《記憶と記録》なるみ信さんのこと

 松竹演芸場に出ていたのでオレが好きだったのは、ギャクメッセンジャーズ。
 あのグループのコントはおもしろかった。
 メンバーのなるみ信さんとは個人的にも親しくしててね。
 去年、酒の飲み過ぎで死んじゃったあのなるみさん。
 てんぷくトリオとか、トリオスカイラインなんかが、人気あったトリオブームのとき、内藤陳さんたちとトリオ・ザ・パンチで出てた人よ。

(ビートたけし『たけし!』より/1981年発行・講談社)

 1986年、高1の時だった。ビートたけしファンのクラスメートから「ねえ、なるみ信って知ってる?」と声を掛けられた。
 クラスメートが声をかけてくれたのは、その住んでいた場所が本に載っていたからだろう。そこは私の中学の学区域で、彼女は同じ町の隣の中学出身だった。でも彼女はその人を知らない。だから、より地元民の私に話を振ってきた。
 地元の有名人だろうが知らない時は知らない。でも、私はその人を知っていた。
 というか、むしろ知り合いだった。
「知ってる!え、本に載ってるの!貸して!」私はその話に飛びついた。
 小さい頃に優しくしてくれていたなるみさんが最近のメディアに載っているのが嬉しくて、早速読ませてもらった。しかしその内容は、私が知っているのと全く同じ家庭状況の話のほかは下品なエピソードが多く、なるみさんを知る者として、本の内容はかなりキツく非常に寂しかった。せっかくの掲載だったが私の親にはとてもじゃないが見せられなかった。

 なるみ信(成美信)さんは父の友人だった。そして、我が家で唯一、家族ぐるみのお付き合いがあった方だった。

 なるみさんの家は、東京都葛飾区にある公団金町駅前団地の2号棟。子供の頃に「公団は高給取りしか入居出来ない」と聞いた記憶がある。対して我が家はそこから10分ほど離れた都営住宅の貧乏長屋。売れっ子有名人とそうじゃない人との格差を、なるみさんの家を通して幼い頃から理解できた、と今となってはそう思う。
 駅前団地が出来たのと、私の両親が結婚し越してきたのが同じ1968年だから、詳しく聞いていないがその頃からの付き合いなのだと思う。父となるみさんは一緒の仕事をしていた訳ではないが、仕事場が近いときに仕事終わりに一杯ひっかけて一緒の電車で帰路につく、という間柄だったらしい。


 外で飲み歩くだけではなく、なるみさんは酒目当てで我が家に来ることもあったそうだ。父も父で酒飲みだから色んな種類の酒を一通り常備していて、反対になるみさん宅ではどうやら飲酒が禁止されていたらしく、飲みたくなったら朝でもフラリと我が家に来ていたらしい。
 当時の我が家は風呂なし6畳一間と、それとほぼ同じ広さの裏庭という造りだったが、なるみさんは裏庭の木戸を勝手にあけて入ってきて、縁側というには名ばかりの狭い金属板の縁に座る、というのが常だったそうだ。父が付き合う時も勿論あったが、父がこれから仕事で飲めなくてもお構い無し。何かしら一杯ひっかけて、父が出掛けるタイミングで帰っていったそうだ。
 私自身は家になるみさんが来ていたという記憶が全く無い。ただ、この裏庭は私が小学校にあがるタイミングで潰して小屋を建ててしまったので、1976年以前のエピソードなのは間違いない。


 私自身の一番の思い出は、昭和48年(1973年)、当時の人気番組「大正テレビ寄席」の公開収録に連れて行ってもらったことだ。その頃のなるみさんはタロシンコンビ(コント・ジャック)を組んでいた。
 壁が真後ろにある場所に私と母、なるみさんの奥さんと娘さんの4人で座って見た。私が参加したロンパリルームのことはよく覚えているが、残念ながらなるみさんのステージは全く覚えていない。
 なるみさんの仕事場に連れて行ってもらったのは、この一度きりだった。

番組内の子供参加コーナー「ロンパリルーム」に出てしまった筆者と司会の牧伸二
(写真のテレビはなるみ宅のもの)


 駅前団地の中に東光ストア(現・とうきゅう)があり、私も母とよく一緒に買い物に行っていた。時々、母としては珍しく、その行き帰りに誰かに会って立ち話をすることがあったが、それがなるみさんの奥さんだった。
 ただ、その記憶は小学校にあがる頃(1977年前後)までで終わっている。ある時から、母が買い物先で立ち話をすることが無くなった。
「そういえば最近会わないね」と何気なく聞いたら「離婚したんだって」と母から返事が返ってきた。


 父が会話の節々に頻繁に「なるみが〜」と名前を出していたのはとてもよく覚えているが、当時の私が幼少だったゆえ、その話の具体的な内容は全く覚えていない。大人の話はわざわざ子供に聞かせるものでもないし、おそらく「一緒だった」とか、そんな類の事ばかりだったのだと思う。
 酒の席ではお互いの仕事先での愚痴を喋ったりしていたらしいが、後々に漏れ聞いたのは後に有名になった人の話。「ギター漫談のあの女、ありゃあダメだね」とか、そんな話をしていたそうだ。
 その中で、父にとって鮮烈な記憶にあるエピソードは、今となってはなるみさんが主役ではない話。
 ある日、なるみさんと一緒に帰路についていたら、同じ電車に無名時代のビートたけしも乗っていた。最初は同じ車両の離れたところにいたが、こちらを見つけ、わざわざ移動して声を掛けてきた。父はその時が初対面だったが、なるみさんとは既に馴染みだったようだった。でも、たけしは、父のことは知っていたそうだ。
「飲める店知ってるんで、兄さん一杯いきましょうよ」としつこく誘ってくるので、3人で金町駅のひとつ手前の亀有駅で降りて、たけし行きつけのバーに寄った。その店はどうやらたけしの「女」が働いていた店のようだった、そうだ。

 父は1972年頃から仕事の種類と場所を微妙に変え、1976年頃には浅草に立ち寄ることも少なくなった。たけしと面識が無かったということはこの時代の話かなと思うが、確証は全く無い。その後の漫才ブームで「あの時の!」となったらしい。
 そして、仕事の場所を変えたことで、なるみさんとの付き合いも自然と減っていったようだった。


 確か小学2年生の時(1978年)。都営住宅の敷地内でひとりで土いじりをして遊んでいたら背後から「◯◯ちゃん、お父さんいる?」と声をかけられた。
「ううん、仕事。」
 声で質問の主が判ったから私は振り返ることもなく答えた。
「そっかあ……暇だったら水元公園で釣りにでもと思ったんだけど。」
 そう言い残し、ふらりと公園の方に歩いていってしまった。今まで釣りの趣味なんて聞いたことがなかったので少し驚いて、後ろ姿を見送ったが、手には釣り道具は持っていなかった。そしてその背中はどことなく寂しそうだった。
 それが、なるみさんとの最後だった。


 1980年のとある水曜日。学校から帰って習字教室に行く準備をしていたら、母に「今日は教室が終わったら遊ばないで早く帰ってきてね」と言われた。
「なるみさんが亡くなったから、このあとお通夜に行くから。」
 父は仕事で不在だった。

 お通夜はなるみさんの住んでいた駅前団地2号棟の1階にある集会所で行われた。母は、子供ひとりを家で留守番させるわけにはいかず、かといって通夜の席に連れて行くわけにもいかず、仕方なく、私を集会所前で待っているようにと言い残して通夜に行ってしまった。
 長い時間、外でひとりで待たされた。こういう放置は昭和ならではの話でもあると思うが、場所は広場に面しスーパーも近く人通りも多く、またネオンでとても明るい場所で、危なっかしさは全く無かった。座る場所がなく待ちくたびれたが寒くて辛かった記憶はない。
 集会所の前には葬儀の花輪がいくつも並んでいた。Wけんじと三波伸介の名前があったのは覚えている(水曜は「凸凹大学校」の放送があるから三波伸介は来ないのかーと、事前収録の概念を忘れて納得していた)。他の花輪も著名な方々のものだったのだろう、通る人がみな何事だという感じでジロジロ見ていた。


 私の微かな記憶。お通夜の翌々日(つまり告別式の翌日)の金曜日に、私は風邪で学校を休んだ(……やはり通夜の日に長時間立ちっぱなしだったからだろうか)。なので、学校に行っていたら見られない昼のワイドショーがその日は見られた。なるみさんの訃報が流れるかな〜と風邪の頭でぼんやり見ていたが、出てくるのは山口百恵の引退の話ばかり。番組終了間際にやっと「今週はトリオ・ザ・パンチやギャグメッセンジャーズで活躍したなるみ信さんの訃報がありました」とほんの少しの映像付きで紹介された。
「なるみさん有名人なのに、これだけ?」と思ったが、今冷静に考えると山口百恵の完全引退は当時のビッグニュース。かき消されてしまうのも仕方なかった。
 『たけし!』によると、なるみさんが亡くなったのは三遊亭小圓遊が亡くなった直後。つまり1980年10月5日(日曜日)から数日の間。そして調べてみると、その山口百恵の引退日というのが1980年10月15日(水曜日)。うちでは流石に命日等の記録は残っていないが、お通夜はこの10月15日なのかもしれない。


 最後に、判っている範囲でなるみ信さんの経歴を。
 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』(2001発行・ 東京堂出版)によると、なるみさんは埼玉県岩槻市出身でお寺の息子。エンジニア志望からふとしたきっかけでストリップショウのコメディアンに転身したそうだ。内藤陳とは地方廻りの仲間だったようだが、父によると東洋興業フランス座系列外の人だった事ぐらいしか判らず、詳しい経歴は全く知らないとのこと。

少なくとも、
 トリオ・ザ・パンチ(1965年頃〜1967年頃?)
 タロシンコンビ(コントジャック)(1973年前後)
 ギャグメッセンジャーズ(1976年頃〜1980年)
に在籍していたことは判明している。
 通夜の席の話など、最晩年のことは『たけし!』に書かれている。

 さいごに。
 なるみさんは私が10歳の時には亡くなっているので、今となっては顔も思い出せません。絶対にもっと色々エピソードもあったはずなのに残念です。
 ただはっきりと、優しく親切にしてもらった、という印象だけは覚えています。
 嫌な人ならどんなに子供時分でも「嫌だ」という印象は残ります。でも、なるみさんとの記憶にそれはありません。

 「たけし!」を読んだ時はかなりショックでしたし、その後インターネットで名前を検索するとビートたけしの発言(ラジオでもネタにしていたそうですね)を元にした人物像はかりで、たけしファンを中心にそのようにしか認知されていないことをとても悲しく眺めていました。
(でもお陰で長きにわたりたくさんの人に名前を覚えてもらえている訳ですが。)

 そんな話ばかりじゃないんだよ。
 それが、この項をまとめたきっかけです。
 薄い内容ですが、拙文でそういう想いをを感じ取っていただければ幸いです。


 

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