《調査》細かい経歴がメチャクチャな内藤陳とトリオ・ザ・パンチ

内藤陳のWikipediaの生年月日が1936年(昭和11年)9月18日になっている。
それに対し、所属していたトリオザパンチのWikipediaを見ると1940年(昭和15年)9月18日になっている。 
報道された内藤陳の死亡記事では享年75(=1936生)となっている。また、学歴は「日本大学芸術学部中退」だ。
それに対して、雑誌「 笑芸人 VOL.11 エノケン生誕100年 浅草笑芸パラダイス 」のインタビュー記事では、1957年2月設立のエノケン学校こと映演プロに高校1年で受験したと書いてある(=1940生)。
Wikipediaの記載の違いは、このあたりの「4歳のサバ読み」が原因と思われる。さて、どちらを信じるか。 

トリオ・ザ・パンチ以前の内藤陳

内藤陳のWikipediaは細かく見ると他の文献と食い違う話や不思議な話が多い。
以下、内藤陳Wikipediaよりプロフィールの一部を少しずつ引用する。

東京都出身。プロレタリア文学作家内藤辰雄を父に持つ。

9歳の時には、東海道本線に単身無賃乗車し、離婚して岡山にいた母親に会いに行き、連れ戻された。

父親の辰雄は大正・昭和初期の小説家として知られた人物だ。辰雄は岡山出身ということなので、離婚した内藤の母親が岡山にいたというのも恐らく間違いはないだろう。

問題はその先だ。

7-8歳の頃には高円寺駅の前でゴザを敷き、父と共に読み古しの本の叩き売りをしていた。

1940年生まれならその話は1947年頃。戦後のドサクサ時代だ。駅前で本の叩き売りというのは闇市的なことだろう、と察しがつく。
しかし1936年生まれなら1943年頃の話となる。戦争の真っ只中だ。どのような本を扱っていたかは知るよしもないが、プロレタリア文学あがりの作家が戦中にそんな活動が出来たのだろうか。

中学2年生のとき父親から勘当されて家出。役者を志し、喫茶店のボーイや八百屋の荷車引き、選挙運動の旗持ち、サンドイッチマン、大道芸人などの職を転々とする。研究生として榎本健一の映演プロを卒業。

この文言だと中2から独り立ちしたようにも見えるが、wikiでは日芸中退とあるし、前述の「笑芸人」でも高校1年の時に映演プロを受けたとある。つまり最低でも高校までは進学した、ということだ。
時代背景の違いもあるので完全否定は出来ないが、家出した子供がひとりで学費を稼いで進学したとは少し考えにくい。これは中2の時に一瞬だけ家出しただけの話なのではないか、と思うのだが。
なお、中学2年生だと、1936年生まれなら1950年、1940年生まれなら1954年にあたる。

映演プロ在学中から浅草のストリップ劇場の舞台に立ち、栗実(のち久里みのる。本名栗原克彦)と共にコミックショーを演じる。

これはいくつかの媒体で語られている。萩本欽一は高校を卒業した直後に東洋劇場に入っているが、その時内藤陳も同時に浅草に入っている。1941年生まれの萩本の高校卒業は1960年。
私がかつてフランス座で働いていた人から直接聞いたところによると、内藤は浅草に移動する前は池袋フランス座にいた。そして、当時の浅草フランス座や東洋劇場はそう簡単に出入り(移動)出来る劇場ではなかったそうだ。
1957年春に映演プロに入団し、1960年に浅草東洋劇場。ということは、その前年、1959年には遅くとも池袋フランス座にいた計算になる。映演プロの養成所が何年制か判らないが、在学中からストリップ小屋で修行をしていたのならば、それは1957年か1958年くらいからで、浅草フランス座や東洋劇場ではなく、系列の池袋フランス座、或いは別系列の浅草のストリップ小屋のどこかだったのだろう。
なお、1960年当時は、1936年生まれなら24歳、1940年生まれなら20歳になる。

内藤陳とトリオ・ザ・パンチ

修行時代を経ていよいよトリオ結成となるのだが、当時のコントグループは全般的にメンバーの入れ替わりが激しい。その中でもトリオ・ザ・パンチというグループははっきり言ってメチャクチャである。不動なのはリーダーの内藤だけだ。

そこでトリオ・ザ・パンチのメンバーについての情報も調べてみた。

まず「zakzak」2012年1月10日付け記事を引用する。

浅草の東洋劇場(現・浅草演芸ホール)でコメディアンの修行をしていた内藤さんは63年、トリオ・ザ・パンチを結成。初期メンバーの青空球児(70)は「最初はボクとコンビを組んでてね。久里(みのる、栗実)ちゃんと3人で始めたんだよ」と振り返る。

また、星セント・ルイスのノッポのほうこと星セントも、1966年から1969年の間のどこかでトリオ・ザ・パンチに在籍していたらしい。
しかしこの2人が在籍していたという証拠になるような当時の印刷物を、少なくとも私はまだ見ていない。それに星セントの当時の芸名はセントとは違うと思うので、これは見つけるのが難しそうだ。

再び内藤のWikipediaを引用する。

1963年(昭和38年)夏、ストリップ劇場のコメディアン仲間の井波健(本名平塚久夫)・成美信(本名大橋敏夫)と共にトリオ・ザ・パンチを結成し、「おら(=俺)、ハードボイルドだど!」などのギャグで人気を博す。1966年(昭和41年)、井波と交代する形で久里を加入させる。

『大正テレビ寄席の芸人たち』でも「陳、井波、成美。のちに井波に代わって久里」となっていたのでこちらがWikipediaの出典元だろう。


一方、トリオ・ザ・パンチのWikipediaでは

主なメンバーは内藤陳、井波健、栗実

となっている。
また向井爽也『喜劇人哀楽帖』では

昭和38年、成美信、久里みのると結成

とあり、井波の名前は出てこないかわりに

成美はここから抜けて(中略)「パンチ」にはだいぶ経ってから芝三郎が加入した

とある。

判らなすぎる。

そこでトリオ・ザ・パンチの、グループとしての出演歴(と思われるもの)を判る範囲で調べてみた。(NMH=日劇ミュージックホール)

1964年1月2月NMH=陳、井波、栗
1965年1月2月NMH=陳、井波、成美
1965年9月10月NMH=陳、井波、成美
1966年1月2月NMH=?
1966年6月14日内藤陳結婚式テレビ中継=陳、久里、成美
1967年東宝映画『落語野郎 大爆笑』 =陳、久里、成美
1967年東宝映画『落語野郎 大泥棒』 =陳、成美、久里
1972年3月4月NMH=陳、ドン、二瓶
1972年5月6月NMH=陳、ドン、二瓶
1974年5月6月NMH=陳、ドン、二瓶
1975年2月東八郎芸能生活20周年記念公演=陳、久里、二瓶

1967年頃までは内藤本人と井波、栗(久里)、成美の4人が主なメンバーであり、1972年頃には完全に新しいメンバーとチームを組んだようだ。そして『喜劇人哀楽帖』によると1978年春に解散したとある。1979年には内藤単独でNMHに出演との記録があるのはその為なのだろう。
なお、1975年の東八郎の公演は、東のチーム、トリオスカイラインの初代メンバーでもあった久里をこの時だけ呼んで座組みした可能性もある。



最後に、主な歴代メンバーをネットで判る範囲で調べてみた。

井波健はトリオ脱退後は俳優等でも活動し、1970年には2本の日活映画に出演歴がある。現在は廃業。

久里みのる(栗実)もトリオ脱退後は俳優として活動。『キカイダー01』の百地頑太役で知られた。テレビドラマデータベースには1969年から1988年まで出演歴が残されている。姉は女優・歌手の久里千春。

成美信(なるみ信)はエンジニア志望からふとしたきっかけでこの世界に入った、そうだ。トリオ・ザ・パンチの他、タロシンコンビ(コントジャック)、ギャグメッセンジャーズ、とコントグループを渡り歩いた。1980年死去。晩年のことはビートたけしの著書に詳しい。


ドン堺については、インターネットから情報を調べることは何一つ出来なかった。

二瓶十久也は由美かおる主演の映画『銀の長靴』(1967)に主要人物として出演している。この年の週刊平凡に《『西野バレエ団』からデビューした二瓶十久也君》という見出しの記事がある(内容未確認)。映像への出演歴はこの1作のみのようだ。

芝三郎については『喜劇人哀楽帖』から引用させていただく。

《この芝三郎は古いコメディアンで、浅草では崩壊寸前の常磐座での「松竹現代劇」で、『肉体の門』の刺青師・彫留や『春婦伝』の成田中尉といったシリアスな役を演じて光っていたが、その後は各地のストリップ劇場でコントを演じていた。顔が坂上二郎によく似ているので、それを逆手にとって笑わせていた。渋谷百軒店のストリップ劇場に出ていた頃は、東大の学生に結構ファンが多かった。》


なお、井波健と久里みのるはトリオ・ザ・パンチWikipediaに経歴がある。


《追記》出典不明だが、声優のはせさん治もメンバーだった時期があったらしい。

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