《調査》亡くなっているのに亡くなっていないことになっている大屋満

ある年の、東京の別の座長公演に奴は出ていた。けれど大阪公演の頃には体調がおもわしくなく行けなくなり、かわりに俺が代役になった。
その話が決まった頃だったか大阪に移動する直前だったか、奴は電話をくれた。今回の事を詫びていたが、過去の色々な事を詫びているようにも聞こえた。それはまるで仏様のような声だった。

奴は暫くして亡くなった。

これは私がとある人に直接聞いた話だ。
この《奴》こと大屋満の、正確な没年は判らない(件の人も昔話すぎて覚えていない)。
しかしWikipediaでは2019年末の時点で91歳になっている。
マイナーな存在なので恐らく誰も死亡記事をチェックしていないのだろう。

なので個人的に経歴を調べてみた。


まずWikipediaより。

大屋 満(おおや みつる、1928年3月1日 - )は、日本の俳優。神奈川県鎌倉市出身。松竹、東宝、日劇ミュージックホール、川上事務所に所属していた。

《映画出演作品》
若旦那奮戦す(1960年) - 清吉
河内風土記 続おいろけ説法(1961年) - 米吉
日本一のホラ吹き男(1964年) - 郵便配達夫
宇宙大怪獣ギララ(1967年)
ドリフターズですよ!盗って盗って盗りまくれ(1968年) - ピンク映画の監督
喜劇 駅前火山(1968年) - 巡査
ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓(1969年) - 農協役員
いい湯だな 全員集合!!(1969年) - 主任
しあわせの一番星(1974年) - 警官

《テレビドラマ出演作品》
やりくりアパート 第88話(1959年)
頓馬天狗(1959年 - 1960年)
三等兵物語〜あゝあの花よいつ開く〜(1960年)
お月さまとボロ靴(1960年)
珍撃二丁拳銃(1960年)
ただいま昼休み(1962年)
まり子の七夕まつり(1962年)
夫婦百景 第220話「駅弁夫婦」(1962年)
おれの番だ! 第9作「口から出まかせ」(1965年)
快獣ブースカ 第42話「物体Xコロリン」(1967年) - 遊覧船の受付係
マイティジャック(1968年) - 富井満隊員
コメットさん 第60話「妖怪大行進」(1968年) - 酒屋
裸の大将放浪記 第26作「清のくれた幸せの星砂」(1988年)

《舞台出演作品》
喜劇人祭
人生の賛歌
団五郎一座
夜はピンクのファンタジー 

出演作品一覧を見ると、映像の仕事は主に1959年頃から1968年頃まで。ざっくり見た感じだと東宝系や大阪の番組が多い、か。
そして川上事務所とは、新宿コマ劇場の常連で事務所に所属していない役者が便宜的に使う、いわば新宿コマ専属の事務所(のようなもの)らしい。
(詳しくはこちら
なお舞台作品にある「夜はピンクのファンタジー」は日劇ミュージックホールの1963年(昭和38年)3月4月公演。ちなみに日劇ミュージックホールの記録本にはコメディアンの記載が少なく、大屋の出演作は1958年11月12月公演の『夜ごと日ごとの唇』しか書いていない。
また1988年までの活動期間が書かれているが、1991年1月の新宿コマ劇場公演と、同年6月の新宿コマ主催公演(旅)に出演情報がある。

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次に新宿コマ劇場のプログラムにあったプロフィール。1つ目は1991年の4月以降のもので、同年1月の森進一公演、3月の北島三郎公演にも出演とある。
2つ目のものは掲載月不明。

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ただしこの南町ミュージックは東宝系の南街ミュージックホールの印刷間違い。南街ミュージックホールは1955年に開場し日劇ミュージックホールの大阪版を狙ったが、営業不振でわずか3年後の1958年に閉鎖し、南街シネマに改装した。

大屋満の経歴をまとめるとこんな感じだろう。

1952年、浅草公園劇場で初舞台。
その後大阪に移って1955年開場の南町ミュージックホールの開場をきっかけに茶川一郎らと行動を共にし、そのまま大阪東宝入り。時折系列の日劇ミュージックホールにも出演。
1958年に南街ミュージックホールが閉鎖されたあとは映像の世界に進出。テレビは大阪制作の番組が多かった。
1965に東京に戻り、北島三郎、千昌夫、小林幸子、島倉千代子、森進一らの歌謡ショーの司会を担当するように。
1980年代頃からは俳優として新宿コマ劇場を主戦場とした。
1991年まで出演作品の確認あり。
没年不明。


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