《調査》山城新伍と『ちゃんばら行進曲』

テレビタレントとしても人気のあった山城新伍が新宿コマ劇場に初登場したのは1977年8月のことだった。
『納涼喜劇まつり(夏の踊り)』と銘打たれた公演の後半は西川峰子を中心とした歌謡ショウ。そして前半が、福田善之作・演出『泣き笑いチャンバラ一代』だった。喜劇の名にふさわしく、由利徹や、同じくコマ初登場の東八郎が共演している。
この公演は、1958年にデビューした山城にとっての、芸能生活20周年を飾る、新宿コマ劇場初主演作品でもあった。
福田の弟子である大久保昌一良が、福田の名前の横で「同・補」と書かれている。これだけだと残念ながら、作の補なのか、演出の補なのか、或いは両方なのかが判らない。他に演出補として朝倉睦男が名前を連ねている。

この『泣き笑いチャンバラ一代』の大筋は「老人ホームで暮らしている老人、周りは誰も気がつかないが実はかつてチャンバラで鳴らした映画スターだった」というものだ。山城はこれを少しずつ形を変えタイトルを変えて、何度か再演を繰り返した。

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以下、最後の公演となった京都南座公演のプログラムより。

《また、時が流れ、今月は芸能生活四十周年記念である。『チャンバラ行進曲』の初演は昭和五十二年、東京・新宿コマ劇場で、その後、名古屋・御園座、大阪・新歌舞伎座、また新宿コマと再演を重ねているように、愛着の深い作品なのだ。》

手元にはその5公演全てのプログラムがある。

最初の再演は1985年3月、名古屋・御園座『ちゃんばら行進曲』。福田は作だけになり、大久保の脚本と、山城本人の演出に変わった。

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引き続き1985年5月大阪新歌舞伎座『ちゃんばら行進曲』。これは御園座版の大阪公演という扱いだろう。
福田作、大久保脚本、山城演出というのも変わらない。

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1988年12月、今度は新宿コマ劇場に戻って、山城新伍芸能生活30周年記念『泣き笑いキネマの夢 チャンバラ物語』 として上演。
福田作、大久保脚本。演出は大久保と山城の連名となった。

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最後は1997年2月、京都南座『ちゃんばら行進曲 春はおぼろで紅頭巾』。こちらも前作に続いて、福田作、大久保脚本、大久保と山城の演出。
前述のプログラムにある通り、山城新伍芸能生活40年記念。しかも京都は山城の出身地でもある。

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初演こそ福田善之の名前が大きいが、あとの再演は全て山城と大久保昌一良の共同作業で作られた作品と言えよう。
周年記念という節目節目に再演を繰り返したこの『ちゃんばら行進曲』の上演記録で注目すべき点は、新宿コマ公演は東宝系のコマ・スタジアムが制作で、それ以外は松竹が制作していることだ。ということは、劇場運営側ではなく山城側が折を見て脚本を提案して再演を繰り返していたのだろう。この点からも、山城にとってそれだけ大切な作品なのだということが伺える。


作品の生い立ちについては、山城自身が御園座公演のプログラムに寄稿している。

《今から丁度十年ぐらいに、別府にある施設から一通の手紙をいただきました。この施設は、養老院と温泉治療を兼ねた、いわゆる老人を預かる施設なのです。その文面を見てびっくりしました。かつての無声映画時代の超スーパースターが、ここで朽ち果てるように世話になっているという書き出しで始まった手紙は、そのスーパースターの手によって、それも中風(※原文ママ)を患っておられるものですから、ミミズの這ったような字で、一枚の便箋に大きな字で十文字ぐらいしか書けず、手紙の内容を伝えるためには、便箋二十枚ぐらいの大長編レターでした。
 そのスターが身分を捨てて、ひっそりとその施設に隠れ住んでおられましたが、ある日、娯楽室のテレビに映るぼくの姿を見て、「あっ、こいつ俺がよく教えてやった奴や」と叫んでしまったというのです。身分を知らぬ同室の老人たちは、何をこの放言癖のある爺だと、嘲笑の渦中の中に巻き込まれ、思わず「うそと違うわい、俺は○○之介だぞ」と往年の、それもこの施設にくるような年配の方なら誰でも、血湧き、肉踊らせたであろう、連続活劇のスターの名を連呼するものだから、ますます狂人扱いされて困っている。行き掛かり上、こうなった。君には迷惑かもしれんが、俺を○○之介と証明してくれと、役者の業が痛い程わかる悲しい手紙でした。
 早速返事を書き、小さな荷物をつくり、表には○○之介先生と大書きし、差出人は勿論、東映京都撮影所内、山城新伍と記して出しました。
 数日して、またこの大先輩から返事をいただき、その文面は「ありがとう、君のおかげで役者の最後の花道を踏むことができた。あれ以来、周囲の目が変わってきて、俺を見てなつかしそうに昔のシャシンの話をしてくるようになった。今は施設のスターだよ」という、辛い辛い手紙でした。
 このスーパースターも、まもなく他界されましたが、この話をちらっと福田善之さんに話したのがキッカケになり、『泣き笑いチャンバラ一代』というタイトルで脚本化してくださいました。それを更に膨らませ、おもろうて、やがて悲しき活動屋を演じてみたくなりました。》

文中の「○○之介」については前述の京都南座公演のプログラムが言及している。

《(中略)……と再演を重ねているように、愛着の深い作品なのだ。というのも、実話にヒントを得て、山城の原案で生まれていることにもよるだろう。老人ホームから山城新伍のもとへ一通の手紙が来た。差出人はその昔、スターだった市川百々之助。“ホームの連中が信じないから自分が百々之助であると証明してくれ”と。》

市川百々之助についてはウィキペディアが詳しい。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/市川百々之助

百々之助は生涯に200本以上の映画に出演、そのうち150本がサイレント映画だったという戦前のチャンバラ映画のスターだ。1978年1月15日、71歳で死去したそうだが、映画評論家・岸松雄の1970年発行の著書『人物・日本映画史1』によると、晩年は半身不随になり別府温泉で寂しく療養していたとある。確かに山城の話と合致している。

全盛期の活躍は相当なものだったらしい。活動を伝えるための比較対象が錚々たる名前ばかりだ。
《マキノ雅弘によると、百々之助は「目玉の松っちゃん」(尾上松之助)の次に売れたマキノ映画のチャンバラ大スターだった》《林長二郎(長谷川一夫)が現れるまで、世の女性たちの人気を一手に集めた時代劇スタアはこの「百々ちゃん」だった》《人気絶頂のころの百々之助には、大河内傳次郎、阪東妻三郎さえその人気には勝てなかった》etc…


山城が生まれた1938年に百々之助は戦前の活動を終わらせ一旦引退生活に入る。だから幼少時代の山城が実際に百々之助の映画を見て百々之助に憧れたかはわからない。むしろ百々之助の存在すら知らなかったかもしれない。
しかし、戦後の百々之助は1954年から1961年まで東映を活動の場とし、一方山城は1957年に東映ニューフェイスとなり、2人の東映在籍時期がかぶる。
時代劇スターに憧れてこの世界に入ったばかりの山城が、往年のチャンバラ映画の大スターである百々之助から何かしら手ほどきを受けるのは自然の流れと言えよう。

山城はテレビドラマ『白馬童子』で脚光を浴び、任侠映画やテレビのバラエティ番組で活躍した人物だが、元々は時代劇スターに憧れて東映に入社しただけあって、映画や時代劇をとても大切にしていたという。
そんな山城にとって、憧れの対象だった「チャンバラ映画のスター」を演じるのは、実在の先輩の半生を演じるということも大切だがそれ以上にとても重要で、だからこそとても《愛着の深い作品》となったのだろう。


さて、山城新伍が亡くなったのも老人ホームだった。

同じく映画スターだった花園ひろみと2度の結婚離婚を繰り返し一人娘からも縁を切られ、家族に見放された状態でまた糖尿病を患った中、山城は『ちゃんばら行進曲』を地で行くかの如く、老人ホームで人生を終えた。

一見寂しい老後にも見えるのだが、山城新伍の終焉はとても運命的で、因縁めいていて、美学さえ感じられる。

勿論、真実はわからない。
死人に口なし。全ては藪の中だ。
しかし。

山城はいつしか自身を『ちゃんばら行進曲』の主人公に投影し、自身の人生をそこに重ねたのでは。それが美学だと思っていたのではないのか。
再演を繰り返した《愛着の深い作品》は、山城の理想の人生の一つだったのではないのだろうか。

そう、信じたい。

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