殴るという正に酒乱であったが、東宝へ行ってもその酒癖は直らず将来を嘱望されたにもかかわらず人生を棒に振ってしまった。
さて、私が行った新宿ミュージックホールの筆頭コメディァンは三波伸介であったが、当時は病気療養中
で休演していました。記憶に残っているコメディァンはあと浜垣浩一氏・神弘氏・岸野柳助氏等に加えて
坂井のおっ母さんという人がいて、おかまなのだが芸は巧かったようでした。
この坂井のおっ母さんに、舞台稽古の夜に襲われそうになった。
稽古終わりに初日を迎えるので、帰るのも面倒なのでそのまま楽屋泊まりをしたのだが、夜中に布団の中
に入ってきたのだ。慌てて飛び起きて難を逃れましたが、1歩間違えればその道に引きずり込まれていた
やも知れなかった。
新宿の演出家に紋多一声という人がいた。実に奇っ怪なコントを作る人で、演出しながら「場内爆笑!」
「場内爆笑!」と常に言っていたが、その割りに受けなかった。

                 次回へ


次回はコントを2つ程書きます。
ちょっと空しさを感じながら書き込みをしています。意義は有るのか自問自答です。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28635057.html

第30回

             コント「金閣寺」
     暗転幕が引かれ、幕前に灯りが入る。
     上手から画家風の男、下手から男が出てくる。舞台中央でバッタリ。
 男   「おや先生、お散歩ですか?」
 画家  「うん、傑作をものにしたからちょっと疲れた。気晴らしにね。」
 男   「そうですか。是非見たいですね。」
 画家  「そうかい。我ながら素晴らしい出来だ。見せて上げよう、ついてきなさい。」
     と、言いながらその場でくるりと廻る。その間に暗転幕が開くと、
     舞台中央に金隠しがぶら下がっている。
 画家  「見給え、僕の傑作「金閣寺」だ。」
 男   「えっ?」
 画家  「だからぁ、「きんかくじ」「きんかくし」だよ。」

           ジャン  ジャン    暗転
演出家の紋多さんが「最後の画家の落ちの言葉は「きんかくじ」と「きんかくし」の中間で発音してよ」って言うのだが、ダジャレの世界をコントにしてしまうのだ。

             コント「最後の晩餐」
     幕前コント。灯りが入ると上手から画家風の男。
     下手から男が出てきて、舞台中央でバッタリ。
 男   「おや先生、お散歩ですか?」
 画家  「うん。傑作をものにしたからちょと疲れた。気晴らしにね。」
 男   「そうですか。是非見たいですね。」
 画家  「そうか。我ながら素晴らしい出来だ。見せてあげよう。ついてきなさい。」
     と言いながらその場でクルリと廻る。その間に暗転幕が開くと
     舞台中央に椅子に座った老婆がいる。
 画家  「見給え。僕の傑作「最後の晩餐」だ。」
 男   「えっ?」
 画家  「だからぁ、「最後の晩餐」「最後のバーサンだ。」

             ジャン  ジャン   暗転
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28671504.html

第31回~第35回
 「小原庄助」「たき火」

第31回
「金閣寺」「最後の晩餐」この2つのコントは出来れば、1・2曲のおどりをはさんで演る方が繰り返し
の可笑しさが発揮できる。ただこのコントをするにあたって大道具の棟梁と揉めました。
「神聖な舞台に金かくしを吊すなんて、正気の沙汰じゃない。」と棟梁の言い分でしたが、その神聖な舞台に裸の女が乗っているんだからと、訳のわからない折り合いをつけたようです。

                 コント「小原庄助」
     幕前に灯りが入ると、上手からご隠居風な男が出る。
     下手から百姓風な男が出て、中央で出逢ってすれ違い、振り返って呼び止める。
 百姓  小原庄助さん。なんで身上潰した?」
 庄助  朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上潰した。
 百姓  ああ、もっともだ。もっともだ。
     と言いながら去っていく。

             ジャン   ジャン   暗転


このコントは、演出の紋多さんから「決して歌ってはいけないし、セリフになってもいけない。その中間
くらいでやれ!。そうすれば場内爆笑だ。」と言われましたがクスリとも笑いはおきなかった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28696398.html

第32回
その頃、今でも記憶に残る大きな行事があった。
東洋興行傘下の4劇場合同の慰安会が熱海で行われる事になった。ホテルは「暖海荘」という所で、当日は東京駅に集合という事になった。当時は新幹線などは無く、在来線での旅行となったが正に一種異様な
雰囲気が東京駅にただよった。その当時金髪なんて水商売の人だけで、いかにも独特の空気が流れていた
。中には舞台化粧そのままの女性もいて、100人以上の人がホームを埋め尽くしたのは壮観であった。
その晩に「暖海荘」で撮影した集合写真は今でも貴重な思い出としてアルバムに残っている。
萩本欽一や東八郎、小島三児などが初々しく収まっているのだ。
ヌード劇場の仕事は、この新宿ミュージックホールで終わった。
私にとって願ってもない話が飛び込んできたのだ。新宿松竹演芸場でムーラン名作シリーズををやるので
役者を集めているという。早速応募してみると、既にそのリストに私の名前が上がっていたという嬉しい話であった。プロデユーサーは城仁という人で、集まった役者は石田映二、東八郎、出羽けんじ、女優は浅井世津子と奈美京子などで、名作の「にせあかしや」など何作品かを上演した。
同じ頃に「劇団喜劇」という劇団も出ていて、後にお笑いチームを組む事になった鶴見博や笹一平、ミト
キンがいた。たしか後に京唄子さんと結婚した三田まさる君もこの劇団にいたのだ。
まだ売れる前の畠山みどりも松竹に出演したが、お母さんが楽屋を廻ってプロマイドを配っていたのが印象に残っている。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/28719440.html

第33回
何日ぶりにPCを触ったろうか。
仕事の忙しさもさることながら、ちょっぴり空しさを感じてブログに入力しなかったのだが、今日鹿児島
の歌手出水二郎さんから「ブログを見たよ。」って電話がきたので、また触ってみようかなという気になったのだが、あの長編を書き続けるのかと思うとチョッピリうんざりだ。ま、仕方ないか。
             続き 33


漫画トリオが東京に進出してきたのもこの頃だった。
テンポといい歯切れの良さとおもしろさにビックリさせられたものだった。
いわゆる大阪発の文化のパワーのようなものをこの頃から感じていた。
「パンパカパーン、パパパ、パンパカパーン、今週のハイライト・ハイライト・ハイライト、提供は
専売公社でした。」なんていうのを矢継ぎ早に連発するのだ。
だがこの頃はまだ関西のお笑いは浸透しなかった。
こんな話がある。当時新宿松竹演芸場の司会をしていたのは、大海晴夫(字は違っているかも知れない)
だった。味のある語り口で決してテンポが有るわけでもないのに、妙な味のある司会者だった。
その彼に人生を二分するような人生の岐路とも言える程の、切ないエピソードが有ったのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/29758125.html

第34回
大正製薬提供の「大正テレビ寄席」はウクレレ漫談の牧伸二の司会で爆発的な人気番組となった。
実は、この番組が決まる前に司会のオーデションがあったのだが、本命と言われていた大海さんは
オーデション会場に現れなかった。なぜだか理由は判らない。
自動的に第二候補の牧伸二さんで決定してしまった。チャンスは2度と訪れなかった。
その後の大海さんの消息は聞かないが、人の運不運は正に髪一重なのかもしれない。
この頃、憧れて見ていた石井均一座が印象に残った。

            コント「たき火」
何人かで焚き火をしている所へ、寒そうな格好の男がやってきて「俺も入れてくれ」と言う。
「あたりたいなら、何か燃えるものを持ってこい」と言われ袖に引っ込み、太い柱のような木を
引きずって来る。「おお、すごいな。あたれよ。」と言われて仲間に入る。
しばらくすると、奥の方からもの凄い物音がして「アパートが倒れたぞ!。」と誰か叫んでいる。
一同たき火の柱を見、そして男の顔を見る。男うつむく。

           ジャン    ジャン    暗転

このコントが面白くてお洒落で、私の心にいつまでも残っていた。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/29932119.html

第35回
新宿に新しいヌード劇場がオープンした。
新宿通りを半蔵門に向かい真っ直ぐ東映の映画館の先で現在のラシントンホテルの前身が内外ミュージックホールであった。経営者は台湾人の羅さんで、人当たりの優しい人でした。
コメディアンは岡田淳二・鶴見博・熊吾郎が参加するというので、私も行く気になった。
やはり相性みたいのが有って、楽しく仕事が出来るのがより楽しいコントを生み出す事が出来るからだ。
後に私とトリオを組む事になる、鶴見さんと熊ちゃんとのコントの原型が此処で出来たのだ。
当時バレーボールの日紡貝塚が強く有名で「東洋の魔女」と言われていたのをもじって「東洋の魔男」と
称し、私がコーチ役でモップの柄にボールをつけてラリーをし笑いを取るというもので、後に神ひろしと
スリーポインツの「ピンポン」が出てきたが、私達が元祖だったのである。
最後のオチは「駄目だ!これじゃあアジア大会もおぼつかない。」「アジアは駄目ですか?」「そうだ。
アジアはパーだ。あじゃパーだ。」全員揃って「アジャパー」
           ジャン  ジャン  暗転となる。


パン猪狩さんとの出逢いも此処内外ミュージックであった。
ひとりコントで「羅生門」というのを踊り子を使ってやっていた。
その中で鎖鎌の鎖の部分を首に巻き付けて飛ぶ芸は、真似してみたが結構難しかった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/29946054.html


第36回~第40回
 「切腹」「決闘」「朝の清掃」「ゴールドラッシュ」

第36回
         パン猪狩  コント「切腹」    パントマイム

幕が開くと舞台中央に男が裃に威儀を正して正座している。
男の前に三宝が置かれ、その上に白木の束の小刀が置かれている。
(笙の音がシュウと流れる。)
じっと目を閉じていた男がゆっくりと目を見開き、腕を通して片肌を脱ぎ、そしてゆっくりともう片方も
脱ぐ。やおら白い襦袢の前を広げると三宝の上の小刀を取り、鞘を払って懐紙を中程に巻き付けて、それを逆手に握り、三宝を腰にまわして敷く。
(笙の音、一段と高まる。)
目を閉じて切っ先をちょっと当てて、イテテと痛がる素振りをするが意を決して右腹に突き立て左へ一気
に真一文字に掻き切る。刀を返して下腹から上に切り上げる。
苦悶の表情で内蔵をつかみ出して、目の前に並べて細かく切り串に刺して並べ、団扇で風を送り煙りにむ
せたりしながら、タレをつけて美味そうに食べるがフト気がついてバッタリと倒れこむ。

            ジャン   ジャン    暗転

パンさんとは、その後浅草松竹演芸場で再び会う事になるのだが、色々なエピソードの持ち主でも有った
。早野凡平のホンジャマーの帽子は、飲み代にするためにパンさんが500円で売ったという。
又、ある時パンさんの歯に激痛が奔った。息子を呼んで「お父さんはこれから歯を抜く。本当は歯医者に
行かなきゃいけないけど、貧乏でお金がないから自分で抜く。お前達はちゃんとしてこんな事がないようにしろよ。」と言って、歯にタコ糸を巻き付けエィッとばかりに引き抜いたが、出血が止まらず歯医者に
駆け込んだという。私の人生の中で出逢った面白い人物のひとりであった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/30086083.html

第37回
新宿演芸場当時から私に注目してくれた人に、松竹のプロデュサー林多賀志がいた。

その林さんから芝居を本格的にやらないかと持ちかけられた。行く気があるなら大坂の曾我廼家十吾の劇団「家庭劇」に紹介して上げるという。
この劇団は大坂庶民の味を芝居に取り入れたもので、一方の雄藤山寛美の「松竹新喜劇」と並んで大坂の
演劇界を分けていた。役者陣は伴心平・八木五文楽・岸田一夫・高田次郎・柴田昭彦・淀川紘平。
又女優陣は花柳かつ子・千草英子さんなど総員で50人程の陣容で、私が家庭劇に入った時には既に石井
均さんはいた。林さんの口利きで給料の条件は破格の扱いで、4万五千円の月給を頂いた。
私は単身高槻にアパートを借り、東京の妻に2万円を送って充分生活できたものだ。
文楽座が常打ち小屋で、一年の内8,9ヶ月公演し、後は京都南座・名古屋御園座など地方公演もした。
だいたい公演は昼夜四本ずつの芝居で、毎月八本の狂言を上演していた。
前狂言は石井さんの作品を上演するのだが、石井さんには大変可愛がって頂いて良い役をふって頂いた。
後の狂言は十吾先生・花登先生の作品だった。
十吾先生は毎回芝居が終わるとダメ出しがあるのだが、出演者全員が先生の楽屋の前に集まってダメを聞く。大幹部であれ、青年部であれ先生からは一律で「あんたなぁ、あんな芝居やったら明蝶かて出来るわ
」天下の曾我廼家明蝶さんを引き合いにだしてのダメなのだ。
そこに先生の優しさがあった。自分以外の人のダメを聞いて勉強しようという姿勢に満ちあふれていた。
先生の洩らす一言半句も聞き逃すまいと耳を傾け、次の出番に差し障りのない限り聞いていた。
ただ困った事に先生はダメ出ししながら溲瓶で小便をしながらなので、女優さんは目のやり場に困って
いたようです。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/30292005.html


第38回
日本一の漫才師となった西川きよしさんは、当時石井均さんの付き人をしていて、湯飲みやタバコを持って、袖のあたりをウロウロしていたが、実に礼儀正しい青年であった。十数年後、あるテレビ局で、奥さんのヘレンさんに、私の事を家庭劇の先輩で有ることを説明し、当時のエピソードなどを話し偉ぶらず本当に腰の低い人柄は変わっていませんでした。
高田次郎さんの付き人をしていたのは富田林君。多分芸名だったと思うが風のたよりでは、市会議員になったと聞いた。十吾先生の最後の弟子となったのが、はな寛太・寛大の名で今も活躍している。
当時の私の日課は、朝先生のお宅に伺い先生の食事が終わるのを待って、一緒に楽屋入りするのだが、あらかじめ松竹の方から言われていた。
奥さんは京都の人なので、お宅に伺うと「ぶぶ漬けなど、どうえ?」と言われても「絶対戴きます。なんて言ってはいけない。あれは社交辞令だからね。」と釘をさされたが、間もなく奥さんからそう言われた
ときは妙に関心した。勿論断りましたよ。「食事はして参りました。」って。今川君が入ってきてからは家までの出迎えはしなくなくなりましたが、楽屋回りのお世話はしていました。
毎月ゲストの大村昆さんとかかしまし娘さんとか旭輝子さんには我々若手は随分可愛がって頂いたものだ。
特に旭輝子さんは出演すると、我々若手の為に1,2回は必ず食事会を開いてくれた。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/30477594.html

第39回
家庭劇当時京都で飲んだりすると、その都度小芝居をしたものだ。
材木屋の若旦那とその取り巻きとか、染物屋の社長と取引先の社員とか設定をしてママをだましたりして
遊びに工夫を凝らして楽しんでいた。
しかしその当時は、どんなに楽しく飲んでいてもテレビの見たい番組の有るときは、その時間までに必ず
帰ったものです。何故かって当時はビデオが無かった時代だったから仕方なかった。
その絶対見たい番組とは、「ビックス舶来寄席」だ。ショートショートを何本か放送するのだが、特に爆笑するわけではないが、なんとなく面白いのだ。

              「決闘」


燕尾服で正装した二人が背中合わせに立ち、片手にそれぞれ拳銃を持っている。
立会人の合図で「ワン・ツー・スリー」3歩歩いて振り向きざまに銃を撃つ。
片方が撃たれてバッタリと倒れる。
立会人が歩み寄り抱き起こして、ポケットからタバコを取り出し口にくわえさせるが、そこで男はガックリと首を折り息を引き取る。
立会人は男の口からタバコを取ろうとすると、口に張り付いていたのか「いててッ!」
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/30534362.html

第40回
何ヶ月振りだろうか。たしか4月の頭位から入力していない。
誰に見せるでもないこのブログだから、休もうが辞めようが誰に遠慮もないの
だが、ある方から「どうしたんですか?身体の具合でも悪いのですか?」と問
い合わせが入った。「見てくれている方が居るんだなぁ。」と結構嬉しくなり
「それじゃあ、始めようかな。」って、又1ヶ月経ってしまった。
自分自身が中途半端な気持ちでいるのが嫌さに、兎に角セントへの気持ちから
完結させようと思っている。


          コント 「朝の清掃」


男が道路をほうきで掃いている。
行き交う人々に愛想よく挨拶をしている。
ホウキでかき集めた落ち葉を1ヶ所にまとめ、辺りをうかがい誰も来ないのを
確かめてから、歩道をヒョイと持ち上げて落ち葉を中に掃き込んだ。
                  ジャン   ジャン

          コント  「ゴールドラッシュ」
ここは金山である。多数の男達が一攫千金を夢見て今日も金脈に取り憑いてい
る。だが幾ら掘っても土塊と岩ばかりだ。
今しも、ある男が鑿で岩を掘っていたが、突然「ゴールド! ゴールド!」と
叫んだので、掘る手を休めて他の男達は注目した。
その男の指先にはトウモロコシの粒大ほどの金である。
その脇で金歯を抜かれた男が口を開けていた。
                  ジャン   ジャン。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/33268202.html


第41回~第45回

第41回
昨日、千葉テレビから8月にオン・エアーする「フラダンス」の番組の収録が
始まった。今フラダンスはブームなんだそうだ。
各地で繰り広げられているダンススタジオ。各局が今しのぎを削ってダンスの
番組を制作しているらしいが、その一端として「フラパラダイス」という番組
の司会を私がやる事になり、昨日千葉小湊ホテル三日月のプールサイドで収録
を行った。1回に3,4組のハラウが出場して楽しく進めていく番組なんだが
私が司会ですから、もう私のペースです。プロデューサーも言いなりです。
8月6日が第1回の放送の予定です。
見る機会が有ったら見てね。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/33459796.html

第42回
ビックス舶来寄席というタイトルで週一で放送されていたのだが、なにしろ三十七、八年前の事なので思い出すのはこの3本くらいしかない。
ロケーションもしっかりしたもので、楽しんで見ていたものだ。
後年同じような番組の日本版ともいう、テレビ朝日の「スポット演芸」があり
ギャグメッセンジャーズ時代にはかなりお世話になったものでした。
この頃から家庭劇で芝居を続ける事にかなり懐疑的になっていたのだ。
家庭劇というのは、大坂の土の匂いが漂うというか、大阪弁ならではのニュアンスが必要で、東京者には越えられない壁のようなものだった。
家族との離れた生活にも疲れてきた事もあり、なんとか東京に戻りたいと紹介者の林氏に相談したところ、浅草の常磐座の座付き俳優にならないか?という
話がきた。正に渡りに舟とはこの事であった。
松竹現代劇と銘打って、常磐座での自主公演を含めて座付きとして各劇団のお
手伝いもするという条件であった。
家庭劇は十吾先生に話をし、円満に退団して東京に戻ってきた。
松竹現代劇の陣容は、中島元、斉川一夫、柴三郎などで、女優陣は岸英子、三上桜子、丹下清子の娘の丹下セツ子らであつた。
最初の自主公演は小崎政房演出「肉体の門」であり、第二回は「春婦伝」を上演したのだ。富永一朗の「チンコロ姐ちゃん」も上演した。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/33572658.html

第43回
この頃の舞台で印象に残っているのは、博多淡海さんの芝居だった。
平舞台に正座したまま、トーンと舞台に組んだ座敷のセットの上に飛び上がるのだが、その身軽さといい飄々とした芸風は十吾先生とはひと味違った味わいというか、博多弁と相俟って絶妙の味であった。その淡海さんの芝居の中での
バナナの啖呵売があるのだが、私はワクワクするような気持ちでいつも舞台の
袖で聞いていた。「トコ、バナちゃの因縁聞かそうか、生まれは台湾台北で、
青いうちからもぎ取られ、国定忠治じゃないけれど、唐丸籠に乗せられて、
金波銀波の波越えて、着いた所は下関、ゴンゴン鳴るのは寺の鐘、ゴンゴンパチかゴンパチか、権八ゃ昔の色男、それに惚れたが小紫」てな口上を独特の節回しで語り上げるのだ。
この常磐座では、入れ替わり立ち替わりの女剣劇の劇団につきあった。
神田千恵子さんは30代の若さで亡くなってしまったが、好きな女優さんであった。大江美智子さんが常磐座に出演した時に籠寅の大将の目にとまって、大江さんの相手役に抜擢されたのだ。
大江さんの恋人役で「情炎!日の出岩」という演し物で大江さんの妹はま子さんのお二人に取りっこされるという甘い二枚目役でした。
新聞各紙の劇評でも高く評価されたものでした。
最初は大劇場での公演でしたが、そのうち地方公演が多くなりました。
特に下関では、籠寅の大将の一番の子分合田組の親分が大将の一番の子分で、
確か一番から十番くらいまで居たと聞いていた。
大将と大江さんや私達一行が下関駅に着くとホームから駅前のタクシー乗り場
までズラリと子分衆が二列に並んで私達を迎えてくれるのだ。
当時、もし劇団の女の子に手を出したら簀巻きにされて海に沈められるという
噂がまことしやかに流れていたものだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/34077235.html

第44回
女剣劇大江美智子の一座に大江さんの相手役として抜擢され、数々の作品を演じてきましたが、多くの役者が元剣劇の座長クラスで、いわば旅役者の吹きだまりのような劇団でしたので、段々嫌気がさしてきていたのだ。
地方廻りの足は、通称カゴトラ列車と言われる過酷な移動であった。
九州公演も当時の夜行鈍行列車の堅い三等車に揺られて、丸一日半掛けて行くのだ。食事に至ってはアルミの弁当箱に軽く入れられたご飯に、多分猫も跨いで通ると言われる(ネコマタ)弁当で、軽く振ると弁当箱の半分以下になってしまうという代物で、朝飯は早起きの老俳優達が殆ど実をすくってしまった冷たい味噌汁という始末であった。
このままでは、ただの旅役者で終わってしまうのではないかという不安にかられて、劇団を辞める決意を固めて浅草の常磐座に戻ったのである。
当時、常磐座の目の前の浅草演芸場で司会をしていた野木ヨシローさんから、
コンビを組まないかと誘われた。この方は新宿松竹演芸場のムーラン名作劇場
で一緒だった奈美京子さんの旦那さんで、ピンの三味線漫談家でしたが是非二人でコンビを組もうという。しかも弾けなくても良いからギターを持ってくれという。コードだけ弾いてくれればそれで良いと言ってくれたので、懸命にギターの稽古に励んで1週間後にはステージに立つという、今考えれば冷や汗ものの強心臓ぶりであった。
当時はキャバレー全盛時代で、コンビを組んだらいきなり北海道へ送り込まれた。北海道は一つのキャバレーに1週間、1日3ステージで嫌でもネタを増やさないとならないですから、コンビ固めには持ってこいの場所であった。
大体、野木さんというのは柳家三亀松さん風の芸で、三亀松さんのパクリもして「十三夜」の替え歌が面白かった。
「朝の起き抜け三っして、昼また二つ、オヤツに三つ。夜二つ、夜中に飛び起きて三つする。全部併せて十三夜。」と唄うのだ。

                 続く。

ここの所、本編を休んできたので続ける努力をしなければいけない。
なんせまだ20代の半ばの頃という芸人生活の序の口の話なのだから。
明日から瀬川瑛子さんの仕事で名古屋に行く。
仕事の度にその土地の美味しいものを食べてしまうので、今やハラボテ王子と呼ばれている。明日も暑そうだものね。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/34120851.html

第45回
本編に入る前に、ちょっと近況をお知らせします。

名古屋のホテルキャッスルプラザでの仕事は、前に協会に所属していて退会した、名古屋出身の霜鳥清子氏の仕切りで、宝石・ファー・時計・バッグなどの
新作の展示会での歌謡ショーで、瀬川瑛子が呼ばれたのである。
世の中には信じられない程のお金持ちが居て、何百万円もの買い物を、我々が
シャツ1枚を買う位の感覚で2,3点まとめ買いをするというゴージャスな方々沢山集まってくるのだ。
明日から新潟で前川きよしショーとものまねの美川憲二のショーです。
ゲストに地元の歌手吉田恵美が出演するのだ。


毎回、仕事の度に面白いアクシデントが発生したりする。これが面白いのだ。


今回は何が有るかな?。

それでは本編です。


和服の着流しでギターを抱えてのショーは、古くてダサイと感じていたのと、
漫才でなく、単純にコントをやりたいと思っていた時、鶴見博さんと熊悟郎から是非一緒にトリオを組んでやらないか?という誘いがきた。
「是非町田さんと一緒に、昔の内外ミュージックの時のようなコントをやりたい」と言う。
それまでの野木さんとのごまかしのような芸をしていた私は、嬉しくて野木さんと円満に話し合い、結成されたのが「コミック・エース」でした。
セブン芸能所属したが、ここはキャバレーの仕事が主流で1年程して、「東京タレント倶楽部」に移籍した。
ここの社長の大内さんという方はかなりの辣腕で、浅草国際劇場の中間ショー
には多数出演出来たのだ。中間ショーというのは「春のおどり」から「夏のおどり」の公演の合間にする歌謡ショーで、ミノルフォンレコードの旗揚げ公演
や、小畑実ショー・千昌夫ショーなどが行われ、お笑いゲストとしてかなりの
出演を果たしたり、質の高い仕事を手がけるようになったのです。。
又、寄席の東宝名人会にもかなりの密度で出演をしたものだ。
寄席が始めての私達ですから、楽屋の決まり事も知らずに、大師匠の座る位置
に平気な顔をして座って、前座さんにたしなめられた事も有りました。
この頃からボチボチとテレビの仕事が入ってきたのだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/34222407.html

第46回~第50回
 「インチキ魔法団」「掏摸(スリ)」

第46回
コミック・エースというトリオを結成して、当時のお笑いブームの中で地味ではあったが着実にその地歩を固めて、東宝名人会という寄席でも常連となり、多くのファンを獲得した。
その頃よく出演していた浅草演芸場の城仁というプロデューサーがいて、この方は新宿の演芸場当時の「ムーラン名作シリーズ」のプロデユーサーでもあったので、大変可愛がっていただいた。
その当時、吉祥寺の「リズ」というキャバレーのボーイをしていた男との出逢いが有った。この勉という男が、後に有名になった物真似の佐々木勉である。
当時本人がどうしても芸人になりたいというので、演芸場の城さんに紹介して
浅草松竹演芸場の住み込み司会者となったのである。
大変な勉強家で、独学でギターをマスターし声帯模写も懸命に稽古を積み、ステージでもそれを生かしてファンも日増しに増えていったのだが、ウイークポイントは女性にだらしないという事であった。
それが後年命取りになろうとは、当時思いも寄らなかった。
ある年の新年公演で、勉は女性の部屋で寝過ごして開演に間に合わなかった。
たまたま、開演前から私が早めに楽屋入りしていたので、代演をして事無きを得たのだが、そのぺナルティは過酷なものであった。
罰として、プロデユーサーの発案で彼の下半身の毛を剃ってしうというものでした。実行者は紹介者としての責任で私と熊悟郎であった。
高倉健と藤山寛美やらが麻雀をするというネタで、みんなに愛された佐々木勉
が非業の死を遂げたのだ。
惨殺死体で死後何日か経って発見された勉。犯人と思われる女性も浅い海で溺死してしまったという、不可解な事件であった。
浅草の演芸場というのは、芸人の溜まり場で出演していない芸人も年中遊びに
きて、芸談に華を咲かせるといういわば社交場でもあったのだ。
そんな芸談の輪の中心にいつも居たのが、パン猪狩さんだった。
楽屋での酒盛りでは、好物のミミガーを肴に喋り続けるのだが、歯抜けなので
何を喋っているのか殆ど理解できないのだが、なんだか雰囲気で笑ってしまうのだが不思議な事に舞台ではキチンと話していたから、これも不思議だった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/34322945.html

第47回
私共の日本司会芸能協会は、毎年秋に中野サンプラザホールで公演を行っている。今年は9月13日に、冠二郎・小野由紀子・多岐川舞子・加門亮の皆さんで公演、そして我が協会も今年22年目を迎えました。
殆ど毎月の浅草東洋館公演の他に、5月は国立演芸場という具合に、協会執行部は殆ど休む暇なく活動している。
森昌子の司会をしている牧野君とも年中顔を合わせているけど、それぞれの仕事の話は殆どしない。ですから昌子ちゃんがどんなショーをしているのか、まったく知らないのだ。しかし司会として牧野くんが嵌っているらしいのは、聞かなくても伝わってきます。
歌手と司会者は相性が大切で、どんなに巧い司会者でも相性が悪いとうまくいきません。その点牧野君は良い感じで仕事をしているようですので安心です。
さて、そろそろ本編に入りましょう。

昭和40年代後半は、正にキャバレー全盛時代でしたので、私共コミック・エースも日本全国のキャバレーをくまなく廻ったものである。
特に北海道は1週間同じ店に入り、1日3ステージをしなければならない。
従って1週間で21ステージですから、ネタに苦労するし嫌でも新ネタが増えるのだ。どこのチームでも必ずお客様に受けるネタというのはせいぜい2,3
本しか無いのだ。この当時誰がチームを組んでも、まず北海道に送り込まれるのだ。嫌でも鍛えられてネタが豊富になって帰ってくる。
仕事は夜なので、昼間喫茶店に行ってネタ作りをして衣装などは現地調達で
衣料品店を廻って買い求める。
当時流行りの歌、例えば「君こそ我が命」とかを織り込んで、歌謡コントに仕立てたりしたものだ。
特にキャバレーネタで意外に受けたのがマジックネタだった。

      インチキ魔法団
「それでは、これより透視術をご披露しましょう。
 皆様にこれから封筒と紙を配ります。品物でも言葉でもなんでも結構です。
書いたら、人に見せないように封筒に入れて下さい。」と言って5枚くらい
お客さんに書いて貰い、舞台に戻ってくる。
カラクリはこうだ。封筒の最初の1枚は囮で白紙なのだ。
「先生はヒマラヤの奥地で50年修行してまいりました。封筒の上から書かれた文字を透視します。その確率は100%です。それでは先生最初の封筒です。先生、これはなんと書いてあるでしょう。」
先生は、やおら念をいれて考える振りをして「ウーン。ネクタイだ!」と言う。ここがミソです。書いた人は居ません。
「さあ、ネクタイと書いた方はどなたですか?。あれっ、居ない?おかしいなあ、書いた人は必ず返事して下さいね。」とサラリとかわす。
「さあ、果たしてネクタイと書いてあるかどうかです。」と言いながら次の封筒を開けて先生に見せる。そこには次の解答が書いてあるのを見せるのだ。
次からは100%当たるというインチキ透視術なのだが、これが結構受けた。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/34332425.html

第48回
現在本編の48回目ですよね。年齢的に言うと28歳くらいの頃の話です。森昌子の専属司会者となったのは35歳の時だったから司会に転向するのはまだ8年も後の話である。現在の時点で考えると芸能人生の半分以上を司会者としてやってきた訳だから、まだ48回目なんてほんの序の口なのである。
司会者としての裏話は山ほど有るから、このブログを見ている方は楽しみにしていてね。

本編に入るよ。

マジックネタのもう一つのパターン。
前の透視術はネタばらしをしない方法だったが今度はネタばらしだ。
舞台にテーブルが一つ置いてある。
司会が「只今より、チョー・ネンテン先生の透視術をご披露しましょう。先生は目隠しをして後ろ向きになり、皆さんからお預かりした物を見事に当ててしまうという、世界一の透視術者なのです。」
客席に廻った一人が、お客さんから何か品物を借りて「先生、これは何でしょうか?」と問いかける。先生が「うーん。」と考える振りをして「それはビールです。」見事に当てるのだ。次から次へと当てる。「先生に大きな拍手!」
先生は得意げに目隠しをはずして、一礼をしてテーブルを持って退場する。
テーブルの中に、しゃがんで双眼鏡を持った男がいる。   暗転。

         コント「掏摸(スリ)」

先生 お前か、俺の弟子になりてえというのは。
弟子 ええ、先生のご高名を聞いて是非先生の弟子にして頂いて、その技を
   教えて頂きたいのです。
先生 そうか、それじゃまずお前の腕前を知りたいから、何か俺の物を掏って
   みろ。
弟子 はい、それでは。
   (二人上手下手に別れて歩いてくる。すれ違いざまに弟子がぶつかる。)
弟子 先生!やりましたよ、ホラ。(財布を見せる。)
先生 まあ、まあだな。けどよ身体をぶつけてスルなんざ十年古いぜ。
   よし!今度は俺の番だ。(歩いてすれ違う。)
   やったぞ。
弟子 先生。私の身体に全然触らなかったですよ。どうしたんですか?」
先生 ズボンを上げてみろ。
   (弟子がズボンの片方を上げると素足だ。)
先生 見ろ!これを。(手に靴下を片方持っている。)
弟子 あっ、全然気が付きませんでした。
先生 なっ、これが俺の技だ。けどこんなのはほんの序の口だ。
弟子 先生、もっと教えて下さい。
先生 よし、もう少し高等テクニックだぞ。
   (歩いて、すれ違う。)
弟子 先生、今度は失敗したでしょう。何も取られなかったですよ。
先生 そうだろ。相手に悟られてはいけない。けどその内判るぞ。
   歩いてみろ。
弟子 (弟子、歩く。)あれ?先生変です。下半身がスースーしてます。
先生 これを見ろ!。(と、手にもったパンツを見せる。)
弟子 あっ、私のパンツだ!。凄いな先生。
先生 だろ。(と、言ってパンツを嗅ぎウッとむせる。)
   おい、たまには洗えよ。
弟子 恐れ入りました。(土下座をする。)もっと奥義を教えて下さい。

    長いので、今回はここで中断。次回に後半を。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/34740271.html

第49回

本編に入る前に、
佳子ちゃん・KIKKOちゃんいつも見てくれて有り難う。
自分史を綴っているのだが、司会者として初めてついた歌手の森昌子さんの話
に行くのは、かなり後の事になります。
だって、テレビという世界で活躍した5年間のギャグ・メッセンジャーズ時代を語っていないのだから。それまで待っててね。
これは、単なる自分史ではないのです。
「田園調布に家が建つ!」のフレーズでお馴染みだった、今は亡き星セントとの約束事の中から生まれた「昔のコント」を町田陽介の芸能人生を通して書き残しておこうという主旨から生まれた物語なのである。
さて本編にそろそろ入りましょう。コント「掏摸(スリ)」の後半です。

先生 よし、ならば教えてつかわそう。だが授業料はチト高いぞ。
弟子 先生、おどかさないで下さいよ。お手柔らかにお願いします。
先生 その代わりに俺に1杯飲ませろよ。
弟子 お酒くらいお安い御用ですよ。で、場所は何処が良いですか?
先生 飲むなら、今評判の札幌ユニバースだな。
   (さりげなく、そのお店をヨイショする。)
弟子 先生はお目が高いですね。あそこは良い女が揃っているんですよ。
   明美さんでしょ、司さんでしょ、知美さんでしょ。
   (と、その店のナンバーワンクラスの名前を言う。)
先生 いや、私はユニバースだったらアザミが1番だ。
   (と、店で1番のブスの子の名前を言う。)
弟子 先生はお目が高いですねぇ。あの子は見ていて飽きませんから。
   ちゃんと、後の段取りもつけますから宜しくお願いします。
先生 よし、それじゃ向こうから歩いてこい。
   (二人すれ違う。)
弟子 (急にナヨナヨして)あらぁ、嫌よ。何すんのよ。
   お願いそれだけは駄目。返して頂戴よ。
先生 (手で、ゴルフボール2個をもてあそび。)
   ホラホラ、見てみろよ。普通は楕円形だけどお前のはまん丸だな。
   (と、床に弾ませる。)
弟子 痛い1何すんのよ。やめてよ何でもするから。あんたの女になっても
   良いから。
先生 ほらよ。(って返す素振り。)
弟子 (男に戻って)何すんだよ。いくら先生だって酷すぎるぜ。
先生 生意気な口叩くんじゃねえよ。そんな事言うと。
   (と、言って又玉を抜く振りをする。)
弟子 あら、嫌よ。それだけは止めてお願い。(と、女っぽくなる。)
   セーさん返して、お願いだから。
先生 セーさんって誰だ。
弟子 先生だからセーさん。セーさん返して頂戴。
先生 ホラよ。(と言って返す振り。)
弟子 冗談じゃねえや。普通だったらぶっ飛ばすとこだけど、先生だから我慢   するよ。けど凄い技ですね。なんか極意を授かったような気がします。


   折角ですから忘れないうちにおさらいを。


   (と、言いながら先生の玉を抜く振りをして去って行く)


先生 あー、駄目よ。何という事をしてくれるのよ。


   (と、先生が女になる。)


   待ってよ。なんでも言う事聞くからさ。お願い私を抱いて!


   (と、言いながら追いかけていく。)


       ジャン  ジャン。  暗転。

と、まあ書くと短いのだがアドリブや脱線が多いので(それが面白いのだが)


約20分くらいのコントになる。


だが、コミック・エースというチームは何故か売れなかった。


理由は色々あるのだろうが、そんなマイナー生活に嫌気がさして私は辞めて


しまった。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/34827595.html

第50回
いよいよ千葉テレビの「フラパラダイス」が8月6日(月)午前11時30分

からオン・エアーする。今フラダンスがブームらしいのだ。

1回目、2回目は7月の始めに収録したのだが、3回目と4回目の収録を1日の水曜日にホテルニューオータニ幕張で行った。


段々調子が出てきて、かなり面白い番組に成ったんじゃないかと自負している。ただ残念なのは千葉テレビが我が家では見られないのだ。


J、COMに加入しているのだが何故か千葉テレビが入らないのだ。


前に歌謡番組の司会をしたのはテレビ埼玉でしたので、しっかり録画出来たのだが、今回は仕方なく制作会社に頼んでDVDに収録して貰う約束をした。

さて、本編に入ろうと思います。

結構評判が良かったコミック・エースを突然辞めてしまった私は、特段先行きのあても無かったのだが、その時分は「まあ、なんとか成らぁ。」ぐらいの気楽さを持っていた。たまたま芝居の世界からの誘いも有って、尾崎政房の演出の「肉体の門」の再演に参加したのだが、なにせお芝居では飯は食えない。


やむなく、上野の「チャイナタウン」というキャバレーのショーの司会をする事になったのだが、これが司会という仕事の手始めであった。


当時隣の「ボーナス」というキャバレーで司会をしていたのが、松鶴家千とせ


でした。彼は松鶴家千代若・千代菊の弟子でしたが、ある日漫才をやらないかと誘われた。相方は千とせさんではなく、同じ弟子仲間の面白い男が相棒を探しているのだという。だが正直その時は漫才というものに魅力を見いだせずに


断ってしまったのだが、後年その頃を照らし合わせてみるとどうやら東京二・京太の京太さんではなかったかなと思う。


コントをしたかった私に、浅草演芸場で知り合った安永太からコンビを組みたいと持ちかけられ太田プロに入ったのだ。当時はトリオブームでトリオスカイライン、ナンセンストリオ、トリオ・ザ・パンチ、ギャグ・メッセンジャー


ズ、などが所属していて隆盛を極めていた。


安永太とのコント「ハリケーン」も組んですぐに桂小金治の「アフタヌーン・
ショー」の週1レギュラーを取ってくれたのだ。
和田アキ子がデビューしたてで、今週の歌などを歌っていたのを記憶している
。その1週間に起こった出来事を「ハリケーン」がコントで綴るというコーナーでした。三木のり一君という不思議な青年と出会ったのもこの番組で、実は三木のり平の息子であると紹介された。
普通は親の七光りというか、まわりもそれなりに気を遣うのだが、一切そんな気遣いはなく、極普通の扱いであったように記憶している。


かなりシャイで、線の細い青年であったが現在も活躍していると聞いて嬉しくなってしまった。


30数年も前の事なので、どんなコントをしていたのか殆ど記憶に残っていないが一つだけ覚えている。コント「将棋」だ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/35071549.html

第51回~第55回
 「将棋」

第51回
夏といえば、花火・お祭り・盆おどり。ラムネに風鈴・金魚売り。


でも最近はラムネを飲む人なんて居ないよ。


子供の頃から不思議だったんだけど、ラムネの玉はどうやって入れたんだう。


それはさておいて、あの玉は真円でなければいけないそうだ。


その検査に通った玉を「エー玉」と言いラムネに使い、その検査にもれた玉を「びー玉」というのだ。普段遊びに使っているのが「びー玉」なのだ。


最近マジックブームと言うが、まだラムネの瓶から玉を抜いたマジシャンはいないから、これが出来たら売れっ子になるぜ。最近新聞を読んでいたら、見出しに「米朝、北京で会談」と載っていた


。「あれ、米朝さんが何故北京へ行ったんだろうか」北京で落語をやるのかと考えていたら、アメリカと北朝鮮との会談の事だった。


暫くぶりのブログだ。別に書こうが書くまいが締め切りがあるわけでもなく、


誰にも期待される訳でもないのだが、あまり書かないと「あれっ、町田は死んでしまったか」と思われるので、書き込みます。


今月は開店休業状態で、仕事はパラパラで他にフラダンスの撮影が何本か入っているだけ。毎日ひっくり返って高校野球をみているよ。


さあ、本編を進めようかな。

          コント「将棋」


   (舞台中央に縁台がおかれていて、男AとBが将棋を指している)
男A うーん。駄目か。負けたなこりゃぁ。
男B でも強くなったよな君も。
男A いや、全然歯が立たないよ。強すぎるよ。俺が知っている中ではピカ
   一だよ。脱帽だ。
男B いやいや、俺なんかまだ駄目だけど俺の友達で凄い名人が居るんだ。
   100手先まで読める凄い奴なんだ。
    (そこへ名人が来る)


男B 噂をすれば何とやらだ。おい名人。こいつ俺のダチなんだけど、1局


   揉んでくれないか?


男A お願いします。


名人 私で良ければ(と、いいながら駒を並べて)それではそちらから。


男A はい。(と、歩を握って一考して、やおら角道を空ける)


名人 うーん。(と唸って腕を組み長考する。)そうか。俺がこう行くとこ


   う来る。そしてこう行く。こう来る。こう行く。すると歩が還って金


   となりこう来る。角が取られて、こうなる。これがこうしてこうなる


   と知りつつこうしてこうなった私。そして私は負けとなる。


   (椅子から降りて土下座して) 恐れ入りました。 

         ジャン  ジャン  暗転  
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/35573260.html

第52回
 昨日PCに向かう気になって、かなり調子にのって本編を長く書き込んだのだが、いざ決定をクリックしようと思ったら決定をクリック出来ない状況になっていた。あまりの事に愕然とし、空しくなってしまって止めてしまった。


13日に行う日本司会芸能協会の中野サンプラザ公演の準備に今追われている


毎日ですが、それに加えて三島の五条夕子さんの記念コンサートもかなりのボリュームの内容でその準備にも追われている。


台風9号が去って、本格的な秋がやってくるでしょう。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/36102215.html

第53回
安永太君とのコンビはそう長くは続かなかった。
彼はかつて自分の劇団を持って座長を張っていた経験が有り、プライドも高くてコントのネタ一つ決めるのにも自己主張が強すぎるので衝突する事も多かった。これでは空中分解してしまうので、ある時彼にひとつの提案をした。
「わたしの言う通りに従ってくれないのなら解散しよう。私がリーダーだ。君がこの条件を呑めるならチームを続けよう」と言った。
彼は即答せず「何日か時間が欲しい。」というのだ。そんなやりとりの中で、
事態は急展開してしまったのだ。
ある日、太田プロから連絡が入り事務所に呼ばれた。
事務所にはギャグ・メッセンジャーズの須磨一朗と丘さと志が待っていた。
実はもう一人のメンバー田畑俊二が辞めるので、その後釜としてメンバーに入らないかというのだ。後で判った事だが、須磨と田畑のそりが合わず田畑が辞める事になったらしい。話は素晴らしいのだが安永君との「ハリケーン」として、まだ解散したわけでは無いので困ってしまったが、そこで副社長が助け船を出してくれた。「安永君には私の方から話しをして解決するから、町ちゃん


さえ良ければギャグに入って貰いたい。」というのだ。


どう足掻いても中々這い上がる事が難しいこの世界で、ギャグに入るという事は一流の証しなのだ。しかし話を聞いてすぐ飛びつくのはなんとなく気恥ずかしい気がして「考えさせて下さい。勿論心は決まっていますが女房にも話をしてから返事をさせて頂きます。」と答えはしたが、もう心は決まっていた。
しかし、心がちょっぴり痛んだ。最後通牒を突きつけたとはいえ、まだ返事を聞いていない間の出来事ですから、余計気になって彼からの返事を聞かない今
が一番ベストだと思い電話を入れた。「まだ返事を聞いていないけど、これから先うまくやっていくのは無理だからコンビは解消しよう。事務所には僕から
連絡しておく。」と入れ、すぐに副社長に電話を入れ、安永とのコンビ別れを
した旨を告げて、改めてギャグに入りたい意志を示した。
順序が逆になってしまうと、後々揉める元になってしまうからだ。

             次回に続く

暫くぶりの本編を書き込みました。
我が協会のイベントも有りましたが、三島の五条夕子さんの三島市民会館での15周年記念公演は凄かった。ご本人はもとより、ゲストは冠二郎・服部浩子・宮史郎・竹川美子・チェウニー・合田道人・薔薇笑亭SKD・鹿島ひろ美・黒川英二・花園直道の10組という豪華さに加え、当日の舞台監督も私がするという事になってしまったのだ。昼から3時間の音合わせをし、1時間の休憩で4時間のショーという長丁場で、体力勝負でしたが私もまだまだいけるかなって自信を持ちましたね。実は来月また凄いのが有るんですよ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/36594303.html

第54回
さて、その翌日安永君と会いキチンと話し合って決別し、その足でギャグメンの須磨一朗宅に向かった。須磨一朗との最初の出逢いは、私がまだ浅草の常磐座の常打ちの座員だった頃に、新宿駅の西口改札口で立ち話ではあったが紹介されて、小1時間でしたが印象に残っていた出逢いであった。
「この間小便をして、終わってから急いでいたのでチャックをあわててしめた時、ポコチンをチャックに挟んでしまった。切れて血が出ていたので、慌てて
医者に行ったら医者が【これはひどい傷だ。傷口がYKKに成っている。取り敢えず仮縫いしておきましょう】と言った。」という話がとても面白かった。舞台上では兎も角、私生活ではかなり面白いエピソードの持ち主なのだ。
須磨一朗が新婚時代に萩本欽一が遊びに行ったら、壁のカレンダーに印しがついているのを見た欽ちゃんが「ねぇ、この印は何なの?。」って聞いたら「これは予定日なんだ。」と言う。「何の?。」「あれの。」それから暫くして遊びに行くと、カレンダーに印しが無い。「ねぇ、印しが無いけど、どうしたの?。」と聞いたら、脇から奥さんが「前借り、前借りで3ヶ月分先までいってしまったの。」というのだ。又ある時ゴリラのネタを作った時に、ゴリラの
縫いぐるみを器用に須磨が作った。出来上がったその縫いぐるみを着込んで、
この格好のままでやらせてくれと、奥さんにせまってはり倒されたそうだ。
一方、丘さと志とは同じ事務所であったから知ってはいたが、特に親しい訳ではなかった。丘ちゃんという人は関西系のヌード劇場のコメディアン出身で
腕の確かな人でした。ギャグメンのネタの基本的なものは丘ちゃんに負う所が多かった。それではギャグメンのネタを幾つか書いてみたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/36641713.html


第55回
最後のブログの打ち込みをしてから、半年も経ってしまった。
一度怠けてしまうと、なんだか虚しくなってしまって続ける意欲が失われてしまった。
決して、誰かが覗くわけでもないブログだから休んでもどうという事もない。
この半年の間に変わった病気にも罹ってしまった。
唾液の出口がふさがってしまうという病気だ。これは物を食べる時に出てくる唾液の出口がつまってしまうという厄介な病気で、耳の下が溜まった唾液で膨らんでしまって、まるで瘤取り爺さんのような感じになってしまって、薬で散らすか指で押さえるなどするしか方法はない。
病名は耳下腺炎と言うらしい。
医者が言うのだ「この病気は、病気の中でも一番安っぽい病気なんだよ。だって耳下腺炎(時価千円)だからね」だってさ。
本編だってまだほんの序の口なのに中断したままだし、続けようとした矢先にパソコンが壊れてしまって修理に出したりして、やっと続ける体制が整いました。
「誰に見しょとて、髪飾り」という言葉がありますが、正にその心境ですよ。
https://blogs.yahoo.co.jp/miracle000515/41090416.html


《絶筆》


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